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階段は果てしなく続いていた。
下へ下へと歩くたび、空気が少しずつ変わっていくのがわかった。湿っていて、どこか甘い匂いがする。熟れすぎた果実と、古い本のページの匂いが混じったような匂いだ。
途中、壁に何かの文字が刻まれていた。指でなぞってみると、まるで誰かが夢の中で書いた文章のように、意味を持たない言葉だった。
「わたしは、あなたが思い出さなかったことを思い出しています」
誰の言葉なのか、わからない。でもその文字を見た瞬間、胸の奥に沈んでいた何かがふと揺れた。
階段を降り切ると、そこには静かな部屋があった。
窓も、天井もない。ただ、空間がぽっかりと存在していた。
中央に古びたピアノがあり、その上には一冊のノートと、赤いマフラーが置かれていた。
僕はそのマフラーを見て、立ち尽くした。
——あのとき、彼女が電車の中で忘れていったものだ。
どうしてここにあるのかはわからない。けれど、それが「彼女のもの」だという確信だけははっきりとあった。
ノートを開くと、そこにはたくさんの文章が手書きで書かれていた。
でも、僕には読めなかった。
文字はまるで、見ようとするほど逃げていくようだった。
にじんで、滲んで、形を変えて、意味を拒絶する。
そのとき、後ろから声がした。
「やっぱり来たのね」
振り返ると、そこに彼女がいた。
雨の夜に別れたまま、もう二度と会うことはないと思っていた彼女。
髪も、声も、目の色も、何も変わっていなかった。
時間だけが止まっていた。
「ここはどこなんだ?」
僕は訊いた。声が少し震えていた。
「ここは、あなたが私を忘れるたびに作られる場所よ」
「忘れるたびに?」
「でも今回は、思い出しかけた。だからドアが開いたの」
彼女はそう言って、マフラーをゆっくりと首に巻いた。
「ねえ」
彼女は僕の目を見て言った。
「あなたは、私の名前を覚えてる?」
——その瞬間、何かが心の奥で溶けた。
冷たく凍っていた感情が、音もなく流れ出すのがわかった。
「……ユリ」
僕は答えた。
彼女は、静かに笑った。
その笑みは、どこかで聞いたトランペットの音に似ていた。
「じゃあ、もうパンはいらないわね」
彼女はそう言って、僕の手を取った。
部屋が、ゆっくりと光に包まれていく。
ピアノの上のノートが、ひとりでにページをめくり始めた。
そして——僕たちは、もう一度、雨の喫茶店に戻っていた。
カップにはまだコーヒーが残っていて、窓の外では雨がやんでいた。
傘はもう、必要なかった。
「じゃあ、行こうか」
僕は言った。
ミドリが静かにうなずいた。
その目には、何も言わなくてもすべてを知っている人の静けさがあった。
——そして、僕たちはドアを開けて、まだ見ぬ午後の光の中へと歩き出した。
下へ下へと歩くたび、空気が少しずつ変わっていくのがわかった。湿っていて、どこか甘い匂いがする。熟れすぎた果実と、古い本のページの匂いが混じったような匂いだ。
途中、壁に何かの文字が刻まれていた。指でなぞってみると、まるで誰かが夢の中で書いた文章のように、意味を持たない言葉だった。
「わたしは、あなたが思い出さなかったことを思い出しています」
誰の言葉なのか、わからない。でもその文字を見た瞬間、胸の奥に沈んでいた何かがふと揺れた。
階段を降り切ると、そこには静かな部屋があった。
窓も、天井もない。ただ、空間がぽっかりと存在していた。
中央に古びたピアノがあり、その上には一冊のノートと、赤いマフラーが置かれていた。
僕はそのマフラーを見て、立ち尽くした。
——あのとき、彼女が電車の中で忘れていったものだ。
どうしてここにあるのかはわからない。けれど、それが「彼女のもの」だという確信だけははっきりとあった。
ノートを開くと、そこにはたくさんの文章が手書きで書かれていた。
でも、僕には読めなかった。
文字はまるで、見ようとするほど逃げていくようだった。
にじんで、滲んで、形を変えて、意味を拒絶する。
そのとき、後ろから声がした。
「やっぱり来たのね」
振り返ると、そこに彼女がいた。
雨の夜に別れたまま、もう二度と会うことはないと思っていた彼女。
髪も、声も、目の色も、何も変わっていなかった。
時間だけが止まっていた。
「ここはどこなんだ?」
僕は訊いた。声が少し震えていた。
「ここは、あなたが私を忘れるたびに作られる場所よ」
「忘れるたびに?」
「でも今回は、思い出しかけた。だからドアが開いたの」
彼女はそう言って、マフラーをゆっくりと首に巻いた。
「ねえ」
彼女は僕の目を見て言った。
「あなたは、私の名前を覚えてる?」
——その瞬間、何かが心の奥で溶けた。
冷たく凍っていた感情が、音もなく流れ出すのがわかった。
「……ユリ」
僕は答えた。
彼女は、静かに笑った。
その笑みは、どこかで聞いたトランペットの音に似ていた。
「じゃあ、もうパンはいらないわね」
彼女はそう言って、僕の手を取った。
部屋が、ゆっくりと光に包まれていく。
ピアノの上のノートが、ひとりでにページをめくり始めた。
そして——僕たちは、もう一度、雨の喫茶店に戻っていた。
カップにはまだコーヒーが残っていて、窓の外では雨がやんでいた。
傘はもう、必要なかった。
「じゃあ、行こうか」
僕は言った。
ミドリが静かにうなずいた。
その目には、何も言わなくてもすべてを知っている人の静けさがあった。
——そして、僕たちはドアを開けて、まだ見ぬ午後の光の中へと歩き出した。
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