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最終章
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『名前のない夜のワルツ』(つづき)
僕は譜面を手に、バーのカウンターに腰を下ろした。
ピアノの旋律が、まだ耳の奥に残っていた。
けれどそれは、もう自分の記憶ではないような気がした。
誰かの夢を借りて聴いているような、そんな感覚だった。
カウンターの上に、細いグラスがひとつ置かれていた。
誰かがついさっきまでそこにいたような、そんな温度。
氷はまだ溶けきっていなかった。
僕はグラスをそっと口に運んだ。
味はしなかった。ただ、冷たさだけが舌の上に残った。
すると、不意にピアノの音が響いた。
どこからともなく——いや、店の奥からだった。
誰かがあの旋律を弾いている。ゆっくりと、迷いながら。
僕は立ち上がり、音のほうへ向かった。
重たいカーテンをかき分けて、奥の部屋に足を踏み入れる。
そこには、一台のアップライトピアノと、その前に座る女性がいた。
アヤだった。
背中だけが見えた。細くて、脆くて、それでも鍵盤を探る手は確かだった。
「……来たのね」
彼女は振り返らずに言った。
「譜面、持ってきた?」
「持ってきた。でも、最後のフレーズが空白だった」
「それは、あなたしか書けない音だから」
「でも、僕は忘れてしまった。君のことも、音楽のことも」
「忘れることは罪じゃないの」
彼女はそう言って、振り返った。
その目を見た瞬間、僕はすべてを思い出しかけた。
秋の海岸で、波打ち際に座っていた彼女の姿。
真夜中の駅のベンチで、イヤフォンを片耳ずつ分け合って聴いたジャズ。
名前のない路地で、たった一度だけ踊ったワルツ。
「でも、どうして僕は君を忘れたんだ?」
僕は問うた。
アヤはピアノのフタをそっと閉じて言った。
「それは、あなたがこの世界に残らないためよ」
「残らない……?」
「音楽の世界は、記憶でできている。忘却は出口。思い出すことは、ここに留まること」
「じゃあ、僕はこのまま君を思い出せば……」
「あなたはこの現実には戻れない」
部屋は静まり返った。
アヤの声の余韻が、まるで音楽の残響のように漂っていた。
「ねえ」
彼女は僕の方を見て、かすかに微笑んだ。
「最後の音を書いて。あなたがここにいる証として」
僕は譜面の空白にペンを走らせた。
旋律は、迷いながらも浮かび上がってきた。
それは彼女の声に似ていた。あるいは、自分自身の記憶の輪郭だったのかもしれない。
音を書き終えた瞬間、ピアノがひとりでに鳴り出した。
書いたばかりのフレーズが、世界を満たしていく。
アヤは静かに目を閉じた。
そして、消えるように微笑んだ。
「これで、あなたはもう迷わない」
次の瞬間、僕は自分の部屋にいた。
ターンテーブルの上で、レコードがまた静かに回っていた。
音楽が戻ってきていた。
だけど、そこにアヤの姿はなかった。
ただ、譜面の切れ端がレコードジャケットの下に挟まっていた。
最後の小節だけが、丁寧に書かれていた。
そしてその下に、小さな文字があった。
「忘れないで。忘れても、音は残る」
— アヤ
『名前のない夜のワルツ』 了
僕は譜面を手に、バーのカウンターに腰を下ろした。
ピアノの旋律が、まだ耳の奥に残っていた。
けれどそれは、もう自分の記憶ではないような気がした。
誰かの夢を借りて聴いているような、そんな感覚だった。
カウンターの上に、細いグラスがひとつ置かれていた。
誰かがついさっきまでそこにいたような、そんな温度。
氷はまだ溶けきっていなかった。
僕はグラスをそっと口に運んだ。
味はしなかった。ただ、冷たさだけが舌の上に残った。
すると、不意にピアノの音が響いた。
どこからともなく——いや、店の奥からだった。
誰かがあの旋律を弾いている。ゆっくりと、迷いながら。
僕は立ち上がり、音のほうへ向かった。
重たいカーテンをかき分けて、奥の部屋に足を踏み入れる。
そこには、一台のアップライトピアノと、その前に座る女性がいた。
アヤだった。
背中だけが見えた。細くて、脆くて、それでも鍵盤を探る手は確かだった。
「……来たのね」
彼女は振り返らずに言った。
「譜面、持ってきた?」
「持ってきた。でも、最後のフレーズが空白だった」
「それは、あなたしか書けない音だから」
「でも、僕は忘れてしまった。君のことも、音楽のことも」
「忘れることは罪じゃないの」
彼女はそう言って、振り返った。
その目を見た瞬間、僕はすべてを思い出しかけた。
秋の海岸で、波打ち際に座っていた彼女の姿。
真夜中の駅のベンチで、イヤフォンを片耳ずつ分け合って聴いたジャズ。
名前のない路地で、たった一度だけ踊ったワルツ。
「でも、どうして僕は君を忘れたんだ?」
僕は問うた。
アヤはピアノのフタをそっと閉じて言った。
「それは、あなたがこの世界に残らないためよ」
「残らない……?」
「音楽の世界は、記憶でできている。忘却は出口。思い出すことは、ここに留まること」
「じゃあ、僕はこのまま君を思い出せば……」
「あなたはこの現実には戻れない」
部屋は静まり返った。
アヤの声の余韻が、まるで音楽の残響のように漂っていた。
「ねえ」
彼女は僕の方を見て、かすかに微笑んだ。
「最後の音を書いて。あなたがここにいる証として」
僕は譜面の空白にペンを走らせた。
旋律は、迷いながらも浮かび上がってきた。
それは彼女の声に似ていた。あるいは、自分自身の記憶の輪郭だったのかもしれない。
音を書き終えた瞬間、ピアノがひとりでに鳴り出した。
書いたばかりのフレーズが、世界を満たしていく。
アヤは静かに目を閉じた。
そして、消えるように微笑んだ。
「これで、あなたはもう迷わない」
次の瞬間、僕は自分の部屋にいた。
ターンテーブルの上で、レコードがまた静かに回っていた。
音楽が戻ってきていた。
だけど、そこにアヤの姿はなかった。
ただ、譜面の切れ端がレコードジャケットの下に挟まっていた。
最後の小節だけが、丁寧に書かれていた。
そしてその下に、小さな文字があった。
「忘れないで。忘れても、音は残る」
— アヤ
『名前のない夜のワルツ』 了
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