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『雨の中のカフェ、そして片方の靴』
第三章「カナエという名前」
僕は“カナエ”という名前を手がかりに、自分の記憶を掘り返してみた。
けれど、それは濃霧の中に手を伸ばすような作業だった。
どこかでその名前を聞いた気がする。けれど、それがいつなのか、誰だったのか、思い出せない。
ときどき夢の中に、長い髪の女が現れる。
顔ははっきりしない。だけど、いつも口元が少しだけ笑っていた。そして、僕の名を呼んだ──やさしく、ひどく遠くから。
「……たかつきくん」
そう。それは、カナエだったのか?
僕は、過去に何かを忘れている気がした。
**
その夜、僕は靴を紙袋ごと持って、下北沢から二駅先の「三鷹台」へ向かった。
駅から徒歩7分ほど。小さな靴修理店がある。そこには昔世話になった職人、山岸さんがいる。もう七十歳近いが、目は鋭く、記憶力も驚くほどいい。
「珍しいな、あんたが靴を持ってくるなんて」と山岸さんは言った。「新しい女か?」
「いや、誰の靴か分からないんです」
「……ほう。じゃあ拝見」
靴を手渡すと、彼は顕微鏡のような拡大鏡で靴底を見た。指先で革を押し、タグの跡をなぞった。
「まず、この靴。7年前のモデルだ。吉祥寺の“オリビア靴店”で売られてたやつ。そこにだけ卸されていた特注ラインだよ。」
「店、まだありますか?」
「残念ながら、3年前に閉店。店主は亡くなった。」
「何か、手がかりになるものは?」
「ひとつ気になったのは、このソールの削れ方だな。普通の歩き方じゃない。……左足を少し引きずって歩くクセがある人だ。」
僕の脳裏に、カフェを出ていったあの女の後ろ姿がよぎった。
いや、彼女は靴を引きずってなどいなかった。姿勢も歩き方も、無駄のないものだった。
「ちなみに」と山岸さんが言った。
「この靴、以前も見たことがある気がするんだよ。」
「どこで?」
彼は首を傾げ、しばらく黙った。
「……いや、思い出せないな。でも誰かがこれと同じ靴を持ってきて、“もう片方を捨ててくれ”って言ったんだ。かなり前の話だが。」
**
靴を捨ててくれ、と頼む人間がいる。
そして、その靴が今、僕の手元に戻ってきた。
「この靴は、戻ってきたがってるよ」と山岸さんは言った。
「何かを伝えたがってる。……いや、靴じゃなくて、それを残した人間が、か。」
僕は礼を言って店を出た。
小雨が降っていた。今夜も、あのカフェでコーヒーを飲むべきな気がした。
いや。コーヒーではなく、記憶を飲むために。
第三章「カナエという名前」
僕は“カナエ”という名前を手がかりに、自分の記憶を掘り返してみた。
けれど、それは濃霧の中に手を伸ばすような作業だった。
どこかでその名前を聞いた気がする。けれど、それがいつなのか、誰だったのか、思い出せない。
ときどき夢の中に、長い髪の女が現れる。
顔ははっきりしない。だけど、いつも口元が少しだけ笑っていた。そして、僕の名を呼んだ──やさしく、ひどく遠くから。
「……たかつきくん」
そう。それは、カナエだったのか?
僕は、過去に何かを忘れている気がした。
**
その夜、僕は靴を紙袋ごと持って、下北沢から二駅先の「三鷹台」へ向かった。
駅から徒歩7分ほど。小さな靴修理店がある。そこには昔世話になった職人、山岸さんがいる。もう七十歳近いが、目は鋭く、記憶力も驚くほどいい。
「珍しいな、あんたが靴を持ってくるなんて」と山岸さんは言った。「新しい女か?」
「いや、誰の靴か分からないんです」
「……ほう。じゃあ拝見」
靴を手渡すと、彼は顕微鏡のような拡大鏡で靴底を見た。指先で革を押し、タグの跡をなぞった。
「まず、この靴。7年前のモデルだ。吉祥寺の“オリビア靴店”で売られてたやつ。そこにだけ卸されていた特注ラインだよ。」
「店、まだありますか?」
「残念ながら、3年前に閉店。店主は亡くなった。」
「何か、手がかりになるものは?」
「ひとつ気になったのは、このソールの削れ方だな。普通の歩き方じゃない。……左足を少し引きずって歩くクセがある人だ。」
僕の脳裏に、カフェを出ていったあの女の後ろ姿がよぎった。
いや、彼女は靴を引きずってなどいなかった。姿勢も歩き方も、無駄のないものだった。
「ちなみに」と山岸さんが言った。
「この靴、以前も見たことがある気がするんだよ。」
「どこで?」
彼は首を傾げ、しばらく黙った。
「……いや、思い出せないな。でも誰かがこれと同じ靴を持ってきて、“もう片方を捨ててくれ”って言ったんだ。かなり前の話だが。」
**
靴を捨ててくれ、と頼む人間がいる。
そして、その靴が今、僕の手元に戻ってきた。
「この靴は、戻ってきたがってるよ」と山岸さんは言った。
「何かを伝えたがってる。……いや、靴じゃなくて、それを残した人間が、か。」
僕は礼を言って店を出た。
小雨が降っていた。今夜も、あのカフェでコーヒーを飲むべきな気がした。
いや。コーヒーではなく、記憶を飲むために。
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