夜とパン

ドルドレオン

文字の大きさ
4 / 4

しおりを挟む
階段は果てしなく続いていた。
下へ下へと歩くたび、空気が少しずつ変わっていくのがわかった。湿っていて、どこか甘い匂いがする。熟れすぎた果実と、古い本のページの匂いが混じったような匂いだ。

途中、壁に何かの文字が刻まれていた。指でなぞってみると、まるで誰かが夢の中で書いた文章のように、意味を持たない言葉だった。

「わたしは、あなたが思い出さなかったことを思い出しています」

誰の言葉なのか、わからない。でもその文字を見た瞬間、胸の奥に沈んでいた何かがふと揺れた。

階段を降り切ると、そこには静かな部屋があった。
窓も、天井もない。ただ、空間がぽっかりと存在していた。
中央に古びたピアノがあり、その上には一冊のノートと、赤いマフラーが置かれていた。

僕はそのマフラーを見て、立ち尽くした。
——あのとき、彼女が電車の中で忘れていったものだ。
どうしてここにあるのかはわからない。けれど、それが「彼女のもの」だという確信だけははっきりとあった。

ノートを開くと、そこにはたくさんの文章が手書きで書かれていた。
でも、僕には読めなかった。
文字はまるで、見ようとするほど逃げていくようだった。
にじんで、滲んで、形を変えて、意味を拒絶する。

そのとき、後ろから声がした。

「やっぱり来たのね」

振り返ると、そこに彼女がいた。
雨の夜に別れたまま、もう二度と会うことはないと思っていた彼女。
髪も、声も、目の色も、何も変わっていなかった。
時間だけが止まっていた。

「ここはどこなんだ?」
僕は訊いた。声が少し震えていた。
「ここは、あなたが私を忘れるたびに作られる場所よ」
「忘れるたびに?」
「でも今回は、思い出しかけた。だからドアが開いたの」

彼女はそう言って、マフラーをゆっくりと首に巻いた。

「ねえ」
彼女は僕の目を見て言った。
「あなたは、私の名前を覚えてる?」

——その瞬間、何かが心の奥で溶けた。
冷たく凍っていた感情が、音もなく流れ出すのがわかった。

「……ユリ」
僕は答えた。
彼女は、静かに笑った。
その笑みは、どこかで聞いたトランペットの音に似ていた。

「じゃあ、もうパンはいらないわね」
彼女はそう言って、僕の手を取った。

部屋が、ゆっくりと光に包まれていく。
ピアノの上のノートが、ひとりでにページをめくり始めた。
そして——僕たちは、もう一度、雨の喫茶店に戻っていた。

カップにはまだコーヒーが残っていて、窓の外では雨がやんでいた。
傘はもう、必要なかった。

「じゃあ、行こうか」
僕は言った。

ミドリが静かにうなずいた。
その目には、何も言わなくてもすべてを知っている人の静けさがあった。

——そして、僕たちはドアを開けて、まだ見ぬ午後の光の中へと歩き出した。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end**

同居人の一輝くんは、ちょっぴり不器用でちょっぴり危険⁉

朝陽七彩
恋愛
突然。 同居することになった。 幼なじみの一輝くんと。 一輝くんは大人しくて子羊みたいな子。 ……だったはず。 なのに。 「結菜ちゃん、一緒に寝よ」 えっ⁉ 「結菜ちゃん、こっちにおいで」 そんなの恥ずかしいよっ。 「結菜ちゃんのこと、どうしようもなく、 ほしくてほしくてたまらない」 そんなにドキドキさせないでっ‼ 今までの子羊のような一輝くん。 そうではなく。 オオカミになってしまっているっ⁉ 。・.・*.・*・*.・。*・.・*・*.・* 如月結菜(きさらぎ ゆな) 高校三年生 恋愛に鈍感 椎名一輝(しいな いつき) 高校一年生 本当は恋愛に慣れていない 。・.・*.・*・*.・。*・.・*・*.・* オオカミになっている。 そのときの一輝くんは。 「一緒にお風呂に入ったら教えてあげる」 一緒にっ⁉ そんなの恥ずかしいよっ。 恥ずかしくなる。 そんな言葉をサラッと言ったり。 それに。 少しイジワル。 だけど。 一輝くんは。 不器用なところもある。 そして一生懸命。 優しいところもたくさんある。 そんな一輝くんが。 「僕は結菜ちゃんのこと誰にも渡したくない」 「そんなに可愛いと理性が破壊寸前になる」 なんて言うから。 余計に恥ずかしくなるし緊張してしまう。 子羊の部分とオオカミの部分。 それらにはギャップがある。 だから戸惑ってしまう。 それだけではない。 そのギャップが。 ドキドキさせる。 虜にさせる。 それは一輝くんの魅力。 そんな一輝くんの魅力。 それに溺れてしまう。 もう一輝くんの魅力から……? ♡何が起こるかわからない⁉♡

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

午後

ドルドレオン
恋愛
小説

処理中です...