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第四幕

過去の過ち

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◇◇◇◇◇◇◇◇

その夜、息苦しさに私は目覚めた。

何故か胸の辺りが重く苦しい。

眼を開けたいのに瞼が重くて、私は無意識に眉を寄せた。

《……ユルセナイ……》

《オレハ……キラレタノカ?》

《イヤヨ、イヤ!アノヒトヲカエシテ!》

《アルコウトシタラ、アシガナクナッテタンダ》

《オノレ、ノロッテヤル》

部屋中で無数の声がする。
 
どの声も大きくはないけど、怒りや深い悲しみに包まれているように震えている。

やだ、なに?!

私はようやく重い瞼を上げた。

なんだか部屋が青白い。

この光なら、前にも……見た。

そう、白鷺一翔から放たれた光と同じだ。

何度か瞬きすると、部屋に何かが漂っているのがわかる。

火の玉……実際に見たことはないけど、 敢えて表現するならそういう感じだった。

どうしよう、こわい。

私は両隣で眠っている白鷺と宗太郎に声をかけようとして、仰向けのまま左右を見た。

右側の宗太郎は、静かな寝息をたてている。

一方左側の白鷺は眠ってはいるものの、その表情は険しい。

「……白鷺、白鷺」

白鷺はまるで気づかない。

私は、白鷺の方に身を乗り出して彼の身体を少し揺らした。

「白……」

その時ヒヤリとして私は思わず息を飲み、硬直した。

白鷺の身体が氷のように冷たい。

それは本当に異様な冷たさで、私は怖くて仕方なかった。

「ナントザンコクナモノヨ」

「アノヒトヲキッタカタナガニクイ」

「オレハホントウニシンダノカ?」

声は相変わらず聞こえる。

青白い光も火の玉も消えることなく部屋を漂い、恐怖のあまり私の鼓動は激しく響いた。

「白鷺、起きて。しっかりして!」

相変わらず白鷺の身体は冷たくて、私の言葉は届かないままだった。

「宗太郎!宗太郎!!」

いくら揺すっても頬を叩いても、宗太郎も全く起きない。

こんなの変だ。

全身からジワリと嫌な汗が出て、背中をツーッと伝った。

その時、

「白鷺は……私のもの」

艶のある静かな声が響いて、私は辺りを見回した。

「……好きよ。白鷺」

いやだ、きっと幽霊だ。

これはみんな、幽霊の声に間違いない。

あまりの恐ろしさにガタガタと身体が震えた。

そ、そうだ。

私は無我夢中で手を合わせた。

私の実家は仏教を信仰している。

結婚するまでは最低でも年に一度、お盆に家族が集まり、お仏壇の前で皆でお経を読むのが恒例行事だった。

全部は覚えていないけど、毎年読んでいた部分は全て暗記している。

私は両の掌が離れないように、必死で合わせた。

恐ろしさのあまり、歯の根が合わずガチガチと音が鳴りそうになるのを一生懸命堪える。

白鷺を守りたい。

白鷺から離れて。

白鷺を苦しめないで。

お願いだから、成仏して。

「……小癪な……!」

一心不乱にお経を唱え続けていたその時、再び女の人の声が聞こえた。

憎々しげな、怒りを含んだ声。

しかも、私の真正面だ。

声の近さに驚き、弾かれたように顔をあげると、目の前に懐剣が見えた。

「きゃあああっ!」

スーッと浮き上がった懐剣が、切っ先をこちらに向けて飛んできて、私は叫びながらその刃を避けた。

直後に左の頬がジリッと熱くなり、反射的に掌をやると、ヌルリとした感覚が指に広がった。

見渡すも、声の主の姿はない。

「やめて……!」 

私は立ち上がると辺りを見回した。

足元の床に懐剣が転がっている。

私は咄嗟にそれを拾い上げて両手に挟んだ。

「……お願いだから白鷺に取り憑かないで」

そう言って再びお経を唱えようとした時、

「無駄だ」

「きゃあああっ!」

誰かに思いきり身体を押され、私は後ろへひっくり返った。ガツンと後頭部に衝撃が走る。

ああ、白鷺……どうか無事でいて。

私はそのままスウッと意識を失った。

◇◇◇◇◇◇◇◇



「柚菜、柚菜!」

パチパチと頬を叩かれる感覚に、私は眉を寄せて恐る恐る眼をあけた。

すぐ前に白鷺がいて、その後ろには宗太郎が見える。

「白鷺」

ああ、白鷺も宗太郎も無事みたいだ。

「白鷺、良かった、無事みたいで」

白鷺は私がそう言うと、

「怪我をしてるのはお前だ」

言うなり私を抱き締めた。

逞しい白鷺の身体が私に密着して、たちまちドキドキと心臓が騒ぎ出す。

「あの、白鷺」

「俺は仁さんに傷薬を分けてもらってくる」

言うなり宗太郎は身を翻して出ていってしまい、後には私を抱き締める白鷺が残った。

ど、どうしよう。

白鷺に抱き締められるのは嬉しいけど……。

てゆーか、私が怪我?

戸惑う私から白鷺は僅かに身を離し、私の左の頬を覗き込んだ。

「痛むか?」

確か……懐剣が左の頬をかすったんだ。

足を投げ出すような体勢で上半身を抱かれ、私は白鷺にもたれたまま首を横に振った。

「私は大丈夫」

白鷺を心配させたくなかった。

袖の中に隠した懐剣の固い感覚に、私は安堵した。

気を失う前、咄嗟に拾っておいてよかった。

だってこの懐剣を見たら、白鷺はきっともっと私を心配するもの。

私は出来るだけ自然に笑った。

「昨日ね、二人が寝てからお皿を洗おうとして転んじゃったんだよね。その時割れたお皿で切っちゃったのかな。夕べはお酒をいっぱい飲んだし」

白鷺は無言で私の左頬を見つめたまま、苦し気な顔をしている。

だから私はそんなに深い傷なのかと、手でソッと頬を触ってみた。

少し腫れているような感触だけれど、傷の長さも深さもハッキリとは分からなかった。

「……嘘をつくな」

低くて辛そうな白鷺の声に、私は再び首を振った。

「嘘じゃないよ」

「俺を誰だと思ってるんだ!」

白鷺の荒々しい声を耳にした瞬間、私はしまったと思った。

白鷺は刀匠なのだ。

腕の良い刀工である彼が、食器で切れた傷か、刀傷かの区別が付かないわけがなかった。

「あの、白鷺……」

取り繕うにも全くうまい言葉が浮かばない。

「何があったか説明し」

説明なんてする気はない。

私は白鷺の言葉を奪った。

彼の唇にキスをして。

身をよじると白鷺の首に腕を絡めて、私は彼の唇を塞いだのだ。

だって説明する気は更々ないの。

それに白鷺にキスがしたかった。

悪いことをしているのは百も承知で、あの女性に申し訳ないと思った。

彼女の存在を知りながら白鷺にキスをしてしまった私は汚い女だ。

ごめん、本当にごめん。

拓也の事を言える立場じゃない。

白鷺。

私、まだあなたが好きなの。

だから、あなたを守りたい。

妖刀になってしまった白鷺一翔を、元の刀に戻したい。

白鷺が作ったのは妖刀なんかじゃないって、早く思わせてあげたい。

白鷺に何か……誰かが取り憑いているのだとしたら、私がそれから守りたい。

だって、死ぬほど好きなんだもの。

私がキスをしている間、白鷺は何故か拒絶しなかった。

それが白鷺の優しさなのか同情心なのかは分からない。

私はゆっくりと顔を離すと白鷺を見つめた。

綺麗な二重の眼。

涼やかな澄んだ瞳。

通った鼻筋に精悍な頬。

こんなに近くにいるのに、私には届かない。

「ごめん、キスして。白鷺には恋人がいるのに本当にごめん」

「柚菜」

私は身を起こして白鷺から離れながらそう言うと、浅く笑った。

「白鷺があまりにも素敵だから我慢できなくて。ごめんなさい。それに頬の傷も大したことない。だからもう気にしないで。説明することは何もないわ。
それから、今晩からは宗太郎の家に泊めてもらうことにするね」

言い終わると私は白鷺に背を向けて土間に降り、外へと出た。

それから空に登りかけた太陽を見上げる。

私に何が出来るか分からない。

でも、負けない。

白鷺が好きだから。

私は砂利道を走って戻ってくる宗太郎を見つけると、笑顔で彼に駆け寄った。

◇◇◇◇◇◇



「刀に宿るのは、斬られた本人やその近親者の怨念でしょう」

私は静かにそう言った若い僧侶……慈慶(じけい)さんを見つめた。

宗太郎に薬を塗ってもらった後、私はお寺を探すために町へと出掛け、道の隅でお経を唱えていた慈慶さんをみつけて声をかけたのだ。

お坊さんなら、そういう事に詳しそうだと思って。

慈慶さんは、ご相談に乗ってくださいませんかと声をかけた私に優しく頷いて、

「話してみてください。すぐ近くに私の寺がありますからどうぞ」

と快く話を聞いてくださったのだ。

私は昨夜起きた現象を、慈慶さんに詳しく話した。

「これがその懐剣です」

着物の袖から懐剣を取り出して見せると、慈慶さんはそれを凝視し、数珠を握り締めた。

「これは……」

「姿は見えませんでしたが、この懐剣が私めがけて飛んできたんです」

「声はきこえたんですよね?」

慈慶さんの問いに私は頷いた。

「でも、誰の声かは分かりません」

「この懐剣の主は、生きています」

私は驚いて慈慶さんを見つめた。

「でも……部屋は青白くて火の玉みたいなものも見えましたけど、女の人なんていませんでした」

そう答えた私に慈慶さんは首を振った。

「柚菜さん、その懐剣の主は生きている女性で、昨夜あなたを襲ったのはその人の生き霊です。この懐剣からは、生き霊の気配が漂っています」

心臓を掴み上げられたような気がして、私は眼を見開くと大きく息を飲んだ。

いきりょうって……。

「生き霊とは、まだこの世にいる人間の強い念が霊となって現れる現象です」

バクバクと心臓が早くなり、冷や水をかけられたように身体中が冷たくなっていく。

生き霊という言葉は幾度となく聞いたことがあった。

でも実際に目の当たりにした事なんてない。

私は声の震えを止めることが出来ないまま、慈慶さんに尋ねた。

「生き霊を祓う事は可能ですか?」

慈慶さんは眉を寄せてホッと息をついた。

「念が強ければ強いほど、難しいでしょう。お話を聞く限り、その生き霊は白鷺さんに激しい愛情を抱いているようだ。白鷺さんに対する遂げることのできない、成就することのない一方的な愛が、身勝手で歪んだ念となり生き霊と化したのだと思います。そういう生き霊は……極めて難しい」

目眩がしてフラリと床に手を付く私に、慈慶さんは心配そうに手を差し伸べた。

「大丈夫ですか?」

「すみません、平気です」

私は相談に乗ってくれた慈慶さんに丁寧にお礼を言うと、深々とお辞儀をしてお寺を後にした。

◇◇◇◇◇◇


「生き霊?!」

その日の夜、すっ頓狂な声を上げてこちらを見る宗太郎に、私は力なく頷いた。

「白鷺の事が死ぬほど好きな女の人の生き霊なんだって」

私がそう言うと、ぐい飲みの酒を飲み干した宗太郎が少し眉を寄せた。

「白鷺は俺の次にイイ男だが、どちらかというと奥手だぜ」

それは……分かってる。

宗太郎はそう言いながら少し笑った。

「ちきしょう、先越されたぜ。俺はお前を狙ってたのに」

私は宗太郎をジロリと睨んだ。

「宗太郎はカッコイイけど、浮気しそうで嫌!」

「なんだよ、ひでぇな!」

私は迷った。

宗太郎に懐剣を見せるべきだろうか。

けどあの懐剣は、明らかに白鷺が作ったものだ。

宗太郎に聞けば持ち主が判明するかも知れない。

けど、それを見せて持ち主が判ると、宗太郎が白鷺に生き霊の存在を隠しておけないかも。

だからといって私の胸に秘めたままでは生き霊の正体を突き止められないかも知れない。

どうしよう、どうしよう。

私が落ち着きなく視線をさ迷わせているのを宗太郎は見逃さず、鋭い声を出した。

「お前、何か隠してないか?」

「…………」

押し黙る私を、宗太郎は少し睨んだ。

「俺だって白鷺を助けたいんだ。アイツは白鷺一翔を妖刀にしてしまった事を悔いてる。だが、アイツの作る刀はどれも業物以上の代物だ。切れ味がよすぎて斬られた人間が気付かないなんて事は多々ある。白鷺一翔は、たまたま運が悪かったんだ」

「宗太郎は、白鷺一翔が妖刀になってしまった経緯を知ってるの?」

宗太郎が苦し気に頷く。

「……話して」

「ああ。だが白鷺には言うな。お前に知られたくないんだ、アイツは」

「……分かってる」

私が頷くのを確認すると、宗太郎は私との間の空間を見つめてポツポツと話し出した。

「今からちょうど十年前、父親が死んで、アイツは白鷺流の十代目を継いだんだ」

……当時十五歳の白鷺が?!

宗太郎は悲しそうに笑った。

「……アイツは天才なんだ。
独自の方法で材料を混ぜ、叩いて鋼を鍛える。
他の刀工にはない、極々僅かな温度を見極める能力、圧倒的な才能。何もかもがどの刀匠よりも秀出ているんだ」

私は一心に宗太郎を見つめた。

「そんなある日、姫路藩主の遠縁を名乗る人物から刀の依頼がきた。それで白鷺流を継いで初めて作ったのが白鷺一翔だ」

宗太郎は続けた。

「白鷺一翔を見た藩主の遠縁の男は、買う前に是非とも試し斬りをしたいといい、牢屋敷から調達した罪人を船場川で斬り殺した」

私はゴクンと喉を鳴らした。

「兜を着せられた罪人は真っ二つにされた事にも気付かずに、斬らないでくれと泣いてたらしい」

宗太郎はのめり込むように空を見据えたまま話し続けた。

「刀を買った男はそれから数年間、罪人相手の人斬りで満足していたらしいが、ある日思い立った。
この白鷺一翔で、腕の立つ相手と勝負してみたいと。
男はある道場へ赴いた。
いわゆる道場破りとして」

話が大きく動いていく予感がして、私は両手を握り締めた。

「最初、道場主は男を相手にしなかったそうだが、男が炊事中の妻の着物を切り裂いた事に立腹し、勝負を受けたらしい」

宗太郎はそこまで言うとホッと息をつき、再び続けた。

「竹刀での勝負であっけなく打ち負かされた男は逆上し、道場内で白鷺一翔を抜き放つと道場主へ斬りかかった。だが再び負けたんだ。道場主が咄嗟に抜いた脇差しが白鷺一翔を跳ね上げ、あまりの勢いに跳ねた白鷺一翔が男の首に刺さってな。その男には元々、剣の腕などなかったんだ。道場主へ戦いを挑んで勝てるわけがない」

「じゃあ、白鷺一翔は……」

宗太郎は頷いた。

「多分今までに斬り殺してきた罪人達の怨念が白鷺一翔に宿り、男の死を手伝ったんだろうよ。道場主の話では、男は首に刺さった白鷺一翔を見つめて何やら呟いていたそうだ」

……何を呟いていたのだろう。

怖い。

「その剣術道場は、まだあるの?」

私の問いに宗太郎は首を振った。

「昔から愚行が目立ち、評判の悪い男らしかったが、男が藩主の遠縁だというのは満更嘘じゃなかったらしい。姫路藩の審議の元、道場主の一家には、形だけだが播磨払いという沙汰が下ったらしい。だから今現在、何処に居るかは不明なんだ」

その男のせいで、道場が潰されてしまったなんて……。

「愛刀一心流、道場主の名は藤堂宗光というらしい」

愛刀一心流……藤堂宗光……。

私はその名を胸に刻み付けて、宗太郎を見つめた。

「……その後、白鷺一翔はどうなったの?」

宗太郎は僅かに眼を細めると、空を見据えて口を開いた。

「男は藩主の遠縁と言えど付き合いなど皆無で、近親者はなかったらしい。亡骸は寺の無縁墓地に埋葬されて、形見となった白鷺一翔を譲り受けたいと願い出る者もいなかった。それで藤堂宗光が返しに来たんだ、白鷺のところに」

「そうだったの……」

「ああ。藤堂宗光はたいそう驚いてたよ。目の前の西山白鷺はまだ二十歳だ。
その上、十五の時に白鷺一翔を世に生み出したと知ってな」

そりゃ驚くだろう。

ああ、やっぱり白鷺は凄い刀匠なのだ。

宗太郎は酒を傾けた後、私を見つめた。

「事実を知った白鷺がどういう行動をとったと思う?」

私は首を横に振った。

それを見た宗太郎は静かに続けた。

「アイツは、男が払った白鷺一翔の代金の数十倍を藤堂宗光に渡そうとしたんだ。作ったばかりの道場を潰さなければならなくなった責任の一端は、白鷺一翔をあの男に売った自分にもあると思ったんだろうな。だが藤堂宗光はその金を受け取らなかった。代わりに白鷺に願いを残したんだ」

そこで一度言葉を切ると、宗太郎はゆっくりとした低い声で言った。

「『これからも素晴らしい刀を生み出して欲しい』と。『人を守るための刀を作っていって欲しい』とな」
 
私は藤堂宗光という人物の無念と、素晴らしい人柄にギュッと胸の軋む思いがした。

それから白鷺の胸の内を思うと切なくて、今すぐにでも会いに行きたい衝動に駆られた。

それを必死で抑えながら、私はしっかりとした口調で言った。

「私、白鷺を守るわ。生き霊なんかに負けない。それに白鷺一翔をこのまま妖刀なんかにしておかない」

宗太郎は、私を眩しそうに見た。

「お前、ほんとに白鷺が好きなんだな」

片想いだけどな!

私は頷いて笑った。

「宗太郎、私、負けないわ。でも、白鷺には何も言わないで」

宗太郎が切なそうに笑った。

「困ったやつだな、お前は!」

けれど彼の顔は優しくて、私たちは暫くの間微笑み合っていた。
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