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第四章 伊賀忍者 藤林疾風 戦国に救う者

第八話 平井加賀守一族の大脱走

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永禄9(1566)年2月下旬 近江国平居城 
平井(藤林)疾風


 平井家の居城である平居城は淡海の海から10km程離れた東南にある南近江平居(平井)にあった。
 家臣は、郎党や足軽を含め150人ばかり。
その家族や農民を合わせると、領民は700人余にもなる。
 その他に、平井家に従う土豪などもおり、平井一族の総勢はおよそ1,200人にもなる。
 その家臣一同と土豪の衆を集め、俺と台与の婚儀披露の宴が行われた。


 集まった者達は、台与(藤林家の養女となり登代から改名)が生きていたことに驚き、無事を何より喜んだ。
 そして婚儀の披露と宴である。

「「「おめでとうござりまするっ。」」」

「皆の者、目出度い宴の席じゃが、この席で皆に伝えねばならぬ大事がある。
 婿となった疾風殿に、今この場で平井家の家督を譲ることに致した。あとは新たな当主から申す。」

「ご参集のご一同に、ご挨拶申し上げます。
 俺の旧姓は藤林。伊賀の藤林疾風です。
 此度、平井家の家督を継いだのには、訳がございます。
 ご一同もご承知のとおり、平井家が主君と仰ぐ六角家は、浅井家の侵攻に防戦一方で、隣国の織田家が美濃を制して、次は六角家の近江に攻めて参りましょう。
 六角家は、もはや風前の灯でございます。
 されば、六角家に従って平井家が滅びるのを座して待つことはできませぬ。平井家に連なる1,200名の皆様の命を救いとうございます。

 加賀守殿が当主では、六角家の恩義に背くことになる故、六角家に拘りのない俺が家督を継ぐことにしました。
 平井家当主として、御一同にお願い申す。
 平井家一族が揃って伊勢へ移り住むことに同意してください。皆さんの命はこの疾風が護ります。」


「疾風様、六角家が危ういこと。我らとて、危惧しておりますが、領民一同が揃って移り住むなど、できるのでございましょうか。」

「懸念はもっともですが、十分に用意は致しました。
 移り先は伊勢の志摩の地。まずは、甲賀に向います。甲賀は我ら伊賀の領地にて、既に受け入れの準備もしてあります。
 ただ急がねばなりませぬ。六角家に気取られぬうちに、この地を去らねばなりませぬ。
 今から3日後の宵の刻に城の前にお集まりください。大荷物は不要、必要な物は伊賀にて用意致します。大切な物のみ身に付けてください。
 残りたい者に強要はしませぬ。だが生きて行ける証がないなら、説得してください。」

「皆の者、今宵はこの城に泊まるが良い。
 台与の婚儀の祝いの酒宴じゃ、酒宴じゃ、これからのことは、明日からで良いっ。」



 平井家には嫡男がいる。平井弥太郎高明、台与の2才下の弟だ。

「義兄上、某はこれからどうすれば良いのですか。 
 やがて来る戦で、討ち死にを覚悟していた故に、戦場から逃げ出すようで気持ちの整理がつきませぬ。」

「弥太郎殿、伊勢に落ち着いたら、平井家の家督は弥太郎殿に継いでもらいます。
 その上で伊賀の領民として、皆の命と暮らしを守らねばなりませぬ。
 伊賀(伊勢)は武士の国ではありませぬ。領地はなく役目の禄を受け取り暮らします。
 一家中として皆には役目が与えられます。
 弥太郎殿は代官として伊賀の民の暮らしを豊かにするための農地開発や道や川の整備職人や商人の指図などをするのです。
 やることは、今と変わりませぬ。違うのは、戦をできるだけ避けることです。
 死んでしまっては役目を果たせませぬ。」

「弥太郎、心配しなくても大丈夫ですよ。伊賀は誰とも争わず、皆で助け合う国よ。
 私も居るわ、あなたが困ったら飛んで行くわよっ。」

「はぁ、姉上が飛んで行くのはどちらですか。張り切って行き過ぎると、志摩の先は海の中ですよっ。くすくすっ。」

「こらぁ、弥太郎、姉をからかうとは不届き千万。許しませぬよっ。」

「姉上っ、お淑やかにせぬと義兄上に嫌われますぞっ。義兄上、お助けくださいっ。」

 やれやれ、仲の良い姉弟だ。綺羅も混ざると余計騒がしそうだぞ。混ぜるな危険かっ。



 3日後の宵の刻、集まった者達から次々と出発させた。城から遠い者達が、遅れて集まりつつあるからだ。
 ほとんどの者達は、鉄製の鍋や鍬、あとは種籾などを少し持っているだけだった。
 心配した落伍者は出なかった。先祖伝来の土地を離れることに抵抗があったはずだが、新天地に希望を持って、ついて来てくれた。


 嫡男の弥太郎は、台与と才蔵と共に先導を行かせた。俺と加賀守殿は殿しんがりを行く。
 一行には赤ん坊や幼子や老人もいるため、進行はかなり遅い。甲賀までおよそ80km、街道で目に付く訳にはいかぬため、山中の獣道を一列になって行く。忍びの者達が使う道だ。甲賀まで丸3日は掛かる。

 一日目の食事は、平居城で作って来た握り飯だ。周辺で山菜を採り、味噌汁を作った。
 2日目の昼前には、甲賀の警備組が小型の荷馬車で食糧と共に迎えに来てくれて、幼子や身体の悪い者達を荷馬車に乗せられた。


 見張組の伊賀者から知らせが来た。平井家の領民がもぬけの殻になったのが、露見して追ってが掛かったとのこと。
 以外と早かったな。まあ千人以上暮らしていたのだ。誰かが訪ねて無人に気が付くのは時間の問題だった。
 幸いなのは、六角の追手が足軽だということだ。領民達を連れた集団だから、足が遅いから足軽で追いつくと見くびったのだろう。

 馬車のおかげで、進行速度は上がったが、それでも3日目の午後には、ついに追っての六角勢が現れてしまった。
 追っては500人余、俺と佐助、甲賀者20人で足止めをする。ライフル銃と手投げ焙烙玉で迎え撃つが、木々が生い茂る地形のために隠れる場所にこと欠かず、迫られては後退しながらの撤退戦だ。
 そんな戦いを一刻も続けていただろうか、ついに甲賀の領地境に着いた。
 そして、追って来た六角勢は驚愕した。

 なだらかな丘の稜線に伊賀の軍勢1,000人が並び、鉄砲を構えていたからだ。
 その軍勢から、轟音とともに一斉射撃が放たれると、六角家の追手は、否応なく退却をして行った。
 500人余から1割以上も減った足軽では、勝ち目がないからだ。


 甲賀の里では、父上達が待ち構えていた。

「平井家の皆の衆。よくぞ無事に来られた。寒かったであろう、さあさ中へ入られよ。」

 そこは、甲賀の里に建てられた新甲賀砦で藤林砦の縮小版だが、大広間は2千人が優に入る広さがある。
 建物内には亜炭の鉄竈ストーブが何台も置かれ、冷えきった皆が鉄竈ストーブを囲み暖を取った。
 鉄竈の上には麦茶のやかんと甘酒、お汁粉の鍋が湯気を立て、子らがさっそく頬張っている。

「ふぅ、熱い茶が旨い。生き返りますぞ。」

「母ちゃん、お汁粉とっても甘いっ。」

「まあ、甘酒なんて、贅沢だわぁ。」

「皆、まず暖まって落ち着いたら夕餉じゃ。広い湯船の風呂もあるから皆で入ってくれ。
 ここで数日逗留したら、伊勢に向かってもらう。
 ただ川舟を使うのでな、一日に200人ずつになる。じゃから、長逗留になる者もおるということじゃ。
 寝る時は寝袋があるからそれで寝てくれ。幼子は大人と一緒にな。
 あまり汁粉を喰い過ぎると、旨い夕餉が、食べられんぞっ。はははっ。」



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永禄11(1568)年秋 伊勢国志摩 
平井弥太郎


「おおっ、平助の田も見事な実りだな。」

「弥太郎様、去年の秋も豊作だったけんど、冬に田んぼを整地し直したおかげで、今年はこの見立だと、5割増しにはなるだよ。」

「そうか、そりゃ良かったな。冬に苦心してやった甲斐があったな。」

「そう言や、六角様の観音寺城が落ちたと、聞いたけんど、六角様はどうされたかや。」

「ああ、甲賀へは逃げ込むことができずに、東近江の鯰江城に入られたとさ。もはや、嘗ての威勢はないな。」

「もし、おら達があのまま平居におったら、多勢のもんが死んで、生き残ったもんも食うに困っとったろうな。
 伊勢に来てからというもの、農具は便利だし、海の魚も毎日食えて、ずいぶんと裕福になったで、かかあ達にも新品の着物さ買うてやれるだよ。
 伊勢に来れて、ほんとうに良かっただ。」





【 馬 車 】

 戦国時代には馬車などなかった。理由は、悪路だ。それに馬が小さく非力、また車輪にベアリングもスプリングもなく、重く多量な荷物など運べなかったからだ。

 京の都では、平安貴族が牛車を使ったが、都だけあって道が少しましな方だし、牛の方が馬より力があったからだ。それでも牛車が穴に嵌り、動けなくなる場面は物語にも多い。
 慶応2(1866)年10月に、江戸幕府が市中、五街道での荷運びの馬車利用を許可したが、普及はせず、1869年東京-横浜間の乗合馬車の開業から普及し始めた。

 〘ちなみに、本編で使用の馬車は車軸なしの独立大径6輪で、懸架部分とベアリングのみ鉄製。車輪、スポーク、バネ、車体は太竹製車台3m×1.5m、車輪直径1.5m車厚0.3mで、馬は4頭立てを想定した。
 また、25台で老人子供を150人余乗せた。〙
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