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第五章 伊賀忍者 藤林疾風 軍師となる

第八話「明日は瀬田に我が旗を立てよ。」

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元亀元(1570)年6月 美濃岐阜城
藤阿弥(疾風)
 

 信長殿が将軍義昭と袂を分かち京を去ってから、義昭は信玄や他の大名達に上洛せよとの、御内書を乱発していた。
 この頃の畿内の情勢は、混沌としており、前年に、将軍御座所の襲撃に失敗した、三好三人衆は阿波で力を蓄え、京の奪還を虎視眈々と狙っていた。
 これに対し、幕府の下に馳せ参じた松永久秀は、信長殿が抜けた不利を翻すために武田信玄の上洛を画策していた。

 その頃信玄は、着々と上洛の準備を進めていた。
 松永久秀の助力もあり、将軍家を通じて、越後上杉氏との和睦(甲越和与)を図り、永禄12(1569)年8月に和睦が成立した。
 これに伴い、病気を患っていた北条氏康も武田との和睦を選択し、11月には再び甲相同盟が結ばれた。

 元亀元(1570)年1月には、武田勝頼が駿河の花沢城を攻め落とし清水袋城を築城した。
 この結果、武田家は海に面した地域を手に入れ、武田水軍を編成した。
 そうして、信長に上洛の協力要請がなされた。
 永禄8(1565)年に信玄の四男勝頼に養女を娶らせ、その後信長の嫡男織田信忠と信玄の娘 松姫の婚約で同盟を結んでいたのだ。

 史実で信玄と信長が手切れになるのは、比叡山の焼き討ちや顕如の正室如春尼の実姉が武田信玄の正室三条夫人である関係で、本願寺への圧迫に信玄が反発したのが原因であるが、そのようなことは起きていない。
 信長は藤阿弥の助言に従い、武田家の領内の通行、及び兵糧の提供の協力を約束した。


 元亀元(1570)年6月、ついに、武田信玄は上洛の兵を上げる。
 史実より2年も早く、織田も徳川も敵対しなかったので、遠江や三河侵攻に伴う戦も、徳川家康が惨敗する三方ヶ原の戦いも起きていない。

 信玄の上洛は、三河·尾張·美濃·近江を通り織田家の支援もあって、無人の野を行くがごとくであった。


 上洛道中の尾張津島で、信長殿と俺は信玄殿にお会いした。その席には十数名の武将とともに、山本勘介殿もいた。

「初めてお目にかかる、信長にござる。」

「藤阿弥と申します。」

「信玄入道でござる、織田殿には此度の助成に礼を申す。将軍家のことも聞きたいと思うていた。」

「藤阿弥、話して差し上げよ。」

「はい。将軍家も幕臣の方々も諸国の立場を知りえませぬ。誰と誰が敵対し、その事情が何であるか知らぬ故に、ただ名指しで討伐せよと言われます。その後どうなるかなど考慮せぬままに。」

「将軍家は、何処の討伐を命じられたのじゃ。」

「若狭の武田を。理由は幕臣達の旧領回復と領地の加増。若狭の武田が朝倉の支配下にあるところまでは知っておられましたが。」

「なるほど、織田殿は浅井家と手切れになると理解したのじゃな。」

「将軍家には克服できぬ欠点があります。
 かつての三好長慶殿のように力を持ち将軍家を傀儡にされるのではないか、との警戒心から、いずれのお人の台頭も望まれませぬ。 
 台頭する者には陰で敵対致します。二大勢力の競い合いもお気に召しませぬ。せいぜい三つ巴が許せる範囲かと。
 しかし、それでは戦乱の世が治まりませぬ。」

「藤阿弥殿、嘗ては八兵衛殿でしたかな。
そなた、どこまで見ておるのか。」

「山本殿、その節は失礼致しました。将軍家はいずれ自滅致しましょう。
 天下を治める程の武力はなく、知恵もありませぬ。我らは自国の領民を安寧に富ませることに専念致します。」

「此度の武田家の上洛は無為でござるか。」

「無為ではありませぬ。信玄殿が足利幕府というものを理解できましょう。」

「なるほど、良き忠告であった。しかとこの胸に治めておこう。」


 7月。大津の瀬田には風にたなびく『風林火山の旗』があった。こうして、武田信玄の上洛は果された。
 これぞ将軍義昭への加担勢力と、信長殿との対立を武田信玄にすり替える『伊賀忍法 変り身の術』なのである。(ご意見無用。)





【 武田信玄最後の言葉 】

『明日は、瀬田に我が旗『風林火山』を立てよ。』  

 この言葉が信玄を遺い残したと伝わっているが、遺言で自分の死を3年間秘匿するように、また勝頼には孫が育つまで雌伏するように命じたこととは乖離している。
 おそらく熱にうなされてうわ言に漏らした言葉を聞きとったものではないのだろうか。

 信玄が言い残した、武将が陥りやすい三大失観。 

 一つ、分別あるものを悪人と見ること。
 一つ、遠慮あるものを臆病と見ること。
 一つ、軽躁なるものを勇剛と見ること。





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