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第二幕

幕末に流す涙

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◇◇◇◇

思いきって村に降りてみようと思ったのは、白鷺が着物を買ってきてくれていたからだった。

「柚菜のその格好は目立つ。この着物を」

白鷺はそう言うと、濃い藍色に細いストライプ模様の、落ち着いた感じの着物を私に差し出した。

「ありがとうございます!凄く嬉しい!」

本当は、宗太郎が泊めてくれた翌日には働き口を見つけたかったけれど、とにかく過去の日本のどの時代に飛ばされたのかが分からなかったし服が服だけに動けなかった。

「ちゃんと働いて着物の代金もお支払します」

白鷺は宗太郎が帰るまで私を家に置いてやると言ってくれたけど……やっぱり申し訳ないし。

「あの……西山さん。今って、年号はなんですか?」

まあ、年号聞いたところであんまり分かんないんだけどね。

「今は文久二年だが」

やっぱりな!さっぱり分からんわ!

「……はあ」

文久二年が西暦でいうところの何年になるのかが私にはさっぱり分からないけど、どうやら江戸時代……しかも幕末であることは確かだった。

だって、

「……坂本龍馬って知ってます?」

私が恐る恐るそう尋ねると、白鷺は作業用の着物に通す手を一瞬止めてこう言ったから。

「土佐の……脱藩浪士の?」

もう既に、坂本龍馬は脱藩したとなると……。

したとなると……。

したとなると……。

だめだ、やっぱり分かんない。

私は小さく溜め息をついた。

そんな私を白鷺は訝しげに見ていたけど、

「知り合いか?」

「あはは、まっさかあ!」

あんな偉人と私が知り合いのわけがない。

……偉人。

確かに坂本龍馬は有名人だ。

じゃあ既にこの時代でも?

いやいや、まさか。

脱藩しただけで名が知れるわけがない。

テレビもラジオもないこの時代に。

となると、脱藩浪士の坂本龍馬が有名になった、何かしらの……。

私は再び白鷺を見上げた。

「あの、西山さん……寺田屋って知ってます?」

白鷺は物憂げな表情をして部屋の空間をみつめた。

「京の?今年の春に起きた寺田屋の騒動の事を聞いているのか?丁度京へ用事があった時に……」

今年の春……。

ならこの世界は今、一八六二年!?私の記憶が正しければ。

二〇一六-一八六二=一五四

……一五四年も前の日本にとばされちゃったの?

一五四年!

……まあ、平安時代よりマシかな……。

私はミカヅチ様の顔を思い出しながら、歯軋りしそうになるのを必死でこらえた。

どっちも嫌だっつーのっ!!

あのアホ神ーっ!!

「随分坂本龍馬が気になるんだな」

澄んだ眼差しで真っ直ぐ見つめられて、私は内心焦りながら答えた。

「別に、そういうわけじゃ……」

ドラマの、龍馬役だった俳優は大好きだけど。

かなり年上だけど、セクシーで素敵だよな……。

なーんて思いながらその俳優の姿を思い描いて一瞬デレッとしてしまったが、まだこちらを見ている白鷺に気付いて慌てて咳払いをした。

「あの、なにかお手伝いしま」

「いい」

なぜか素っ気なく答えると、白鷺は土間に降りて部屋から出ていってしまった。

機嫌を損ねたような……。

あれやこれやと聞いたのが悪かったのか。

私は小さく息をつくと、白鷺のくれた着物を見つめた。

◇◇◇◇

多分だけど……二時間後ぐらい。

「早速だけど……今晩から働いてくれるかい?」

「はいっ!よろしくお願いします」

やったあ!

私は小躍りしたい気分だった。

最初に入ったお店は仕立て屋さんだったが、未経験だというと断られた。

次に働きたいとお願いしに行ったお店『玉椿』で、

「お酒も大好きだし、お料理も得意です」

と言ってニッコリ笑うと、

「橙色の髪なんてめずらしいねぇ!しかもここいらにいる女よりもあか抜けてるし……じゃあ、お酌しながら客の話し相手なんかも頼めるかい?」

相場とか解らないし給料は安いかもしれないけど、客の相手なんていってもキャバクラよりはマシだろう、多分。

店も居酒屋のような、御食事処みたいな感じだしな。

店内は……まあ多分普通なんだろうと思う。

机と椅子はいかにも手作りといった感じで、現代でいうところのカウンター席もある。

窓には細い竹の格子がはまっていて、なかなかいい感じだ。

人の良さそうな中年夫婦のオーナーさんは、

「通いでも住み込みでも構わないよ。二階に四畳半の部屋がひとつ空いてるからね」

そう言ってニッコリと微笑んだ。

「はいっ!じゃあ、住み込で頑張らせていただきます !」

ああ、凄く嬉しい!

私は案内された四畳半の部屋に寝そべると、天井を見て大きく息を吸い込んだ。

◇◇◇◇

夕方。

店はめちゃくちゃ忙しかった。

スタッフは私を含めて五人。

ご主人がうどんや蕎麦を打ち、女将さんが天ぷらやお惣菜を作っているらしかった。

あとはご夫婦の娘さんと息子さんが皿洗いや接客をしていて、家族じゃないのは私だけ。

「柚菜ちゃん、あちらのお客に熱燗ね」

「はい!」

「お?見慣れない顔じゃないか」

「今日からこちらで働かせていただく事になりました。どうぞよろしくお願いします」

陽が暮れて暗くなる頃には、大体の客が男性客だった。

大人数で楽しげにお酒を飲む人達や、静かに独りでゆっくりと過ごす人もいて、私がいた二十一世紀のお店となんら変わりがなかった。

「柚菜ちゃん、あんたすごいねえ!客一人一人をしっかり見て、お茶を出す頃合いや、皿の引きぎわなんかが、卒なくて」

「ありがとうございます!」

「今日はもうすぐ看板だからね、上がっていいよ」

「では、お皿を洗っておきますね」

私がそう言って女将さんに頭を下げた時だった。

入り口の暖簾をくぐり、一人の男性が店に入ってきた。

「いらっしゃい!」

私は思いきり愛想よく微笑んで男性を見つめた。

直後に硬直。

例えて言うなら、まるで冷凍の肉みたいにな!

だってその男性は、眉間に皺を寄せた白鷺だったんだもの。

女将さんには目もくれず、彼は私を見据えてムッとしている。

袖から見えない両腕は、着物のなかで組まれているらしい。

「こんばんはー……」

焦って言ってみたものの、当然のごとく無視される始末。

なんか、ヤバい雲行きなんじゃ……。

「もうすぐ看板ですけど、お酒だけなら」

女将さんがにっこり微笑んで白鷺を見たが、

「帰るぞ」

白鷺は短くそう言うと、私の腕を掴んで店の外へと出た。

「ちょ、待って、西山さん、あの、」

白鷺は私の声など聞こえないといったように歩き続けた。

「西山さん、待ってください。私、さっきのお店で雇ってもらえたんです。しかも住み込で」

「帰るぞと言ったのが聞こえないのか」

刺すように冷たい白鷺の声に、私はビクッとして立ちすくんだ。

途端に、強く引かれた腕とのバランスが狂い、地面に膝をついた。

大きな石が膝にあたり、思わず顔をしかめる。

そんな私を白鷺が冷たく見下ろしていた。

「立て」

「……西山さん、話を」

「家につくまでは話さない」

何なんですか、と言いたい。

彼は大金を稼いできたら剣を作ると言ってくれたし、宗太郎に頼まれたから家に置いてやると言う前は、私が来ると迷惑だってはっきり告げたじゃん。

なら、私が住み込で働いてなんの文句があるのですか?!

それからの白鷺は、本当に家に着くまで一言も口を開かなかった。

多分、体感的には四十分位だと思う。

ただただ、私の手を握って彼は歩き続けた。

◇◇◇◇

それが家の入り口を一歩またいだ途端、

「なにを考えているんだ」

振り向くなり白鷺はギラリと私を睨んだ。

いい加減にして欲しかった。

「何って……?あの、どうして怒っているんですか?
あなたにお手伝いを断られたから私はすることがなかったし、大金を稼いできたら剣を作るといってくれましたよね?それにあなたは私がここにいたら迷惑だって言ったじゃん。
なのに、いざ仕事を見つけて働いたらムッとして呼び戻す。
意味が分からないんだけど!」

白鷺のイライラが伝染したのか、私は腹が立ってきた。

白鷺が叩き付けるように私に言葉を返した。

「あんな店で働いたって俺の刀は買えない」

「それはあなたの根性が悪いからでしょ!?私に売りたくないから値を引き上げてるのよね?!」

まるで言葉を止めることが出来なかった。

彼に嫌われて、剣を作ってもらえなくなったら終わりなのに。

「宗太郎に言われたから?彼の留守中、私を家に置いてやれって。
宗太郎に叱られるのが嫌だから?!だったらこう言えばいい。
『秋武柚菜は、別の刀工に剣の製作を頼むことにしたから出ていった』ってね!」

ああ、言っちゃった!

そんな気ないのに、言っちゃった!

私はギュッと眼を閉じて、大きく息をついた。

もう終わりだ。

今の段階で私は、この世界で生きていくしかなくなったのだ。

眼を開けると、白鷺が私を凝視していた。

涼やかな瞳で。

唇を引き結んで。

もう、いいや。

いや、だめだけど、もうどうしていいか分かんない。

多分二度と会えないけど、ミカヅチに会うことができたら殺してやる。

神様が殺せるか謎だけどな!

私は白鷺の脇をすり抜けるようにして部屋に上がると、着物の帯をほどいた。

「さっき、地面に膝をついて汚しちゃったけど……着物は返すわ」

このときの私はほぼヤケだった。

勢いよく着物の前を開けるとそのまま脱ぎ捨てて、部屋のすみに忘れていた上下のスウェットを拾い上げた。

「柚菜、待て」

「待つ理由がない」

なんとまあ、可愛くないんだろうと自分でも思った。

じっと耐えてしおらしく謝っときゃよかったのかもしれない。

そしたら、剣をつくってもらえたのかも。

後悔したってもう遅いけど。

その時、荒々しく駆け寄る音が聞こえて、私はすごい勢いで肩を掴まれた。

「……っ!!」

無理矢理振り向かされると、白鷺の身体が目の前にあり、壁まで押された。

ガツンと後頭部と背中に衝撃が走る。

下着姿なのを後悔した。

首に白鷺の大きな手がかかり、これ以上何か言うと絞め殺されるんじゃないかと思った。

「出戻りだと言ったな」

鼓動が跳ねたのは離婚の話のせいか、白鷺の端正な顔と逞しい身体がすぐそこにあるせいなのかは分からなかった。

息を飲む私を見て、白鷺は精悍な頬を傾けて僅かに眼を細めると、ニヤリと笑った。

「出戻った理由が……何となく分かる」

ガシャンと、投げられると痛いものをぶつけられた気がした。

パシッと乾いた音がして、白鷺の左頬が見えた。

自分の右手はジンと痺れて熱い。

「白鷺なんか大嫌い」

ツッと涙が頬を伝い、私は拓也とのあの夜を思い返した。

◇◇◇◇◇◇◇◇

「もう、柚菜とは一緒にいられない。離婚してくれ」

深夜零時の薄暗いリビング。

私は夫である石嶺拓也の顔をマジマジと見つめた。

「……へ?」

拓也の言ってる意味が分からずに、私は顔を傾けて彼を凝視したけど、そんな私を見つめて、拓也はネクタイを緩めながら大きく息をついた。

まるで、私のせいだと言わんばかりに。

「柚菜はさ、俺なんか愛してなかったんだよ、最初から」

は?

「なんで?何でそんなこと言うの?」

「俺達は結婚するのが早すぎたんだ」

確かに私と拓也は出逢って三ヶ月で結婚し、しかも私は二十一歳という若さだった。

でもそれは、

『俺の家族は俺がガキの頃からバラバラだった。
だから俺はずっと、早く自分の家族を作りたかったんだ。
柚菜。俺はまだまだ半人前だけど、きっと立派な男になるよ。だから俺と家族になってください』

真っ直ぐに私の眼を見てそう言った拓也を愛していたからだ。

なのになに?今の言葉は。

「……意味が分かんないんだけど。好きじゃないなら結婚なんかしないよ」

私はポツンと呟くように拓也に言った。

拓也はカチャリとダイニングテーブルに鍵とスマホを置いて続けた。

「正直に言うけど……俺、好きな人がいるんだ。会社の女の子で……。彼女は凄くか弱い子で……俺がいないとダメなんだ。
俺達は子供もいないし、柚菜はまだ二十三歳で俺は二十六歳。いまならまだやり直せるだろ?頼むよ。慰謝料ならちゃんと払うから」

バカにしないでよ。

「なにそれ?!彼女は俺がいないとダメ?!
あなたは私と結婚したのよ?!」

ただ、酷いと思った。

私はダイニングテーブルのそばに突っ立ったまま、両の拳を握り締めた。

「私達誓ったよね、神様の前で。病めるときも健やかなる時も」

「ごめん。でも離婚してくれ」

私の言葉を遮り、拓也は深々と頭を下げた。

その姿を見た時、ワナワナと身体が震えだした。

悔しくて悔しくて、私の身体中で何かが駆け巡って暴れ出てきそうだった。

許せない!!

けど、嫌だとか絶対に離婚はしないとか、そんな事は言いたくなかったし、泣いてすがるのも私には出来なかった。

だって、愛してくれない人といたって虚しいだけだもの。

「……分かった。でも絶対に慰謝料はちゃんと貰うから」

悲しみよりも怒りの方が大きかった。

三ヶ月後には、私と拓也はあっさりと離婚が成立していて、お互いの荷物も運び出せていた。

離婚は多くのエネルギーを使い、凄く大変だというのを聞いたことがあるけど、私達には当てはまらなかった。

きっとそれは、私と拓也の間には何もなかったからだと思う。

凄く虚しいけど、嫌なことをするのに体力を使いたくなかったから、簡単に終わったという事に関しては良かったと思おう。

けれど……怒りというか憎しみは、徐々に増していった。

多分、拓也の事が好きだから。

好きだから、拓也が私以外の人に眼を向けたという事実が許せなかったのだ。



◇◇◇◇◇◇◇


「何となく、離婚された理由が分かる?」

悔しくて悲しくて惨めでどうしようもなくて、私は涙に濡れた瞳を上げて白鷺を睨んだ。

「じゃあ、教えてよっ!拓也を凄く愛してるのに、捨てられた理由を教えてよっ!」

私はバシバシと白鷺の胸を殴った。

「教えてよっ!教えてったら!!」

次の瞬間、白鷺が私を抱き締めた。

それから身を屈め、精悍な頬を私の顔に擦り付けた。

訳が分からない。

彼の身体が熱くて、思考がまるでついていかない。

なに?一体これはどういう事?

「離して」

「…………」

「白鷺、離して!白鷺なんか大っ嫌い!!」

「あの店を辞めるなら離してやる」

は?!

住み込みがダメなんじゃなく、あの店で働く事自体がダメの?

せっかく雇ってもらえたのに……。

力が入らない。

脱力感が半端ない。

「……白鷺」

「……ん?」

力なく呼ぶと、以外にも白鷺は優しく返事をした。

白鷺は私に寄せた頬を僅かに離し、至近距離からこちらを見つめている。

「白鷺って、バカなんじゃないの?」

涙声でそう言うと、私は白鷺に身を預けた。

私もバカなのかも知れない。

ことごとく私の前途を阻むこの男に抱きつくなんて。

でも、でも。

分かり合いたいと思ったからかも知れない。

かたい胸に頬を寄せて寄りかかれば、少しは彼を知れるかもって。

「白鷺……私、働かなきゃお金がないんだよ?白鷺に払うお金がないの。私に剣を作る気はないの?だったらもう一度きっぱりと断ってよ……。そしたら私、本当にもう白鷺に作ってもらうのを諦めるから……」

「……俺は……バカかも知れない」

白鷺の声は、どこか悲しそうで静かだった。

目一杯息を吸い込むと白鷺の香りがして、私はゆっくりと眼を閉じた。

疲れてしまって、ただ眠りたかった。
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