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僕がその喫茶店に入ったのは、たまたま雨が降り出したからだった。傘を持っていなかったし、特に急いで向かう場所もなかったから、自然と足がそこに向かったのだと思う。
店の名前は「Mole Tunnel」といった。モグラのトンネル。どうしてそんな名前なのかはわからないし、訊く気にもならなかった。そういうことは、聞かないほうがいいこともある。
店の奥には、サックスの音が静かに流れていた。スタン・ゲッツか、それともソニー・ロリンズか。僕は彼らの音を区別するほど音楽に詳しくはないが、それでも、それが夜の孤独に似合う音楽だということはわかった。
店内には客がひとりもいなかった。カウンターの中にいた女性が、まるでずっと前から僕が来るのを待っていたような目をして、「お好きな席へどうぞ」と言った。彼女の声は、厚手のカーテンの裏から聞こえてくるように、くぐもっていた。
僕は窓際の席に座り、ブレンドを注文した。コーヒーの香りが、何年も前に別れた恋人の記憶をふわりと呼び起こした。彼女はいつもブラックで飲んでいた。理由は「そういう気分だから」としか言わなかった。
「パンはいかがですか?」
女性が問いかけた。
「パン?」
「自家製です。少し変わったパンですが」
僕はうなずいた。ほどなくして運ばれてきたのは、楕円形で、表面にひとつの穴が空いたパンだった。見たことのない形だった。味は、言葉ではうまく説明できない——温かく、懐かしく、少しだけ悲しかった。
「このパン、何でできてるんですか?」
僕は聞いた。
「それは……記憶でできてるんです」
彼女はそう言って、静かに微笑んだ。
店の名前は「Mole Tunnel」といった。モグラのトンネル。どうしてそんな名前なのかはわからないし、訊く気にもならなかった。そういうことは、聞かないほうがいいこともある。
店の奥には、サックスの音が静かに流れていた。スタン・ゲッツか、それともソニー・ロリンズか。僕は彼らの音を区別するほど音楽に詳しくはないが、それでも、それが夜の孤独に似合う音楽だということはわかった。
店内には客がひとりもいなかった。カウンターの中にいた女性が、まるでずっと前から僕が来るのを待っていたような目をして、「お好きな席へどうぞ」と言った。彼女の声は、厚手のカーテンの裏から聞こえてくるように、くぐもっていた。
僕は窓際の席に座り、ブレンドを注文した。コーヒーの香りが、何年も前に別れた恋人の記憶をふわりと呼び起こした。彼女はいつもブラックで飲んでいた。理由は「そういう気分だから」としか言わなかった。
「パンはいかがですか?」
女性が問いかけた。
「パン?」
「自家製です。少し変わったパンですが」
僕はうなずいた。ほどなくして運ばれてきたのは、楕円形で、表面にひとつの穴が空いたパンだった。見たことのない形だった。味は、言葉ではうまく説明できない——温かく、懐かしく、少しだけ悲しかった。
「このパン、何でできてるんですか?」
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「それは……記憶でできてるんです」
彼女はそう言って、静かに微笑んだ。
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