夜とパン

ドルドレオン

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「この傘、あなたのですか?」
僕は訊いた。声が少しかすれていた。

ミドリはコーヒーカップを拭いていた手を止め、傘をちらりと見た。
「ええ、あなたが置いていったものです」
「置いていった……って、前にもここに来たってことですか?」
「あなたはいつも、雨の夜にここへ来るの。でもそのたびに、自分のことを忘れてしまう」

「じゃあ、僕は前にもここでこのパンを食べて、同じように名前を聞いたりしたのかもしれない?」
「かもしれないわね。でもそれを覚えている人は、世界にひとりもいないの」
「……じゃあ、意味がないじゃないか」
僕はそう言った。少し感情が混じっていたかもしれない。

ミドリは少しだけ微笑んだ。その微笑みは、春の終わりに咲く名もない花のようだった。控えめで、誰にも気づかれずに散っていく。

「でも、意味がないことに意味があるのよ。世界って、そういうふうにできてるから」

僕は何も言えなかった。ただ、テーブルに残された半分のパンを見つめた。記憶でできたパン。僕が、僕の記憶すら思い出せないこの場所で、食べ続けているパン。

「ねえ」
ミドリが急に声をひそめた。
「この先に進みたい?」

「先?」
「この店のもっと奥。パンより深い場所。言葉にならないものが眠ってるところ」

僕は黙ってうなずいた。そうすることが正しいかどうかはわからなかったけど、そうしなければならないような気がした。まるで、自分でも知らない約束を思い出しかけているような感覚だった。

ミドリは棚の奥から古びた鍵を取り出した。真鍮のような光沢が、照明にぼんやりと浮かんだ。

「このドアの向こうには、時間がありません。時計も、歴史も、後悔も、存在しない。あるのは——あなただけ」

ドアは、カウンターの脇にあった。今まで気づかなかったのが不思議なくらい、目立たないドアだった。

鍵がカチリと音を立てたとき、僕の心臓がひとつ鼓動を飛ばした。

ドアを開けると、そこには長い階段があった。下へ下へと続いている。
深くて、静かで、まるで世界の底に向かっているようだった。

「もし戻ってこられなかったら?」
僕は振り返って尋ねた。

ミドリは静かに答えた。
「そのときは、パンがあなたを覚えていてくれるわ」

僕は階段を降り始めた。ひとつ、またひとつ。
靴音が、遠い夢の中の音のように響いた。
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