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第一話
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小さなころからずっと嫌いなものが、いくつかある。着飾って出かけなくてはならない週末のパーティー。面白くなくても笑ってみせなければならない世間話。自分を取り繕うのが当たり前の世界。人と人との間に確かに存在する、身分という境界線。
そんなものが嫌で、私はあの窮屈な場所を飛び出したんだ——。
「おい、隼!頼んだ資料はまだか!」
上司の声に、舌打ちしたいのをこらえて「すみません、まだです。」と返す。コピー機も満足に使えないくせに偉そうに怒鳴り散らしやがって————という不満は口の中だけになんとか留めて、ごうんごうんと音を立てて資料を吐き出すコピー機を見つめる。あなたも大変そうね、こんなに毎日こき使われて。心の中でそんな風に労わってやると同時に、コピー機は最後の一枚を吐き出した。
吐き出された資料をページ順に並べ、上司のもとへ持っていく。どうやら電話中だったらしい彼は穏やかな口調のまま私から資料をひったくって邪険に追い払うという器用なことをやってのけて見せた。頭かち割ってやろうか?なんて思わないでもないけど。
まぁ、少なくともここでは、ここの人たちは、目の前にいる相手にどうやって取り入ってどうやって蹴落としてやろうか、なんてことを笑顔で考えたりはしないわけで。もし彼らがそんなことを考えたなら、それはもうわかりやすく、はっきりと敵意を向けてくるだろう。ここの人たちのその素直さが私には心地いい。それに、あの人たちが忌々しげに語る労働もそんなには悪くない。毎日暇で暇で仕方ない生活よりは、こういう忙しさの中にある————
「隼!何ボケっとしてんだ!勤務中だぞ!」
…程度ってもんはあるけどね。
私は隼 めぐる。小さくもなければ大きくもない、普通の企業に勤める普通の会社員だ。特別優秀な社員でもなければ、特別使えない奴ってわけでもない。いたって普通の社会人。強いて何か付け足すとするならば———
「隼さん。お昼だし、社員食堂いかない?」
「ありがとう。でも今日はお弁当持ってきてて。」
私はいいから、どうぞ。私がそういうと、心優しい同僚は私を気遣いながらもオフィスを後にした。
「———よし、行くか。」
同僚の後ろ姿を見送ってから、昼食の調達のために席を立つ。お弁当があるなんてのは嘘だ。社員食堂では、現金での支払いではなく、国から支給される階級証にツケる後払い制が採択されている。社員食堂なんて公の場で階級証を出してみろ、今まで必死に身分を隠してきた私の努力が一瞬でパーだ。いや、水の泡というべきか、大人としては。
私たちが暮らすこの国では身分の階級制が採択されており、それによって社会での待遇は大きく変わる。階級は大まかに分けると4つ。この国のトップである皇王様やその親族は『皇族』。言わずもがなこの国で一番の権力を持ち、国の顔として諸外国を飛び回ったり優雅に暮らすのが彼らの役目だ。それに続くのが『貴族』。皇族ほど偉くはないが、政治なんかをやっているのは彼らだ。しかし彼らの多くは労働などせず、日々を娯楽や自身の教養を豊かにすることに費やしている。そしてそれに次ぐ『平民』。政治に参加する平民もいないことはないが、彼らの多くは労働をして日々を送る。一番平凡な幸せを得ているのは彼らなのではないかと私は思う。———そして、最下層に値する『貧民』。彼らは財産も多くは持たず、決まった職業に就くこともあまりない。まぁ、これに関しては「就かせてもらえない」と言ったほうが妥当かもしれない。何せ彼らは、貴族や平民に対して羨望や敵意を抱くのではなく、完全に無視しているのだ。私も詳しくは知らないが、どうやら宗教か何かを立ち上げて、それを崇拝しているらしい。それが貴族や平民の皆さんの気に障るようなのである。まぁ、私にはどうでもいいことだけど。
ピンポン、とエレベーターの到着を告げる電子音が鳴って、扉が静かに開いた。幸いにも先客はいない。思わずほっとして、ため息がこぼれる。また誰かに昼食にでも誘われたりしたら面倒くさい。一階のボタンを押すと、扉が閉まり、ゆっくりと動き始めた。だんだんと移動していく回数表示のランプを眺めながらぼんやりと思う。
そもそも、階級制なんて必要?皇族さえいれば他の階級は要らなくない?この会社で働いていてつくづく思うけれど、平民の人々は自分たちの身分についてあまり気にしていない。貴族って働かなくてもいいんでしょ?いいよね~———せいぜいこんなものだ。それすらも本気で思っているというよりは他愛のない会話の一部という感じで。実際自分の地位に甘えて、おぼれて、威張っているのは貴族だけのように思う。権力なんかなくたって日々は充実していくものなのだから、おかしな身分なんていらないのに。
少なくとも私はそうだから、『貴族』なんて肩書は捨てた。
エレベーターが一階に到着し、再び扉が開く。外に出て、どこへ行くかも考えずにエントランスをつっきっていく。
平民として生活するようになって困っていることは一つだけ。
「お昼、どうすっかな。」
これだけだ。
今日の仕事も終わり、あとは帰路につくだけ。今日はスイーツでも買って帰ろうか——なんて考えた自分を殴りたい。おかげでスイーツどころの騒ぎじゃなくなった。通勤用のパンプスで全力疾走しながらほんの数十分前の自分の判断を呪う。
端的に何があったかを説明すると、追われている。もっというなら、自分の親族に追われている。なんのことはない、貴族という肩書を捨てて平民と同じ生活を送っている私は、親族の中では有名人なのである。そのため、たまにこうして親族たちが接触を図ってくるのだ。スマホに貴族という肩書とは何たるかという小論文のような説教を送りつけられることもあれば、普段は平民たちと同じ空気を吸うのもごめんだと言っているくせに、私を探すためだけにわざわざ街を歩き回っていたこともあった。今日はそこに出くわしてしまって、さらには顔まで見られてしまって。いい大人たちの全力のかけっこが始まってしまったわけである。
とはいえ、相手は普段ろくに動きもしない貴族様たちなのだ。少し走れば撒けるだろうと高をくくってはいたのだけれど。
「しつっこいな…。」
見つかってしまってから大分走っているのにも関わらず、あっちはまだ追ってきている。まぁ何となく察しはついていたけれど、人を雇ったようだ。しぶといし早い。そろそろ足が限界だった。どこかに隠れるべきか。
そんなことを考えながら走っていると、ある十字路が見えてきた。普段ならその十字路を右に曲がることはない。けれど今日に限っては話は違う。捕まらない程度に減速した足に負荷がかかる。パンプスのヒールがみしりと音を立てたような気がした。
角を曲がってすぐのところにあった細い路地道に転がり込むようにして身を隠す。古くさい室外機がごうごうと唸っている。その陰からそっと元来た道の様子を窺った。追手がきょろきょろとあたりを見回しながら通り過ぎていく。
ほっと息をついて立ち上がろうとした時だった。ぺきりと嫌な音が響く。足元を見ると、パンプスのヒールがぶらりと垂れ下がっていた。
「———うわ…。」
「あ~ァ、とれちゃってるねェ。」
聞きなれない声に、思わずびくりとしてしまう。なぜか頭上から響いてきた声に、空を振り仰ぐ。
そこには、夜の空より深い黒の髪の青年がいた。機嫌よさそうに弧を描く同じ色の瞳が、私を映している。
「こんばんは、オネーサン。」
怪しく微笑む彼の後ろで、月が鈍く輝いていた。
そんなものが嫌で、私はあの窮屈な場所を飛び出したんだ——。
「おい、隼!頼んだ資料はまだか!」
上司の声に、舌打ちしたいのをこらえて「すみません、まだです。」と返す。コピー機も満足に使えないくせに偉そうに怒鳴り散らしやがって————という不満は口の中だけになんとか留めて、ごうんごうんと音を立てて資料を吐き出すコピー機を見つめる。あなたも大変そうね、こんなに毎日こき使われて。心の中でそんな風に労わってやると同時に、コピー機は最後の一枚を吐き出した。
吐き出された資料をページ順に並べ、上司のもとへ持っていく。どうやら電話中だったらしい彼は穏やかな口調のまま私から資料をひったくって邪険に追い払うという器用なことをやってのけて見せた。頭かち割ってやろうか?なんて思わないでもないけど。
まぁ、少なくともここでは、ここの人たちは、目の前にいる相手にどうやって取り入ってどうやって蹴落としてやろうか、なんてことを笑顔で考えたりはしないわけで。もし彼らがそんなことを考えたなら、それはもうわかりやすく、はっきりと敵意を向けてくるだろう。ここの人たちのその素直さが私には心地いい。それに、あの人たちが忌々しげに語る労働もそんなには悪くない。毎日暇で暇で仕方ない生活よりは、こういう忙しさの中にある————
「隼!何ボケっとしてんだ!勤務中だぞ!」
…程度ってもんはあるけどね。
私は隼 めぐる。小さくもなければ大きくもない、普通の企業に勤める普通の会社員だ。特別優秀な社員でもなければ、特別使えない奴ってわけでもない。いたって普通の社会人。強いて何か付け足すとするならば———
「隼さん。お昼だし、社員食堂いかない?」
「ありがとう。でも今日はお弁当持ってきてて。」
私はいいから、どうぞ。私がそういうと、心優しい同僚は私を気遣いながらもオフィスを後にした。
「———よし、行くか。」
同僚の後ろ姿を見送ってから、昼食の調達のために席を立つ。お弁当があるなんてのは嘘だ。社員食堂では、現金での支払いではなく、国から支給される階級証にツケる後払い制が採択されている。社員食堂なんて公の場で階級証を出してみろ、今まで必死に身分を隠してきた私の努力が一瞬でパーだ。いや、水の泡というべきか、大人としては。
私たちが暮らすこの国では身分の階級制が採択されており、それによって社会での待遇は大きく変わる。階級は大まかに分けると4つ。この国のトップである皇王様やその親族は『皇族』。言わずもがなこの国で一番の権力を持ち、国の顔として諸外国を飛び回ったり優雅に暮らすのが彼らの役目だ。それに続くのが『貴族』。皇族ほど偉くはないが、政治なんかをやっているのは彼らだ。しかし彼らの多くは労働などせず、日々を娯楽や自身の教養を豊かにすることに費やしている。そしてそれに次ぐ『平民』。政治に参加する平民もいないことはないが、彼らの多くは労働をして日々を送る。一番平凡な幸せを得ているのは彼らなのではないかと私は思う。———そして、最下層に値する『貧民』。彼らは財産も多くは持たず、決まった職業に就くこともあまりない。まぁ、これに関しては「就かせてもらえない」と言ったほうが妥当かもしれない。何せ彼らは、貴族や平民に対して羨望や敵意を抱くのではなく、完全に無視しているのだ。私も詳しくは知らないが、どうやら宗教か何かを立ち上げて、それを崇拝しているらしい。それが貴族や平民の皆さんの気に障るようなのである。まぁ、私にはどうでもいいことだけど。
ピンポン、とエレベーターの到着を告げる電子音が鳴って、扉が静かに開いた。幸いにも先客はいない。思わずほっとして、ため息がこぼれる。また誰かに昼食にでも誘われたりしたら面倒くさい。一階のボタンを押すと、扉が閉まり、ゆっくりと動き始めた。だんだんと移動していく回数表示のランプを眺めながらぼんやりと思う。
そもそも、階級制なんて必要?皇族さえいれば他の階級は要らなくない?この会社で働いていてつくづく思うけれど、平民の人々は自分たちの身分についてあまり気にしていない。貴族って働かなくてもいいんでしょ?いいよね~———せいぜいこんなものだ。それすらも本気で思っているというよりは他愛のない会話の一部という感じで。実際自分の地位に甘えて、おぼれて、威張っているのは貴族だけのように思う。権力なんかなくたって日々は充実していくものなのだから、おかしな身分なんていらないのに。
少なくとも私はそうだから、『貴族』なんて肩書は捨てた。
エレベーターが一階に到着し、再び扉が開く。外に出て、どこへ行くかも考えずにエントランスをつっきっていく。
平民として生活するようになって困っていることは一つだけ。
「お昼、どうすっかな。」
これだけだ。
今日の仕事も終わり、あとは帰路につくだけ。今日はスイーツでも買って帰ろうか——なんて考えた自分を殴りたい。おかげでスイーツどころの騒ぎじゃなくなった。通勤用のパンプスで全力疾走しながらほんの数十分前の自分の判断を呪う。
端的に何があったかを説明すると、追われている。もっというなら、自分の親族に追われている。なんのことはない、貴族という肩書を捨てて平民と同じ生活を送っている私は、親族の中では有名人なのである。そのため、たまにこうして親族たちが接触を図ってくるのだ。スマホに貴族という肩書とは何たるかという小論文のような説教を送りつけられることもあれば、普段は平民たちと同じ空気を吸うのもごめんだと言っているくせに、私を探すためだけにわざわざ街を歩き回っていたこともあった。今日はそこに出くわしてしまって、さらには顔まで見られてしまって。いい大人たちの全力のかけっこが始まってしまったわけである。
とはいえ、相手は普段ろくに動きもしない貴族様たちなのだ。少し走れば撒けるだろうと高をくくってはいたのだけれど。
「しつっこいな…。」
見つかってしまってから大分走っているのにも関わらず、あっちはまだ追ってきている。まぁ何となく察しはついていたけれど、人を雇ったようだ。しぶといし早い。そろそろ足が限界だった。どこかに隠れるべきか。
そんなことを考えながら走っていると、ある十字路が見えてきた。普段ならその十字路を右に曲がることはない。けれど今日に限っては話は違う。捕まらない程度に減速した足に負荷がかかる。パンプスのヒールがみしりと音を立てたような気がした。
角を曲がってすぐのところにあった細い路地道に転がり込むようにして身を隠す。古くさい室外機がごうごうと唸っている。その陰からそっと元来た道の様子を窺った。追手がきょろきょろとあたりを見回しながら通り過ぎていく。
ほっと息をついて立ち上がろうとした時だった。ぺきりと嫌な音が響く。足元を見ると、パンプスのヒールがぶらりと垂れ下がっていた。
「———うわ…。」
「あ~ァ、とれちゃってるねェ。」
聞きなれない声に、思わずびくりとしてしまう。なぜか頭上から響いてきた声に、空を振り仰ぐ。
そこには、夜の空より深い黒の髪の青年がいた。機嫌よさそうに弧を描く同じ色の瞳が、私を映している。
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