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vol.7

THE GREATEST JADE

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*****


「戻るんですってね。自分の家に」
「はい」

その日の午後、私はスーツケースに荷物を詰め終えてカグヤさんを振り返った。
ドアに身を預けて腕を組む彼女は、ニコリともせずに私を見据えている。
そんな彼女にペコリと頭を下げて、私は口を開いた。

「人狼族の方々には色々とご迷惑をかけてしまってすみませんでした。本当にごめんなさい。それから……お元気で」

私がそう言うとカグヤさんは少し驚いた顔をしてから、僅かに視線をさ迷わせた。

「……綺麗ね。その指輪」

話題を変えたかったのか、カグヤさんが私の指に視線を落としてそう言ったから、私はその指輪を反対の手で撫でながら答えた。

「マリウスに……もらったんです」

カグヤさんが息を飲んで私を見つめた。
それから僅かに眉を寄せて落ち着きなく腕を組み直すと、素っ気なく横を向く。

「そう……」
「……じゃあ……私、そろそろ……」

私がスーツケースを手にドアに近付こうとした時、カグヤさんが弾かれたように言った。

「す、翠狼を待たないの?!白狼の家にいるから電話したら、」

私はカグヤさんの言葉を遮るように首を横に振った。

「会わずに帰ります」

……会わない方がいい。
だってこれ以上嫌われたくないもの。
それに私を見るときの翠狼の憮然とした顔も、悲しい。
カグヤさんの身体を避けてドアを抜けた私に、彼女は怒ったように言葉を投げ掛けた。

「好きなんでしょ?!どうしてちゃんと伝えないの?!なんで会わずに帰るのよ?!」

好き。
泣きたくなるほど、私は翠狼が好き。
でもこの想いは伝えない。
だって、私のこの気持ちを彼に刻み付けて煩わしい思いをさせるのも、重荷になるのも嫌だ。
カグヤさんに言われたように、それ相応の相手じゃない翠狼とは結ばれない。
私はありったけの笑顔でカグヤさんに言った。

「好きじゃないです。私は彼を好きじゃない。それに雪野さんにはカグヤさんがお似合いです」

泣きたくない、出てくるな涙!
まだダメ。だって泣いたらもう止まらなくなるもの。
早足で門を出る。
待ってもらっていたタクシーの中で、ついに涙が頬を伝った。

****

翌日。
午後から開かれた『さよなら会』は凄く楽しかった。
ほんの二時間の間だったけど、音楽をかけ、みんなでお菓子を食べたり記念写真をとったりして普段は受験のために参考書ばかり見ているクラスメートも笑っていた。
私と山下くんの力作、黒板デコレーションは思いの外好評で、みんなその前で記念写真を沢山撮っていた。

「良かったな。頑張った甲斐があったわ」
「うん!あの記念写真コーナーがよかったね!フレームがウケた」
「人気だったな、あれ!捨てるのもったいねー!」

「あげる」
「いやいや、俺の部屋超狭いから。あんなの飾れませんから」
「残念」
「なあ、松下」

全ての片付けを終えて、正門を抜けたところで山下くんが私を斜めから見下ろした。

「んー?」

返事をして山下くんを見上げると、彼は急にニヤニヤと笑った。

「どうなったんだよ、あの年上のイケメンと」

思わずギクリとして硬直する私に、山下くんは茶色い瞳をいたずらっぽく光らせた。

「もしかして、フッたの?!」
「はあっ?!」

な、なんでそうなるの?!
さっきまでの寒さが嘘みたいに身体が熱くなる。
私は焦ってブンブンと頭を振った。

「振るわけないじゃん!彼は大人だし、私なんかに興味ないよ!」

私の答えに山下くんは眉を上げて呆れたような顔をした。

「……お前……好きって言わないの?コクった方がよくね?」
「な、なんでっ?!」
「なんでって、好きって顔に書いてあるって言っただろ?」

山下くんは一旦言葉を切ると、再び続けた。

「顔に書いてあんのはお前じゃねーぞ?!」
「どういう意味?!」

言い終えた山下くんが前方を見て、少し身体を伸ばした。
なにかを見定めるように両目を細めて遠くを見つめているから、私もつられて彼の視線を追ったんだけど……。

「うっわー、今日は一段と俺を睨んでる」
「え?!」
「ほら、あそこ」

クッと顎を上げて、山下くんが身震いした。
……う、そ。
学校を出て大通りに向かって歩いていた私達の視線の先に、見知った姿があった。
 
……翠……狼……。
あのスラリとした姿は、紛れもなく翠狼だ。
近づくにつれて表情が見えてきたんだけど……本当にこっちを睨んでいる。

「山下くん、助けて」
「無理!俺は殺されたくない」

そ、そんな……。
切って捨てるように山下くんが言葉を返したから、私は冷や汗の出る思いで翠狼を見た。
ど、どうしよう。なんで怒ってるんだろう。
狼狽えて足を止めた私の頭を、山下くんがポンポンと優しく叩いた。

「秀才だけど男心に疎すぎるんだよ、お前はっ!ああ、しゃーねーな!命懸けギリギリでお前の恋を応援してやる」
「えっ?!ギリギリ?!」

意味がわからず山下くんを見上げると、なんと彼は私をガシッと抱き締めて顔を斜めに傾けた。

「松下。このまま五秒我慢しろ」
「えっ?」

山下くんの唇が近い。
驚きのあまり眼を見張る私に彼は続けた。

「この事を突っ込まれたら、『どうしてそんな事いうの?』って、口元に両手を添えてウルウルの上目遣いで彼を見つめろ」
「ええっ」

なんで?どうして?
ただでさえ怒ってるっぽいのに、そんな事言うと余計嫌われるんじゃ……?!
その時、山下くんが私から身を起こして踵を返した。

「うわっ、来たっ!もう限界!じゃあな、松下!俺は殺される前に逃げる!」
「あっ、山下くんっ」

物凄いストライドで山下くんは走り去り、そんな彼の背中を見ていた私は急に腕を引かれて後ろへひっくり返りそうになった。

「きゃっ!」
「来い」
「あ、あの翠狼、わた」
「チッ!」

今までの人生で聞いたことがない大きな舌打ちが耳に届いた。
でもどうしてなのか全然分からない。
そんな私は翠狼に腕を掴まれて、半ば走るようについていくしかなかった。

「乗れ!行き先は俺の家だ」

翠狼は素早く助手席のドアを開けると私をギロリと見下ろした。

「……」

****


結局翠狼は家につくまで一言も喋らなかった。

「お邪魔します……」
「……」

車を降りた私の手を再び掴むと、彼はリビングへと歩を進める。

「あの、翠狼……」
「さっきの事だが」

ドアを閉めるとようやく私の手を離して、翠狼がこちらを見下ろした。

「うん……」

俯く私に彼が低い声で問いかける。

「あの男とはどういう関係だ」
「……山下くん?山下くんは、同じクラスで、」
「お前はただのクラスメートと抱き合ってあんなことまでするのか」

険を含んだ言葉で私の声を遮った翠狼を思わず見上げた。
抱き合って、あんなこと?
考え込む私に、翠狼が苛立たしげに瞳を光らせる。

「答えろ」

違うのに……。
違うよ翠狼、山下くんとはそんなんじゃない。
私が……抱き締めたいのは……。
私が抱き締めたいのは……翠狼、あなただよ。
だって好きなんだもの。すごく、すごく。
でも翠狼は私に『これからは抱きつくな』って……。

「翠狼には……しないよ」

悲しすぎて声がかすれた。胸だってギシギシする。
私を見て翠狼が驚いたように息を飲むのがわかった。

好きだよ……。私は、あなたが好き。
気持ちとは裏腹な事を言うのがこんなに辛いなんて、あなたを好きになって初めて知ったよ。

「……翠狼には……しないよ……。なのにどうしてそんなこと言うの?」

胸がズキズキして、死にそうなくらい痛い。
涙が頬に筋を作り、それがいくつもいくつもこぼれ落ちる。
好きなのに、誰よりも好きなのに、私の想いは届かない。

「もう迷惑はかけない。だから……さよなら」
「藍」
「……っ!」

その瞬間、心臓が止まるかと思うほどの衝撃が私の身体を駆け抜けた。
だって、翠狼が……翠狼が私を抱き締めたんだもの。
逞しい腕が私をさらうように引き寄せた拍子に、彼の固い胸に額が密着する。

どう……して……?
意味が分からない。
彼の気持ちが知りたくて、私は顔を起こすと翠狼を見上げた。
でも彼は眉を寄せていて、ものすごく不機嫌そうだった。

「翠狼……?」
「気に入らない」

ドキドキするし、ズキズキと胸が痛む。
私は涙声で彼に言った。

「……じゃあ教えてよ、翠狼……。どうしたらあなたにこれ以上嫌われなくてすむのか」

悲しくて怖くて、声が震えた。

「……どうして……?どうして?気に入らないならこんな風にしないで」

腕の中から出ようとして、私は翠狼の胸に両手をついてグイッと伸ばした。
けれど翠狼はそんな私の手首を素早く掴むと、その指を凝視して低い声を出した。

「……マリウスから贈られたらしいな」

ドキッとした。
だって私……この事はカグヤさんにしか言ってないもの。
やっぱり翠狼とカグヤさんは付き合ってるんだ……。
お似合いだと納得しているのに、凄くショックだった。
涙がボロボロと溢れてきて止まらない。
そんな私に翠狼が続けた。

「ひとつ言っておくが、カグヤは俺の妹だ」

……え?……妹……?
妹なの?こ、恋人じゃないの?
すごく驚いたけれど、それを突っ込む隙はなかった。
だって翠狼が言うや否や、私の中指から指輪を引き抜いたから。
私は我にかえって声をあげた。

「返して……!それはクリスティーヌの形見で……」

焦って手にしがみついた私に翠狼は、
 
「クリスティーヌの形見をなぜお前が身に付けなければならないんだ」

あからさまに苛立ちを含んだ瞳が、徐々に深く鮮やかな翡翠色へと変わっていく。
私はその美しさに眼を奪われながらも焦って答えた。
 
「それは……この指輪は魅惑の血の香りを消す力があるから私を守ってくれるらしくて……」

翠狼が両腕を私の腰に回して一層引き寄せた。

「お前は俺を誰だと思っているんだ」

……え。

「あ、の……」

戸惑う私に、翠狼が低い声を出した。

「こんな指輪などなくても、お前は俺が守ってやる」


《お前は俺が守ってやる》


……嘘みたいだと思った。
男らしい眉の下の、凛々しい眼がまっすぐに私を見下ろしていて、私は信じられない思いで翠狼を見上げた。
呆然とする私を、翠狼が優しく抱き締めて続ける。

「……絶対に告げないでおこうと思ってた。こんな気持ちを胸に抱くのは間違ってると何度も思った。俺は……人狼だから」

翠……狼……?

「好きだ」

……え?

「俺はお前が好きだ」

一際鼓動が跳ねて息が止まりそうになりながら、私はその言葉を聞いていた。
……翠狼が……私を……?嘘……。
首筋に翠狼の息がかかり、耳に切な気な声が流れてくる。

「何度も気持ちを押し殺そうとしたが、この先もうお前と関わりがなくなり、お前が誰か他の男を選ぶ日が来ると思ったら……我慢できなかった」

翠……狼……。
私だって、私だってあなたを。

「……人狼でいいよ。私は、人狼の翠狼が好き」
「……!」

翠狼がピタリと息を止めたのが分かった。
私はこの胸の想いを知ってもらいたくて、涙を押し退けながら必死で口を開いた。

「私も本当は言わないでおこうと思ってた。だって、翠狼は私にはもったいないから。翠狼にはもっと他にピッタリな人がいる気がして……でも、好きなの」

厚い胸に頬を寄せたまま私がそう言うと、翠狼がガバッと私から身を離した。

「……」

信じられないといったように見開かれた瞳が私を真正面から見つめていたから、私はもっともっと伝えたくて彼を見上げた。

「翠狼。私、翠狼が好き。凄く凄く、大好き」

私の言葉に翠狼が僅かに両目を細めた。
それから視線を下げて私の唇を見つめる。

「……」
「……」

でもそれはほんの一瞬で、彼は素早く視線を反らして横を向いた。
眼を見張る私の前で、みるみる翠狼の顔が赤くなる。
なんか、恥ずかしい……。
翠狼の視線に少しだけ期待した自分に、私自身も赤くなってしまう。

その時急に空気が動いた。
それから額に、柔らかい感覚が広がる。

「っ!」

これって……この感覚は……。
キスだ。
翠狼が、私の額にキスをしたんだ。
ゆっくりとそれから、凄く優しく。
唇じゃないけど……でも、凄く嬉しい。

……ドキドキで死にそうだったけど、私は翠狼の背中に両腕を回すとギュッと抱き締めた。
それから、唇を離した彼をもう一度見上げる。

その瞳は綺麗な綺麗な翡翠色で。
ああ、本当に夢みたいだ。
その時、翠狼が私を少し睨んだ。

「そんなに見るな」

またしても精悍な彼の頬が赤くなる。
やがてどうしていいか分からないといった風に、翠狼は髪をガシガシとかきあげた。

「ダメだ、暑すぎる」

……そういえば……。
そういえば以前、着替え中の私を見てしまった翠狼は真っ赤になって焦ってたっけ……。

見た目はワイルド系で逞しいイケメンなのに照れ屋で優しくて……。
大好き。そんなところも本当に大好き。

「翠狼……」

私が呼ぶと彼は落ち着きなく視線をさ迷わせていたけど、やがて小さく返事をした。

「ん」
「好きになってくれてありがとう」

本当に、ありがとう。

「泣くな」
「だって……」

そんな私の涙を指で拭った後、彼は諦めたようにマリウスの指輪を私にはめた。

「本当は他の男からの指輪など我慢ならないが」

翠狼は少しムッとしながら先を続けた。

「お前はまだ暫く学生だし、俺といられない時はこの指輪の力を頼るといい。ただし」

……ただし……?
そこで言葉を切った翠狼が更に眉を寄せて唇を開いた。

「はめる指には注意しろ。さもないと許さない」

うん、うん。分かってるよ翠狼。
翠狼が頷く私を見下ろして困ったように笑った。

「泣き虫なんだな、お前は」
「だって……」
「もう辛い思いはさせない。俺がお前を守ると約束する」
 「うん。私も、翠狼を大切にする」

私は涙を拭きながら頷くと、めいっぱい背伸びをして彼の唇にキスをした。
そう、ありったけの想いを込めて。

なによりも美しい、この翡翠色に誓って。
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