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vol.6

愛を胸に抱いて《2》

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「口を裂いて顎の骨を割ってやろうか」

マリウスがジリジリと翠狼の首を締め上げたまま、手首を動かして彼の口に指をかけた。

「君が死ぬ前に魅惑の血をいただくとしよう」 

バキバキと嫌な音が聞こえてきて、私は思わず叫んだ。

「嫌だ、やめてーっ!翠狼っ!」
「だめ!出ていったらダメ!」

思わず翠狼に駆け寄ろうとした私は、桜花さんに腕を掴まれた。
その時、キラリと翡翠の瞳が光り、彼は口を閉じようとして全身を震わせた。
マリウスの力に対抗し、次第に口が閉まっていく。

「くそっ!」

マリウスが歯を食い縛りながら短く言葉を漏らし、一方翠狼はそんなマリウスの指を噛んだまま膝を折り、彼を床に踏み倒した。
それをマリウスが身体を捻って回避すると、足を翠狼の首に絡ませて力を込める。
途端に翠狼が口を開け、そこからマリウスの手が自由になり、彼はニヤリと笑った。
加えてほんの一瞬の隙をついたマリウスは、力任せに翠狼の脇腹を蹴りあげ、体勢を立て直して距離をとると咬まれた手を凝視した。

「……汚らわしい……!」

そんなマリウスに蹴られた翠狼は、床を転がり円卓をなぎ倒しながら私達とは反対側の壁に身を打ち付けて止まった。
息もつけない程の激しい戦いに私の心臓が痛い程脈打つ。
けれど二人はあまりにも激しく早く組み合い、私には見守る以外何も出来なかった。

なす術もない私達の前で翠狼はブルッと身体を振るわすや否や後ろ足で床を蹴り、再びマリウスへと襲いかかる。
そんな翠狼の身体にシャンデリアが当たり、クリスタルがバラバラと部屋に降り注いだ。

「……!」

次の瞬間、飛びかかる翠狼を殴り飛ばそうとしたマリウスの腕をかいくぐり、翠狼がマリウスの首に噛み付いた。

「うっ!!」

翠狼の牙が深く突き刺さった首が不自然に曲がり、マリウスは眼を見開く。

「翠狼が偉大なるヴァンパイアを仕留めた!」
「翠狼!一気にやれ!!」
「やれ!翠狼!死に損ないの吸血鬼を灰にしてやれっ!」

部屋の隅で二人の戦いを見守っていた人狼族の仲間が興奮し、口々に叫んだ。
その声がおさまるのを待つと、翠狼は鼻にシワを寄せてグッと顎に力を込めた。
バキッと骨が砕けるような音が耳に届いた時、マリウスの赤い瞳が徐々に虚ろになり、その輝きがくすみはじめた。

巨大な狼と化した翠狼にくわえられているマリウスはまるで壊れた人形のようで、私はさっきまで静かな口調で話していた彼を思い返さずにはいられなかった。

ヴァンパイアとして生まれたマリウス。
私は彼の歴史を知らないし、人狼族との間に何があったのかも知らない。
だから、ここで私が二つの種族に意見なんか出来ない。
でも、でも……。
私はマリウスの顔を見つめた。
徐々に輝きを失っていく赤い瞳が悲しい。
やがてマリウスが唇に浅い微笑みを浮かべた。

「たとえ今……君に首を噛み砕かれても身体を引き裂けはしないよ。そうできてるんだ。偉大なるヴァンパイアはヴァンパイアにしか倒せない。つまり、君達に対しては不死身なんだ」

翠狼がマリウスをドサリと落として言葉を返した。

「それは俺にしても好都合だ。何故なら今から死よりも辛い思いをさせてやれるんだからな。恨むなら俺を怒らせた自分自身を恨め」

低く響く翠狼の声を聞き終えた後、マリウスが微笑んで瞳を伏せた。

「……死よりも辛い思い?そんなものはもう何度も何度も味わっている。この七百年の間に」

今度は翠狼が不敵な笑みを見せた。

「なら、どこまで耐えられるかみせてもらおう!」
「待って翠狼!」
「藍ちゃん」

気が付くと私は叫んでいた。
誰もが私に注目する中、腕に回された桜花さんの手を解くと私はよろけながらもマリウスに近付いた。

「藍、下がっていろ!」
「お願い、翠狼。待って」

翠狼の鋭い声が響いたけど、私は足を止めることが出来なかった。
だって、マリウスの言葉が頭から離れなかったから。
それから、あの苦しげな瞳も。

『私はね、永遠の命も『偉大なるヴァンパイア』の称号にも興味などなかったんだよ。ただ、彼女と……クリスティーヌと共に生きたかった』

私にはマリウスの心を救ってあげられる言葉を思い付かないし、彼の生きた七百年を察することも出来ない。
けど、これは……これはマリウスに返さなきゃ。
私は床に倒れ、翠狼に押さえつけられているマリウスの前にペタンと座った。

「……どうしたんだい、お嬢さん」

先程の戦いが嘘みたいに、マリウスは穏やかに笑った。
私はそんなマリウスの花のような微笑みを見つめながら、握り締めたままだった短剣を差し出すとそっと傍に置いた。

「ああ……すまないね。一応大切にしているんだ」

ああ、私の血を飲み、翠狼を狙った偉大なるヴァンパイアのマリウス。
そんな彼なのに、どうして私は可哀想だと思ってしまうんだろう。
どうして、これからの彼の人生が穏やかであればいいと願うのだろう。

「君は優しいんだね」

そう言ったマリウスの顔がジワリと滲んで歪んだ。
慌てて涙を拭うのに止まる気配がまるでなくて、私は困って鼻をすすった。

「泣かなくていいんだよ」

マリウスの諦めたような微笑みが切ない。
それを見たらもう言わずにはいられなくて、私は心にあった思いを口に出した。

「だって、こんなの嫌なんです。種族が違うから争いが起こる。でも、その逆だって願えば叶うと思います……」

異様に静まり返っている部屋に、私のすすり泣く声だけがする。
そんな中で、翠狼が低い声を発して辺りを見回した。

「皆、引き上げるぞ」

言い終えて踏みつけていたマリウスを自由にすると、翠狼は彼を見下ろした。
そんな翠狼に、横たわったままのマリウスが問う。

「……私を自由にすると、王に叱られるのでは?」

翠狼が答えた。

「確かに、お前を捕らえて地下牢に閉じ込めておく計画だったが気が変わった。だが俺のこの采配を王が咎める事はない」
「……何故?」

不思議でならないと言ったようにマリウスは僅かに両目を細めた。
そんなマリウスを見下ろして翠狼が静かに答えを返す。

「俺たち人狼族は強い信頼で結ばれているからだ。王から任せられた者の決断は、全員の決断だ」

マリウスが大きく眼を見開いた。

「……そうか」

ゆっくりと眼を閉じたマリウスは、唇に微笑みを浮かべたまま暫く動かなかったけど、やがて眼を開けると翠狼をまっすぐ見つめた。

「それも……愛なのかも知れないな。今の私には解る事の出来ない……」
「きゃああっ!」

その時、急に頭が激しくズキッとして、私は思わず悲鳴をあげた。
こんな激痛は生まれて初めてで、あまりの痛さに息が止まる思いだった。

「どうした?!」

翠狼が血相を変えて私を見たけど……私にも分からない。
戸惑っているうちに、再び何かに貫かれたような痛みが頭に響いた。

「あああっ!!」

気が遠くなりそうになった時、信じられない映像が頭の中に浮かんだ。

「藍!」

翠狼が私を呼んだけど、それどころじゃない。
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