恋愛ノスタルジー

友崎沙咲

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気付いた恋

《1》

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「えーっ!クリスマスイブは彼氏いない友人集めて女子会開こうと思ってたのにぃ!よりによってどうしてうら若き乙女がイヴから画のアシスタントなんかに行かなきゃならないのよ!?そんなの独りで描けっつーの!」

12月も半分が過ぎたある日の昼休み、美月がスマホの向こうで叫んだ。

「ごめん!私も凌央さんから要請がない場合は参加しようと思ってたんだけど、泊まり込みでアシスタントすることになって……本当にごめん!」

社食の一番南側のテーブルの端で、私は美月の怒り口調に肩を縮めた。
やはり個展に出展する作品の製作作業が立て込んできていて、週末は凌央さんのアトリエに泊まり込む事になってしまった。

「アシスタントは自分から志願したし、徹夜で仕上げる凌央さんをサポートしたいの」

当然スマホの向こうの美月には見えるわけもないけれど、私はガバッと頭を下げるとギュッと両目を閉じた。

「……圭吾さんにはもう言ったの?」
「今夜帰ってきたら言おうと思ってるの」

私がこう答えると美月は一呼吸おいた後、少し低い声を出した。

「圭吾さんとはその後どうなったのよ」

その後とはあの事件の後ということで、あの事件とは圭吾さんとのキス事件を指している。

『彩を抱きたい』

何をしていても、あの時苦し気に瞬いた圭吾さんの瞳が脳裏を離れない。

窓の向こうに建ち並ぶビルを落ち着きなく眺めながら、私は呟くしか出来なかった。

「どうもなってない……」

そう。あの日以降私と圭吾さんはお互いにギグシャグしてしまい、ろくに顔を合わせていなかった。
私は仕事が終わると凌央さんのアシスタントに入っていたし、圭吾さんはといえば元々忙しい人で帰宅するのは深夜だったら。

それに……聞けないもの、私を抱き締めてキスした理由なんて。
きっと魔が差したからに決まってる。
でもそれを圭吾さんの口から直接聞くのは嫌だった。

「なんで嫌なのよ」
「だって、そんなの……花怜さんが可哀想だし」
「……それだけ?」
「え?」

素早く切り返されて私が口ごもると、美月はスマホの向こうで小さく息をついた。

「あんたが男を見る目のない恋愛音痴なのはよく知ってるけどさ、自分の気持ちにまで鈍感になるのはよしなさいよ?」

自分の気持ちに鈍感になる……?
思わずかぶりを振り、私は少し眉を寄せた。
美月がどうしてそんな事を言うのか分からない。

「それは大丈夫だよ。自分の事だもの、自分が一番分かってる」
「そ?」
「うん」

胸がゾワゾワしたけれど、この時の私はそれが何を意味しているのかまるで分かっていなかった。


****

『週末、泊まり込みで画のアシスタントをすることになりました。帰宅するのは日曜日の夜になります』

圭吾さんにラインを送ると、私は小さく息をついてリビングの時計を見上げた。
午後十時。
凌央さんの家から帰り、シャワーのあと夕食を食べて待っているけれど、圭吾さんが帰宅する気配はまるでない。
……今日も深夜なんだろうか。
さっき送ったライン、もう見たかな。

そっとスマホをタップし、アプリを開いた私の眼に《既読》の二文字が飛び込む。
……読んでくれたんだ。返事はないけど。
ソワソワしていた胸が少し穏やかになる。

『お仕事、あまり無理をしないで下さいね』

……大丈夫なんだろうか、身体は。
そう思いながら眼を閉じているうちに、いつしか私は眠りに落ちていった。


****

カタンという小さな物音で目覚めた。
……良い匂い……。
これは……圭吾さんだ。圭吾さんが帰ってきたんだ。

慌てて眼を開けて初めて、自分がソファに横になったまま眠ってしまっていた事に気付く。
ゆっくり身体を起こすと、圭吾さんが冷蔵庫から何かを取りだすところだった。

「あっ」

圭吾さんの声と同時にペットボトルが落ちた音がして、私は咄嗟に立ち上がった。

「圭吾さん、大丈夫ですか?」

私の声に、キッチンの圭吾さんがゆらりと振り返った。
五つ設置されているトップライトが均整のとれた圭吾さんの姿を綺麗に照らしていて、私は少しだけ見とれた。
そんな圭吾さんは、いつもよりも動作がゆっくりで様子が変だ。

「圭吾さん?」

心配になってキッチンに足を踏み入れた私を圭吾さんは黙って見つめたから、私は彼の目の前まで歩を進めた。
そこでようやくペットボトルの口から流れた水が圭吾さんの足元を濡らしている事に気付いた。

「いい、僕が」
「いいの。私がやります」

拾い上げたペットボトルをテーブルに置き手近なタオルで床の水を拭き取ると、私は圭吾さんを見上げた。

「大丈夫ですか?」
「……少し酒を飲んだだけだ」

再び圭吾さんが冷蔵庫へと手を伸ばした。
それから続ける。

「男の家に泊まり込むのか。クリスマスイブに」

トクン、と鼓動が跳ね上がった。
低くて小さいのに圭吾さんの声はなぜか響いた。

「個展の準備が……忙しくて」
「……嘘だ」

またドクンと心臓が脈打つ。
新しいペットボトルを煽った圭吾さんがゆっくりと私を振り返った。

「……嘘だ。そいつと過ごしたいんだろ?好きだから」

その顔は何故か苛立たしげで悲しげで、私は思わず息を飲んだ。
コクンと無意識に喉が鳴る。
どうして?どうしてこんな顔をするの?

もしかして花怜さんと何かあったんじゃないだろうか。
だとしたら、今度は私が相談に乗ってあげたい。

「何かあったんですか?……花怜さんと」

圭吾さんはそう問いかけた私を、驚いたように見つめた。

「圭吾さん、花怜さんと何かあったなら何でも言ってください。私はその……頼りないですけど……でも少しでも圭吾さんの心を軽くしてあげたいです」
「だったら」

かすれた声を出しながら圭吾さんが私に一歩近づいた。
それから私の腕を掴むと今度は反対の手を後頭部に回す。

「だったら……行くな」
「……え?」

今度は私の声が掠れた。
腕を回して私を引き寄せた圭吾さんの厚い胸に、トンと額が当たる。

「圭吾さ、」

ああ、どうして。
圭吾さんは、瞬間的に顔を背けた私の行動を先読みしたかのようだった。
後頭部の髪を指ですくようにして、彼は私を優しく掴む。

「……圭……」

まただ。
また……キスだ。
柔らかくて温かい感覚。
まだ忘れていない圭吾さんの唇。
身を屈め、まるで逃がさないとでもいうかのように、圭吾さんは私の唇を捉えた。

「や、め……」
「……やめない」

僅かに出来た唇の隙間から圭吾さんは殆ど息だけで囁く。
それから体重をかけて私を後ろへ倒すと、ダイニングテーブルに押しつけた。

「彩、彩」 
「っ……!」

切れ長の圭吾さんの眼が、私を真っ直ぐに見下ろしている。
嫌だ、嫌だ、ダメだ、こんなのは。
罪悪感で死にそうになる。

「彩、俺のそばにいろ」

いつも私には『僕』と言う圭吾さんが、我を忘れたように『俺』と呟いた。
力強い腕と彼の熱い身体に目眩がしそうになる。

「彩」
「バカッ!」

パン!と乾いた音が空気を震わせた。
途端に圭吾さんの横顔が眼に飛び込み、同時に私の右手がジンと痺れた。
私……ぶってしまったんだ、圭吾さんを。
圭吾さんの瞳が暗く瞬いて、その光が屈折した。

「圭吾さん、わ、私っ……」
「悪い。花怜の代わりにしてしまった」

代わり……代わり。
胸に鉛を流し込まれたかのような重苦しさに、息が出来なかった。

「忘れてくれ、全部」

全部……?それって……それって……。
独りになったキッチンで一気に全身から力が抜けた。
ペタンと座り込んだ床の上は何だか酷く冷たくて、私は暫く動けずにいた。
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