夜とパン

ドルドレオン

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僕はしばらく黙って、その記憶でできたパンを口に運び続けた。食べれば食べるほど、胸の奥で小さな引き出しが次々に開いていくような感覚があった。埃をかぶった古いカセットテープ、行方不明になった赤いマフラー、初めて読んだ村上龍の小説、夕暮れの電車の窓に映った彼女の横顔。ひとつひとつがぼんやりと浮かんでは消えていく。

「このパン、売ってないんですか?」
僕は尋ねた。
「売ってません。というより、売れないんです」
彼女は小さく首を振った。
「その人の記憶が入ってるから。あなたのものじゃないと意味がないんです」

「じゃあ……誰が焼いたんです?」
「パンは、パン自身が焼くんです」
彼女はカウンター越しにそう言った。

意味がわからなかったが、僕はそれ以上何も聞かなかった。そういう答えは、深く追及してもろくなことにならないことを僕は知っていた。世界には理屈を超えた何かがある。それは井戸の底の暗さに似ている。そして、その深さを覗き込んだ者が無事に戻ってくる保証はない。

雨はまだ降っていた。窓の外の街は、まるで水の中に沈んだ模型の都市のようだった。人々の動きはゆっくりで、輪郭が少しずつ滲んでいた。

「名前、聞いてもいいですか?」
僕は彼女に訊いた。

彼女は一瞬黙ってから、こう答えた。
「ミドリ、と言います。でも、たぶんそれは昔の名前です」

「昔って?」
「あなたがまだ、眠っていた頃のことです」

「……僕は今、目覚めてるんですか?」

彼女はその問いには答えず、奥の棚から小さなレコードを取り出してターンテーブルに乗せた。
針が落ちて、音楽が始まる。チェット・ベイカーのトランペットだった。

そのとき僕は、ふと気づいた。
コーヒーの湯気がもう立っていないことに。
そして、僕が持っていたはずの傘が、椅子の隣に置かれていることに。

——僕は最初から、この喫茶店を知っていたのかもしれない。
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