幸福論 ~善意という名の洗脳~

武蔵

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第七話:奈落への一歩

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午後の静寂が包む高村家のリビング。  ミサキは、ソウイチへ「進捗」を報告していた。  頬を僅かに上気させ、彼女は嬉々として話す。

「最近、ケイスケさんも……その、意欲的にしてくれるようになりました。お兄様のアドバイスのおかげです」

 その言葉に、ソウイチは、慈しみ深い教師のような声で応えた。

「よかった。ミサキちゃんは、僕が認めたケイスケの唯一のお嫁さんなんだから。もっと自信を持っていい。君が輝けば、弟の魂も自ずと整うものだよ」

 甘い肯定の言葉。ミサキの胸に、確かな安堵が広がっていく。  しかし、ソウイチはそこから、より深く、より本質的な「領域」へと踏み込んだ。

「ただ、子供に関しては、精神論だけでは限界がある。正直、体の物理的な問題も無視できないんだ。……もし、ミサキちゃんさえ良ければ、僕に少し調べさせてくれないかな。もちろん、医療的なマッサージのようなものだから、心配はいらないよ」

 ミサキは一瞬、戸惑いに指を止めた。  義理の兄に体を預ける。それは、理性の境界線を踏み越えるような、危うい響きを含んでいた。

 だが、ソウイチの積み上げてきた「実績」と、彼への絶対的な信頼、そして何より「ケイスケのために完璧な妻でありたい」という渇望が、彼女の背中を強く押した。

     *

 数日後。本家の静謐な客間で、ミサキはソウイチと対峙していた。  ソウイチは白衣こそ着ていないが、その佇まいは冷徹な医師そのものだった。  彼は東洋医学に基づいた血液、リンパ、そして「気」の流れについて、流暢に説明を始めた。

「診断を始めるよ。少し、失礼するね」

 ソウイチの大きく温かい手が、ミサキの下腹部に触れた。  薄い衣類越しでも伝わる、熱。

 ミサキは思わず息を呑んだ。  彼の指先は、鼠径部(そけいぶ)や太ももの内側といった、きわどく敏感な部分を、淀みない動きで探っていく。

「……っ」

 指がリンパの節に触れるたび、ミサキの体内に、経験したことのない熱い電流が走る。  羞恥心が彼女を硬直させるが、ソウイチの表情には毛ほどの揺らぎもない。  彼はただ、精密機械を点検する職人のような眼差しで、彼女の肉体の反応を「分析」していた。

「やはり、ここが滞っている。診断の結果、ミサキちゃんの体は冷え切っているよ。これでは生命の種が根づく土壌としては不十分だ。体質改善が必要だね」

 ソウイチは淡々と、三ヶ月にわたる「治療計画」を提示した。

 一ヶ月目:土壌の開拓(筋肉の弛緩とリラックス)  二ヶ月目:水脈の整備(血流と気の流れの改善)  三ヶ月目:播種への準備(仕上げ)

「子供という最後の欠片(ピース)を埋め、ケイスケを真の意味で幸福にするために。僕と一緒に頑張ろう」

 その神聖な響きさえ帯びた言葉に、ミサキは深くうなずくしかなかった。  自分の体が、兄の手によって「正解」へと導かれていく。  その予感に、恐れと共に抗いがたい甘美な期待が混ざり合っていた。

     *

【一ヶ月目:土壌の開拓】

 週に二回。ミサキは定期的に実家を訪れ、ソウイチの施術を受けた。  最初の一ヶ月は、服の上からのマッサージが中心だった。  ソウイチの手は、驚くほど正確に凝りを捉え、ミサキの強張った背中を、肩を、腰を、ゆっくりと解きほぐしていく。

「ケイスケは寂しがり屋だからね。ミサキちゃんがこうして体を整えていると知れば、彼はもっと君を求めるようになる」

「今感じているこの弛緩は、ケイスケが君に求めている『安らぎ』そのものなんだよ」

 ソウイチの声は、耳元で響く低周波の振動となって、ミサキの脳幹へ直接染み込んでいった。  彼はあくまで、不在の弟の代弁者として振る舞う。  その巧みな話術は、ミサキが抱く罪悪感という名の防波堤を、優しく、しかし確実に削り取っていった。

「ケイスケは優しい男だ。だが、彼は繊細すぎて、君のこの深い『滞り』を解く術を知らない。……だから、僕が代わりに彼の愛を君の細胞に届けている。僕の手を通して、君はケイスケの真実の献身を受け取っているんだ」

(ああ……気持ちいい……)

 まどろみの淵で、ミサキの意識は輪郭を失っていく。  ソウイチの指先が肩甲骨の裏側に深く沈み込み、神経の束を愛撫するように動くたび、彼女の副交感神経は強制的に優位へと引きずり込まれた。  肺の奥まで満たされる深い呼吸。心拍数は穏やかに下がり、世界から一切の鋭い角が消えていく。

 かつて、義兄に肌を許すことへの激しい拒絶感があったはずだ。それは倫理であり、愛の証明であったはずの防衛本能。  しかし、マッサージという「治療」の名目を借りて、何度も、何度もその境界線をなぞられるうちに、防衛線はあまりに容易く無効化されていった。

 ソウイチの手が腰のくびれから、さらにその先――自分ですら触れることを躊躇うような、秘められた領域の境界へと滑り落ちる。

「いい子だ。筋肉の緊張が取れてきた。僕の手に、もっと身を委ねていいんだよ。それが、君を愛しているケイスケを救うことになるんだから」

 ミサキの脳内では、もはや修復不可能なレベルで認知の歪みが生じ始めていた。  肌を伝わるこの暴力的なまでの心地よさ。  自分を溶けさせるソウイチの掌の熱。  それらすべてが、いつの間にか「ケイスケへの愛」というラベルに貼り替えられていく。

(そう……お義兄さんがこうしてくれるから、私はケイスケくんを愛せる。この快感は、私たちの未来のための『栄養』なんだわ……)

 ソウイチの指が、ミサキの肌に新たな「正解」を刻み込んでいく。  彼女は、自分がゆっくりと、抗いようのない力で暗い海へと沈んでいくのを感じていた。  だが、その沈降はあまりに温かく、甘美だった。

 思考することを放棄し、ただ「導かれる」ことの悦びに、ミサキは自らその門を開き、ソウイチという名の「侵略者」を、夫への愛という名の免罪符と共に、心の最深部へと迎え入れていった。

 ソウイチの声が、耳元で心地よい振動となって響く。  ミサキは知らない。その優しく温かい手が、かつて十五年前、神社の裏で一人の少女を、無機質な暴力で蹂躙した手であることを。

 そして、このマッサージこそが、彼女の精神的・肉体的な警戒心を根こそぎ奪い去り、二ヶ月目以降の「本格的な侵食」を受け入れるための、周到な下地作りであるということを。

「土壌」は今、完璧に耕されようとしていた。
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