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第六章 伊賀忍者 藤林疾風 戦国に同盟を作る

閑話 新庄城城代 鰺坂長実が涙した日。

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 俺は名は鰺坂長実あじさかながざね。近江の土豪の三男だったが、景虎様、今は謙信公だが上洛の途中の近江で、河田長親とともに拾っていただいたのだ。

 それから幾度も戦場にお供をして、もう10年にもなるか。そして去年春、この越中の新庄城の城代を任されたのだ。俺もついに城を任されるなんて出世したものだ。
 近江で一緒に拾われた長親は武勇に優れ、謙信公に重用された。その長親の傍で働きを務める俺にも謙信公が目を掛けてくださったという次第だ。
 自分が手に掛ける自分の領地というものは良いものだ。実に良い。領民が笑顔でいるのを見るのは、俺にとって最高の喜びだ。


「喜助っどうだ。新田の田植えは間に合ったか。」

「へい殿様っ、殿様が言われたように、村のわっぱ達に餡ころ餅を食わせると言ったら、来るわ来るわ。
 田植えはあっと言う間に終わりやしたが、餡ころ餅作りが大変でやした。はははっ。」

「それは難儀をしたの。だが無事に田植えを終わらせることができて、良かったのう。」

「へい、去年初めて作った、小豆が役立ちました。」

 喜助は、村の若者の中でも働き者で、村の後家や老人達の田や畑を手伝ったり、俺の兵として訓練で皆を率いたりしてくれとる。


「清兵衛、息子は元気に育っとるか。」

「こりゃ大将っ、新太の奴はついこの間までよちよち歩きのはずが、走り回るようになりやして、かかあの手を焼かせて困っておりやすよ。」  

「そうか、元気な子は家宝ものぞ。喜ばんとならん。わっはっはっ。」

 清兵衛は、足軽頭を務めてくれとる精悍な男で、5才になる息子と2才の娘がおる。
 家でも家臣の中でも柱となっとる男だ。


 
 「殿様ぁ、雉が狩れましたから、持っていってくださいっ。」

『はあはあ』息を吐きながら、駆けつけて来たのは16才になり足軽に加わったばかりの次郎左だ。
 戦で父と兄を亡くし、祖父母と母や弟妹の一家を支えるしっかり者だ。

「良いのか次郎左、そなたの家の分が無くなるのではないか。」

「へっへ~、今日は雉を5羽も仕留めましたっ。
だから1羽持っていってください。」

「では遠慮なく貰って行くぞっ。」

 次郎左は弓の鍛錬を兼ねて、よく狩りをしとる。なかなかの腕前だ。



 5月になり、加賀の一向一揆がここ越中へ攻め入ってきた。越中の浄土真宗の勝興寺と瑞泉寺、椎名康胤と神保長城も一揆勢に味方して、一気に風雲急を告げる事態となった。
 越中の守将であり、俺の盟友でもある河田長親は、すぐに皆と連絡を取り、兵を集めて吉江忠景に指揮を取らせて出陣させた。
 5月19日、忠景は越中中部の太田保本郷に陣を張り一揆勢に備えたが、24日には越中西部にある日宮城が一揆勢の猛攻にさらされ、守将神保覚広から俺のところへ鉄砲弾薬が不足し、危機的状況だとの救援要請が届いた。
 俺はすぐ様、河田長親達と日宮城の救援に向かうことを決め出陣した。

 そうして、6月15日向かう途中の五服山にて一揆勢の大群と戦闘となった。
 俺と河田は、一揆勢の鉄砲を避けるために山中での戦いを選んだ。俺達は2千で、一揆勢は万を越えているが、乱戦になれば、ある程度、勝ち目があると踏んだのだ。
 攻め寄せる一揆勢と激しい乱戦になった。3人倒しても5人倒しても、一人また一人と味方の兵が倒れて行く。


『大将危ねぇっ。』近くにいた清兵衛が声を上げ、俺に駆け寄り庇うように抱きついてきた。
 それと同時に “ダーン”という銃声が響き、抱きついた清兵衛が音もなく崩れ落ちた。

「清兵衛、しっかりせよ。清兵衛っ。」

 しかし、清兵衛は、俺の呼び掛けに応えることなく屍となった。
 “ブォー”と、退却の法螺貝が鳴り、『退却じゃ、退却っ。』それを聞いて、俺達は退却を始めた。


 戦国の戦において、退却ほど危険なものはない。農民兵は命が大事と刀や槍を投げ捨て武士も鎧兜を捨て身軽になって逃げる速さを優先するからだ。
 だが、武器や防具を捨てれば、疲れ果てて敵に掴まった時に身を守るすべはない。
 退却する俺の周りには、散り散りになった味方がそれでも10人ほどが固まって早足で城へと向かっていた。

 俺達は鎧兜は脱ぎ捨てたが、槍と刀は捨てることなく、途中で追いすがる敵兵を幾人も倒しながら、城まであとわずかのところまで来ていた。

「もうすぐじゃ、踏ん張れっ。」

 そう声を掛けたとき、行く手に僧兵に率いられた一隊が現れた。相手は20人ばかり、俺は、敵中突破を選択した。
 次郎左が、走り寄る敵の一人を弓で討ち取る。矢はもう1本しかない。2本目の矢を放ち二人目に傷を負わせると、脇差を抜き襲い掛かる一人と対峙した。周囲は乱戦で既に味方が3人殺られている。

 俺も3人目を倒し次郎左の駆け寄ろうとした時、次郎左は一人の槍を躱し、相手の鎧繋ぎ目の脇腹に見事刺したが、近くにいたもう一人に背後から槍を突かれ崩れ落ちた。

『次郎左っ』俺は心で叫びながら駆け寄り、次郎左を斬った男を斬り捨てた。
 周囲を気にしながら、次郎左を抱き起こすと俺を見て「殿っ、 · · 、かあちゃんたち · · 。」そう言ってこと切れた。

 その後も戦闘は続き、敵の半数を討ち取ったところで、敵が逃げて行った。
 だが、戦いで次郎左を含め3人が討ち取られて、喜助が左足に深手を負っていた。
 喜助を他の二人が支えながら、やっと城に帰り着いた。
 酷い負け戦だった。配下の半数以上が討死して、無事な者も皆手傷を負った。

 俺は思った。これまでの戦国の戦では互いに領民であり、米作りをする農民兵の損害を抑えての戦いだったが、一向一揆との戦いは違うと。
 人の命をいとも簡単に捨てさせ、根絶やしにするまで止まない極悪非道の暴徒との戦いであると。


 一揆勢はその後も越中西部を蹂躙し中部の神通川西岸の白鳥城、東岸の富山城をも陥落させて、到頭7月末にはこの新庄城が最前線となってしまった。
 8月に入り、河田長親の元へ越後のお館様から『間もなく出陣致す、しばし堪えよ。』との指示が届いた。
 そしてどういう訳か、謙信公出陣との噂が瞬く間に敵方まで広がり、一揆勢の攻撃が止み小康状態となった。


 8月12日ついに上杉軍の先遣軍勢2千が新庄城に入り、城壁には所狭しと旗指し物が並べられた。
 それから6日後、謙信公が率いる上杉軍の本隊が次々と現れ、新庄の山の根に布陣した。

 城へ入られた謙信公からお言葉を掛けられたが、俺の気は沈んだままだった。 

「待たせた長実。苦労を掛けたの。」

「いえ詮無きことにございます · · · 。」

「まだ戦は続いておるぞ、そちは生きている領民を守らねばならん。辛くとも前を見よっ。」

 そのお言葉に“はっと”する。そうだ次郎左の家族を守らねば。奴から頼まれたのだった。
 清兵衛の妻と子も、喜助の親達も、他の皆もだ。 
 俺は笑みもなく、お館様の顔を見上げた。 


 決戦の日、両軍が対峙するその前で、藤林疾風殿が法螺貝を真っ直ぐにしたような銅の大きなメガホンで、大声を響かせ一揆勢に告げた。

『聞けっ、一揆に加わる農民達よ。仏の教えとは、この世で他人に良き事をせよと言っていたのだ。人殺しはこの世で最も重い罪だ。
 仏とは天竺という海の向こうの国で生きたお釈迦様のこと。そこにいる坊主達はお釈迦様の教えなど直接聞いたこともない者達だ。
 宗派の違う坊主達が殺し合い、死んだ坊主が皆、極楽浄土へ行けたと思うか。
 偽坊主の諫言に騙されて命を粗末にするな。人は殺し合うために生まれて来たのではない。今すぐ、武器を捨て逃げるのだ。』

 その言葉が終わらぬうちに『わぁー』と声を上げて、一揆勢が攻め掛かって来た。


 それからは、まず、一揆勢の足軽の先陣が上杉軍の鉄砲で崩され、続いて一揆勢の鉄砲隊も、我が軍の焙烙弾を浴びて瓦解。
 総攻めとなった戦もお館様の指揮で一揆勢は次々破られ、最後はお館様が騎馬隊を率いて敵の本陣を突き、一向一揆勢の本陣を壊滅させた。
 それを見て、戦場にいる敵兵は一人残らず逃げ出して行った。もしかして、戦の前に言ったの疾風殿の声が届いていたのだろうか。


 戦いが終わったとき、お館様が銅のメガホンで、皆に聞こえるように語られた。

『儂はこの国に蔓《はびこ》る、仏の偽の言葉を教える偽坊主どもを絶対に許さん。真の仏を信じる者達の勝鬨を挙げよっ。』

『『『えいえいおー、えいえいおー。』』』


 俺は、いなくなった者達の顔が次々と想い浮かび、涙が溢れて止まらなかった。
 彼の者達こそ、極楽浄土へ行く資格があると。





【 浄土真宗 】

 石山本願寺は、浄土真宗本願寺派である。
 言わずと知れた法然の弟子、親鸞が法然の理念を解釈し、広めたとされる。 
 親鸞は、師である法然が重んじた『仏説無量寿経』を『大無量寿経』『大経』と呼び、特に重じたが、そのお経の中では釈尊が五悪を戒めている。

 その『五悪』とは、次のとおり。 
  不殺生戒 - 生き物の故意殺害。
  不偸盗戒 - 窃盗の禁止。
  不邪婬戒 - 不道徳な性行為の禁止。
  不妄語戒 - 嘘をついてはいけない。
  不飲酒戒 - 酒類を飲んではならない。

 こうした釈尊のいましめも無視して『死ねば極楽。』などと、ほざいた一向衆の僧侶達は、今も地獄で悟りを開けずにいることだろう

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