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第二章 伊賀忍者 藤林疾風 戦国を行く

第一話 諸国行脚『尾張津島への旅』

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永禄3年 (1560年)4月中旬 伊賀藤林砦 
藤林疾風


 遅咲きの桜も散り、春の陽気が伊賀の地に溢れている。
 俺は、伊勢から帰郷しての1ヶ月半、家族達に囲まれながら、時々職人達に新たな製作を依頼したり農作の指導をしたりと、のどかな休養の日々を過ごしていたが、次の行動を起こすことにした。


 昼餉に新作の伊麺スパゲッティ衣揚げ肉ミートカツを振る舞ったあとで、父上に告げた。

「父上母上。これから半年ばかり旅に出て参ります。
 織田信長や浅井長政を始め、主な有力大名達がどういう人物か、自分の目で確かめて来たいのです。」

「 · · そうか。こちらのことは任せるがよい。
 今のところ、紀州の畠山家や根来寺、雑賀衆とは、商売を通してよしみを通じておる。
早々にいくさには、なるまい。」

「疾風(はぁっ)、母が行かないでと頼んでも、聞いてくれないのでしょう。
 約束して頂戴、決して死なないで無事に帰って来るのですよっ。」

「  危険なことは極力致しません。才蔵と佐助が護ってくれると思います。」

「そうですね。才蔵、佐助、頼みますよっ。」

「「 お方様っ、お任せくださいっ。」」


 なんとか両親の許可を得た俺は、さっそく尾張へは、伊勢の商人『伊勢屋七兵衛』の商船で、商売を兼ねて行くことにした。
 伊勢へ出て、伊勢屋の安宅船あたけぶねで、伊勢湾を渡り津島ヘ行く。
 俺の供は才蔵と佐助の外、織田との繋ぎを持っている服部半蔵の嫡男『服部正成』と、その一党が従うことになった。
 史実では、5月19日に『桶狭間の戦い』が起きる。
 信長に会えるかどうかは未知数だが、できれば、言葉を交わしてみたい。



 4月21日の朝に伊賀を出る。旅装は小袖を着た商人の出で立ちで、忍び装束は背中に背負った、行李こうりに入っている。
 3日後、伊勢湊の『伊勢屋七兵衛』の屋敷に着いた。

「七兵衛。伊勢湊の町は大層な活気だな。伊勢屋も儲けておるのか。」

「あははっ、疾風様がそれを申されますか。  
 関所を廃し寺社の利権である座を駆逐して荷馬車が通れる街道と、舟の水運も整備されて商人達に大層な便宜を図られたのは、他ならぬ御曹司様では、ございませぬか。
 おかげで、伊勢の商人は内陸の者達も、京、難波はもとより東は関東の津々浦々まで伊賀伊勢の産物を売り捲くっておりますぞっ。
 加えて、領民達も新たな作物の作付けが驚くほどに増えて、秋の収穫を楽しみにしております。
 なにせ、農民が石鹸や豆腐、味噌など商の品を作って売れるようになり、街道や河川の賦役の収入で潤い、笑顔が溢れておりますぞっ。」

「そうか、それは重畳。時に他国での伊賀や伊勢の評判はどうか。」

「はい、北畠家が滅んだことは、大層な驚きと受け止められておりますが、伊勢が見違えるほど豊かに変わりつつあることに、領主藤林家の治世が素晴らしいものと、評判でございます。」

「それは大方、お前達商人が広めた評判であろう。あまり派手に言うなよ。欲に長けて、他国が攻めて来るからな。」

「大丈夫でございます。伊賀の麒麟児である疾風様の武威も恐ろしく強いと、轟いております故に。」

 困ったものだ目立ち過ぎるのは避けたい。
争いする者達から、同盟など求められても、なんの得もない。
 俺は伊賀を戦乱の地にはしたくないのだ。

 

 伊勢の港を出て、途中桑名の港に寄った。
 桑名は、一応伊賀に臣従したが商家の勢力が強く、堺と同じで町の自治を許している。
 伊勢湾の奥にある湊町には多くの船が出入りし、商家が軒を連ねて活気に満ちている。

「伊勢屋はん、お久しぶりでんな。来られるのを楽しみに待っとりましたんで。」

「これは湊屋さん。ご無沙汰しております。
 相変わらず桑名は賑わっておりますな。」

「なんの、これも伊勢からの品々が、勢いを付けてくれてるおかげですさかいに。
 おや、そちらにおられる御仁は、伊勢屋さんに関わりのあるお方でございますかな?」

「伊賀の商家の御仁で、尾張までご案内するところです。」

「これはこれは。桑名の湊屋でございます。
 伊賀といえば、藤林の若殿がえらいできたお方と聞いとりますが、どのような御仁で、ございますかな?」

「伊賀名張の八兵衛です。武具の商いの伝手を求めて、津島まで参るところです。
 藤林の若殿は、お見かけしたことはございますが、普通の若者でございましたよ。」

「私にはとても普通な方とは思えませんな。
 あんな便利な農具を、しかも稀少な鉄でお作りになるとは。普通のお方ではできんこと。余程の変人か、物好きなお方ですがな。」
 
 横で聞いている才蔵と佐助が、吹き出しそうにしている。主が変人と言われてるのに、笑うとは不謹慎なやつらだ。罰として今夜の夕餉のおかずを一品ずつ取り上げてやろう。


 桑名を出て、夕刻前には、津島に着いた。
 港には、織田家の役人がいて、荷検にあらためが行われた。俺達の行李こうりも検もあらためられたが、巧妙な二重底になっているので、忍び装束は見つからずに済んだ。

 役人に、信長様に献上したい品があると話すと、清須の城に出向くように言われた。
 取次ぎをしておいてくれるそうだ。





【 戦国の行商人 】

 戦国時代には、長距離を商うの行商人が、富山・京・大阪・滋賀から中国・中部・北陸までも及んでいたという。
 関所で領民の移動が制限される戦国時代にあって、通行には許可が必要だったが行商人が運ぶ荷は各国にない生活必需品や軍事利用できる品であるために、行商人の移動が許されたのだ。  
 行商人が運ぶ荷には、薬や織物・紐などがあり、薬は修験道者が山などで独自に調合した薬であった。
 綿織物や綿紐などが生産地は、忍びと言われる人々が住む地域で、行商で各国の情勢を探り資金を得ていた。
 忍びは密教の修験道者から派生した者達も多く、行商だけでなく鉱脈や温泉などの自然資産発見も担っていた。

 今回の俺は行商ではなく卸売りなので、地元の御用商人や大店を訪問する仲買人だ。

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