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午後3時、僕は《パライソ》にいた。
彼女が冗談を言っていたのか、本気だったのか、それはよくわからなかったけれど、午後2時50分に僕は東中野駅の改札を抜けていた。
駅前には、喫茶店らしきものがいくつかあった。
チェーンのカフェも、古ぼけた純喫茶も。けれど、すぐにそれとわかる店が一つだけあった。
曇ったガラス、金色の飾り文字で書かれた店名《Paraiso》、そして入口の横に置かれた枯れかけたシダの鉢植え。
「迷わなければ、すぐにわかります」
彼女の言葉が、そのまま現実の中に存在していた。
店に入ると、小さなベルがチリンと鳴った。
中は驚くほど静かだった。エアコンの音と、壁の古いスピーカーから流れるレコードのノイズが、ゆるやかに混ざり合っていた。
レコードは、たぶんジョニ・ミッチェルだった。
歌詞の一つひとつが、遠い夢みたいに響いていた。
カウンターの中には、白髪まじりのマスターが一人。
僕は窓際の席に座り、アイスコーヒーを頼んだ。
グラスはやけに重たく、氷は完璧な立方体をしていた。
3時を過ぎても、彼女は現れなかった。
3時15分。
3時半。
何度かドアが開いて、誰かが入ってきたけれど、その中に彼女はいなかった。
僕はアイスコーヒーを少しずつ飲みながら、ふと、店内の壁にかかった写真に目を止めた。
白黒の風景写真だった。山と湖と、小さなボート。誰も乗っていない。
でも、写真のすぐ横に、見覚えのあるものがあった。
それは今朝、彼女が読んでいた文庫本と同じカバーの『海辺のカフカ』だった。
棚には、整然と並んだ文庫本やLPレコード。
その中に、もう一冊、僕の視線をとらえた本があった。
背表紙にはこう書かれていた。
『月曜日の地下鉄』
著者名は書かれていなかった。
表紙のデザインは、僕が今座っているこの店内の風景だった。窓、カーテン、照明、そしてグラスの中の氷まで、完璧に一致していた。
僕はそれを手に取ろうと立ち上がった。
けれどその瞬間、背後から声がした。
「その本、読まない方がいいですよ」
振り返ると、彼女が立っていた。
今朝と同じグレーのコートを着て、まるで時間がそのまま巻き戻されたようだった。
「どうして?」と僕は訊いた。
彼女は少し首をかしげてから、言った。
「あなたはまだ、自分が物語の中にいるってことに、気づいてないから」
彼女が冗談を言っていたのか、本気だったのか、それはよくわからなかったけれど、午後2時50分に僕は東中野駅の改札を抜けていた。
駅前には、喫茶店らしきものがいくつかあった。
チェーンのカフェも、古ぼけた純喫茶も。けれど、すぐにそれとわかる店が一つだけあった。
曇ったガラス、金色の飾り文字で書かれた店名《Paraiso》、そして入口の横に置かれた枯れかけたシダの鉢植え。
「迷わなければ、すぐにわかります」
彼女の言葉が、そのまま現実の中に存在していた。
店に入ると、小さなベルがチリンと鳴った。
中は驚くほど静かだった。エアコンの音と、壁の古いスピーカーから流れるレコードのノイズが、ゆるやかに混ざり合っていた。
レコードは、たぶんジョニ・ミッチェルだった。
歌詞の一つひとつが、遠い夢みたいに響いていた。
カウンターの中には、白髪まじりのマスターが一人。
僕は窓際の席に座り、アイスコーヒーを頼んだ。
グラスはやけに重たく、氷は完璧な立方体をしていた。
3時を過ぎても、彼女は現れなかった。
3時15分。
3時半。
何度かドアが開いて、誰かが入ってきたけれど、その中に彼女はいなかった。
僕はアイスコーヒーを少しずつ飲みながら、ふと、店内の壁にかかった写真に目を止めた。
白黒の風景写真だった。山と湖と、小さなボート。誰も乗っていない。
でも、写真のすぐ横に、見覚えのあるものがあった。
それは今朝、彼女が読んでいた文庫本と同じカバーの『海辺のカフカ』だった。
棚には、整然と並んだ文庫本やLPレコード。
その中に、もう一冊、僕の視線をとらえた本があった。
背表紙にはこう書かれていた。
『月曜日の地下鉄』
著者名は書かれていなかった。
表紙のデザインは、僕が今座っているこの店内の風景だった。窓、カーテン、照明、そしてグラスの中の氷まで、完璧に一致していた。
僕はそれを手に取ろうと立ち上がった。
けれどその瞬間、背後から声がした。
「その本、読まない方がいいですよ」
振り返ると、彼女が立っていた。
今朝と同じグレーのコートを着て、まるで時間がそのまま巻き戻されたようだった。
「どうして?」と僕は訊いた。
彼女は少し首をかしげてから、言った。
「あなたはまだ、自分が物語の中にいるってことに、気づいてないから」
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