猫のいない図書館

ドルドレオン

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ナツメはぼくを連れて、図書館の奥のさらに奥へと進んでいった。棚が減っていく。代わりに、天井が高くなり、空間が静かに歪みはじめていた。重力が少しずつ変化しているような、不思議な感覚だった。

「ここから先には、本ではなく“音”が保存されてるの」とナツメが言った。

「音?」

「言葉になる手前の、鼓動や呼吸、風の揺れ。人がまだ言語に変換する前に感じていた記憶。そこには、正確な“意味”はない。ただ、存在の温度みたいなものが残ってる」

ぼくたちは小さな扉の前で足を止めた。木の扉には何も書かれていなかったが、そこからかすかに音が漏れていた。どこかで子どもが泣いているような、小さな波の音のような、あるいはまったく逆で、まったくの静寂が音になって聞こえてくるような、そんな不確かな響きだった。

ナツメがそっと扉を開けると、中には何もなかった。ただの広い、まっ白な空間。壁もなく、天井もない。地面の感触すらあいまいだった。

「ここが一番奥。“まだ誰にも触れられていない記憶”の部屋よ。ここに長くいると、自分が誰だったかもあやふやになる。でも、それでいいの。ここではそれが正しいの」

「君は……ここに、ずっといるの?」

「そう。でも時々、外に出ることもある。たとえば、誰かが夢の中でここを思い出したときとか」

「それは……ぼくみたいに?」

彼女はうなずいた。

「あなたはこの図書館をずっと前に一度訪れている。忘れてしまったけれど」

ぼくの胸の奥に、なにかが少しだけ痛んだ。その痛みは、遠い夏の日のような温度をしていた。思い出せそうで、思い出せない。けれど確かに、何か大事なものを、ここで一度置いていった気がした。

「君は——本当は僕の記憶なんじゃないか?」

ナツメは少しだけ笑った。まるで答えを濁すように。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、そんなことはたいして重要じゃないの」

「でも、君はたしかに“誰かの記憶”だって言った」

「ええ、でも記憶はいつだって不完全よ。どこまでが事実で、どこからが願望か、誰にも本当のことは分からない。でも——」

彼女はぼくの方をじっと見た。その目には、何かとても深いものがあった。まるで世界が一度終わったあとに、もう一度組み立て直されたような、そんな静けさがあった。

「あなたが私を忘れたとしても、私があなたを覚えていれば、それでいいの」

その瞬間、あたりがわずかに揺れた。白い空間の中に、ひとつだけ黒い影が落ちた。ゆっくりと近づいてきたそれは——猫だった。

小さな、細身の黒猫。しなやかな体と、静かな目。そしてその瞳は、まるで遠い星の光のように光っていた。

「この猫……」

「うん。この図書館が最初に拾った“記憶”。最初の物語。すべてのはじまり」

猫はぼくの足元にすり寄り、静かに鳴いた。それは言葉ではなかったが、ぼくにはその意味が分かった気がした。

「おかえり」と。

そして、ぼくはようやく気づいた。
ぼくはここに帰ってきたのだ。
この図書館に。
ナツメに。
猫に。
そして、まだ言葉になっていなかった、ぼく自身に。
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