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vol.1
突然の出逢い《1》
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***
「気のせいか」
片側四車線の道路には絶え間なく車が行き交っていて、よく考えたら私の声なんか誰にも聞こえているわけがなかった。
なのに、
「気のせいじゃないってば。あっ、うわっ……ってぇっ!!」
目の前に、ドシンと人が転がってきた。
「ってぇ……絶対アザになるやつだ、コレ」
……なに?
眼を見張る私の前で、その彼は屈託なく笑った。
「驚かせてごめん。けど、こいつが」
え?
よくよく見ると、歩道に尻餅をついた彼の両手の中に、小さな小さな仔猫がいた。
「こいつがあの窓の上から降りられなくなってて。見てられなくて助けたら、俺が落っこちた」
恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた彼は、そう言いながら私に視線を上げた。
「……」
私の歩いていた歩道のすぐ横……つまり彼が転がってきた脇にはビルがあり、その一階は洋食屋さんだった。
このお洒落なテナントビルから落ちたの?
私がそう思いながらビルを見つめると、猫を抱いたまま彼がゆっくりと立ち上がった。
「ほら、そこの洋食屋のヒサシの上にいたんだ。けどプランターの花を踏みたくなかったから、避けたら着地に失敗して」
あの……一階のテナントの上の、屋根みたいなところかな。
その下には確かに入り口を避けるようにしてプランターが置いてあり、黄色い小さな花が綺麗に咲いていた。
「お前は怪我してないか?んー?」
ミーミー鳴いている仔猫を手の中でクルクル回して見た後、彼は私を見下ろして笑った。
「俺、沢村律。君は?」
さわむら、りつ。
背の高い人だな。
それに、アッシュブラウンの髪色がとても良く似合っている。
長めの前髪が風に煽られて、数秒の間、綺麗な二重の眼や通った鼻筋がハッキリと見えた。
薄すぎず厚すぎない唇はとても清潔そうで、私は思わず沢村律に見とれた。
「迷惑じゃないなら、名前教えて?」
仔猫を抱いたまま屈託のない笑顔を見せる沢村律に、私は少し眉を上げた。
カッコいいのかカッコ悪いのか、さっぱり分からない。
急に目の前に転がってきたかと思うと猫を抱いていて、痛そうにお尻を擦ってて。
「……!」
どんな顔をしてればいいか分からず、私は浅く笑った。
「えっ、なんで笑うの」
沢村律が焦った顔で私を見ていたから、私は少し首を横に振った。
「だって、急に転がってきたから」
「あ……驚かせてごめん」
いいや。
こんな人になら、名前を教えてもいい。
「私は……松下藍」
「あい?愛する、のアイ?」
愛するのアイ……。
……愛するのアイなら、私はもっと愛されていたのかもしれない。
今までに幾度となくそう思ったけれど、そんなのもうどうしようもない。
「ううん。そっちのアイじゃない。藍色のアイ」
少し決まり悪くて視線を下げようとしたとき、沢村律が声のトーンを上げた。
「藍色のアイなんだ!俺、藍色大好きだよ」
……え?
思わず眼を見張る私を気にせずに、沢村律は白い歯を見せて続けた。
「昔さあ、水彩画の授業の時、藍色をパレットの上に出してそこに少し水を垂らして溶くとスゲー綺麗でさ。濃くて深い色なのに、どんどん透明感が加わるんだ。その色合いが何とも言えなくていつもいつもパレットを見つめてたよ」
懐かしそうに笑った沢村律の顔に、私の胸がギュッとした。
「いい名前だね、藍って。藍色のアイ」
心に染みるような沢村律の声。
「わ、藍……ちゃん」
一度引っ込んだ筈の涙が、再び顔を出した。
スッと頬を伝う涙の感覚に、私は焦って言い訳した。
「ご、めん。今日は何だか私、おかしいの」
その時、
「すみませーん!それ、うちの猫です」
洋食屋の扉が開いて、若いウエイトレスが申し訳ないといったようにガバッと頭を下げた。
「この上に事務所があるんですけど、どうやらまた抜け出したみたいで……」
沢村律がにっこりと笑いながら仔猫を差し出した。
「良かった。怪我はないみたいですよ」
「ありがとうございます」
沢村律から猫を受け取ったウエイトレスの後ろ姿を見ながら、私は少し咳払いをした。
「じゃあ……私はこれで」
「待って。送るから」
「え、でも」
「だって藍ちゃんは今日変なんでしょ?だったら心配だから送る」
『心配だから送る』
綺麗な沢村律の瞳が真っ直ぐに私を見ている。
いつの間にか彼の顔からは笑顔が消えていて、私はどうしたのかと思って夢中で彼の顔を見つめた。
「急に泣いちゃう女の子を独りで返すなんてダメだ」
ドキンと鼓動が跳ねた。
これは現実なんだろうか。
親からも心配されない私を、初対面のこの人は本気で心配してくれているのだろうか。
「沢村……さん」
「律でいいよ。律って呼んでよ。俺も藍って呼びたいし。て、あ!馴れ馴れしいかな!迷惑じゃなかったらでいいんだけど」
最後は焦ったようにそう言った律を見て、私は取り繕うように笑った。
「は……あはははは。……律は、面白い」
精一杯頑張ってみたけど、多分私の笑い声は不自然だったに違いない。
だって、こんな経験は今までに一度だってなかったから。
男の子を呼び捨てにしたことも。
でも、
「ええー?!そーかなー」
律はそれをスルーして照れた。
「藍、行こ」
「うん」
なんだか凄くドキドキしたし、嬉しかった。
****
「ここ?!デッカイ家だね!藍ってお嬢様なの?」
「……そんなことないよ」
確かにうちは大きな家だと思っていたけど、さっきの雪野一臣の自宅はもっと大きかった。
庭には池があったし。
そういえば……あんな風に飛び出してきちゃって悪いことしちゃったな。
「……じゃあね、藍」
「うん、送ってくれてありがとう」
小さく手を振ると、律は私に背を向けて来た道を歩き始めた。
「あ、そーだ」
「ん?」
私が首を傾げた後、確かに律の口が動いて何か言ったのに、なぜかよく聞こえなかった。
「え?なに?」
でも彼は繰り返してくれなかった。
「じゃ、今度こそまたね」
「あ……うん……またね」
律が二度目のさよならに大きく手を振ったから、私も手を上げてそれに答えてみた。
すると私を振り返った律が、優しく微笑んだ。
……なんか嬉しい、凄く。
これも初めての経験。
嬉しくてフワフワして、私はこんな気持ちがいつまでも続けばいいと思った。
****
……寒い……。
時計を見ると深夜だった。
テレビの青白い光だけが部屋を不気味に照らしていて、私はいつの間にか眠ってしまっていた事に気付いた。
……なんだか頭が重い。
テーブルの上のスマホが小さな光を点滅させていて、私はソファから身を起こすとゆっくりとそれに手を伸ばした。
画面をタップして確認すると、瀬里からラインが入っていた。
『藍ちゃん、大丈夫?電話も通じなくて心配してます。何時でもいいからラインください』
着信には全く気付かなかった。
……あんな風に雪野一臣の家を飛び出したのに、私は瀬里に何の連絡もしていなかった。
しかも律に送ってもらってからも、私は瀬里や雪野一臣の事を思い出さずにいた。
そう考えると急に胸がキュッとして、私は思わずそこに手を当てた。
……律の事しか……考えてなかった、私。
雪野一臣の家を飛び出した後すぐに律に出会って、私の心の中は律でいっぱいになってしまっていたのだ。
こんな自分がなんだか信じられなくて、私は思わず眉を寄せた。
『昼間はごめん。私は大丈夫』
瀬里へラインを送ると部屋の電気もつけずにバルコニーに出て、私は空を見上げた。
仕事で帰ってこないパパとママを諦めた私は、勉強の合間に空を見上げるのがすっかり癖になっていた。
だって真っ暗な空にある月は、私に似ているから。
近くに光る星はあっても、月はひっそりと孤独で、その冷たげな姿と自分がすごく被るんだ。
案の定独りぼっちの月は私に似ていて、次第に見ていられなくなった私は眼を伏せた。
「気のせいか」
片側四車線の道路には絶え間なく車が行き交っていて、よく考えたら私の声なんか誰にも聞こえているわけがなかった。
なのに、
「気のせいじゃないってば。あっ、うわっ……ってぇっ!!」
目の前に、ドシンと人が転がってきた。
「ってぇ……絶対アザになるやつだ、コレ」
……なに?
眼を見張る私の前で、その彼は屈託なく笑った。
「驚かせてごめん。けど、こいつが」
え?
よくよく見ると、歩道に尻餅をついた彼の両手の中に、小さな小さな仔猫がいた。
「こいつがあの窓の上から降りられなくなってて。見てられなくて助けたら、俺が落っこちた」
恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた彼は、そう言いながら私に視線を上げた。
「……」
私の歩いていた歩道のすぐ横……つまり彼が転がってきた脇にはビルがあり、その一階は洋食屋さんだった。
このお洒落なテナントビルから落ちたの?
私がそう思いながらビルを見つめると、猫を抱いたまま彼がゆっくりと立ち上がった。
「ほら、そこの洋食屋のヒサシの上にいたんだ。けどプランターの花を踏みたくなかったから、避けたら着地に失敗して」
あの……一階のテナントの上の、屋根みたいなところかな。
その下には確かに入り口を避けるようにしてプランターが置いてあり、黄色い小さな花が綺麗に咲いていた。
「お前は怪我してないか?んー?」
ミーミー鳴いている仔猫を手の中でクルクル回して見た後、彼は私を見下ろして笑った。
「俺、沢村律。君は?」
さわむら、りつ。
背の高い人だな。
それに、アッシュブラウンの髪色がとても良く似合っている。
長めの前髪が風に煽られて、数秒の間、綺麗な二重の眼や通った鼻筋がハッキリと見えた。
薄すぎず厚すぎない唇はとても清潔そうで、私は思わず沢村律に見とれた。
「迷惑じゃないなら、名前教えて?」
仔猫を抱いたまま屈託のない笑顔を見せる沢村律に、私は少し眉を上げた。
カッコいいのかカッコ悪いのか、さっぱり分からない。
急に目の前に転がってきたかと思うと猫を抱いていて、痛そうにお尻を擦ってて。
「……!」
どんな顔をしてればいいか分からず、私は浅く笑った。
「えっ、なんで笑うの」
沢村律が焦った顔で私を見ていたから、私は少し首を横に振った。
「だって、急に転がってきたから」
「あ……驚かせてごめん」
いいや。
こんな人になら、名前を教えてもいい。
「私は……松下藍」
「あい?愛する、のアイ?」
愛するのアイ……。
……愛するのアイなら、私はもっと愛されていたのかもしれない。
今までに幾度となくそう思ったけれど、そんなのもうどうしようもない。
「ううん。そっちのアイじゃない。藍色のアイ」
少し決まり悪くて視線を下げようとしたとき、沢村律が声のトーンを上げた。
「藍色のアイなんだ!俺、藍色大好きだよ」
……え?
思わず眼を見張る私を気にせずに、沢村律は白い歯を見せて続けた。
「昔さあ、水彩画の授業の時、藍色をパレットの上に出してそこに少し水を垂らして溶くとスゲー綺麗でさ。濃くて深い色なのに、どんどん透明感が加わるんだ。その色合いが何とも言えなくていつもいつもパレットを見つめてたよ」
懐かしそうに笑った沢村律の顔に、私の胸がギュッとした。
「いい名前だね、藍って。藍色のアイ」
心に染みるような沢村律の声。
「わ、藍……ちゃん」
一度引っ込んだ筈の涙が、再び顔を出した。
スッと頬を伝う涙の感覚に、私は焦って言い訳した。
「ご、めん。今日は何だか私、おかしいの」
その時、
「すみませーん!それ、うちの猫です」
洋食屋の扉が開いて、若いウエイトレスが申し訳ないといったようにガバッと頭を下げた。
「この上に事務所があるんですけど、どうやらまた抜け出したみたいで……」
沢村律がにっこりと笑いながら仔猫を差し出した。
「良かった。怪我はないみたいですよ」
「ありがとうございます」
沢村律から猫を受け取ったウエイトレスの後ろ姿を見ながら、私は少し咳払いをした。
「じゃあ……私はこれで」
「待って。送るから」
「え、でも」
「だって藍ちゃんは今日変なんでしょ?だったら心配だから送る」
『心配だから送る』
綺麗な沢村律の瞳が真っ直ぐに私を見ている。
いつの間にか彼の顔からは笑顔が消えていて、私はどうしたのかと思って夢中で彼の顔を見つめた。
「急に泣いちゃう女の子を独りで返すなんてダメだ」
ドキンと鼓動が跳ねた。
これは現実なんだろうか。
親からも心配されない私を、初対面のこの人は本気で心配してくれているのだろうか。
「沢村……さん」
「律でいいよ。律って呼んでよ。俺も藍って呼びたいし。て、あ!馴れ馴れしいかな!迷惑じゃなかったらでいいんだけど」
最後は焦ったようにそう言った律を見て、私は取り繕うように笑った。
「は……あはははは。……律は、面白い」
精一杯頑張ってみたけど、多分私の笑い声は不自然だったに違いない。
だって、こんな経験は今までに一度だってなかったから。
男の子を呼び捨てにしたことも。
でも、
「ええー?!そーかなー」
律はそれをスルーして照れた。
「藍、行こ」
「うん」
なんだか凄くドキドキしたし、嬉しかった。
****
「ここ?!デッカイ家だね!藍ってお嬢様なの?」
「……そんなことないよ」
確かにうちは大きな家だと思っていたけど、さっきの雪野一臣の自宅はもっと大きかった。
庭には池があったし。
そういえば……あんな風に飛び出してきちゃって悪いことしちゃったな。
「……じゃあね、藍」
「うん、送ってくれてありがとう」
小さく手を振ると、律は私に背を向けて来た道を歩き始めた。
「あ、そーだ」
「ん?」
私が首を傾げた後、確かに律の口が動いて何か言ったのに、なぜかよく聞こえなかった。
「え?なに?」
でも彼は繰り返してくれなかった。
「じゃ、今度こそまたね」
「あ……うん……またね」
律が二度目のさよならに大きく手を振ったから、私も手を上げてそれに答えてみた。
すると私を振り返った律が、優しく微笑んだ。
……なんか嬉しい、凄く。
これも初めての経験。
嬉しくてフワフワして、私はこんな気持ちがいつまでも続けばいいと思った。
****
……寒い……。
時計を見ると深夜だった。
テレビの青白い光だけが部屋を不気味に照らしていて、私はいつの間にか眠ってしまっていた事に気付いた。
……なんだか頭が重い。
テーブルの上のスマホが小さな光を点滅させていて、私はソファから身を起こすとゆっくりとそれに手を伸ばした。
画面をタップして確認すると、瀬里からラインが入っていた。
『藍ちゃん、大丈夫?電話も通じなくて心配してます。何時でもいいからラインください』
着信には全く気付かなかった。
……あんな風に雪野一臣の家を飛び出したのに、私は瀬里に何の連絡もしていなかった。
しかも律に送ってもらってからも、私は瀬里や雪野一臣の事を思い出さずにいた。
そう考えると急に胸がキュッとして、私は思わずそこに手を当てた。
……律の事しか……考えてなかった、私。
雪野一臣の家を飛び出した後すぐに律に出会って、私の心の中は律でいっぱいになってしまっていたのだ。
こんな自分がなんだか信じられなくて、私は思わず眉を寄せた。
『昼間はごめん。私は大丈夫』
瀬里へラインを送ると部屋の電気もつけずにバルコニーに出て、私は空を見上げた。
仕事で帰ってこないパパとママを諦めた私は、勉強の合間に空を見上げるのがすっかり癖になっていた。
だって真っ暗な空にある月は、私に似ているから。
近くに光る星はあっても、月はひっそりと孤独で、その冷たげな姿と自分がすごく被るんだ。
案の定独りぼっちの月は私に似ていて、次第に見ていられなくなった私は眼を伏せた。
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