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悲しいキス
《3》
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それからジャケットを脱いで手早く袖をまくると、
「下がってろ」
「はい。すみませ、ん……」
ああ。もう最悪の気分だ。
ガラスを綺麗に片付けて最後にテーブルを拭くと、圭吾さんは無言で私を見つめた。
「……」
「……ありがとう……」
「何があった」
「……なんでもないでしゅ。あ、でし。で……す……」
圭吾さんが眼を見開いて私を見た。
「ごめんなたい、あれー、おかしゅいな。ちゃんと喋りゃにゃ、」
ダメだ、喋れば喋るほどろれつが回らなくなってくる。
「えーっと……」
案の定、圭吾さんは地球外生命体でも見るかのような眼で私を凝視した後、
「後で聞くから水を飲んで待ってろ」
「はい……」
圭吾さんがバスルームに消えた後、私はペタンとラグの上に座り、ローテーブルに突っ伏した。
ああ!更に嫌われてしまった。
酔ってるけど…水を飲んでおけって言われたのは分かってる。
「水……」
ふとボトルを見ると、まだワインが残っている。
……あと一杯分くらい?でもコルクはもう入らないし、ワインキーパーなんてあるかどうかも分からない。
そこまで考えた後、さっきの圭吾さんの顔が脳裏によみがえった。
……水を飲んで待ってろっていうのは、それ以上飲むなという意味だ。
でも……凌央さんにもらったワインを捨てるのは嫌。
それに、確かに語尾を噛んじゃったけど私はそんなに酔ってない。
だってほら、明日の予定は麗野タウンのwebページの最終チェック会議。で、それをクリアしたら新聞の折り込み広告と同日に公開予定なのも分かってる。
それにあと一杯飲んだところでさして変わらないに決まっている。
「……」
……いいや、飲んじゃえ。
私は少しバスルームの様子を窺った後、ボトルを引き寄せるとそのまま口をつけて飲み干した。
******
んー……。
なんか……ゴツゴツしてるものに囲まれてて……身体が動かない。
……いつもよりも温かいのはいいんだけど、寝返りがうてない。
……ちょっと待って……今何時なんだろう。
目覚ましは聞こえなかった。
……ありえない。
私が目覚ましよりも早く目覚めるなんてあり得ない。
でもアラームが聞こえなかった。スマホはどこなんだろう。
ゆっくり眼をあけるも、眠くて瞼が閉じそうになる。
あれ?……なんか触った感覚からして、人っぽくない?
そんな頼りない私の瞳に、自分じゃない身体の一部が写り込む。
……なんとまあ、逞しい腕なんだろう。
そう思った直後、一気に全身から血の気が引いて、私は目の前の太い腕を見つめたまま硬直した。
こ、これは紛れもなく男性の腕だ。
確か昨日は、ちゃんと家に帰った……。
よく見ると、黒と白のコントラストを活かした洗礼された空間は紛れもなく圭吾さんの部屋で、その部分に関しては直ぐに記憶がよみがえる。
そうよ。家に帰ったは、正解。
それからワインを飲んでたら圭吾さんが帰ってきて……まずい!
動かせるところは眼だけで、私は必死で真後ろの様子を窺った。
スースーという規則正しい寝息が聞こえる。
どうやらこの状態はベッドの中でバックハグをされているらしい。
相手は圭吾さんで間違いないだろうけど、一体全体どうしてこんな事になったんだろう。
パニックになりつつも微動だにせず、死に物狂いで思い出そうとするものの、圭吾さんがバスルームに消えてからの記憶が全くない。
もしかして私、圭吾さんを襲ったんだろうか。
いや、襲われたとか。泥酔してる私を圭吾さんが……。
……そっちの方が絶対にありえない。だって圭吾さんは私が嫌いだもの。
じゃあなに?!どうして?!分からないけど……怖い。
とにかくここから出なきゃ。
そっと圭吾さんの腕を解き、まるでスーパースローカメラ映像のような速度で布団から抜け出す。
つま先立ちのまま、ようやくドアの外に脱出した私は、ヘナヘナと廊下に座り込んだ。
息をするとバレるんじゃないかと思い、満足に呼吸が出来なかった為に窒息寸前だ。
……記憶をなくすってなんて恐ろしいのかしら。
ああ私、圭吾さんにどんな失態を見せたんだろう。
その時、午前六時を知らせるアラームが聞こえた。
荷物の記憶がまるでないけど、リビングからスマホのアラームが鳴るということは、ひと安心だ。
その時、後ろのドアがガチャリと開いた。
慌てて立ち上がった私を、圭吾さんは腕を組み憮然とした顔で見下ろしている。
「あのー、昨日の夜……」
質問しかけたものの何があったんですか?とは恐ろしくて聞けず、途中で言葉が止まる。
「……」
「……」
寝起きだとは思えないほど整った顔は、私を凍死させようとしているかのように冷たい。
「おはようございます……」
呑気に朝の挨拶をする雰囲気でないのは分かっているけど、この沈黙に耐えられない。
「今晩六時には帰るから夕食の仕度を頼む」
「えっ……?!」
「なんだ」
……定時勤務を終えたらそのまま凌央さんの家へ行きたかったんだけど……。
でもまさかこの状況で断れない。
だってきっと私、記憶にないけど圭吾さんに迷惑かけちゃってるもの。
何にもないなら一つのベッドでバックハグなんて状況にはならない。
「男には断れ」
切って捨てるかのような圭吾さんの声に、ビクッと心臓が震えた。
そうだ。
そもそもなんでこんな事になったかというと、凌央さんと立花優さんのキスを見ちゃったからだ。
よく考えたら昨日の今日で会いに行くなんて、平常心を保てないかもしれない。
「……はい……」
昨日のワインのせいか、声がカスカスに掠れている。
「……」
「……あの、圭吾さん。夕飯なにがいいですか?」
圭吾さんが少しだけ眉を上げた。
その後、私から眼をそらすとボソッと答える。
「……鍋」
「……鍋っ!?」
私と圭吾さんで?!仲良くないのに?!
反射的に叫んだ後、思わず息を飲んだ私を見て圭吾さんは僅かに両目を細めた。
「僕と鍋は嫌なのか」
「え、い、え、そんな、」
ギクリと固まる私にムカついたのか(いやその前から怒ってるけど)圭吾さんは私の脇をすり抜けるとバスルームに消えていった。
……鍋……正気かしら。
「あ」
アラームのスヌーズ音が鳴り出した。
これ以上ゆっくりはしていられない。
私はリビングへと急ぐとバッグからスマホを取り出した。
*****
『あっはははは!仕事忙しすぎて狂ったんじゃない?!狂っちゃったからあんたと二人で鍋食いたいとか思ったのよ、多分!』
く、食いたいって……。
昼休憩時に美月にラインすると、彼女はすぐさま電話を掛けてきて爆笑した。
「どうしよう。昨夜の事をメッチャクチャ叱られるんだわ、きっと」
泣きそうになりつつそう言った私に、美月は笑いを噛み締めながら答える。
「すっごい叱ってやろうと思ってる相手と鍋なんか食べないでしょうよ」
「じゃあなに?!慰めてくれるとか?!」
「さあね。分からないけどすっごく面白いから後でちゃんと報告しなさいよ。記憶なくしたらただじゃおかないわよ。じゃあね」
「あ、待って美月……」
切れた。
……凌央さんと立花さんのキスの話、まるでスルーだったじゃん。
「ああ……」
ため息に言葉が混ざる。
私は社食の隅っこでグッタリと突っ伏すと、圭吾さんと二人だけで鍋をつつく自分を想像して身震いした。
****
午後六時。
定時勤務を終えて急いで帰ると、六時前に自宅に到着出来た。
急いで鍋の材料を買いに行かなきゃ。
本当は帰宅途中に買い物を済ませたかったけれど今日は資料を持って帰らなければならず、お鍋に欠かせない白菜や他の具材を買うとかなり重くなるので仕方なく一度帰ることにしたのだ。
私は自室に戻り資料を置くと、玄関へと急いだ。
……そこでふと、疑問に思う。
……そういえば圭吾さんはどんな鍋が食べたいんだろう。
キムチ鍋とか豆乳鍋とか、巷では色んな鍋スープが売っている。
確か美月の家で鍋パーティーをしたときは挽き肉坦々鍋だった。
どうしよう、電話で聞こうかな。
そう思いながら靴を履いた時、私のスマホが鳴った。
画面には《夢川さん》の四文字。
ちょうどよかった。
『もしもし』
艶やかな低い声がすぐ耳元で響く。
「はい」
『今どこだ』
「今から家を出るところです。食材を買いに」
『駐車場で待ってる』
これは、一緒に食材を買いにいく流れなんじゃ……。
いくら圭吾さんの車の中が広いとはいえ、助手席と運転席の距離なんてしれている。
「はい」
私は観念するとスマホをバッグにしまい、ドアレバーに手をかけた。
「下がってろ」
「はい。すみませ、ん……」
ああ。もう最悪の気分だ。
ガラスを綺麗に片付けて最後にテーブルを拭くと、圭吾さんは無言で私を見つめた。
「……」
「……ありがとう……」
「何があった」
「……なんでもないでしゅ。あ、でし。で……す……」
圭吾さんが眼を見開いて私を見た。
「ごめんなたい、あれー、おかしゅいな。ちゃんと喋りゃにゃ、」
ダメだ、喋れば喋るほどろれつが回らなくなってくる。
「えーっと……」
案の定、圭吾さんは地球外生命体でも見るかのような眼で私を凝視した後、
「後で聞くから水を飲んで待ってろ」
「はい……」
圭吾さんがバスルームに消えた後、私はペタンとラグの上に座り、ローテーブルに突っ伏した。
ああ!更に嫌われてしまった。
酔ってるけど…水を飲んでおけって言われたのは分かってる。
「水……」
ふとボトルを見ると、まだワインが残っている。
……あと一杯分くらい?でもコルクはもう入らないし、ワインキーパーなんてあるかどうかも分からない。
そこまで考えた後、さっきの圭吾さんの顔が脳裏によみがえった。
……水を飲んで待ってろっていうのは、それ以上飲むなという意味だ。
でも……凌央さんにもらったワインを捨てるのは嫌。
それに、確かに語尾を噛んじゃったけど私はそんなに酔ってない。
だってほら、明日の予定は麗野タウンのwebページの最終チェック会議。で、それをクリアしたら新聞の折り込み広告と同日に公開予定なのも分かってる。
それにあと一杯飲んだところでさして変わらないに決まっている。
「……」
……いいや、飲んじゃえ。
私は少しバスルームの様子を窺った後、ボトルを引き寄せるとそのまま口をつけて飲み干した。
******
んー……。
なんか……ゴツゴツしてるものに囲まれてて……身体が動かない。
……いつもよりも温かいのはいいんだけど、寝返りがうてない。
……ちょっと待って……今何時なんだろう。
目覚ましは聞こえなかった。
……ありえない。
私が目覚ましよりも早く目覚めるなんてあり得ない。
でもアラームが聞こえなかった。スマホはどこなんだろう。
ゆっくり眼をあけるも、眠くて瞼が閉じそうになる。
あれ?……なんか触った感覚からして、人っぽくない?
そんな頼りない私の瞳に、自分じゃない身体の一部が写り込む。
……なんとまあ、逞しい腕なんだろう。
そう思った直後、一気に全身から血の気が引いて、私は目の前の太い腕を見つめたまま硬直した。
こ、これは紛れもなく男性の腕だ。
確か昨日は、ちゃんと家に帰った……。
よく見ると、黒と白のコントラストを活かした洗礼された空間は紛れもなく圭吾さんの部屋で、その部分に関しては直ぐに記憶がよみがえる。
そうよ。家に帰ったは、正解。
それからワインを飲んでたら圭吾さんが帰ってきて……まずい!
動かせるところは眼だけで、私は必死で真後ろの様子を窺った。
スースーという規則正しい寝息が聞こえる。
どうやらこの状態はベッドの中でバックハグをされているらしい。
相手は圭吾さんで間違いないだろうけど、一体全体どうしてこんな事になったんだろう。
パニックになりつつも微動だにせず、死に物狂いで思い出そうとするものの、圭吾さんがバスルームに消えてからの記憶が全くない。
もしかして私、圭吾さんを襲ったんだろうか。
いや、襲われたとか。泥酔してる私を圭吾さんが……。
……そっちの方が絶対にありえない。だって圭吾さんは私が嫌いだもの。
じゃあなに?!どうして?!分からないけど……怖い。
とにかくここから出なきゃ。
そっと圭吾さんの腕を解き、まるでスーパースローカメラ映像のような速度で布団から抜け出す。
つま先立ちのまま、ようやくドアの外に脱出した私は、ヘナヘナと廊下に座り込んだ。
息をするとバレるんじゃないかと思い、満足に呼吸が出来なかった為に窒息寸前だ。
……記憶をなくすってなんて恐ろしいのかしら。
ああ私、圭吾さんにどんな失態を見せたんだろう。
その時、午前六時を知らせるアラームが聞こえた。
荷物の記憶がまるでないけど、リビングからスマホのアラームが鳴るということは、ひと安心だ。
その時、後ろのドアがガチャリと開いた。
慌てて立ち上がった私を、圭吾さんは腕を組み憮然とした顔で見下ろしている。
「あのー、昨日の夜……」
質問しかけたものの何があったんですか?とは恐ろしくて聞けず、途中で言葉が止まる。
「……」
「……」
寝起きだとは思えないほど整った顔は、私を凍死させようとしているかのように冷たい。
「おはようございます……」
呑気に朝の挨拶をする雰囲気でないのは分かっているけど、この沈黙に耐えられない。
「今晩六時には帰るから夕食の仕度を頼む」
「えっ……?!」
「なんだ」
……定時勤務を終えたらそのまま凌央さんの家へ行きたかったんだけど……。
でもまさかこの状況で断れない。
だってきっと私、記憶にないけど圭吾さんに迷惑かけちゃってるもの。
何にもないなら一つのベッドでバックハグなんて状況にはならない。
「男には断れ」
切って捨てるかのような圭吾さんの声に、ビクッと心臓が震えた。
そうだ。
そもそもなんでこんな事になったかというと、凌央さんと立花優さんのキスを見ちゃったからだ。
よく考えたら昨日の今日で会いに行くなんて、平常心を保てないかもしれない。
「……はい……」
昨日のワインのせいか、声がカスカスに掠れている。
「……」
「……あの、圭吾さん。夕飯なにがいいですか?」
圭吾さんが少しだけ眉を上げた。
その後、私から眼をそらすとボソッと答える。
「……鍋」
「……鍋っ!?」
私と圭吾さんで?!仲良くないのに?!
反射的に叫んだ後、思わず息を飲んだ私を見て圭吾さんは僅かに両目を細めた。
「僕と鍋は嫌なのか」
「え、い、え、そんな、」
ギクリと固まる私にムカついたのか(いやその前から怒ってるけど)圭吾さんは私の脇をすり抜けるとバスルームに消えていった。
……鍋……正気かしら。
「あ」
アラームのスヌーズ音が鳴り出した。
これ以上ゆっくりはしていられない。
私はリビングへと急ぐとバッグからスマホを取り出した。
*****
『あっはははは!仕事忙しすぎて狂ったんじゃない?!狂っちゃったからあんたと二人で鍋食いたいとか思ったのよ、多分!』
く、食いたいって……。
昼休憩時に美月にラインすると、彼女はすぐさま電話を掛けてきて爆笑した。
「どうしよう。昨夜の事をメッチャクチャ叱られるんだわ、きっと」
泣きそうになりつつそう言った私に、美月は笑いを噛み締めながら答える。
「すっごい叱ってやろうと思ってる相手と鍋なんか食べないでしょうよ」
「じゃあなに?!慰めてくれるとか?!」
「さあね。分からないけどすっごく面白いから後でちゃんと報告しなさいよ。記憶なくしたらただじゃおかないわよ。じゃあね」
「あ、待って美月……」
切れた。
……凌央さんと立花さんのキスの話、まるでスルーだったじゃん。
「ああ……」
ため息に言葉が混ざる。
私は社食の隅っこでグッタリと突っ伏すと、圭吾さんと二人だけで鍋をつつく自分を想像して身震いした。
****
午後六時。
定時勤務を終えて急いで帰ると、六時前に自宅に到着出来た。
急いで鍋の材料を買いに行かなきゃ。
本当は帰宅途中に買い物を済ませたかったけれど今日は資料を持って帰らなければならず、お鍋に欠かせない白菜や他の具材を買うとかなり重くなるので仕方なく一度帰ることにしたのだ。
私は自室に戻り資料を置くと、玄関へと急いだ。
……そこでふと、疑問に思う。
……そういえば圭吾さんはどんな鍋が食べたいんだろう。
キムチ鍋とか豆乳鍋とか、巷では色んな鍋スープが売っている。
確か美月の家で鍋パーティーをしたときは挽き肉坦々鍋だった。
どうしよう、電話で聞こうかな。
そう思いながら靴を履いた時、私のスマホが鳴った。
画面には《夢川さん》の四文字。
ちょうどよかった。
『もしもし』
艶やかな低い声がすぐ耳元で響く。
「はい」
『今どこだ』
「今から家を出るところです。食材を買いに」
『駐車場で待ってる』
これは、一緒に食材を買いにいく流れなんじゃ……。
いくら圭吾さんの車の中が広いとはいえ、助手席と運転席の距離なんてしれている。
「はい」
私は観念するとスマホをバッグにしまい、ドアレバーに手をかけた。
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