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第一章 藤林疾風『戦国の伊賀に登場』

第2話 父の名は伊賀忍者『藤林長門守』

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弘治3(1557)年3月 伊賀藤林館 藤林疾風


 那智の滝にいたハヤテは『ゴー』という風の音に包まれ、気がつくと記憶にはない屋敷の一室にいた。

「は'や'て'、疾風ハヤテなのっ?」

 懐かしい母さんの声だ。思わず涙が出て、かすれた声で返事をする。

「母さん、かあさん。俺だよっ疾風だよ。」

「まあ、疾風。修行を終えて帰ったのね。」

 部屋の襖を開けて、母さんが入ってきた。その顔を見て俺は思わず抱きついていた。

「まあ、その不思議な格好はどうしたの。
 それに泣いたりして、そんなに修行が辛かったの。
 あなたはもう、15才にもなって甘えん坊なのね。うふふっ。」

「母さん、父さんはいる。いたら二人に話さなきゃいけないことがあるんだ。」

「もうこの子ったら。父さんじゃなく父上と言いなさい。いつまでも甘えん坊はだめよ。
 それに、そんな格好で会うつもり?」

「うん、この格好でいい。見せたいものも
あるし、この部屋に来てもらえないかな。」

「いいわ。疾風が修行から帰ったと、呼んで来るわ、館の中にいると思うから。」

 そう言って、部屋を出て行った母さんは、しばらくすると父さんを連れて部屋に入ってきた。

「おおっ、疾風っ。無事に帰ったのだな。」

 父さんはそう言って笑顔で迎えてくれた。

「父上、只今帰りました。帰って早々ですが、父上と母上に大切な話があります。」

「なんじゃ、畏まって。言うてみい。」

「 信じられないような話だけど、俺は熊野の修行中に、未来で暮らす夢を見たんだ。」

「はあ?(ええっ)なんじゃと。」

 それから俺は、460年後の未来に生まれて22年間生きたこと。そして、未来で父と母が事故で亡くなり、ご先祖様の祠の前で泣いていると、曽祖父の爺ちゃんの声が聞こえ、ご先祖様の善行のご利益で、俺の両親に会いたいという願いを叶えて貰い、ここへ来れたことなどを話した。
 持って来た未来の荷物を見せて、半信半疑だった両親もなんとか信じてくれた。

 そして、俺が藤林正保の一人息子『疾風ハヤテ』であること、母上の名がしおりであることを知った。

「そうか、親孝行がしたいとのう。儂らもその時代に生きた訳じゃな。なんにせよ、疾風は疾風じゃ、儂らの子に違いあるまい。」

「ええ、もちろんよ。この手で赤ん坊から育ててきたの。間違えるはずがないわ。」

「父上、母上。どうか長生きしてください。
そして、俺に親孝行をさせてください。」

「ふふ(うふ)儂らは良い息子を持った。」

 こうして、俺は戦国時代の伊賀の国に生きることになった。


 さて俺には、守役が二人いて、伊賀崎道順と城戸弥左衛門という。
 伊賀崎道順は、出身地から、通称は楯岡の道順という。城戸弥左衛門は、音羽の城戸きどという。どちらも中忍で、父上の重臣だ。


 それで俺の熊野の山中での修行には、楯岡の道順が付き添っていたのだが、聞くところによると、修行の最後に那智大社にお詣りしていたはずの俺が急に居なくなり、『先に館に帰るから、道順はあとから帰って来い。』そう声が聞こえたとのこと。 
 多分、消えたその日に館に現れたらしい。
 道順は俺が消えた後、大慌てで付近を捜し回り、見つからないので慌てて帰還したとのことだ。

 道順は、俺の顔を見ると怒りもしないで、俺の無事に涙を流して、安堵してくれた。
 道順には、あの時に神通力を授かったので試してみたくなり詳しく話さず申し訳なかったと謝った。
 一緒に聞いていた父上も城戸も、その日のうちに我が家に帰り着いたと聞いて、驚愕していた。


 城戸が帰って来た日の夜に、父上と道順、城戸と俺の4人で話した。
 俺が460年先の未来から帰って来たこと。

 今が、弘治3(1557)年で、来年2月には正親町おおぎまち天皇が即位して、『永禄』と改元されること。

 永禄3(1560)年5月には、桶狭間の戦いで織田信長が勝利し、今川義元が討ち取られること。
 その次年の8月中頃に、近江の野良田での戦で、浅井長政が六角家に勝利すること。

 天正7(1579)年9月に、織田信雄によって伊賀への討伐が行なわれるが、この時は織田の軍勢が8千程で、なんとか退けることができたこと。

 天正9(1581)年9月に、再び伊賀への討伐が行なわれ、織田信長が10万とも言われる軍勢で侵攻し、伊賀は敗北して伊賀の民が多勢亡くなり、国として滅亡すること。
 
など、伊賀に関係のあることを話した。


 そんな未来知識から、伊賀の討伐までは、周囲勢力の勝ち組に付くようにすること。
 伊賀の討伐までに、伊賀甲賀の各家を従えるか確かな同盟を結ぶようにして、できれば織田信長に敵対しないようにすることなどを進言した。



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 父上達に未来知識からいろいろ話した翌日から、俺は領内を見て回ることにしていた。

 朝早く起きると井戸の水で顔を洗い、柔軟体操をして、木刀を持って型稽古をする。 
 剣道は小学生の頃からやっていたし、藤林疾風としても幼い頃から鍛錬をしている。
 この時代の鍛錬した自分に未来の剣道技が加わり、居合いも免許皆伝であることから、生半可な相手には負けない自信がある。

 半刻も鍛錬した後、朝餉の食事となる。
 この時代一日の食事は朝晩の二食だ。朝餉の食事も麦と米が半々の麦飯に、たくあんが二切れ、そして野草入りの味噌汁。
 質素で栄養不足間違いなしの食事だ。
早いうちになんとかしなければならないな。
 

 朝餉を終えるのを見計らって、城戸(音羽の)が二人の若者を連れて現れた。

「若っ領内を見廻られるとか。儂が護衛では大げさでしょうから、若いのを連れて参りましたぞ。若に挨拶致せっ。」

「はっ、名張の(霧隠れ)才蔵と申します。」

「若っ、お久しゅう。(猿飛)佐助です。」

「なんだ、佐助も一人前になったのか。才蔵よろしくな。それでは出掛けるとするか。」

「「はっ。」」


 藤林家の領地は伊賀北部の湯舟郷にあり、狭い山間の土地に田畑が点在している。
 山陰の土地が多いためか水不足のせいか、どこも米も麦も育ちが良くない。
 川近くの畑で土起しをしている男に声を掛けた。

「この場所の畑の実りは、どうなんだ。」

「これは御曹司様。ここは川近くにあるっちゃあるんでやすが、川より高いもんで日照りにゃ弱いんでやすよ。川から桶で水を撒くにしても、限りがありますもんで。」

「そうかそれで田ではなく畑か。もっと上流から水路を引けば、水田にできるな。」

 その後、上流を見て回り幾つか川面に近い土地を見つけて地図に落とした。
 次の日は、鍛冶職人を訪れ幾つか農具作りを依頼した。未来から持ち込んだスコップにツルハシと、それに三叉の鍬。
 数が多いので他の伊賀の職人と合同で作るそうだ。

 次は木工職人を訪れて、足踏水車の製作を依頼した。
 水車を幾つか組合せて水を汲み上げるものだが、見たこともないものを作るのは難しいと言われ、仕方ないので小型の模型をその場で作る破目になり、一日掛かりの仕事になってしまった。

「へぇ若っ。器用なもんすね、それに随分と道具を揃えたもんですね。職人も顔負けじゃないですか。」

「佐助、無駄口叩かずにそっちを押さえてろ。」

「御曹司様、この鋸と鉋、あっしにも貸して貰えませんかね。すげぇ切れ味ですもん。」

「いいぞ、そのうち鍛冶師に作らせるさ。」

 水車の歯車は11枚と7枚の組合せにだ。
 どうして同じ枚数にしないのかと聞かれたが、同じ数だと同じ歯車ばかりが噛み合い、弱いところが傷むのが早いと教えたが、理解できないようだった。
 互いに素となる数など、面倒で教えなかったが。


 まず、藤林家の領地の農作物の収穫量を上げて、実績を示さないとな。
 籾の塩水選と苗で植える正条植え、あとは石灰や人糞の肥料、鯉の稚魚の放流、農具の普及だな。
 よし、秋に向けて、頑張るぞ。



【 当時の伊賀の石高は10万石程。兵士の数は1万石で250人と言われ、2,500人程になるのですが、天正9(1581)年の第二次天正伊賀の乱の時の伊賀の兵力が9,000人程と見られていますから、たとえその半数が女子と老人だとしても働き手の男は4,500人。 
 石高に見合う倍の人口であれば、忍び働きという出稼ぎをしないと暮らせない訳です。
 
ちなみに、天正伊賀の乱での伊賀の被害は、非戦闘員を含め延べ9,000人にも及ぶと言われています。】


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