神様なんていない

浅倉あける

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第三章 岡埜谷俊一郎

05 壱の裏も壱

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 それからおれは、しばらくその場であずま先輩と話していた。
 沈黙がおれたちの間に横たわったのは実際はほんのわずかの時間で、気付けばそんな静けさも、なんならさっきの話題すら無かったことのように東先輩が新しい話題を口にしていたから、おれもそれに乗っかって他愛ない話を繋げた。
 おれのタイムや次の競技大会のこと、社会人になった先輩の近状報告、あの先生はまだ元気か、今度久しぶりに一緒にゲームやるか、そういえばランニングコースから見えてたゲームセンターが閉鎖しちゃったんですよ、なんて、あれやこれやがとめどなく繋がっていく。

 気付けば空が夜を迎えるための準備を始めていた。だんだんと日は伸びているが、それでもまだ三月の頭。太陽が山の輪郭に引っかかれば最後、あっという間に引きずり込まれて暗くなる。話しているだけで日が暮れる。

「って悪いな、こんな時間になっちゃったな」
「いいえ。久しぶりにお話出来て良かったです」
「家まで送ってこうか? この間、新車買ったんだよ。見せびらかしたい」
「まじすか。ちょー見たいけど、おれ、今日は兄貴が迎えに来ることになってるんですよね」
「まじか。じゃあ、また今度だなー」

 東先輩と別れ、おれは誰もいなくなった正門を通りぬけた。
 すぐにハザードランプをちかちかと明滅させている一台の白い車が目に入る。慣れたように助手席に乗り込めば、柔らかな声が運転席からおれの名前を呼んだ。

「おつかれ、しゅん

 フレームの細い眼鏡、横に流された前髪。話し方ひとつ取っても人当たりの良さが滲み出ている。長男の宗一郎そういちろうだ。
 後部座席にリュックサックを放り込み、シートベルトを片手で弄りながら、おれは与えられたばかりの同じ言葉を宗一郎に返した。

「待たせてごめん。先輩が来てて」
「気にしなくていいよ。三年生の先輩?」
「違う、もういっこ上の先輩。おれが一年のときの部長」
「ああ、あのガタイが良くて声の大きい子か」
そう、よく覚えてるね」
しゅんが一年の時は、だいたいおれが会場まで送迎してたからなあ」

 夜の街に、宗一郎の車が静かに滑り出す。
 こうして学校終わりに宗一郎が迎えにくることは珍しいことじゃなかった。
 もっとも、車がまっすぐに家に向かったことは一度として無いけれど。今日も、発進した方向は家とは反対方向だ。

しゅん、夕ご飯は何が食べたい?」
「肉。肉食べたい」
「肉かあ。焼肉とか?」
「んー……ハンバーグとかがいい」
「ハンバーグだな。わかった」

 おれの返事に合わせて宗一郎がハンドルをきる。この兄の欠点は、ちょっとだけ運転が荒いことだなと、外の景色を眺めながら思う。
 ふと、通り過ぎていく景色の中に、おれの視線を奪う人影があった。
 タイミングよく前方の信号が赤に変わり、宗一郎がブレーキを踏む。車体が止まったことで、その人影の姿が景色の一つとして後ろに流れていくことはなく、おれははっきりと相手を視認することができた。
 光を反射する素材で出来たタスキをかけ、手首にも同じようなものを巻いてランニングをしている彼は、さきほど東先輩との会話にも登場した相手だ。

(……広瀬ひろせ

 おれが見間違うわけがない。正真正銘、広瀬ひろせ晃太こうただった。

 部活でもあれだけ走ってたのに、部活が終わったこんな時間にもまだ走ってるとか。何やってるの、あいつ。
 松井田まついだを見てみろよ。あいつなんか、この時間は先月から塾に行くことになって泣く泣く勉強してるんだよ。お前も知ってるでしょーが。

 こんなに距離が近いのに、暗いせいなのか広瀬はすぐそばにで停車する車の中のおれに気付くことはなかった。完全に日が暮れたことで人通りの少なくなった歩道を、ただ前へ前へと走っていく。
 やがて、反射板が弾く光だけが広瀬の存在証明となって、夜の中に消えていく。

しゅん? どうした?」

 こちらを窺うような声を出した宗一郎に、おれはいつの間にか窓の方へ乗り出していた身体を「なんでもない」の一点張りで無理やり引きはがし、背もたれに預けた。ぐう、と腹の虫が鳴く。
 そうか、とおれの主張をまるっと受け入れた宗一郎は、再びハンドルを回した。
 それから、きっとおれを迎えに来てからずっと聞きたかっただろうことを、ようやく口にした。

しゅん
「なーに」
「……最近は、どう? 母さんとうまくやれてる?」

 ――おれに聞くくらいなら、自分の目で確かめに来ればいいのに。

 おれは、ゆっくりと目を閉じた。
 お腹はものすごく減っていた。ハンバーグを食べたいって具体的な欲なんか、自分の内側で暴れているくらいだ。
 けれど、気持ち的にはいますぐここで眠ってしまいたかった。
 眠って起きれば朝が来る。宗一郎は一人暮らしをしているアパートに帰っているだろうし、おれは朝練のためにさっさと家を出るだろう。反射板と一緒に夜に解けていった広瀬も帰ってきて、松井田や我妻あがつまたちだって加わって、おれに変わり映えのない平和な挨拶をしてくれるはずだ。

「……さあね」

 おれは、兄の車に流れているおしゃれなジャズを意識の向こうへと押しやって、今の兄の質問だってそっと記憶の棚にしまって、代わりに無理やり頭の中に引っ張り出してきた、今後に控えている部活の予定だけを考える。

 今月末の土曜日は、大晦日ぶりに朝凪あさなぎ神社に行く用事がある。
 朝凪高校陸上部には伝統行事がある。近くにある朝凪神社にて、部員一同が顔を揃えて行う必勝祈願だ。五月にある高体連や、秋ごろの新人戦の前は勿論のこと、四月頭にある春の競技大会の前にも参拝に行くのが陸上部の習わしとして受け継がれている。
 だから部長であるおれは、その日は部員全員を率いて、代表として一番前で参拝しなければいけない。

(……いけないんだけど、な)

 ああもう。
 前を見ようが、後ろを見ようが、変わらない。

 おれの憂鬱は変わりなく、目と鼻の先に浮かび上がっている。
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