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第2章 不幸の手紙

とある殺人事件

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 花乃を東邸に帰し、叔父さん達と一緒に店の奥の指定席に戻る。初寧さんが人数分のコーヒーを給仕してくれてから、叔父さんは頼み事とやらに言及した。

「実はさ、またちょっと調べて欲しいことがあるんだ。昨日、亜砂木あさぎ市で起きた殺人事件、どこまで知ってる?」

「大したことは知らないよ。夫が妻と妻の知人を銃で殺したってことくらい」

「じゃあ、とりあえず公表済みの情報をレクするから。椚木君、よろしく」

 叔父さんの部下で僕の高校時代の後輩――椚木武瑠くぬぎたけるは、持っていたタブレットでニュースサイトを示しながら、事件に関する概要を話し始める。

「被疑者は那美川優飛なみかわゆうと、三十六歳の会社員です。昨日午前、亜砂木駅前の喫茶店で、妻である那美川和咲かずさの不貞を誤解して逆上し、闇サイトで入手した拳銃で和咲と、一緒にいた知人である作間巨樹さくまなおきを殺害しました」

 サイトに掲載されている写真は事件発生直後の現場を撮影したものらしく、ガラス張りの建物から必死の形相で逃げ惑う人々が見て取れた。

「事件当日、那美川は会社を休み、作間との待ち合わせに向かった和咲を尾行、監視していました。作間は、和咲が結婚前まで勤めていた航空会社の同期で人事課長だったのですが、どうやら和咲を再雇用する話を進めていたらしく、その手続きのため何度か会っていただけのようで、男女関係は確認できませんでした。頭に血の上った那美川からすれば、妻が他の男と仲良く談笑する姿は、許されざる男女の密会逢引のそれでしかなかった、ということでしょうが」

「気の毒だね」

 夫は妻を殺す理由があったが、妻は殺される謂れはなかったということだ。後味が悪い話である。

 椚木の後を叔父さんが引き取った。

「痛ましい事件だけど、犯人は現行犯で捕まってるし、事件自体は解決している。別に佞悪奸智の黒幕とか深遠巨大な陰謀とかそういうのもない」

「あれ? 調査企画室って、そんな眉唾がない事件も扱うんだっけ?」

「お前ね、うちを秘密組織かなんかと勘違いしてるだろ。至って公正な公安組織の一つなんだよ。ちょっと扱う事件が特殊なだけで」

「特殊――ねぇ。じゃ、今回も特殊な部分があるわけ?」

「まぁね。ここからがオフレコの本題。事件の二週間前、那美川の自宅にとある投書があったんだ」

 椚木が鞄から取り出したのは、透明なビニール袋に入った便箋だった。何の飾り気もない紙面には、無味乾燥の筆跡で短い文章が印字されている。

『貴方は、何も知らない。けれど私は知っている』

 九波は神妙な面持ちで二つの不気味な手紙を見比べた。

「……昂良さんに届いたものとまったく同じものに見えますね」

「たぶん、同じものだろう。最近、市内で多数確認されている怪文書だよ。那美川はこの投書によって事件を起こしてしまったと言ってもいい」

「手紙を受け取って殺人? まさか最近、流行りの呪術とか言わないよね?」

 冗談のつもりだったが、叔父さんは「近いかもしれないな」なんて真顔で答えた。

「那美川宛てに届けられたこの手紙を、当初は彼も意に介さなかった。品行方正で謹厳実直な男だったようだから、告発や脅迫の対象となるような疚しいことなど無かったんだね。しかし、この投書が二度、三度続くと、さすがの那美川も不気味さを感じずにはいられなかったと同時に、奇しくも一つの不安を掻き立てられた。それが――」

「奥様の不倫、ですか」

 まさか稟が発言するとは思っていなかったから、驚きのあまりみんなの視線が稟に集中した。努めて平常心を装ってはいたが、彼女の表情からは、人間関係の脆さと危うさを弄ぶかのような投書への嫌悪感が漏れ伝わる。程度の差こそあれ、この場の誰もが同じような心持ちだったかもしれない。

 でも、こういう時、叔父さんは表情を何一つ崩さない。顔に出ないだけなのか、鈍感なのか、冷徹だからなのかは分からないけれど、陽気な人柄からは想像できない冷めた印象に時々、そこはかとない恐怖を感じることがある。

「そう、ただし、最前も言ったとおり、それは那美川の思い違いなんだ。日中は仕事で家にいない那美川は、専業主婦の妻、和咲の行動について何も知らなかった。でも、今までは気にもならなかったし、何より和咲のことを信じていた。だから不倫なんて思いもしなかった」

 義憤も憐憫も寂寥も、何も感じさせない平坦な口調が、こういう話題だと酷薄さをいつも以上に感じさせる。

「ところが、不気味な投書によって信頼が揺らいだ。誰かが妻の不倫の事実を告発しているのではないか、と。一度気づいてしまうと全てが疑わしくなってしまう。綺麗に整えた髪も化粧も、新たに買い揃えた衣服も、全てが怪しい。けど、本人を問い質して、いたずらに夫婦関係を悪くしたくない。探偵を雇うのも、妻を裏切るようで気が引けた。だから自分で確かめようと考えた。那美川が会社に行くと偽って彼女を尾行したのは、そういう理由だそうだよ」

 妻への信頼は怪文書によって脆くも崩れ去った。不安という、実際に存在するかどうかもあやふやなものに現実が負けた。

 悲劇ではある。しかし、人類史においてそういった悲劇は枚挙に暇がない。国同士の軍拡競争の末の戦争や銀行の取り付け騒ぎのように、人は望まない未来を予言的に自己成就させてきてしまったし、誰もが人生に不安を抱いて生きていく以上、そういう悲劇は往々にして繰り返されるのだろう。

 それは呪いでもあるのだ。呪いとは言葉に他ならない。支離滅裂でも荒唐無稽でも、呪われる側が意味を見出してしまえば機能する。この手紙の一文に『妻の不倫の告発』という意味を勝手に見出してしまったために、那美川は怖れていた未来を勝手に自己成就させてしまったのだから、呪われてしまったとも言えるだろう。

「とりあえず事件の背景はわかったよ。それで、頼みたいことって?」

「この投書の主を探したい」

「しょっぴくの?」

「まさか。文面は脅迫とは取れない曖昧なものだから、罪に問うのはまず不可能だし、迷惑防止条例に抵触するかどうかも断定できないグレーな事案だよ。ただ、この手紙は市内全域で確認されていて、市民の平穏をかき乱している。痛くもない腹を探り合って、不要な疑心暗鬼に駆り立てられた末、誰かに危害を加えたり、逆に被害に遭っている人達も少なくない。これ以上、陰惨な事件が起きるのは忍びないけど、こっちもあんまり大っぴらには動けないから、お前の出番ってわけさ。柊宗家の人間としては看過もできないだろう?」

「まぁそれはそうだけど……叔父さん、まさか――」

 僕宛の手紙を仕込んだのは、叔父さんなんじゃないかという憶測が脳裏をかすめる。何せタイミングが良すぎる。手紙を受け取れば僕は被害者の一人になるわけだし、差出人探しにも協力的になりやすい。目的のためなら手段を選ばない人だから、僕を巻き込むために一芝居打った可能性は十分考えられるが――。

「――何でもない。とりあえず調べてみるよ」

 確かな証拠は絶対に掴ませない。叔父さんはそういう悪辣さも持ち合わせている。癪ではあるけど、話を持ってこられた時点で、僕は叔父さんの掌の上で踊らされることを余儀なくされてしまっている。

 叔父さんは満足そうに口角を上げ、席を立った。

「さしあたり那美川の基本的な情報だけ置いていくけど、ほかに必要なものがあれば連絡してよ。じゃ、俺達は帰るから。健闘を祈る」

 闖入者二人が店を出るのを見届けてから、九波はぼそりと呟く。

「……また良いように使われてますね」

「言うなよ。あれは自然災害と同じなんだ。ここにやってきた時点でもうお手上げなんだよ」

 今の僕に出来るのは、災害による被害を極力、減らすことだけだ。先ほどから口数もなく、何かに耐えるように口元を掌で抑える稟に声を掛けた。

「気分が悪そうだね。家に戻って少し休んだ方がいい。急に殺人事件の話なんかに付き合わせてしまって申し訳ない」

「いえ、こちらこそ、ごめんなさい」

「謝る必要はない、無理もないさ。僕だってこの仕事を始める前は、凄惨な事件なんかとは無縁な生活を送っていたから、初めて携わった時は夢にまでうなされたよ」

「しかし、私は昂良さんの秘書としてお力にならなければならないのに、こんな不甲斐ないことでは……」

 殊勝なことを言ってくれる。こんな物騒な話に稟を巻き込むのは本意ではないけれど、サポートは欲しいところだし、彼女のやる気に水を差すのも気が引けた。

「ハウスキーピングと違って、この仕事の補佐は特殊だ。すぐに順応するのには無理があるから、ゆっくり耐性をつけてくれればいい」

「ありがとうございます。では――お言葉に甘えて、少し休ませていただきます」

「一人で帰れそう?」

「大丈夫そうです。ご心配なく」

 気丈に笑顔を見せて、稟は店から出て行った。辛そうではあったが、足取りはしっかりしていたから、強がりではないようだ。念のため、彼女の監視についている夜映に電話をかける。

「夜映、稟が東邸に戻る。体調が悪そうだから、もしもの時は手を貸してあげてほしい」

 承知しました、という返答を聞き届けてから通話を切って、叔父さんが置いていった身上調書に目を通す。

「何から調べますか?」

「那美川家には二週間のうちに、何度か投書があったらしいから、差出人と何らかの因縁があるかもしれない。まずは那美川家の人間関係を洗おう。九波はミサと交代して、那美川の勤務先で聞き込みを頼むよ。人間関係だけじゃなく、勤務状況とかもね。僕は市役所に向かう」

「了解です」
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