2 / 5
2
しおりを挟む
扉の向こうは、予想していたほど暗くはなかった。天井の低い通路がまっすぐに伸びていて、両脇には古い喫茶店のカウンターのようなものが並んでいる。客はいない。カウンターの上には、使われた形跡のない灰皿と、水の入っていないグラスが等間隔に置かれていた。
通路の奥に、白い紙が一枚落ちていた。拾い上げてみると、そこには何も書かれていない。だが、なぜかそれが「半分だけ形のあるもの」の一部だと直感した。紙は確かに紙だったが、そこにあるはずの意味が欠けているように感じられた。
通路の突き当たりに、小さな部屋があった。中には中年の女性が一人、椅子に座ってレコードを磨いている。音楽は流れていない。
「探し物ですか」と彼女は顔を上げずに言った。
「たぶん」と僕は答えた。「半分だけ形のあるものを」
「それなら、ここに来る人は皆そう言います」
彼女は棚から一枚のレコードを取り出した。ジャケットにはタイトルも演奏者も書かれていない。
「これは音のない音楽です。聴ける人と、聴けない人がいる」
「僕はどちらでしょう」
「まだ分かりません」
彼女はレコードを僕に渡した。持った瞬間、それが少しだけ重くなった気がした。だが、針を落とすプレーヤーはどこにもない。
部屋を出ると、通路の様子が変わっていた。カウンターは消え、代わりにいくつもの扉が並んでいる。それぞれに小さな札が下がっていた。「記憶」「後悔」「名前を付けなかった感情」――どれも曖昧で、しかし見覚えがあった。
「名前を付けなかった感情」の扉を開けると、そこは僕の昔の部屋だった。学生時代、誰かと二人で住んでいた部屋だ。相手の顔は思い出せない。ただ、夜になると必ず同じラジオ番組を聴いていたことだけは覚えている。
テーブルの上に、小さな箱があった。開けると、中には何も入っていない。だが、箱の内側には、確かに「あったはずのもの」の輪郭だけが残っていた。僕はそれを見て、初めて強い喪失感を覚えた。
その瞬間、電話の声が頭の中で再生された。
――半分だけ、形があります。
箱を閉じると、箱自体が消え、代わりに最初に拾った白い紙が手の中に戻ってきた。今度は、薄く線が浮かんでいる。それは文字になりかけているようでもあり、地図のようでもあった。
僕は理解した。探しているものは、完成した何かではない。意味になる直前の意味、言葉になる前の感情、選ばれなかったもう一つの人生。形はあるが、定義されていない。
地下道を抜けると、いつの間にか駅のホームに立っていた。レコードも紙も、もう手にはない。ただ、胸の奥に、うまく説明できない重みだけが残っている。
電車が到着する。ドアが開く。僕は一瞬迷い、それから乗り込んだ。失くしたものが完全に戻ることはないだろう。それでも、半分だけ形のあるそれと一緒に生きていくことはできる。そんな気がした。
電車が動き出すと、窓に映った僕の顔が、少しだけ違って見えた。
通路の奥に、白い紙が一枚落ちていた。拾い上げてみると、そこには何も書かれていない。だが、なぜかそれが「半分だけ形のあるもの」の一部だと直感した。紙は確かに紙だったが、そこにあるはずの意味が欠けているように感じられた。
通路の突き当たりに、小さな部屋があった。中には中年の女性が一人、椅子に座ってレコードを磨いている。音楽は流れていない。
「探し物ですか」と彼女は顔を上げずに言った。
「たぶん」と僕は答えた。「半分だけ形のあるものを」
「それなら、ここに来る人は皆そう言います」
彼女は棚から一枚のレコードを取り出した。ジャケットにはタイトルも演奏者も書かれていない。
「これは音のない音楽です。聴ける人と、聴けない人がいる」
「僕はどちらでしょう」
「まだ分かりません」
彼女はレコードを僕に渡した。持った瞬間、それが少しだけ重くなった気がした。だが、針を落とすプレーヤーはどこにもない。
部屋を出ると、通路の様子が変わっていた。カウンターは消え、代わりにいくつもの扉が並んでいる。それぞれに小さな札が下がっていた。「記憶」「後悔」「名前を付けなかった感情」――どれも曖昧で、しかし見覚えがあった。
「名前を付けなかった感情」の扉を開けると、そこは僕の昔の部屋だった。学生時代、誰かと二人で住んでいた部屋だ。相手の顔は思い出せない。ただ、夜になると必ず同じラジオ番組を聴いていたことだけは覚えている。
テーブルの上に、小さな箱があった。開けると、中には何も入っていない。だが、箱の内側には、確かに「あったはずのもの」の輪郭だけが残っていた。僕はそれを見て、初めて強い喪失感を覚えた。
その瞬間、電話の声が頭の中で再生された。
――半分だけ、形があります。
箱を閉じると、箱自体が消え、代わりに最初に拾った白い紙が手の中に戻ってきた。今度は、薄く線が浮かんでいる。それは文字になりかけているようでもあり、地図のようでもあった。
僕は理解した。探しているものは、完成した何かではない。意味になる直前の意味、言葉になる前の感情、選ばれなかったもう一つの人生。形はあるが、定義されていない。
地下道を抜けると、いつの間にか駅のホームに立っていた。レコードも紙も、もう手にはない。ただ、胸の奥に、うまく説明できない重みだけが残っている。
電車が到着する。ドアが開く。僕は一瞬迷い、それから乗り込んだ。失くしたものが完全に戻ることはないだろう。それでも、半分だけ形のあるそれと一緒に生きていくことはできる。そんな気がした。
電車が動き出すと、窓に映った僕の顔が、少しだけ違って見えた。
0
あなたにおすすめの小説
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚
ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。
五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。
ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。
年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。
慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。
二人の恋の行方は……
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる