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40話

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だが、張飛が劉備と結託しているとなると、この先何かと邪魔になりそうだ。曹操の目の前にいる張飛の巨体も、その豪腕も恐ろしいものだが、それ以上に劉備の方が恐ろしく感じた。
単純な力比べでも張飛より強い事は間違い無いと思われるが、劉備の場合は人徳や義理人情といった精神的な面が大きい。しかもただ単に情に厚いと言うだけでなく、劉備自身かなりの智者だ。おそらく呂布と同じく、自らの利の為に戦うのではなく民の為、天下泰平の世を目指すために戦っている。
張飛の感情的な行動も問題なのだが、あの気性の激しい張飛ですら懐柔してしまう劉備こそが、最大にして最強の敵となるかもしれないと思うと曹操は憂鬱になった。
張飛が去った後、曹操はしばらく身動き出来ずにいた。
劉備の言葉が頭から離れない。「お前ごとき小物が相手出来るほど、兄者は軽くはないぞ!」
あれは挑発だ。
そう分かっているのだが、そう簡単に忘れられる言葉ではなかった。
これまで数々の逆境を乗り越えてきた曹操ではあるが、ここまで強烈な一撃を食らうのは初めてと言っていい。
呂布ほどの武勲を上げた男であれば、あるいはそれも仕方のない事かもしれない。曹操は自分に言い聞かせるが、どうも胸の奥につっかえたものがある。
呂布奉先は漢の宿命を背負って立つ大器である、と言うのが曹操の自負でもあった。呂布の事を英雄として持ち上げる者達もいるが、曹操はむしろその正反対で呂布を凡才と考えている。
ただでさえ強力な騎馬民族を、数倍の数の人間で迎え撃ってなお敗北しなかった武勇。さらには漢の大将軍の位を与えながら、漢王朝にとって最も危険な存在となりうる事を危惧して殺害を目論んだ皇帝劉弁。そしてその陰謀を知った呂布が皇宮へと単身で乗り込み、刺客数十人を斬り捨てながら帝を救出。そのまま逃げずに戦い続け、最後は都の城壁を打ち破らんばかりの勢いだったにも関わらず、呂布は漢のために死ぬ道を選んだ。
漢の滅亡を回避すべく、呂布は一兵も無駄に殺さずに降伏し、また自ら処刑される事を受け入れた。
そんな非常識な人物が呂布以外にいるだろうか? 曹操には呂布はあまりにも異常に見えた。
しかしそれでも、曹操が知る限り最強の一角であり、この乱世を終結させる最後の切り札にもなるであろう武将であったはずだ。
それが今では徐州太守であり、妻子を人質同然に取られるような立場に追いやられているとは……! 呂布がどれほどの猛将であるか、曹操はよく知っている。
曹操自身が何度も危機を脱してこれたのは、ほとんど呂布の助力によるところが大きく、だからこそ曹操には呂布を過小評価出来ない理由があった。
呂布は曹操の危機を知り、幾度となく助けてくれていた。それが今回は劉備によって窮地に立たされているという。
劉備とて決して無能ではないはずなのに、その劉備と呂布を引き離す策に呂布は嵌まってしまったらしい。
何より厄介なのは、その策を仕掛けているのが曹操ではなく劉備であるという事実である。劉備とはそれほどまでに底知れぬ人物であり、それを率いる人物だという事になるのだから恐ろしい。
確かに今の状況は、かつて張飛が行った行為によりもたらされたものだと言える。呂布も家族を人質に取られていては戦えないという判断から、こうして呂布の妻達が捕らわれている場所を突き止めてくれたのである。呂布の妻達を救出した後なら、いくらでも攻め込む事は出来ただろう。いや、実際に呂布軍は劉備軍を殲滅せんと動いてもいたのだ。それを止めたのは呂布の妻達と子供達であり、呂布はその妻達を助けるため、あるいは妻達を守るためならば何でもすると言っていた。呂布の言う事に偽りは無く、妻達と家族を守るために劉備と敵対する事になったとしても、呂布はそれを厭わないだろう。
それくらい呂布は妻達を大切に思っている事が伝わってくる。
だが、妻達や家族を守るだけを理由に、これほど強大な勢力と戦えるとは思えない。
呂布は妻達を守りたいと思っているだろうが、呂布はそれで良いのかと言う思いがある。もし妻達に危険が及ぶ前に曹操軍と戦う事で決着がつくのであれば、それは劉備とて望む所ではあるだろう。呂布とて妻を危険に晒すような行動は出来ないのだし、そうなれば劉備軍にとっても好都合のはずである。
だが、曹操軍が今のまま動くだけでは劉備に出し抜かれてしまうのではないか。劉備と呂布が共に戦う事態になるのは非常に困るのだが、曹操軍が劉備軍に攻めかかるより先に劉備が動いたとしたら、曹操が呂布軍と合流する前に劉備が呂布軍を攻め潰す事も考えられる。
劉備と呂布、二人を分断した上で二人を争わせようとしたのが曹操の狙いなのだが、ここで劉備が呂布軍を壊滅させるために直接軍を動かしてきた場合、逆に曹操が追い詰められる事になりかねない。
曹操は呂布を過大評価する傾向がある事を自覚しているが、その反面呂布の事を冷静に観察している部分もある。
おそらく呂布自身もその事を良く分かっていて、曹操に対する挑発や見下した様な態度を取っても、本気で殺しに来ないと読んでいたのだと思う。その通りで、今までもそうやって挑発されて来たのだが、今回だけは呂布の読みが外れてしまった。
この好機を逃さず、曹操も呂布軍と合流せねばならない。
ただ、現状を考えてみても呂布軍に合流してすぐに動けるかと言うと難しいところもある。
まずは何と言っても呂布の家族を安全に保護する事が優先される。そうでなければ全軍を預けてもらう事は難しくなるし、仮に呂布が許してくれたところで呂布軍の他の者が黙っていないはずだ。
しかし、その点は劉備とて同じ事だ。劉備もまた呂布の家族の保護を最優先に考えるはずで、その場合どう出るか読めない。
曹操はそう考えた時、自分の中に引っかかっていたものに気付いた。
呂布の弱さ。
そう言えば、今回の戦は呂布の個人的な武勲を上げるためのもので、呂布自身は戦場に出る事は無かった。呂布の名声を妬む者や、侮る者は多い。そこで敢えて弱い姿を見せつける事により、呂布の武勇を認めざるを得ない状況を作り出し、結果として自身の評判を落とす事なく名声を得た。
曹操もそこに気付いていない訳ではなかったが、そこまで深く考えているとも思ってはいなかった。むしろ単純な戦略だと思っていたが、実は曹操でさえ考え付かない策略だった。
そして、この事実に気付かなかった事こそが最大の失態であった。
「呂布将軍」
曹操は呂布の元を訪れた。
妻の事ばかり考えていた呂布は突然の訪問にも嫌な顔をせず、快く迎え入れてくれた。
その呂布の対応を見るだけでも、普段の呂布がどれだけ奥方一家を大事にしているかが分かる。それだけで、曹操にとっては呂布が警戒すべき対象であるかどうか、判別出来る材料になった。
もしもここで呂布が劉備との仲を見せ付けようと妻達を引き合いに出したり、あるいは劉備の妻の安否など尋ねてきたりした場合には、呂布に対して大きな疑いを持っただろう。劉備と結託して、呂布の足を引っ張りに来る可能性まで考慮しなければならなかった。
しかし、そんな事はおくびにも出さずに、曹操は呂布と話を進める。曹操が訪ねて来るのが意外だと呂布は言ったが、呂布からすれば曹操の人望や能力を考えれば不思議でもないと言う。
呂布は曹操の事を高く評価しているらしく、妻達の件でも曹操の迅速果断を褒めていた。
もし呂布が曹操の能力を高く評価するような発言をしていたのなら、曹操はこの時点で用心しなければならないと思ったかもしれない。
しかし、実際は逆であった。
これは、もう間違い無い。
曹操が思った以上に劉備は油断ならない人物である。
もし自分が呂布を利用しようと考えるように、劉備も曹操を利用して何かを画策しているのだとすれば、その目論みはかなり早い段階で曹操にはバレている。
それを承知の上で、劉備は曹操を泳がせている可能性が高い。
曹操の目を欺き、劉備は曹操の喉元に刃を突き立てようとしている。それも確実に、一手も二手も先に、だ。
今頃劉備はその事に気が付き、慌てて対策を立てているだろう。
呂布の妻達を保護する事は、その一歩になるはずだ。
問題は、それをいかに上手く実行するかである。
曹操は呂布と共に軍議を行う。その時に必ず、劉備の妻達がどこに閉じ込められていて、どのような状態でいるのか説明させる。もちろんそれをそのまま信じるわけにはいかないのだが、それでも確認しておく必要があった。
軍議は軍師に任せ、曹操は呂布の側に居る事にする。
曹操の陣営で戦える者はそう多くないので、劉備軍と戦う時には必ず呂布軍にも参加してもらう事になる。
だが、その時になって曹操は大きな問題に直面した。
関羽は曹操と旧知の間柄だが、張飛と諸葛亮はそうではない。
曹操が呂布軍に参加すると知った劉備軍から寝返りを打診される事があり、その都度劉備と相談する事になった。
劉備は何度も呂布の元に訪れて曹操の参加を説得しようとしていたが、呂布としては妻や家族の安全を考えると曹操の申し出を受ける事は出来ない。
しかし、劉備軍の中には曹操を危険視している者もおり、劉備はそういった人物を説得するのを諦めていなかったらしい。
呂布軍の面々の前でも何度か話し合いが行われ、最終的には呂布軍の中で一番強い武将が曹操と一騎討ちを行い、それに勝つ事が出来たら曹操の身柄を拘束し、その配下として戦うという事になった。
それでは呂布が不利ではないかと思うところだったが、そう簡単には行かないようで、その点に関しては関羽や張飛も賛成したと言う。
その勝負をする為だけに呼ばれた呂布は当然拒否しようとしたが、関羽に宥められ、さらには曹操に諭されて承諾する事となった。
そしてその当日、現れたのは趙雲であった。
これにはさすがの曹操も驚かされた。
この日の事を劉備から知らされていたとは言え、趙雲ほどの勇将であれば呂布軍にいてもおかしくないと思っていたのだが、まさか趙雲がここに呼ばれるとは思ってもいなかった。
趙雲は武勇に優れ智謀も持ち合わせているが、それ以上に誠実さと高潔さを持っている。曹操や袁紹の悪口を言いふらすような事をしなかった事からも分かるように、劉備に対して忠誠心も持っているので、劉備軍が劉備を裏切る事はまず考えられない。
そんな人物がわざわざ呂布と闘うためにここまで来たというのは、予想外にも程がある。
劉備としてもそのつもりだったらしく、曹操は内心で舌打ちしていた。
劉備を信用し過ぎるのは危険だと思いつつも、劉備は人望で曹操に勝っている。
呂布との戦いで趙雲が負けた場合、おそらく呂布軍は全軍をもって攻め込んでくるだろう。そうなった時、曹操は負けるとは思わないものの、勝利を得る事も難しいはず。
つまり、今回の一件は全てが劉備の手の内であり、曹操はこの掌の上を転がされていただけなのだ。
呂布が言う通り、本当に呂布の家族が安全な場所に監禁されているのなら、こんな小細工は必要無かったはずだ。しかし、実際には呂布の妻達は厳重に監視され、場合によっては人質に使われる可能性もあったと言う。そして、それを呂布に知らせてしまうと、呂布はきっと劉備との約束を無視して妻子を助けようとするはず。それを見越して、曹操が妻達を誘拐しても不審に思われないように呂布の家族の居場所を突き止めてからの今回の動きだと思われる。
その周到な準備と、いざと言う時の行動力の高さに曹操は劉備の恐ろしさを感じざるを得ない。
この場での戦いの勝敗よりも呂布とその家族の身を案じた曹操は、自分の命と引き換えにでも劉備との全面対決を避けるべく立ち回ろうとした。
が、それを呂布が制する。
呂布にとって劉備との付き合いは長く、共に戦い苦楽を共にしてきた仲間でもある。だからと言って、今この場においてその感情は捨てるべきである。呂布の武勇を頼みにして、このまま呂布を亡き者にしようとしているのだ。それは同時に劉備との関係を終わらせる事になり、それによって呂布の名声にも傷がつく。天下を狙う者であれば、そんな個人的な感慨や私情を捨てて劉備を打倒すべきと言う。
また、妻や娘を人質に取られた程度で降伏するなど、漢の武将としては許される事ではない。そんな甘い考えの人間を曹操は決して信頼しないだろうと、呂布は断言する。
「いや、でも……」
と言いかけた曹操の胸ぐらを掴んで呂布は引き寄せる。
その時、初めて呂布は本気で怒っていた。
怒りの表情を見せる事はこれまでにもあったが、今の呂布の怒りには尋常ではない迫力があった。呂布は妻達の無事が確認されるまでは曹操を見逃すつもりはなく、ここで決着をつけなければならないと思っている。
もし劉備が呂布を討つのならばそれも良しとさえ思っていた。
だがそうならないように、曹操は今こそ自分を犠牲にしようと覚悟を決めていたのに、呂布はそれを踏みにじろうとする。しかも曹操には何の罪もない。曹操の妻と子供達がどこにいるのか知らない以上、呂布には知る術がないのである。それを曹操に問い質そうとすれば、それだけ劉備は曹操の弱みを知る事が出来るだろう。
今曹操と呂布の命運を分けているのは、まさにそこにある。
もし曹操の言葉に嘘があれば呂布は一瞬たりとも躊躇う事はないだろうし、その逆もまた然りである。
呂布が手を離すと、曹操は大きく息をつく。
関羽と張飛も何か言いたいところだっただろうが、二人も黙って見ているしかなかった。
関羽や張飛も呂布の妻達に面識があり、関羽に至ってはその世話までしていた。張飛の妻も同じように呂布の妻の面倒を見ていたので、二人は特に強く劉備を恨んでいるようだ。
一騎討ちの結果、趙雲の勝利によって幕を閉じる。
呂布としては不本意ではあったが、曹操を討てなかった事の方が呂布にとっては大きな問題となっていた。
だが、この結果で呂布軍への参加も決まったので一先ずよしとしておかなければ。
軍議が終わると、曹操は呂布の元にやって来る。
関羽と張飛は劉備を睨んでいたが、呂布は二人を制して曹操を出迎え、他の者も静かに曹操を迎える。
本来であれば呂布の妻達を救出する為、関羽達が率先して曹操の元に馳せ参じる場面だが、今は呂布が関羽達を諌めていると言う形になっている。
その辺り、曹操は抜け目が無いと言える。
曹操は勝ち誇った笑みを浮かべて呂布の前に立っている。その表情からは、呂布を討ち取って手柄を得たという余裕すら感じられた。
確かにそう思うのは無理も無いところだろう。
曹操から見れば自分は所詮呂布軍の一軍の長であり、対して関羽と張飛は関羽軍と張飛軍合わせて二万近い大軍を率いてきた大将軍である。
呂布もかつては五千の兵を率いていたが、その頃と比べれば遥かに大きくなった。呂布はただ呂布なりの努力をしただけであり、それを天が見てくれ、結果として今の状況になっただけだ。
だから曹操が勘違いしても仕方ないのだが、それを差し引いてもこの状況で曹操の態度はあまりにも傲慢過ぎた。
その証拠がこの後、曹操自身が見せてくれる事になる。
「見事でしたよ」
と、曹操は呂布に向かって言う。
その瞬間、呂布は思わず曹操を殴ってしまいそうになったが、拳を振り上げるだけで何とか堪えた。
「おや、どうしました? 褒められて嬉しくないのですか?」
呂布の気持ちを見透かしているように、曹操は微笑む。
もちろん、この程度では曹操はビクともしないだろう。
この程度の挑発で怒りに任せるようなら呂布は今の地位にはいない。それでもこの男を相手にするのは我慢の限界と言うものがある。この男がその気になればいつでもこの国を奪う事が出来たはずだ。
そんな男の事を信用する事など出来るはずもなく、この場で斬り捨ててしまいたかった。
それを出来ないと言う事は分かっていて、曹操はこの状況を楽しんでいるのだと言う事も分かっているが許せない。
もし、妻達を人質に取られていなくても、あるいは妻達を救出したとしても、この曹操とは絶対に仲良くなれないと確信した。
曹操は自分の才能に絶対の自信を持ち、他者に対する優越感を持って接してくる人物だと分かる。そんな人間が相手ではどんなに取り繕っても無駄だろう。
しかし、今それをやってしまえば曹操は本当に妻の身を人質に取ってしまうかもしれないと思い、なんとか自制する。
「呂布将軍。私の誘いを受けてもらえますね?」
曹操は呂布の反応を楽しむように言葉を投げかける。
おそらく、その言葉の裏には呂布を配下に加え、その力でこの国の王になる、というような内容が隠されているのだろう。
だが、それは今の曹操の言葉の使い方と大差なく、そんな言葉で誤魔化せるのなら最初から呂布を誘ったりはしないはずである。
つまり、曹操にはそれが本心であっても、曹操にはそれを実現する力は無いと言う事だ。
だから、そんな曹操の言葉には意味は無く、曹操の実力を呂布が認めようと認めるまいと曹操の野心は達成される事はない。少なくとも、呂布はそう思っていた。
もし呂布がその言葉を聞いていたとしたら、迷わず曹操を殺していただろう。それは曹操に対してだけでなく、劉備に対してもそうであった。
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