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79 屋上にて

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「あーぁ、やっちゃった……」


 食堂の自販機で缶コーヒーを買って屋上に向かった。

 屋上に出るとすっきりと晴れた冬空が眩しくて、絢音は手を翳して眉を顰める。

 金網に凭れて缶コーヒーのプルトップを開ける。

 ひと口飲むと温かい液体が喉を潤し、体も少し温まった。

 深い息を吐いて空を仰いだ。

 三上と初めて身体を重ねてから約*年が経った。

 あれ以降、毎日のように抱かれていたが、仕事納めの夜の出来事がネックになって触れ合いはめっきり少なくなった

 身体が淋しくないと言えば嘘になるが不満があるわけではない。
 このすっきりとしない感情が何であるかも知っている。

 もしかしたら、と思う気持ちを認めてしまうのは勇気が必要だった。


『ん ―― っ』


 ふと自分のものでない呻き声が風に乗って耳に入った。


『あっ ―― ま、こと……っ。こんなとこでダメだっ』

『何を言ってるんですか。矢嶋さんのここ、もうカチカチですよ?』


 今度はハッキリと名前まで聞き取れた。


 (まこと、って ”清水洵”? それに、矢嶋さんって……)


 絢音は目を見張り、思わず出そうになった驚きの声を手で塞いだ。

 この声の主、2人は同じ第一営業だ。しかも、清水 洵しみず まこととは嵯峨野書房時代の同期入社。


『矢嶋さん。ここ、気持ちいでしょう?』

『んん……っ』


 この声はまさに行為の最中。

 どうやら絢音の目の前の壁の向こう側にいるらしかった。


 (やば……っ)


 悟られないようにそっと立ち去ろうとした。

 だが突然の甘い囁き声に驚いた絢音は持っていたコーヒーの缶を落としてしまった。

 地面に落ちた缶が派手な音を立てる。

 一瞬の静寂。

 衣擦れの音は2人が身繕いをしているのだろうか。

 2人が姿を現す前にこの場を立ち去らなければ、と思うのだが足が竦んで動けない。

 そうしている間に壁の向こう側から、見知った顔が絢音を見つけた。


「あやね!?」

「ハ、ハ~イ……」


 驚く彼らに、絢音はバツが悪そうな笑みを浮かべて手を上げた。


「和泉?」


 もう1人の声の主がひょこっと顔を出す。


「お前、こんなとこで何やってるんだ?」


 矢嶋の言葉に、絢音は「それはこっちの台詞ですよ」と苦笑いを浮かべた。


 矢嶋 寿之やじま ひさゆきは絢音より5つ年上で、新入社員研修の時、本社でかなり世話になった先輩だ。


「2人がそういう関係だったとは知りませんでした」

「別に公言してるわけじゃないしな」

「実は入社した時からなんだ」


 紫煙を吐く矢嶋の隣で洵が言葉を繋げた。


「ま、何にせよ見つかったのが絢音でよかったよ。他のヤツだったらもっと慌てた」

「矢嶋さんが誘うから止まらなくなったんですよぉ」

「嘘つけ。先に手ぇ出したのはマコの方だろ」


 痴話喧嘩にしか見えない言い合いが微笑ましくて絢音は目を細めた。


「あ、私、誰にも言いませんから。私だって同じだし ――あっ」


 絢音は慌てて口を抑えるが、2人の反応は素早かった。


「何 なに? お前もそういう相手がいるのか?」

「ふ~ん。絢音の相手も同性なんだぁ」

「あ、ちがっ。違います。私は異性ですけど」


 慌てて否定しても時はすでに遅し。
 白状しろ、と迫る2人を前にして告白させられるハメとなる。

 絢音は相手が誰なのか伏せて、ポツリポツリと話し始めた。

 この曖昧な気持ちと不安が少しでもすっきりすればいいと思ったのだ。


「なんだ。それは恋じゃん」


 矢嶋にあっさり指摘されて絢音は唖然とした。


「こ、恋 ……?」


 そんな絢音を前に清水も頷く。


「絢音はそいつが好きなんだよ。それしかないだろ」

「私……」


 絢音は身体を熱くした。
 そして自分の気持ちをハッキリと自覚した。

 身体から始まった付き合い。

 何度セッ*スをしても満足できない。
 もっとめちゃくちゃにしてほしい。

 それまで八方美人だった熱い思いを、何の躊躇もなく受け入れてくれたのが三上だった。

 絢音以上の強さで求め応じる。

 身体が満たされれば心も満たされると思っていた。けれど…。

 体は繋げなくてもキスは欲しい。

 激しくなくていい。甘く優しいキスが欲しい。
 それと、出来たら三上の気持ちも、ほんの少しでいいから欲しかった。


「私……好きなんだ」


 言葉にすると身体が震えた。


「今頃、自覚したのか?」


 矢嶋が笑う。


「相手は誰か分かんないけど、何かあれば相談に乗るぜ」

「あ~、マコの癖に生意気」


 矢嶋にからかわれた清水が「ちぇっ」と口を尖らせる

 その様子を羨ましそうに見つめた絢音は「その時はお願いします」と頭を下げた。

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