私のなかの、なにか

ちがさき紗季

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私のなかの、なにか  前編

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    プロローグ


 薄暮の渋谷を歩いていると、ふいに胸が苦しくなって息が詰まりそうになる。
 人、人、人、人、本当にすごい人だ――。
 好んでこんな場所なんか通りたくない。やっぱり人の波が恐い。だけどスマホで調べた楽器店は駅の北側にある。別の道を選んだところで、この街の人混みはそれほど変わりないし、遠回りになるだけだし。私は人いきれに慄きながら歩行者用の赤信号で足を止める。
 渋谷のスクランブル交差点。生まれ故郷の町じゃ考えられないくらい、道路が広くて交通量が多い。テレビのニュースやネットで数えきれないほど見てきたけど、実際に四角い広場みたいな交差点を目の当りにすると、あらためてここは都会なんだと感じる。
 信号が青に変わる。号令に従うようにいっせいに動きはじめる人だかり。それらの群れに圧されながら、私も前へと進む。背後から近づく人たち。反対側から向かってくる人たち。斜めに横切ってくる人たち。無数の他人に四方を包囲されているみたいで、今度は眩暈がしてくる。さらに嫌でも視界に映りこむのは、人と人とのつながり合いだ。手をつなぐ高校生男女。笑顔で話する女子二人連れ。カラダを寄せ合ってすれ違う大人のカップル。スマホを見つめて指先で操る同年代女子。陽気に声を上げてスマホにしゃべる十代男子。みんな誰かとつながっている。誰もが誰かに支えられている。けど、私は違う。今、何百人もの他人の群れのなかで、自分だけが孤独なのかもしれない。
 顔を上げると渋谷最大級のCDショップが目に飛びこむ。ポップスの神童と謳われる新人女性アーティストの特大ポスターが何枚も連ねて貼ってある。私は眩しいものでも見るように目を細めてしまう。直後、せわしげに移動する群衆のなか、視覚の片隅で捉えたような気がした。あの人たち、を――。
「ま、まさか――」
 人が行き交う横断歩道の中央で、思わず立ちすくんでしまった次の瞬間のこと。
 ドゥッ。突然だ。右肩をうしろから弾かれるように激しく突かれた。
「い、痛いっ!」短く叫ぶと同時、つんのめるようにして左足が前へ出る。
「ジャマだっーの、なにこんなとこで、立ち止まってんだよ!」 
 背後から私にぶつかってきた金髪の若い男性が吐き捨てるように乱暴な言葉を向ける。
「ギャハッァ、超ウケるんだけど」
 連れの若い女性の甲高い声が重なる。二人は笑いながらその場を去っていく。
 あ――バランスを失って、うろたえたときは手遅れだった。
 私は前のめりで黒いアスファルトに突っ伏すようにして崩れていた。縋るように目を動かし、あの人たちを捜すけど、数秒で数百人があっという間に人波に呑まれていくこの密集地帯で見つかるわけない。潮が引くように、人の群れが去っていくなか、冷たいアスファルトに両手をついたまま、ふいに昨夜の夢を思い出す。
 アコギに合わせて家族三人で歌ったビートルズのバラード『Something』。私たちは言葉で表せない素敵な『Somethings』、〝なにか〟を淡く未来に期待し、そして信じようとしていた。そのはずだった。だけどあの真冬の朝、裏切られた。見捨てられた。
 私は祝福されない子だ。それでも泳ぐ目で、私はあの人たちを捜そうとしている。もうこの世界には存在しないと諦めていながら。
「だ、大丈夫ですか?」いきなり男の人の声が上から落ちてきた。仰ぐと、グレーのスーツ姿の知らない中年男性が遠慮がちに右手を差し伸べてくる。
「ほら、立って」言いながら、男の人の手が近づく。眼鏡をかけた、四十くらいの会社員。悪い人ではなさそうだったけど、身構えて躊躇してしまう。
「危ないよ、こんなとこに座ってちゃ、だからさ、さあ、ほら」
 縮こまっている私の手にその指先が迫ってくる。
「す、すみません、大丈夫ですから、ほんとに」
 腕をすくめて立ち上がり、赤信号に変わったばかりの横断歩道の路面を蹴って逃げる。私は誰ともつながらない。誰にも頼らない。誰かと関わったところで、傷つくだけだから。
 間もなく反対側の歩道に渡りきり、私は思い思いの方向に流れる雑踏の一片と化した。楽器店までの道のりを歩きながら考えるのは、今しがた視界に映りこんだあの人たちのこと。あれは実物なのだろうか、それとも――。思案したところで、どうしようもない。あの事件から五年も経った。私たちの『Somethings』、〝なにか〟は消えてしまった。

  *

 十八歳のとき、七百キロ西の郷里を離れて東京へやって来た。大学へ進学するため。それから三年あまりの月日が流れた。
 私はここにいる――そう、いつも心で叫びつづけ、歌いつづけてきた。けれども結局、自分の想いも歌も届かなかった。
 得体の知れない〝なにか〟に囚われ、負けてしまってからというもの、私は存在理由すら見失おうとしている。
    



    第一章


    1 
    
 朝、目覚めたら、しんという静けさが家のなかを支配していた。
 すごく変だ、と直感した。理屈じゃなくそれがわかった。
「お母さん――ねえ、お母さん?」
 ベッドから起き上がった私は、声を出しながら自分の部屋を出ていく。
 二階にある私の部屋の斜め向かいが両親の寝室だった。ドアノブを握って開けるけど、部屋には父も母もいない。ダブルベッドに目が止まる。掛け布団やシーツが皺ひとつなくきちんと整えられている。不穏な違和感に拍車がかかる。記憶の限り、こんなきれいな両親の寝起きのベッドは見たことない。チェックイン直後のホテルのような感じ。真冬の朝特有の淡く白い光がカーテンの隙間から射し、ひっそりと冷たい空気だけが満ちていた。
 私は階段を降りて一階へと向かう。ひんやりした木製の踏板をひと足ひと足下ろすにつれ、胸がざわついてくる。おかしい。なにも音が聞こえてこない。
 いつもなら、お母さんがキッチンで朝食を作っているはず。お父さんはダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいるはず。仲の良い両親は朝からあれこれおしゃべりしているのが日課だった。それに音楽好きの二人は、毎朝、食事しながらBGMを流す習慣がある。洋楽でも邦楽でも、ジャンルにこだわりなく気分で楽しんでいた。
 はたしてリビングダイニングにも誰もいなかった。キッチンのシンクもワークトップも整然と片づけられ、料理を作った形跡はない。テーブルも同様だった。それに真冬だというのに、暖房をつけていた名残りもない。冷気だけが一階の広い空間に停滞している。
 私は現実がうまく呑みこめず、ただぼんやりとその場に立ちすくんだ。
 どれくらいの時間が経過した頃だろう。
「お父さん? お母さん? ねえ、お父さんっ! お母さんっ!」
 大声で二人を呼んでみる。自分の声の残響が、静まり返った空気に溶けて消えていく。
 異様な不安感と焦燥感がこみ上げてきた。
 中学三年生の三学期が間もなく終わろうとする、二月半ばの真冬の朝のこと。 
 世界は真っ黒に塗り替えられていく。



 ひとり娘の私はこれまで両親から寵愛を受け、育てられた。
 実業家の父は大学卒業後、いくつかの飲食店を転職し、三十歳を前に独立して成功を収めたという。母は大学を出て普通にOLをしていたが、父の独立を機に退職して結婚、そして翌年に私を出産した。
 その後、父の事業は順調に成長を遂げ、飲食以外にもいろいろなビジネスを手掛けていた。私たちは市内の高級住宅街の大きな戸建てに住み、不自由のない生活を送っていた。
 少なくとも私が十五歳までは、そういう暮らしぶりがつづいた。
 多忙を極める父の帰宅は毎日深夜で、朝食のときに会うくらいだった。母もまた父の会社の仕事を手伝うため外出することが多かった。
 自営業の家庭はどこもそうなのだろう。両親には週末も祝日も関係なかった。特に父は仕事がらみのゴルフや付き合いが多く、ほとんど家にいなかった。それでも誕生日や結婚記念日といった家族のイベントのときは、必ず三人でお祝いして団欒を楽しんだ。
 二人の共通の趣味は音楽だ。父はギターが得意で、母はピアノがすごく上手だった。そんな両親の影響を受け、私は小学校の頃から吹奏楽部に入り、トロンボーンを吹いていた。
 父は陽気で太陽みたいな人だった。たまに早く帰宅した晩には、ワインを飲んでほろ酔い気分になると、リビングに置いてあるマーチンというアコギを手にして弾き語りを歌った。高校時代からバンドを組んでいたというギターの腕はなかなかで、歌もうまかった。母と一緒にやっていた大学時代のバンドは事務所にスカウトされたほどだと、どこまで本気かわからない自慢をよく口にしていた。だけどあながち嘘ではなかったのかもしれない。
 今でも記憶に残っているのは両親の声だ。お父さんもお母さんも透き通るようによく響く歌声で、二人でハモるとプロの歌手のように美しい旋律が部屋の空気を震わせた
 そんな父が大好きだったのはビートルズ。ジョンやポールの名曲は数知れずあるのに、ジョージ・ハリソンが作詞作曲して歌も担当する、珍しいナンバーがお気に入りだった。
 曲名は『Something』。父いわく屈指のラヴソングだということで、、レイ・チャールズやジェームス・ブラウンといった大御所アーティスト多数がカヴァーしているらしい。
 当時、小学六年生だったとき、タイトルの意味を訊いたことがあった。
「Somethingっていうのは、英語で〝なにか〟という意味なんだよ」父は言った。
「なにか?」私が復唱すると、
「うん。莉子にはまだ難しいだろうけど、恋する人に心が惹かれる理由っていうのは、本人でもはっきりと言葉で表現できなくて、むしろ言葉じゃ表すことができない〝なにか〟が、相手にも自分にも、同じように心のなかに生まれて、そうして惹かれ合うんだよ」
 正直、まるで理解できなかった。私が小首を傾げていると、
「まだ莉子には早いわよ。そのうち誰かを好きになって恋をすればわかるわ。ここがほんわりと切ないけど温かくなって、〝なにか〟を感じるようになるから」
 キッチンにいた母が笑いながら、自分の胸元にそっと手を触れた。
「〝なにか〟かあ――」私はつぶやいた。
 父が気持ち良さげに歌い、母も優しげな声でコーラスを合わせるビートルズの『Something』を聴き、いつか自分も大人になって恋をすればわかるんだろうな、と思った。
 そのとき、私はすごく幸せな気分になれた。

    *

 両親の失踪後、もっとも近しく付き合いがあった、母の妹にあたる叔母のマンションに私は引き取られる。二月半ばの真冬のあの朝、両親がいなくなって混乱する私はすぐに彼女に電話した。わずか三十分ほどで駆けつけた叔母は、だだっ広いリビングで呆然と立ちすくむ私をそっと優しくハグしてくれた。
 あのとき私は体温を失いかけるほど全身が冷たくなっていた。彼女の温もりに包まれながら、ようやく体内にどくどく血が通いはじめるのを感じることができた。
 叔母は七年前に離婚し、それまで住んでいた東京から戻ってきた。子どもはいない。母より八つも年下で、まだ三十代。見た目はさらに若くて二十代に映った。しかも若々しいだけでなく、身内の私から見てもすごい美人だった。
 両親が忙しかったため、郷里に戻ってきてからは、よく週末を一緒に過ごしてくれた。
 とはいえ彼女は東京に本社がある大手商社に勤めている。離婚後の引越しを機に、こっちの支社で営業部の管理職をやっていた。
 叔母は『おばさん』と呼ばれるのが嫌で、「私の名前は曜子だから」としつけられた。
『曜子さん』って呼ぶと、『曜子ちゃん』と訂正されたのは、たしか小学四年生の頃。
 以来、私たちはお互いをちゃん付けで呼ぶようになる。
 昔から曜子ちゃんは、大人の保護者というより、年の離れた姉みたいな存在だった。
 彼女のマンションには私のほかに、父がよく弾いていたマーチンのアコギも連れられて来た。当時の私がそれを見るたびに辛くなるのがわかっていたのだろう。
 曜子ちゃんはなにも言わず、3LDKのどこかにアコギを隠しておいてくれた。

「莉子ちゃん?」
 バルコニーの欄干に寄りかかって春の夜風に吹かれていると、曜子ちゃんが呼ぶ。
「なに?」
 振り返ると、オリーブグリーンのバスローブを羽織ったお風呂上りの彼女が、サンダルを履いて私の隣に並んだ。
「ね、高校、どうする?」
 肩まで伸びた半乾きのセミロングが夜風でふわふわ揺れている。
 即座には答えられない。曜子ちゃんが訊いている意味がわからないわけ、ないけど――。
 両親が失踪してからというもの、私は中学に通えなくなった。幸い、成績が良かったことと、中三の二学期まで無遅刻無欠席だったことで、問題なく卒業できるという話だった。
 不登校になった理由――それは周囲の目がおそろしくなったから。
[親に捨てられた悲惨女子][犯罪に手を染めて殺された毒親][超ヤバいブラック家族]
 目を覆いたくなるくらいひどい書きこみが、瞬く間にネット上に蔓延していった。
 まったく眠れなかった失踪翌日の真夜中、おそるおそるスマホで調べてみて知った。
 私は県下唯一のミッション系中高一貫校に通っていた。特別目立つタイプではなかったけど、それなりに友だちもいて楽しい学校生活を送っていた。自営業で家が裕福なのは、特に誰も口にしなかったものの周知の事実だった。だからこそ、なんだと思う。
 噂は一瞬にして校内に広まり、実名も住所もSNSで拡散された。他人の不幸を喜々として面白がる人は世の中にたくさんいる。頭ではわかっていたけど、こんなにも残酷に盛り上がるなんて――。誰かが誰かを扇動すると、誰かは誰かをさらに扇動する。
 仲の良かったクラスメートや吹奏楽部の友だちの顔が次々と浮かんでは消えていった。
 公開処刑は今もネット上でつづいているはず。匿名の闇から、無数の毒矢が放たれつづけているのだろう。毒牙は私を標的に定め、悪意の塊はいまだ私を攻撃しつづけているのだろう。もう中学にも高校にも通えないと心が折れてしまったのは、両親失踪の三日後のこと。そのまま進学できるはずだった高校のスレッドでも、私の名前や顔写真はもちろん、あることないことが書きこまれ、晒されているに違いなかった。
 自分の殻に閉じこもる私を察し、曜子ちゃんが両親についてまったく触れなくなったのは、その頃から自然に生まれた不文律だった。
 そうして四月を迎えても、私は一歩たりともマンションの外に出られなかった。
「――無理だよ」正直な気持ちをぽろりと返したら、彼女はかすかに息をついた。
「だよね――」そう言って私と同じように欄干にもたれて星のない夜空を見つめる。
「あの、曜子ちゃん」
「なに?」
「私、ここにいて、いいの?」
 即座に反応して顔が向けられる。「なに言ってるの?」
 すぐさま返された彼女の言葉が胸に突き刺さる。
 強い口調とは真逆で、本当に私のことを想ってくれているのがわかる。
 こういう人なんだ、曜子ちゃんって。普段からさばさばした性格で、幼い私に対しても距離感のとり方がとても上手な人だった。子どもの自主性と自由意志を尊重してくれる独特な懐の深さもある。そしてべたべたしないけど、優しさと思いやりに満ちたハートを持っている。このマンションに引き取られた最初の一週間、彼女は会社を休んで一緒に過ごしてくれた。すごく忙しいはずなのに、ずっとそばにいてくれた。その間、特別気を遣う言葉をかけるわけでも、優しく接するわけでもない。ただ、静かに二人で暮らした。
 私は彼女のおかげでなんとか日常を取り戻そうと思うことができた。もっともそれはマンション内の二人だけの世界に限られてのことだけど。
「だって――」喉の奥で声が詰まってしまって、そこから先の言葉はつづかない。
 だって――私がいるだけで迷惑をかけているはずだし。突然ひとり暮らしの空間に割りこむようにして転がりこんでしまって本当は気づまりだろうし。事情が事情だけに私の存在自体が腫れ物に触るようなものだろうし。しかも、いなくなってしまった実の姉の心配もあるはずなのに、まるでそういう素振りを見せようともせず、気丈に振る舞っている。
「あなたはここにいるのよ。私が守るから」
 彼女はきっぱりと言い切った。「だけど、できれば高校には行ってほしいの」
 そこで初めて私は曜子ちゃんと目を合わせる。
「そして、新しい場所で自分が夢中になれる、好きなことを見つけなさい」
「す、好きな、こと?」
「そうよ。すぐには無理だと思うけど。必ず見つかるはずだから。まだ十五歳なのよ。また吹奏楽部に入ってトロンボーンを再開してもいいし」
 そう言われても、今の自分には難しすぎて、どう返事していいかわからない。
「いつか、きっと、会えるよ」
 え? 思わず顔を上げる。両親が失踪して一ヶ月半。初めて彼女はその件に触れる。
「諦めないで信じてみようよ」曜子ちゃんはまっすぐに私の目を見て肯く。
「あなたがしっかりと生きていけば、この先、必ず再会できる。私はそう信じている」
 失われたはずの〝なにか〟が震えたような気がした。
 突如、両目から涙がこぼれる。私は両親がいなくなって、初めて泣いた。
 失踪当日は泣くことすらできないほど、恐怖と混乱と動揺で憔悴し切っていた。それから曜子ちゃん宅に引き取られからは、絶対泣いちゃいけないって固く心に決めていた。彼女だって同じように傷ついているはずだし、辛いはずだから。甘えちゃ駄目だって自分に言い聞かせていた。だけど、面と向かって両親のことを言われた瞬間、決壊してしまった。
「よくがんばったね。あの朝、私が駆けつけたときも、警察の人たちに話すときも、莉子ちゃん、ずっとこらえて泣かなかったもんね。えらかったよ」
 言いながら私の両肩にすらりとした腕を回し、あの朝と同じように優しくハグしてくれる。私は必死で嗚咽をこらえようとしたけど、涙は止まらない。
「泣いていいんだよ。お父さんとお母さんのこと、なんだって話していいんだよ」
 春の夜風に洗われるなか、私は彼女に支えられながら立っているのがやっとだった。
 
「岬回高校?」
「ええ。私立の高校でね。ここからはちょっと距離があるけど、電車の便はいいから、一本乗り継いでも一時間ちょっとよ」
 曜子ちゃんがパンフレットを差し出す。聞いたことない高校だった。
「会社の先輩の息子さんが通っててね。まだ新しめの学校なんだけど、自由な校風で、通信制クラスもあるんだって。生徒の自主性をすごく重んじるし、きちんとしたところはきちんとしてるっていう、いい意味で大らかなさばけた高校だそうよ」
 まるで曜子ちゃんみたいな学校だね、と思ったけど言葉にはしなかった。それよりも私の進学を今なお真剣に考えてくれていた彼女の真心に感謝する。
「でも、もう四月も半分終わったよ。試験も受けてないし、こんな時期から入学できるの?」
「うん、大丈夫みたい。編入制度も独自で、四月入学が必須ってわけでもないんだって」
 若くして役職に就いている曜子ちゃんは、とても会社が忙しいはずなのに、しっかり調べてくれたんだと思う。
「そうなんだ――」
 じっとパンフレットの表紙に視線を落としたまま、か細い声でなんとか答える。
 たとえ地元から離れた高校に行っても、川奈莉子という十五歳女子に刻まれたネット上の残酷なデジタルタトゥーが消えることはない。どんなに自由な校風で生徒の自主性を重んじる高校であっても、私をターゲットにして醜聞を書きこみ、現在も未来をも傷つけて奪おうとする匿名のネット住民がいなくなることはないはずだ。
「あのね、苗字を変えたらどうかなって、思ってるんだけど」
「え?」意外すぎる提案を切り出され、私は顔を起こして曜子ちゃんをまじまじ見つめる。
「もろもろの事情のさわりだけ、学校の人に話してみたら、ぜひそうしたほうがいいってアドバイスをいただいてね。そういうことに寛容な学校だから。あ、ほんとに少しだけよ、説明したのは。だから安心して」
 彼女は朗らかに笑って、デリケートな部分を包みこみながらさらりと説明してくれる。実際はすごく慎重に、可能な限りの時間をかけて方法論を見つけてくれたはず。
 未来が消えかけている私に、最善で最良の選択肢を見定めて、前へ進めるように。
「あくまで表向きだからね。私の苗字の雪野にして入学すれば、それでいいって。戸籍をどうしてとかじゃなくて。ほら、こういう時代だから、けっこうあるんだって」
 正直、苗字を変えるなんていう発想はなかった。けど、バーチャルなネット世界で私たちを攻撃する人に対抗するには、それくらいバーチャルな方法を講じてもいいと思える。
「一度、話だけでも聞きにいかない? 私と一緒に。いつでも会社休めるから。あ、もちろん、莉子ちゃんが嫌だって思うのなら、この話はなかったことにして、ぜんぜん――」
「行ってみます」私が言うと、曜子ちゃんは一瞬驚きながらも、訊いてくる。
「無理しなくていいからね」
「かんばってみる。だって私がしっかりと生きていけば、必ず再会できるんでしょ。だったら私、やってみる」
 
 岬回高校への入学が正式に決定したのは、五月下旬。十六歳になってすぐのこと。
「はい、これで六月一日の月曜日から登校よ。初日は私も付き添ってあげるから」
 会社から帰宅した曜子ちゃんはスーツ姿のまま、私が使わせてもらっている部屋のドアをいきおいよく開けると、入学通知書を掲げた。順調に進んでも梅雨明けくらいかな、と考えていた私は驚く。一週間後の高校入学を告げられ、焦らなかったといえば嘘になる。 
「よかったね、莉子ちゃん。きっと楽しい高校生活になるよ」
 自分のことのように喜々とする曜子ちゃんを目の前にすると、思わず笑顔を作ってしまう。そして手にしていたスマホをうしろに回して手放す。
 ネット恐怖症に陥っているのに、真夜中に眠れなくなったり、ふいに不安に駆られたりすると、この頃は依存症気味にエゴサしてしまう悪癖に捉われていた。両親失踪にまつわる新情報をすべて確認しないと落ち着かない。傷つくとわかっていても、どこかに生存情報とか救いのコメントがあると思いはじめたら、やめられなくなっていた。
 ネットには、失踪者の行動パターンとか心理状態とか、発見される確率とか、そして失踪から一年ごとに下がっていく生存率の数字といった、専門家による解説やデータもたくさんアップされていた。絶望しながらも、それらを片っ端から読んでいった。
 むろん、私が期待し、望む情報など見当たらない。数こそ一時期より減ったものの、自分の名前で検索すれば、相変わらず残酷でむごたらしい、嘘だらけの書きこみだけが画面いっぱいに表示される。毒親を追いこんだ毒娘だとか、過度の共依存がもらたした歪んだ家族関係だとか、川奈莉子を絶対に逃がすまいと、悪意の書きこみを繰り返す執拗な追手は存在しつづける。そこには真の闇があった。たぶん、ほとんどが同じ中学の同級生なんだと推測する。でなければ知り得ない個人的な情報がかなり散見されるからだ。
 岬回高校に入学して、さらなる炎上に晒されないのだろうか? 苗字を変えれば大丈夫だと言う曜子ちゃんを信じたい反面、ネットの追手はそんなに甘くないとも思ってしまう。
「どうしたの? なんか元気ないね」
「べ、別に、なんでもないよ」
 曜子ちゃんはじっと私の目に視線をとどめる。よく整った二重のきりりとした瞳で見つめられると、魂の底まで透視されているような気分になる。
「――もう少し、時間を置こうか。そのほうが莉子ちゃんにはいいんだよね。ちゃんと気持ちを汲み取れなくて、私のほうこそ、本当にごめんなさい」
 すまなそうに俯き加減になる彼女を見ていて、はたと気づく。曜子ちゃんは、私の母親になろうと必死でがんばっているんだ。お姉さんがいなくなってしまった責任を自分ひとりで引き受け、私を守ろうとしている。子どもがいないのに、我が子のようにきちんと育てなきゃって、あの事件で決意して、私を引き取ってくれたんだ。
 なんて私は浅はかなんだろう。一番近くで私のことを真剣に考えてくれて、心配してくれている人がいるのに、いつまでも新しい一歩が踏み出せないでいる。 
「あの、曜子ちゃん。私、この間、行くって言ったよ。だから平気だよ」
「大丈夫なの?」 
「高校に行く。そして、新しい場所で自分が夢中になれる、好きなことを見つける。しっかりと生きてみる。いつかきっと、お父さんとお母さんに会うために」
「莉子ちゃん」
 醒めない悪夢がどれだけつづこうが、生きている限り、いつかは自分で目覚めなければいけない。そして起き上がらなければならない。ここに閉じこもったまま哀しみに打ちひしがれて、曜子ちゃんにいつまでも迷惑と心配をかけてはいけない。
「まっすぐな道じゃないかもしれないけど、それでも一歩ずつ進んでみる。曜子ちゃんが扉を開けてくれたから」
 両親の失踪事件以来、じんわりと内側に広がる得体の知れない〝なにか〟を抑えこみ、せいいっぱいの笑顔を作ってみる。

 
  2


「はい、これで今日の講座を終わりますね」
 先生の声で教室の空気が緩まる。ふうっ――私は音なくひと息つく。
 教室の窓から空を仰ぐ。梅雨の中休みか、今日は天気がいい。こんな日のお昼休みの過ごし方は決まっていた。購買部でパンを買って、屋上でひとりランチする。といっても、まだ二回しかやったことはない。先週、たまたまお昼休みの時間を持て余して校内をうろうろ探検しているうち、屋上に出られることを知った。前に通っていた中学でも、最近の学校はどこでも同じだと思うけど、屋上へのドアは固く施錠されているのが常識だろう。そのはずなのにこの高校は普通に開放されてある。
 初めてのとき、どきどきしながらドアノブを握って、ゆっくりと鉄の扉を押してみた。
 その先に広がる光景を見たとたん、ひさしぶりに心が開放された。たった四階建ての校舎の屋上なのに、地上からの空よりはるかに雄大に映った。
 さらにここは誰もいない私だけの貸し切りだった。一瞬で気に入った。
 ところが今日、扉を開けた次の瞬間、思わず足がすくんでしまう。
 先客がいた。その子は二メートルほどの距離を挟んで空を見上げ、ひとりで歌っていた。
 高らかに、一生懸命に、そして、ひたむきに。きれいな声だった。
 すぐに私に気づき、手に持っていたスマホをタップすると、透けるほど白い肌の整った顔を向けてくる。造りもののような完璧な並行二重に黒目がちな瞳。ふっくらと膨らんだ涙袋。やや厚めでグロスが光る唇。まっすぐに整った鼻筋。そして顔は完全な黄金比で、しかもすごく小さい。金髪に近いシアーなブロンドベージュは毛先に向かって緩やかなウェーブがかかり、ふわりと風になびいている。ブラックのダメージデニムに、ゆったりとしたオフホワイトのプルオーバーシャツというシンプルな服装だったけど、内面からあふれ出る独特の存在感がある。
「あなた、なに?」
 真正面から切り出され、つい目線を落とし、パンが入った紙袋をうしろ手にして隠す。
 美女子は目力ある双眸で私を見据えて動こうとしない。すぐ立ち去るべきか、どうしようかと焦りながら、ゆっくり目を上げて彼女をチラ見する。
 お互いの視線がぶつかった。ぞくりと肌が粟立ち、私の内側で蠢くものを感じる。
〝なにか〟が目の前に立つ女子に共鳴している。両親が失踪してからというもの、得体の知れない〝なにか〟に囚われるようになった私にはわかる。同種の〝なにか〟をこの子も抱えている。すごい美女なのに翳りのような負の空気が見え隠れする。 
「名前は?」ぶしつけに訊かれて、一瞬思考が乱れてしまったけど、なんとか口を開く。
「えっと、かわ――あ、違う、雪野、です。雪野莉子」
 思わず川奈と言いそうになって焦る。くすっと彼女が笑う。
「私は朝生咲南」
 言い間違いなんかたいして気にしないように、彼女は自分の名前を教えてくれた。
「一年生だよね?」重ねて訊かれて、今度ははっきりと答える。
「うん、一年」
「じゃ、一緒だね」
 初めて彼女はにこっと笑う。優しげな表情を見て警戒心が和らごうとするそのとき、
「莉子ちゃん、あなた、お友だちいないんでしょ?」
「ど、どうして?」ふいに確信を突かれて、体中の血液が逆流する。
「あのね、健全な高一女子が、お昼休みにひとりで屋上にのこのこやってきて、パンをぼそぼそ食べるなんて、普通におかしいでしょ。そんなの誰だってわかるよ」
 言いながら彼女は目ざとく、私がうしろ手で握っているパンの入った紙袋を指指した。
「ま、私も似たようなものだけど」
 耳にはめていたワイヤレスヘッドフォンを両手の指で外して微笑する。
「――な、なに聴いてたの?」
「音楽」
「おんがく? どんな?」
「オリジナル楽曲よ」
「おりじなる、がっきょく?」
「ただ聴いてたんじゃないよ。歌の練習してたの。だから屋上なの。ここ誰もこないから」
「うたの、れんしゅう?」
 唐突な話の流れにきょとんとしてしまう。
「私、アーティストになるんだ」
「あ、アーティストって――」
「曲が作れて、ステージで自分で歌って、楽器を演奏したり踊ったりするシンガーのこと」
 これが朝生咲南ちゃんとの出会いだった。

    *

 その日以来、私たちはお昼休みに屋上で会うようになる。お互いが内側に抱える〝なにか〟のせいか、彼女に対しては緊張感も警戒心もなく、普通に会話できた。
「すごい、プロの歌みたい」
 スマホに保存されているオリジナル楽曲を初めて聴かせてくれたとき、本当に驚いた。自分で宣言するだけあって、咲南ちゃんの歌声はどこか切なげで、とても美しい。
 それだけじゃない。彼女が作詞作曲してアレンジまで手掛けた楽曲は、私の想像をはるかに超えている。ギター、ベース、ドラム、キーボードという編成の演奏は、普通にネットで流れるプロのサウンドと変わらない本格的なクオリティだった。
「これ、咲南ちゃんが全部ひとりで演奏したの?」
「うん、そうだけど大したことないよ。今はいろんな楽器の音を組み合わせて演奏や作曲ができる無料アプリがいくらでもあるから。ノートパソコンさえあれば、簡単に使いこなせるの。ほんと言うと私、楽器なんて弾けないもん」
 打ち解けていろいろ話すうち、彼女は純粋で素直な性格だということがわかる。不思議だったのは、そんないい子で、しかも美人なのに、友だちがいないこと。
 屋上で出会って一週間が経ったときだ。なにも訊いていないのに、彼女のほうから打ち明けられた。「――前ね、中学を卒業するまで、ずっといじめられてたんだ。それが原因で、自分から人に近づけなくなっちゃってね。でも不思議。莉子ちゃんはぜんぜん平気なの」
「そうなんだ――」
 聞きながら私は初対面から感じている彼女の負の〝なにか〟について考える。同時に、そんな過去に負けることなく、音楽に夢を託している咲南ちゃんの心の強さに感心する。
「莉子ちゃんに出会えてよかったって思ってるよ。ここでもひとりぼっちで、友だちがいない寂しい学校生活になるかもって不安や恐怖があったから。神様にすごく感謝してるの」
 正直に話してくれる彼女の気持ちがうれしい反面、自分の過去を打ち明けることができず、心苦しかった。しかも彼女は私になにも訊こうとしない。お昼休みにひとり屋上にきて、パンをぼそぼそ食べる孤独女子だということを見抜いていながら。
 屋上で会うたびに、私はそんな咲南ちゃんの人柄を信用するようになる。彼女も私に気心を許してくれたみたいで、音楽の話を熱く語るようになる。
 いずれ、これまで作った楽曲をネットの音楽ストリーミングサービスにアップすること。高校を卒業したら東京の大学に行ってライブ活動をはじめること。やがてプロデューサーに見い出されてメジャーデビューを飾ること。そうして有名になり、みんなに認められ、願いつづけたすべてを手に入れること。彼女の夢は、はてしなく広がっていく。
「とにかく今の時代は、自分の音楽がネットでバズれば、一瞬で世界が変わって、人生も変わるんだよ。実際に一日で何百億円も稼いで、自由に生きてるアーティストって、欧米にはたくさんいるんだから。そうなればなんだって思い通りになるのよ」
 咲南ちゃんが音楽のことを話すとき、彼女の内側にある〝なにか〟が微細に変わる。負から正へと。私にはそれがわかる。話を聞く自分のなかでも同じような変化を感じるから。
 いつしか私は咲南ちゃんがうらやましくなっていた。
 音楽か――ある日の下校途中、夏色になってきた青空を見つめ、ひとり漠然と考える。両親も音楽が好きだった。そして二人とも声質がよくて、抜群に歌がうまかった。
 リビングで父がギターを弾きながら歌いはじめると、たまに母が高音のコーラスででハモっていた。そんな家族の団欒を思い出すと、胸が締めつけられてしまう。
 過去を振り返ったところで、私を苦しめるだけで幸せな気持ちにはしてくれない。それだけに音楽をやろうとは思えなかった。そのはずなのに、咲南ちゃんのオリジナル楽曲を聴いていると、勇気をもらうことができた。気持ちが高揚し、胸がわくわくする。彼女みたいに曲が作れて歌うことができたらどんな気分だろう、とたまに思うときがある。
「ね、莉子ちゃん。ちょっと一緒に歌ってみない?」
 思いがけないことを切り出されたのは、七月半ばのこと。
「いいアイデアだと思わない? そしたらこの屋上タイムがもっと楽しくなるよ」
 黒くてきれいな瞳を輝かせて彼女は言葉をつづけた。
 いきなりそんな提案をされても、どう返事していいかわからない。音楽に抵抗がある理由は、咲南ちゃんでも話す気になれない。それに私は今まで人前で歌ったことがない。親の前でも。中学のとき、朝の礼拝で讃美歌がきちんと歌えないくらい自信がなかった。
「どうしたの、莉子ちゃん?」
 咲南ちゃんが心配そうな顔を向ける。「私、なんかへんなこと、言っちゃった?」
「あ、ううん。そんなことない。ただ、私、歌ってどうも、なんていうか、その」
「いいのよ。莉子ちゃんの気が進まないなら。私、勝手に気になってただけだし」
「気になってたって、なにが?」
「あのね、莉子ちゃんに初めて会ったときから思ってたの」
「な、なにを――?」
 おそるおそる訊き返すと、咲南ちゃんは整った顔から笑みを消して真面目な表情になる。
「すごく艶のあるいい声してるなあって驚いたの。だから一緒に歌ってみたかったんだ」


    3

 
 翌日、いつものように二人して屋上でパンを食べながら、彼女が新しく作った楽曲をスマホで聴いていた。歌うことに気後れしても、咲南ちゃんの歌声を聴くのは好きだった。
 彼女は昨日のことなど忘れたかのように、もう話題にもしなかった。 
 二人だけの平和なお昼休みが十分ほど経過したところだ。
 鉄の扉がゆっくりと開いていくのを視界の隅で捉える。ほぼ同時、咲南ちゃんと私は顔を見合わせた。六月から屋上で会うようになり、ほかにここへ上がってくる生徒も先生もいなかった。自分たちだけの聖域だと思いこみ、すっかり安心しきっていた。
「だ、誰だろ?」咲南ちゃんが黄金比の美しい面立ちを強張らせ、小声でささやく。
 私は黙りこんだまま、首を傾げる。ほかの生徒や先生に見られて困るようなことはなにもしていないけど、二人して肩を寄せ合うようにスマホで音楽を聴きながらパンを食べているのを目撃されるのは、引け目を感じるし、気恥ずかしさもある。
 ややあって、黒髪さらさらの男子が扉の隙間から体半分を出す。
 私たちの存在に気づいたのはすぐのこと。男子は一瞬、驚いたように両目を見開き、動きを止めて凝視するようにこちらに視点を定める。私たちもじっと彼を見る。
 男子は色白で線が細くて、おどおどした表情を浮かべている。このまま扉を閉めて下に戻ろうか、それとも屋上に足を踏み出そうかと、迷っているのが手に取るようにわかる。
 数秒後、うなだれて私たちから視線を落とし、ため息をついた。
「ねえ、上がってくれば?」突然、咲南ちゃんが叫ぶ。閉じかけた扉がぴたりと止まる。
「私たちに遠慮しなくていいよ」
 朗らかに咲南ちゃんが言うと、男子はそろりと片足を踏み出す。
 小柄で痩せた、おとなしそうな子だった。ベージュの綿パンに紺色のポロシャツというカジュアルな服装で、明らかにオーバーサイズのポロシャツをぎゅっとタックインしている。さらさらで長めの前髪が風で揺れ、白い顔が露わになる。頬が少し紅潮していた。
 男子はおじぎするようにぺこっと頭を下げると、私たちから二・五メートルくらい離れた微妙な距離感を保って座る。そうして肩にかけていたくたくたのトートバッグからタブレットを取り出し、つづいてワイヤレスイヤフォンを両耳にはめた。
 私たちは見ないふりをしつつ、横目でしっかり彼の挙動を観察していた。
「知ってる人?」こっそりと私が咲南ちゃんに耳打ちする。
「ううん、初めて見た」彼女が首を振る。
 その間に男子はなにかアプリを起動したようで、太ももに載せたタブレットに両手の指をタッチする。と、次の瞬間、信じられない速さで十本の指が動きはじめる。
「あ、あれ!」
 すぐに反応する咲南ちゃん。私も見ていたけど、なにが起こっているのかわからない。
 彼女はすくっと立ち上がると、男子との微妙な距離感を一気に詰め寄り、堂々と真横に座る。男子はびくんと反応して、一瞬背を仰け反らせたけど、またタブレットに目を戻し、なめらかな指の動きでモニターをタップしたりスライドしたりする。
 私もまた彼女にならって男子に近づき、上からタブレットをのぞきこむ。
 画面には白と黒の鍵盤が映っていた。
「ピアノアプリだよ」軽やかな男子の指の動きを見つめたまま咲南ちゃんが言う。
「そうなんだ。初めて見た」 私は彼の指の動きを見つめて返す。
 男子の指は鍵盤を複雑な動きでとんとん叩き、ときに鍵盤を左右にスライドさせてはまたリズミカルに動いていく。こらえきれなくなったように、咲南ちゃんが男子の細い肩に触れる。ふたたび男子はびくんと反応して、驚いた顔を上げる。
「ねえ、私たちにも聴かせてよ。あなたの演奏」
 彼は肯き、両手をタブレットから離すと、両耳のイヤフォンを外した。
「つづけてよ、ピアノ演奏。聴きたい」
「う、う、うんん、い、い、いい、よ」
 その返事でわかる。彼は言葉がうまくしゃべれない、吃音症の男子だった。
 そのとき私は、咲南ちゃんと会ったときと同じように、ぞくりと肌が粟立って、自分の内側で蠢くものを感じた。〝なにか〟を。彼も私たちと同様の〝なにか〟を抱えている。
 さりげなく横目を動かす。咲南ちゃんは気づいていないみたいだった。
 直後、男子がふたたびピアノ演奏を再開した。
 はっとする。美しいピアノのデジタル音が屋上全体を包むように空気中へ広がっていく。男子は気持ち良さそうに、タブレット上の鍵盤に十本の指を動かす。魔法みたいな指さばきだ。その旋律の美しさと、音色にこめられた情感に、心が動かされていく。
 その瞬間、私を支配する得体の知れない〝なにか〟が薄れていくように感じた。

 男子の名前は倉澄修くん。同じ一年生で、入学してきたのは私と同じ。六月に入ってからだという。あの日以来、お昼休みの屋上は三人にとって暗黙の集合場所になった。
 修くんは信じられないくらいピアノが上手だった。驚いたことに彼は独学でピアノを学んだという。幼い頃、親に買ってもらったタブレットでネットの世界を彷徨ううち、ピアノアプリの存在を知り、ダウンロードしてからは見よう見まねで演奏に没頭していったそうだ。そうして気がつけば、一度聴いた楽曲はほぼ完璧に弾けるようになっていたらしい。
「ぼ、僕は、すすごく、み、み耳がいいんだよ」と言ってつづける。「い、い、一年、も、す、すれば、な、なんでも、ひ、ひ弾ける、ように、に、な、ったたんだ。ふ、ふしぎ、なな、く、くらいい、に、ねね」
 咲南ちゃんは彼の天才的な耳とピアノ演奏の才能を絶賛し、自分の楽曲にアドバイスを求めるようになったのは自然の流れだった。修くんは彼女の楽曲と作曲センスをべた褒めし、音楽的なアドバイスを求められると、すごくうれしそうに答えていた。私は二人の才能に敬意を払った。でも、自分にはなにもない。ただ二人のやりとりを眺めていた。それでも三人で過ごす屋上のひとときは楽しかった。事件以来、初めての友だちだったから。
 
「ね、音楽室に行こうよ」
 七月一週目の火曜日。いつものお昼休みの屋上で、咲南ちゃんが突然切り出す。例年よりかなり早い梅雨明けがニュースで発表された、快晴の夏日のことだ。
 突拍子のない提案に、私は目を丸くする。
 たしかに本格的な夏を迎えた屋上は暑すぎた。私たちはひさしの影に逃げこんでいたけど、それでも照り返しの熱気は容赦ない。だから彼女の言い分もわからないではなかった。
「無理だよ。だって、鍵がかかってるもん」私が言うと、彼女はにんまり笑って、「じゃーん!」と自慢げに声を上げながら右手を掲げる。「これ、なんだと思う?」
 その指先にはキーホルダーのついた鍵がぶら下がっている。
 咲南ちゃんは白い歯を見せ、今度は左手を前に差し出す。ノートパソコンを持っていた。
「今日はこれも使っちゃおうかと思ってね」そう言って彼女はさらに悪戯っぽく笑った。

「か、勝手に入っちゃって、大丈夫なの?」
 誰もいない廊下の左右をきょろきょろ見回して、不安げにつぶやく私に、
「平気。火曜日の放課後は、合唱部も吹部も使ってないから。事前に調査済みだし、音楽の平泉先生は毎週この日だけ、別の高校への出張授業のために不在だし」
 自信満々の口調で咲南ちゃんが言い切る。開錠して音楽室に入ると、立派なグランドピアノが視界に飛びこむ。音楽関係の講座を選択していない私にとって入室は初めてだった。それは修くんも同じだったようで、グランドピアノを見た瞬間に感嘆の声を漏らした。
「修くん、じゃんじゃん弾いちゃって平気だよ。この部屋、完全防音仕様の壁だから、外には絶対に音が漏れないの」
 訳知り顔の咲南ちゃんは、週に一度、ここで現代音楽を習っていると言う。
「え? まずいよ。勝手に入ったのがばれたら、大変だよ。やめようよ」
 大胆なことを言ってのける咲南ちゃんに私は首を振る。
「平気だって、莉子ちゃん。だって――」
 驚いた。突然、ダイナミックで華麗なピアノ演奏が音楽室に響き渡る。
 修くんだった。いつの間にか彼はグランドピアノに前に座って鍵盤蓋を開けていた。
 瞼を閉じて気持ち良さそうに両手を動かし、メロディの強弱に体の動きを合わせながら、早くも演奏に集中している。タブレットのピアノアプリのデジタル音とは明らかに違う、空気を震わせるほどの力強い生音に、咲南ちゃんも私も動きを止めて目を見合せる。
 修くんは瞼を閉じたまま、神がかり的な速さで複雑な音階を奏でていく。
 ピアノ独奏は約五分間つづいた。
 弾き終えた瞬間、彼は満足げな表情で鍵盤に両手を置いたまま、静かにおじぎする。
「すごいよ、すごい! 修くん、天才じゃん!」咲南ちゃんが絶賛する。
「ほんとびっくりした。まるでプロのピアニストみたいだったよ」私もまた絶賛した。
「え、えへへへ」修くんは頭のうしろをぽりぽり掻いて照れている。
 気を取り直したように、今度は咲南ちゃんが持参したノートパソコンを立ち上げる。
「なに、はじめるの?」
「まあ、見てて」言いながら咲南ちゃんはパソコンのキーをぱちんと押した。
 間もなく、ゆっくりと刻まれるリズムが流れ出す。そこにギターやベースやサンプリングの音が重なっていく。少し前に彼女が作った新譜だ。修くんにピアノやシンセサイザーの音入れとアレンジを頼んで、何度も再生してはあれこれ話していたからよく覚えている。ミデアムテンポでコード進行がすごくきれいな曲だった。
 やがて修くんは、パソコンから流れるトラックに合わせて、なめらかに鍵盤を弾く。コンピュータのデジタル音源に生のピアノの音が被さり、楽曲に深みとメリハリが増す。
 咲南ちゃんが片足で軽やかにリズムを取る。修くんもまた体でリズムを取っていく。
 これからなにがはじまるんだろう、と、二人を見つめていたら、
「り、りり莉子ちゃんも、さ、さあ、い、いい、いっしょにに、う、うた、歌って、みて」
「は?」
 びっくりして訊き返したとき、咲南ちゃんがノートパソコンを指差す。画面には歌詞のテロップが映っていた。すぐに咲南ちゃんが歌いはじめる。もちろんそのメロディにも聴き覚えがある。見ていると、彼女が歌った歌詞のテロップ部分が赤い文字に変わっていく。カラオケと同じ要領だ。隣に立つ咲南ちゃんが肘で軽く私の腕を小突く。戸惑う私に、修くんが笑顔を向ける。もしかして、二人の作戦だったわけ? ようやく私は気づく。
 もちろん腹立ちも苛立ちもない。この頃、屋上にいると、音楽談義で盛り上がる二人をよそに、会話に入っていけなくなることが多かった。そんな私のことを咲南ちゃんも修くんも気にしてくれていたんだ。彼女に誘われても歌おうとしない私を引きこむため、修くんと特別な演出プランを企ててくれたに違いない。
 うれしかった。こんなふうに私なんかのことを考えてくれる友だちができるなんて。
 ずっとマンションに引きこもって、外出することだっておそろしかったのに――。
 気がつけば、私は歌い出していた。
 事件。家族。両親。音楽。アコギ。ビートルズ。『Something』。
 哀しくつながる、辛い思い出の連鎖を振り切るように、私は歌った。
 生まれて初めて人前で歌って、懸命に歌いつづけた。

    *

 その日の下校中。めったに鳴らないスマホが震える。
 曜子ちゃん――画面に映るメモリされた文字を見て、胸がざわつく。前に交わした約束が頭に浮かび上がる。彼女は私に言った。
『お父さんとお母さんのことでなにかがわかったら、すぐに連絡するからね』
「も、もしもし」 
「今、大丈夫?」
 曜子ちゃんの声が硬い。スマホを持つ手に自然と力がこもる。
「あ、はい――」
「ついさっき警察から連絡があってね」
「は、はい」
「お父さんとお母さん、大阪と名古屋で、目撃が確認されたらしいの」
「そ、それって?」
「そうよ。生きてるの」彼女の声に力がこもる。「目撃情報を警察が受けた後、駅の防犯カメラに二人が映ってるのを確認したって。とにかく早く伝えなきゃって思って」
 一気に彼女は言葉を綴ってつづける。
「まだ、なにも問題は解決してないし、どうなるかわからないけど、とりあえずよかった。詳しいことは莉子ちゃんが帰ってから、またお話するから。じゃあね」
 電話を切った後、じんわりと全身の力が抜けていく。
「生きてるんだ――」無意識のうち、安堵の想いが声になってこぼれる。考えないようにしようと誓っていても、ふとした瞬間思うことがあった。もう死んでるんだ、と。
 そう考えてしまうには、複雑な感情の交錯もあった。もし生きているなら、すぐに迎えにきてくれるに違いない。そう信じつづけていたから。ところが、一ヶ月経っても、二ヶ月が過ぎようと、両親からは連絡すらない。だとしたら――ひとり娘の私が愛されていたという事実にすがりたくて、両親は死んだと思いこませるもうひとりの自分がいた。
 だけど違った。二人とも生きている。だとすれば、いったいなにが両親の身に起きたのだろう。私のことをどう思っているのだろう。
 音楽室で歌ったときに感じていた熱や光は、あっという間に消えてしまった。
 
 夕方、早めに帰宅した曜子ちゃんから両親の情報について詳しく聞いた。
 とはいえ、心のどこかで期待していたような、状況を劇的に好転する内容ではなかった。
 今日の正午近く、大阪府堺市で地元住民に目撃され、午後三時十一分に愛知県名古屋市のJR線駅構内に設置してある防犯カメラに映っていたということだった。
 おそらく東海道新幹線に乗って名古屋駅まで移動したと考えられ、現在、新大阪と名古屋駅構内のすべての防犯カメラを確認中で、その結果はまだ出ていなかった。生きてたという情報にあらためて安堵しながらも、反面では拍子抜けした。
 さらに曜子ちゃんは言いにくそうに口を開いた。
「電話じゃ話さなかったけど、よく聞いてほしいの」
「なに?」彼女の口ぶりに嫌な予感が立ちこめた。
「警察の話によると、無事が確認されて事故や事件性の疑いが晴れたことで、特異行方不明者じゃなくて、一般家出人の可能性が高いという見解になったんだって。もっとも何者かに追われてて逃げてる場合でも、一般家出人扱いになるっていうんだけど――」
 曜子ちゃんにしては珍しく、そこで歯切れ悪く会話が止まる。
「私、平気だから言って」
 数秒の間があった。
「今後、警察としては二人の積極的な捜索活動はしませんって」
 私は耳を疑う。「なんで?」
「自らの意志で失踪したと推測されることと、四ヶ月以上経っても自立した移動をしていることから、深刻な事態に陥っているわけではないって、警察は最終判断したんだって」
 言いながら曜子ちゃんは顔を伏せる。
「だって、誰かに追われてる可能性だって考えられるんでしょう? さっき曜子ちゃんも言ったじゃない」
「でも、警察はすべての失踪者に対して、いつまでも親身になって捜索をつづけてくれるわけじゃないんだって。なんでも年間八万人もの失踪者がいるらしくて――」
「そんなのおかしいよ。だって警察の仕事でしょ!」
「私だって強くお願いしたのよ。だけどそれ以上はもう取りあってもらえなくて。でも、最後に言われたの。捜索願の届け出が出された以上、二人の情報は警察本部のコンピュータに写真や失踪に関する情報が全部登録されてあるから、パトロールしている警官に発見されるケースも多々あるって。だから、見つかる可能性はゼロじゃないの」
「もう四ヶ月も経つんだよ!」
「わかってる。私も警察には何度も何度もお願いしたの」
 唇を噛みしめて黙りこむ曜子ちゃんを見て、我に返る。彼女が悪いわけじゃない。
 リビングルームに無言の間が停滞した。
 私は考える。どんな事情があるにせよ、生きているのに迎えにこないばかりか連絡すらしてくれない両親。まるで他人事で頼りにならない警察。それらの間で一番心を痛めながら、置き去りにされた姪を支えてくれている叔母。
 なにか、自分にできることはないだろうか。悔しさと憤りと怒りが湧いてくる。
 十五歳の私でも、なにかやれることはないのだろうか?
 そのとき閃く。ううん、私ひとりなら無理でも、三人なら可能性がある。
 

    4


「ねえ、咲南ちゃん、今の時代は、自分の音楽がネットでバズれば、一瞬で世界が変わって、人生も変わるって、前に言ってくれたよね?」
 翌日。お昼休みになると屋上まで駆け上がって、私は彼女がやって来るのを心待ちにしていた。そうして彼女が現れると、腕を取って前置きもなく質問した。
「莉子ちゃん、なに? いきなりどうしたの?」
 いつにない私のテンションに気圧されるように、彼女は目を丸くする。
「そうなればなんだって思い通りになるって言ったよね?」
「言ったよ。たしかに言ったけど」
「私、音楽をやる。一緒に音楽やりたいの。だから教えて」
「本気?」
「もう決めたの。私も世界を変えたいの。それには咲南ちゃんの協力が必要だってわかった。それから修くんの手助けも。身勝手なお願いだけどいいかな?」
「もちろんよ」
 私たちは手を握り合った。昨日の帰宅途中の気まずい空気なんか忘れたみたいに、咲南ちゃんは喜んでくれる。
 私は心を決めた。音楽をやってみよう。両親が大好きだった音楽を避けるのではなく、音楽を通じてつながろうって。私が歌にこめる想いやメッセージを二人に届けよう。
 稚拙で無茶な発想かもしれないけど、可能性はゼロじゃない。十五歳の私には、ほかに手段も方法も閃かなかったし、なにもせず落ちこんでいるより、はるかに前向きだ。
 それに友だちの二人は、音楽の才能にあふれている。ネットは大嫌いだしおそろしいけど、自分で行動するしかないという強い気持ちが、これまでの弱気な私を突き動かした。
「やっぱ、昨日のサプライズセッションが効いたんだね。私たちの作戦、大成功したんだ」
 咲南ちゃんが喜々とした声を上げる。一瞬、私は戸惑いながらもすぐに肯いて返す。
「あ、うん、三人でやった昨日の音楽室のセッション、すごく楽しかったもん」
 それは嘘じゃない。歌っていて、熱や光を心に感じたのは事実だ。
 本音では咲南ちゃんに両親のことを洗いざらい打ち明けたい。でも難しい問題だった。苗字を変えて状況が沈静化しつつある今、この高校で広まってしまうリスクはどんなことがあっても避けたい。
「莉子ちゃん、すごく艶のある素敵な声で、音域も広いし。音感もリズム感も抜群だし。絶対いいと思う。一緒にがんばろうね。私、アプリのこととか全部教えてあげるから」
 咲南ちゃんはうれしそうに励ましてくれる。
「ありがとう。これからもよろしくね、咲南ちゃん」
 そのとき、屋上の扉口に修くんが立っていることに二人して気づく。
「あ、ああれ、れ、ど、どうしたの? ふふ、二人して、て、手、を、つつ、つないで?」
 目を点にしている修くんを見て、咲南ちゃんと私は同時にくすっと笑った。

    *

 その日以来、私たちの距離はさらに縮まった。お昼のパンを食べながら、咲南ちゃんがディグった楽曲を聴いたり、修くんとの音楽談義に耳を傾けたりするだけじゃなくなった。歌の練習法とか、音楽の方向性とか、作曲のアイディアとかを話し合うようになる。もっとも私はまだ専門的なことはできない。デスクトップミュージックのトラック作りの基本や、アプリの使い方を教えてもらいつつ、自分の意見や感想を言葉にするくらいだった。
 それでもいくつかの経験が役立って、二人を驚かせた。
 咲南ちゃんは基本的に楽器が弾けないし、楽譜も読めない。音源モジュールとパソコンをつないで、アプリで自動演奏を行うという、直感だけで楽曲制作していた。
 私は小学校の三年間、吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたので楽譜はすらすら読める。しかも幼い頃から、母にピアノを、父にアコギを習っていた。音楽理論の下地があったため、デスクトップミュージックの仕組みを理解するのに、それほどの時間は要さなかった。
 もちろん、修くんも私のコラボ加入をすごく喜んでくれた。
 本格的に音楽活動に参加するうち、修くんはただピアノが上手なだけでなく、あらゆる音楽センスが抜群に優れていると感じた。普通の人にはない独特の才能を持っていた。
 もしかすると言葉が不自由なぶん、聴覚が異様に発達し、音感やリズム感が人の数倍も敏感になったのかもしれない。神様が与えた素晴らしいプレゼントなんだとも思った。
 そんなふうにして私たちは得意分野を活かして楽曲作りに励み、日に日に音楽熱を高めていった。
 とあるお昼休みの終わり、ふと感じたのは、修くんの咲南ちゃんへの視線だ。一瞬だけど、熱を含んだ真剣なまなざしで彼女を見つめていた。もしかすると彼が屋上にやってきたのは、彼女がいると知ってたから――そう感じたけど胸の奥にしまいこむことにした。
「ね、明日も火曜日だし、また音楽室セッションやらない?」
 七月の第三週に入ってすぐのこと、またも咲南ちゃんが提案する。屋上トリオ(名付け親は咲南ちゃん)が地道な音楽活動をスタートして早二週間が経とうとしていた。
 来週は一学期の終業式だった。
「大丈夫かな?」
「だ、い、じょ、う、ぶ、よ♪」
 この間と同じように彼女は音楽室の鍵を得意げに掲げてつづける。
「それに、もっといい情報もゲットしたの。音楽の平泉先生、一学期でやめて、系列の中学校に転任するんだって。つまり、二学期に後任の先生がくるまでは、合唱部と吹部が使う曜日に注意すれば、夏休みの間も使い放題ってわけ」
 修くんと私はお互いに顔を見合せる。
「ちゃーんと夏休みの部活予定も把握してるから安心して。灼熱の屋上じゃなく、エアコンの効いた室内で、快適な音楽活動ができるから」
 そんなうまくいくのかな、とやっぱり不安な気持ちを抱きながらも、修くんの生のピアノ演奏に合わせて歌えると想像しただけでわくわくする。あの日のセッションはやっぱりすごかった。
「ね、修くんも賛成だよね、私の作戦に」
 話を振られて、それまで複雑そうな面持ちだった修くんの表情が一気に変わる。
「あ、は、はははは、はは、い、いいいね、いいね。うんうん、だだ、だ大賛成、だよ」
 破顔して相槌を打つ。おそらく夏休みの間、咲南ちゃんに会えないと思っていたんだ。
 
 その後、夏休みを迎え、屋上トリオは平和な七月を過ごした。
 週に三、四回、空いている時間帯を狙って私たちは音楽室に侵入を繰り返す。
 平泉先生の転任という咲南ちゃんの情報は正しかったみたいで、ほかの先生たちにも怪しまれることもなく、完全防音の音楽室で極秘の音楽活動にいそしんだ。
 咲南ちゃんは新しい楽曲を次々と作っていく。
 デジタル音源をパソコン上で組み合わせて作る咲南ちゃんの曲調は、いわゆるEDMと呼ばれる、アップビートな楽曲が中心で、全体の七割を占めていた。残り三割は、アコースティックなミデアムテンポやスローバラードだ。
 どんなタイプの楽曲でも、修くんは独自の編曲技術でクラシックのように美しい旋律を混在させ、ピアノの音質にフィットする斬新なサウンドに仕上げる。
 じつは修くんも私も、彼女の楽曲はミデアムテンポやスローバラードのほうがいいと思っていた。いやあるいは、もっとシンプルでアコースティックなサウンドのほうが、彼女の切なげで美しい歌声には似合っているような気がした。だけど咲南ちゃん曰く、ネットでバズるにはEDM系のほうが断然成功率が上がるということだった。
 私は彼女が歌う主旋律を支えるコーラスを担当した。リードボーカルは彼女の役割。今の私にはそれで十分だった。ただ、いずれ自分で作曲できるようになれば、両親への想いやメッセージをこめた楽曲を書いて歌ってみたいという目標をひそかに持っていた。
 やがて八月に入った。この頃から咲南ちゃんが作る音楽の幅が広がり、明らかに進化しているのがわかった。修くんの高度なアレンジ技術が彼女をインスパイアしてきたのだろう。それくらい修くんもまた、さらに音楽的才能に磨きがかかっていく。咲南ちゃんを想う気持ちが楽曲に注ぎこまれていると感じた。
 私は音楽との距離がぐんと縮まりながらも、過去を思い出して辛くなることが少なくなった。音楽をやっていれば、いつかまた両親と出会えるという前向きな希望が芽生えてきたからだ。ひとりぼっちじゃなくなったのも大きい。事件以来、初めて友だちができて、しかも三人での一心同体になる音楽活動が強い心の支えになっている。そればかりか音楽をはじめてから、得体の知れない〝なにか〟の存在が弱まっていくように思えた。
 そんなふうにそれぞれに友情と役割が生まれ、充実した夏休みを送っていた。
 私の変化に、曜子ちゃんはうれしそうな表情を隠そうとしなかった。彼女には、仲の良い男女の友だちができて、一緒に音楽をはじめたと伝えてあった。
「好きなことが見つかったのね?」夕食の支度をしながら、曜子ちゃんが訊いてくる。
「うん」
「学校は楽しい?」
「楽しいよ」
「夏休みも通ってるくらいだもんね、ふふ」
 笑顔を浮かべ、曜子ちゃんは茄子の揚げ浸しを上品な和食器に盛りつけていた。
 彼女は料理がとても上手だ。和洋中を問わず、どれもが上品な味つけで、見た目もレベルが高い。何気ない一品でも心をこめて作っているのがよくわかる。
「よかったわ」
「全部、曜子ちゃんのおかげだよ」
 本心だった。岬回高校に行かなければ、咲南ちゃんとも修くんとも出会えていない。
 二人以外に友だちはいないけど、最初に彼女が言った通り、自由で放任主義な校風は私のような訳あり女子には向いていた。いたずらに干渉してくる同級生も先輩もいない。
「ほんとにうまくいってる? なにか困ったことない?」
 曜子ちゃんが菜箸を持つ手を止めて私をじっと見つめる。
「ないよ。学校は楽しいし、すごくうまくいってるよ」
「そう」納得した面持ちで、ふたたび菜箸を動かして私から視線を外す。
 こんなふうに曜子ちゃんは私のケアを怠ることなく、こまめに確認してくれる。
「ねえ、莉子ちゃん」
「ん? なに?」
「いつか、私にも聴かせてね。莉子ちゃんたちがやってる音楽」
「あ、うん。でもまだ私、曜子ちゃんに聴いてもらえるほど、なにもできないから」
「それでもいいのよ。あなたが楽しんでいる音を聴ければ。だって音楽って音を楽しむって書くでしょ。あなたの楽しむ音をそばで感じられれば、それだけでハッピーになれるの」
 そう言って、にっこり微笑む。曜子ちゃんがいてくれて本当に救われている。いつになるかわからないけど、必ず彼女に聴いてもらえる素敵な歌を作ろう。そう心に誓った。

    *

 八月のお盆過ぎ。今日は朝九時から三時間あまり、音楽室で新譜二曲の練習に励んだ。初めてセッションする楽曲だったけど、三人ともすごく息が合って、想像以上にうまくまとまった。修くんが午後から家庭教師の予定が入っているため、そろそろ終わりにしようというとき、咲南ちゃんが言った。
「ねえ、最後の一曲、気分転換になにかカヴァー曲でもやってみない?」
「い、いいい、いいねえ。おお、おももしろ、そそそう、だね、ね」
 彼女の提案に修くんがすかさず賛同する。いいアイデアだと私も思った。
 これまで音楽室に入ってからは、咲南ちゃんも修くんも、私たちはオリジナル楽曲しかやってこなかった。もし、誰でも知っているようなヒットソングを三人でセッションすれば楽しいかもしれないし、どんなサウンドになるのかなという純粋な興味もあった。
「な、ななな、にか、リ、リリクエスト、あある?」
 たぶん修くんに弾けない楽曲なんてないのだろう。自信たっぷりの表情で訊いてくる。
「莉子ちゃん、なにか歌いたい曲ある?」
 咲南ちゃんに訊かれる。特に思いつかない。「えっと、二人に任せるよ」
 軽い気持ちで返すと、「どうせなら超有名なのがいいよね」と咲南ちゃんが目を輝かせる。
「あ、あれがいいよ、修くん。この間、話してたやつ」
 なにか閃いたみたいに咲南ちゃんが声を弾ませる。
「あああ、あ、ああうう、うんうん」
 修くんはすぐにわかったようで、笑顔で肯き、ほぼ同時に鍵盤を奏ではじめる。
 びくん――イントロを聞いただけで、背筋が震えた。全身が総毛立つ。
 修くんは軽く瞼を閉じて、自分が紡ぎ出す旋律を聴き入っていた。
「莉子ちゃんも知ってるよね?」隣に立つ咲南ちゃんが私に言う。
「あ、え、う、うん――――」
 私はうまく返事できない。自分でも信じられないくらい動揺していた。今、音楽室を満たそうとしている楽曲は、私の思考とか理性を一瞬にして消し去ろうとしている。
「じゃ、一緒に歌おう」
 にこやかに告げる咲南ちゃんの顔がみるみる歪んでいく。
 そんな私の動揺など気にとめるでもなく、彼女は歌い出す。 
 修くんのメロディアスなピアノ伴奏に咲南ちゃんの情感あふれるボーカルがからみつく。
 私は棒立ちのまま、歌うどころか、呼吸すらできないほど、胸が圧迫され、苦しくなっていく。私のなかの得体の知れない〝なにか〟が、手足の指先にまでじんわりと触手を伸ばすように浸透していく。それは不気味なほど冷たくて、ぬるぬるしていて、奇妙な動きを繰り返しながら私の内側の隅々を支配していく。
 いつの間にか、鼓膜に届いていた修くんのピアノも咲南ちゃんの歌声も聞こえなくなる。
 かと思ったら、アコギをつま弾いて歌う父の声が、どこからともなく聞こえてくる。
 そこに優しげな声でコーラスを合わせる母のソプラノボイスが重なっていく。
 あのとき、リビングですごした幸せな夜は、もう永遠に戻ってこないはずなのに、今はっきりとリアルに私の耳の奥のほうでそれが鳴り響く。
 胸が抉られそうになる。喉元が締めつけられそうになる。感情の抑制が効かなくなる。情緒が決壊するほどの哀しみがせり上がる。
「やめて! その曲だけは、お願い! 大好きだったのに、もう、私には無理なのっ!」
 気がつけば大声で叫んでた。私は頭を掻きむしる。負の〝なにか〟が私の心までも蝕み、全支配していく。気がつけば私はその場に突っ伏すようにして号泣していた。
 咲南ちゃんと修くんの『Something』はいつの間にかやんでいる。それでも私は泣き崩れたまま、立ち上がることも、動くことすらできなくなっていた。

 足早に夏が遠のき、日々の天気予報で台風情報を目にする季節が訪れる。
 修くんと咲南ちゃんでコラボしたビートルズの『Something』を聴いて、我を失うよう泣き崩れてしまった私は、その後一週間あまり、学校へも音楽室へも行かなかった。いや、行けなかった。二人からは心配するメッセージが毎日のように送られてきた。
 あの楽曲の序盤を聴いただけで、あそこまで自分が混乱をきたして、おかしくなってしまったことが信じられなかった。衝撃だった。
 けれど、それが事実だ。私の心の一部分は両親の失踪によって壊れかけている。そうして壊死した精神、心のひずみが、あの不気味な〝なにか〟を生み出しているのだろう。
 もしかすると妄想や幻想に囚われてしまう総合失調症のような精神疾患なのかもしれない。ネットでディスられ、コミュニケーション障害に陥ってから、そういう心の病気について熱心に調べたことがあった。対人恐怖症になってしまったのも、すべてつながっているように思える。せっかく音楽を通じて二人の友だちができたのに、音楽にまで過度な恐怖反応が起きてしまったことがショックでならなかった。
 もちろん曜子ちゃんには黙っておいた。話せば心配して、病院に連れられるのがわかっていたから。診察されて治るものじゃないということもまた、自分で悟っていた。
 そうやって鬱々と塞ぎこむ毎日に私は戻ろうとしていた、ある晩のこと。夕食を終えて、自分の部屋にいると、聞き覚えのある音色が届いてくる。なにかと思ってドアを開けてリビングに行くと、ソファーにもたれかかった曜子ちゃんが、アコギをつま弾いていた。
 父がよく弾いていたマーチン。
 驚いた。曜子ちゃんがギターを弾くなんて知らなかった。しかも、かなり上手だ。
「あ、うるさかった? ごめんね」
「ううん。いい音だなって思って。曜子ちゃん、ギター弾けるんだ」
「ああ。ちょっとだけね。このアコギ、お姉ちゃんのなの」
「え?」お姉ちゃんということは、お母さんのアコギだということになる。
「そうなの?」
「知らなかった?」
「初めて聞いた。私、てっきりお父さんのものだとばかり思ってた」
「お姉ちゃん、小さい頃からクラシックギターを習っててね。上手だったよの。だから羨ましくて、よく教えてもらってたの。私はまだ小さかったんだけどね」
「そうだったんだ。だから、持ってきたんだ」
「ええ。莉子ちゃんが見たら辛くなるかなあって思ってたから、ずっと納戸の部屋にしまってたんだけどね。ほら、あなたも友だちと音楽をはじめたから、つい懐かしくなって、出してみたのよ」
 曜子ちゃんは黙って私を見つめる。「平気? 莉子ちゃんが嫌だったらすぐしまうから」
 慌てて私は首を振る。不思議だった。
 一週間前の音楽室で『Something』を聴いて泣き崩れてしまったのに、今、曜子ちゃんが弾くアコギを聴いてもなんともない。ううん、もっと聴きたかった。
「ほんとに?」念を押すように訊いてくる彼女に、私は答える。
「ほんとだよ。自分で不思議なくらいなんともないの。ね、なにか弾いてみて」
 すると曜子ちゃんはくすっと笑う。「弾くのはいいけど、歌は駄目だよ。私、音痴だから」
 そう言いながら、彼女はアルペジオで知らない曲を演奏しはじめる。
 私は無言で耳を傾け、アコギを弾く彼女を見つめた。
 本当言うと、最初は少しおそろしかった。また〝なにか〟が暴れ出して、自分がおかしくなって、泣き崩れてしまうのではないかと、全身に力が入っていた。
 それでも試してみたかった。音楽を拒絶してしまうのか、そうではないのかを。
 すぐに答えは出る。彼女が弾く優しいアコギの音色は、私の壊死した精神を癒すように、ゆっくり心へ浸透していく。そう、かさかさに乾き切った大地に瑞雨が降りしきるように。
 曜子ちゃんは一曲演奏し終わるたびに、私の状態をたしかめるために視線を定め、問題がないとわかれば、慎重に言葉を選んで母の思い出をぽつりぽつりと語ってくれた。
 両親の失踪以来、初めて彼女は私に対して、お母さんのそういう昔話をしてくれた。
 もしかすると曜子ちゃんは、このところの私の変調を知っていたのかもしれない。
 いずれにせよ彼女が弾く優しげなインストロメンタルと、お母さんの昔話を交互に挟んだ夜のひとときは、不思議なほど私のなかにひそむ、得体の知れない〝なにか〟の存在を弱めていく。そればかりか、私を生んでから育てていく過程での、母のさまざまな話を聞き、両親の愛情の深さをあらためて知るにつれ、事件以来、心に抱えつづけていた孤独感を癒すことができた。そうして心の立ち直りとともに、咲南ちゃんと修くんに再会して、また音楽をやりたいと思えるようになったのは、夏休みの最終週のことだった。

    *

「なにやってるんだ?」
 ガラッと音楽室の扉がいきなり開かれた。八月最後の日。これまで誰にも見つかることも咎められることもなく、私たち三人は安心しきっていた。さらには、外側から開錠されたのも気づかないくらい、咲南ちゃんも修くんも私も、音楽に集中していた。
「君ら、部活じゃないよな?」
 ドア口に立つのは二十代前半の男性。先生にしては若さが目立つし、校内で見たことがなかった。男性は白のスキニーデニムに紺色の半袖シャツというカジュアルな服装だった。髪の毛は明るいアッシュブラウンで耳が隠れるくらいの長さ。シルバーフレームに少し色の入ったお洒落なメガネ。どこかチャラさが残る雰囲気だけど、目つきが鋭くて、高一の私たちからすれば、大人特有の威厳と迫力が十分に満ちていた。どちらかといえばイケメン風で整った顔立ちのせいもあって、よけいにこわく映る。
「この曜日のこの時間帯は、どこの部の使用申請も入ってないよ」
 明らかに上から目線の物言いに、私たちは気圧されてなにも言えない。
「無許可で音楽室を使ったらマズイだろ。それくらい高校生ならわかるよな?」
 矢継早に叱責の口調で咎められる。気が弱い修くんは男子なのに顔面蒼白で唇が震えている。三人のなかでは一番元気な咲南ちゃんも足がすくんで顔が半泣き状態になっている。
 私も全身がフリーズしたまま動かなくて、思考停止寸前に陥っている。ただ脳裏をかすめるのは曜子ちゃんの顔だけ。彼女にはちゃんと学校の許可を得て音楽室を使わせてもらっていると嘘をついていた。学校にばれたらどういう処分が下されるのだろう。
「――わ、私たち、悪いこと、していません。ただ、歌いたくて、屋上だと暑すぎて、えっと、だからちょっとだけ音楽室を借りていました」
 咲南ちゃんが意を決して訴える。男性は彼女に目を移して、じっと聞いている。
「私たち、三人で、ユニットっていうか、その、音楽活動をしているんです」
「ユニット?」男性が眉根を動かして反応する。
「あ、はい。彼、修くんっていうんですけど、彼がピアノ担当で、莉子ちゃんがコーラスで、私が作詞作曲して、リードボーカルもやってて――」
「オリジナルを作ってるのか?」
 ほうと少し感心した顔になって男性が切り出す。意外なところに食いついてくる男性のリアクションで、音楽室の緊迫した空気がにわかに変わっていく。
「は、はい。コンピュータでトラックをつないで、あ、デスクトップミュージックっていうんですけど」
「知ってるよ、それくらい。MPCとか使ってるの?」
 素早く反応してくる男性の言葉に、咲南ちゃんの声の調子が上がっていく。
「え、すごい! 先生、詳しいんですね。えっと、私はまだMPCは使えてませんけど、シーケンサーのアプリとかで――」
 薄く頬を赤らめて話す咲南ちゃんの声を遮るように、
「演ってみてよ。君らの曲。聴いてみたいな」男性が思わぬ提案を持ちかけてくる。
「え?」ほぼ同時に私たち三人の声が重なる。
「俺がいいって感じたら、許してあげるよ。ここの無断使用の件」
 言いながら男性は近くの椅子を引き寄せて座って足を組む。スキニーデニムの細い両足で軽くリズムを取るようにしてつづける。
「さあ、早く。演奏して。あまり時間がないから」
 待ち切れないように促すその声には、最初の威勢も威圧もない。
 咲南ちゃんが修くんと私のほうを交互に見てこくんと肯く。
 顔面蒼白だった修くんの面持ちに血色が戻っていく。私もまた、ゆっくりと肯く。
 咲南ちゃんがノートパソコンのアプリを起動し、ぱちんとキーを押し、楽曲を再生する。
 それに合わせて、修くんがすべらかな運指で美しいピアノの伴奏を弾き出す。
 十六小節のイントロが終わろうとするタイミングで、やや強張った表情の咲南ちゃんが歌う準備に入る。たったひとりとはいえ、初の観客の前でのパフォーマンスに緊張しながらも、気持ちが高揚しているのがよくわかった。隣に立つ私に彼女のテンションが上がってくるのが伝わる。彼女と私が同時に歌い出した、次の瞬間だった。
 おっ、と男性が驚いた表情になり、微動していた両足の動きを止める。
 夏の三ヶ月間つづいた、私たち屋上トリオの崩壊のはじまりだった。



    
    第二章
    


    1


 ピ――ピピピピ――ピ――ピピピピ――ピ――ピピピピ――ピ――ピピピピ――
「あー、うるさいうるさい。もうぅーーあーー」
 ねえ、曜子ちゃん、なんとかしてよアラーム、と言いかけたところで気づく。
 もうここは家じゃない。いくら疲れ切っているとはいえ、ひとり暮らしをはじめて三ヶ月も経つのに、自覚が足りなさすぎる。自分を戒めながら、やっと目覚める。
「は、早く、支度しなきゃ――」
 カーテンの隙間から朝陽が漏れている。六月の晴れた朝は夏みたいに陽ざしが眩しい。
 平日は週に四回、朝六時半から近所のパン屋でバイトしている。日によって上がりの時間は違うけど、少しでも働いてから大学へ行く。
 夕方からは週三か週四、ライブハウスでウエイトレス兼雑用みたいなバイトに入る。
 がんばれば月十五万円以上稼げる。大学の授業との両立は大変だけど、少しでも曜子ちゃんの負担を減らしたい。そういう思いで、できる限りシフトを入れている。
 両親の失踪後、中三まで暮らした実家を離れ、同じ市内にある曜子ちゃんのマンションで丸三年間お世話になって、今は七百キロ近く離れた東京に越してきた。本当は大学なんかどうでもよかった。けど、高校へ進学するときと同じで、曜子ちゃんに強く勧められた。
「大学くらい出とかないと、就職先なんてないわよ。社会はそんなに甘くないんだから」
 そのうえ受験料も私立四大の入学金も授業料も引越し費用もすべて曜子ちゃんが出してくれ、しかも毎月きちんと仕送りまでしてくれている。いくら優秀なOLで、持ちマンション住まいだといっても、多大な負担をかけていることに変わりない。
 だから私は、必死で働くことを決意して東京に出てきた。コミュ障で対人恐怖症でも、乗り越えていくしかなかった。彼女に迷惑をかけずに進学するなら、地元の大学に通うという選択肢があったはずだけど、私の場合は絶対に無理だったし。
 スマホを見ると六時を過ぎている。どうして朝の時間は矢のように過ぎていくの?
「急がなきゃ」
 手早く顔を洗って、身支度を整える。そのまま大学へ直行するから、教科書やノートパソコンもデイパックに入れてアパートを飛び出す。パン屋までは早足で十分近くかかる。
 梅雨の合間のよく晴れた、真夏のような朝だった。アスファルトを小走りしていると、気温がぐんぐん上がっているのがわかる。すぐにうっすらと汗が浮かんでくる。
 ぎらぎらと照りつけてくる太陽を仰いだ一瞬、ふいに思い出す。夏休みの最終日、音楽室に突然入ってきた、教育実習生の秋山隆のことを。こんな暑い真夏の午前中だった。
    *
「すごいじゃん!」
 私たちの演奏が終わった直後、秋山さんは拍手までして絶賛した。 
「ほ、ほんとですか?」咲南ちゃんは紅潮した面持ちで、感極まった声を彼に向ける。
「ああ、オリジナル楽曲をこんなレベルで演れるなんて、正直驚いたよ。しかも高一で」
 滑るようにしゃべる秋山さんの褒め言葉で、咲南ちゃんの瞳がうるうるしている。
 修くんはなんだか居心地悪そうな顔で俯き加減になり、彼を見ようともしない。
「ど、どこが良かったです?」
 遠慮がちに咲南ちゃんは訊くけど、口調には自信の片鱗が見え隠れする。
「トラックの構成がいい。サビもキャッチーで耳に残る。デジタル音源に生ピアノを組み合わせた独特のアレンジも絶妙だ。それがオリジナリティを際立たせている」
 うんうんと肯きながら、身を乗り出すようにして咲南ちゃんは秋山さんの称賛を聞き入っている。修くんはやはり俯いたままで、ピアノの椅子から微動だにしない。
「それに――」秋山さんが意味ありげにひと呼吸ほど間を空ける。
 次の言葉を待つように咲南ちゃんは彼を見つめている。
「コーラスの君。際立って歌声が秀逸だ。特別な声質と特異の音域を持っている。しかも音感が鋭いうえ、ピッチが寸分も狂わない。そればかり主旋律のブレを瞬間的にカバーして、楽曲のクオリティを押し上げている」
 そこまで言って私に訊いてくる。「特別な歌のトレーニングをしてるのか?」
「あ、いえ、べ、別に――」
 予想外の展開に言葉が詰まる。同時に嫌な感じがしたのはいうまでもない。
 この場での主役は私なんかじゃない。楽曲作りもメインボーカルも咲南ちゃんだ。修くんだって彼女への気持ちがあるからこそ屋上トリオに加わった。あくまで脇役の私に、褒め言葉が向けられても、ぜんぜんうれしくないし、逆に迷惑でしかない。
 きつい視線を感じて横に目を動かす。咲南ちゃんが私を睨んでいる。
 当然の成り行きなだけに、胸が痛くなる。
「だったら、なおさらすごいじゃない。あれだったら今度、俺がさ――」
 秋山さんがそこまで言いかけたところ、音楽室のドアがノックされた。
 すぐさま彼は椅子から立ち上がると、ドアを開ける。
「なんだ、秋山さん、こんなところにいたんですね。もうすぐミーティングが始まりますから。ほかの教育実習の方々はお揃いですよ」
 学年主任の男の先生が促すように言い、いそいそと二人して音楽室を離れていった。
 その場に残された私たちの間に、気まずい沈黙が座したのはいうまでもない。
 屋上トリオが音楽室に揃ったのはその日が最後になった。
 二学期がはじまっても、咲南ちゃんは屋上に来なくなった。秋山さんの教育実習期間が終了した直後から、二人は付き合っているという醜聞が、岬回高校のネットスレッドに書きこまれるようになった。教えてくれたの修くんだ。
 それから間もなく、修くんも屋上に現れなくなったばかりか、登校しなくなった。
 十月中旬、同じスレッド上で、朝生咲南が退学して秋山隆を追って東京へ行ったという書きこみを見たと修くんからメッセージが届く。いつの間にか、通信制クラスに切り替えた彼からはたまにメッセージが送られてきた。もっともほとんどが咲南ちゃんに関することだった。数日も経たないうち、そのスレッドに大勢の名無しさんによる彼女への誹謗中傷や、目を覆いたくなるようなひどい書きこみが集中したという。
 ネット恐怖症の私は率先して見ることはなかったけど、[絶対に僕は信じない]という一文とともに修くんから送られてきた、メッセージに張り付けられていたリンクをたまたまクリックして唖然とする。そこには咲南ちゃん自身の口から語られなかった、ひどい過去が書き連ねてあった。シングルマザーの家庭で育った彼女。若い男をとっかえひっかえする自堕落で奔放な母親。中学時代は家出を繰り返し、神待ちしていた彼女。社会の闇に落ちかけ風俗で働いていた母親――えんえんと書きこみは下へ下へ数珠つなぎになっている。
 公開処刑がはじまったんだ、と思った。
 どこまでが真実なのか、まるでわからないそれらを目で追っていて、ふと我に返る。
 このまま読みつづければ、自分まで悪しき負の連鎖をかつぐ、ネット住民の加虐者側になってしまう。思わずスマホを手放し、もう二度と見ないと私は誓った。
 修くんからのメッセージはそれ以来送られてこなくなった。
 それからしばらくして、いつの間にか標的は私に変わっていたらしい。
 ある朝、登校すると、誰もに白い目で見られ、翌週、曜子ちゃんが学校に呼び出された。知らないのは、もう掲示板もネットも見ないと決めた、自分だけだけだった。
 高校一年の二学期が半分くらい終わった頃だった。

    *

 上京してひとり暮らしをはじめても、いまだ私はトラウマから抜け出せないでいる。ネットのデジタルタトゥーは消えることなくどこまでも執拗に追ってくるはずだから。
 それでも東京へ出てきたことは今のところ正解だったと思う。知り合いや顔見知りとのつながりが絶ち切れたせいか、想像以上に心が軽くなった。大学でもバイト先でも、わざわざ私の名をネット検索する暇人はここにはいない。それに、私はもう誰ともつながらないし、頼らないし、関わらないと決めていた。あのまま地元にいれば、そうはいかない。身近に私を知っている人がたくさん住んでいる。おそらく大学でもバイト先でも、リアルな公開処刑が実行されつづけ、私の居場所はどんどんなくなっていただろう。

「お、おつかれさまです。お先に上がらせていただきます」
「はいよ。今日もありがとね。ごくろうさん!」
 私がバイトしているパン屋『くるみベーカリー』は三十代後半の外園さん夫妻が経営している。恰幅のよい夫の康弘さんは威勢がいい。パン屋というより、魚屋が似合う。
「莉子ちゃん。これ持ってって」
 奥さんの佳乃さんがクリームパンやバターロールが数個入ったビニール袋を差し出してくれる。夫妻に子どもはおらず、そのせいかお店で働く若いパン職人の男子や、私のようなレジ番の女子の面倒見がいい。いつもこうやってバイトを上がるとき、パンを持たせてくれる。地元で大人気のパン屋だから、夕方前には全部売り切れるのに、大切な商品をただでくれるのは、うれしい反面、とっても申し訳なく思う。
「い、いつもすみません」
 ぺこりと頭を下げて素直に受け取る。遠慮して断っても、康弘さんが許さない。
「いいんだって! 莉子ちゃんは若いんだし、ひとり暮らしなんだし、忙しいんだからさ。自分の身体のために栄養をつけなきゃな。そんな細いんだからさ」
 厨房から丸い顔で笑いかけると、「ちょっと、それ、セクハラだし」
 すかさず佳乃さんが突っこみを入れる。がははははと康弘さんが笑う。すごく仲が良いこの夫婦ならではの掛け合いが毎朝繰り返される。
 上京する前、「東京人は冷たいし、なに考えてるかわからないからね。簡単に信用しちゃ駄目よ」って曜子ちゃんは言っていたけど、外園さん夫妻に限ってそんなことはない。
「次、明後日だよね?」康弘さんが訊いてくる。
「あ、は、はい」
「早番で週四日も入ってくれてるから、すごく助かってるんだよ」
 忙しげに手を動かしながら康弘さんが言う。佳乃さんがつづける。
「ほんとよ。朝六時半からのバイトは、なかなか働いてくれる人がいなくてね」
「い、いえ、私のほうこそ、ぜんぜんお役に立ててないのに、お世話になってばかりで」
 恐縮して頭を下げてしまう。中学や高校の頃ほどではないにしても、対人恐怖症気味の私は、レジを任されながらも愛想のひとつもお客さんにふりまけない。そればかりかパンの値段をしょちゅう間違えてばかりだ。それなのに夫妻はじつの娘みたいに世話を焼き、気を遣ってくれる。おかげで少しずつだけど、私は接客の仕事に慣れてきた。
 いつものようにパンのお礼を言ってお店を出ると、駅へ向かう。
 今日の授業は三限から。今から大学に行けば、いただいたパンを昼食にする時間もある。
 短かったリアル高校生活、屋上でひとりぼそぼそとパンを食べていたのを思い出すのはいつものこと。咲南ちゃんが東京へ行ったというネットの書きこみのことも頭をよぎる。
 もし本当に東京に来ているなら、ばったり電車で偶然再会する日がくるのかもしれない。

 五限まで授業を終えると、私は電車で渋谷へと向かう。
 今日は金曜日。一週間で一番忙しい夜。深夜までライブハウス『o'clock』で働く。メインでウエイトレスをしながら、たまにステージまわりの裏方の雑用をすることもある。
「おはようございます」この業界は夜でも『おはよう』と挨拶する。従業員通用口からお店に入ると、竹中店長が受付のスタッフと打ち合わせしていた。
「おはよう、雪野さん」
 竹中店長は五十歳近く。坊主頭で髭をたくわえていて、一見すると強面に見えるけど、じつは面倒見が良くて優しい。スタッフ全員と出演者から抜群の信頼を得ている。
「ここで働く人を大切にするのがお店の一番の方針です。そのぶんお店のことを大切にしてほしいし、足を運んでくれるお客さんと、出演するミュージシャンの人たちの想いや夢も大切にしてほしいんです。みんな音楽が大好きで、ここに集まっているわけですから」
 面接のとき、店長にそう言われて、このお店で働きたいと思った。けど、採用されるとは思ってもみなかった。コミュ障気味で愛想の欠片もない私が受かったのはいまだ謎だ。
 バイト先にライブハウスを選んだのは、音楽への気持ちを完全に捨てきれなかったから。
『o'clock』は有名アーティストを多数輩出するライブハウスの名門だ。
「雪野ちゃん、今日もよろしくね」
 カウンターの向こう側に立つ真紀さんが手を振ってくる。持田真紀さんはバーコーナーで私とコンビを組んでいる、先輩の女性スタッフ。美大の四年生だけど、ほぼ毎日『o'clock』で働いている。単位を落としまくって留年が決定していて、美大をやめようか、現在検討中だという。もう三年もここで働いていて、当然、音楽が大好きで、流行りの楽曲やアーティストに詳しい。ちなみに将来はイラストレーターになる夢を持っている。
「あ、はい。よろしくお願いします」
「ほら、笑顔笑顔。また顔が超強張ってるよ」そう言って彼女はにっこり笑う。
「は、はい、す、すみません――」
 真紀さんはボーイッシュでさっぱりした性格だから、スタッフやお客さんから人気がある。このお店で一番距離が近くて一緒に働く人が真紀さんで良かったと日々実感している。
『くるみベーカリー』の外園さん夫妻といい、ここ『o'clock』の人たちといい、私はバイト環境に恵まれている。曜子ちゃんに負担をかけたくない一心でおそるおそる飛びこんでみたけど、とりあえずなんとかクビにもならず、働かせてもらっている。
「あ、あの、真紀さん、今日は通しですよね。先に休憩入ってください」
「え? だって金曜だからめっちゃ混んでるし、この時間からオーダー増えてくるよ」
「な、なんとかやってみます」
 彼女はじっと私を見て、笑顔で肯く。「わかった。じゃ遠慮なく休憩入らせてもらうね」
「は、はい。ごゆっくりしてください」
(曜子ちゃん、少しずつだけど、私、東京で強くなってきてるから)
 休憩室へ向かう真紀さんを見送りながら、そう心で唱えてカウンターに入る。
 がんばらなきゃ。来年の五月にはハタチになるんだし。

 
    2

 
 東京での多忙な日々が経過していく。
 七月に入ると前期試験がはじまった。バイトに追われるなか、初の大学のテストに四苦八苦しながらも二週間ほどで無事終了し、九月中旬まで約二ヶ月間もの長い夏休みに入る。帰省して曜子ちゃんに会いたかったけど、交通費だってばかにならない。郷里には帰らず、大学生になって初めての夏を東京で送ることに決めた。電話すると曜子ちゃんは残念がっていながら、口調はうれしそうでもあった。私が里心に負けず東京に残ることで、成長を感じてくれているのだろう。どちらのお店もスタッフが交代で夏休みを取って人手不足になるため、接客下手な私でもたくさんシフトを組んでもらえた。
 そうやって忙しい日々を送るうち、あっという間に七月が過ぎ、八月も後半を迎えた。
「おはようございます」
 早番で午後四時前に『o'clock』へ到着すると、すでに真紀さんがいた。カウンターの前のテーブル席に座って、ワイヤレスイヤホンを耳に装着し、スマホを見つめている。
 いつものことだけど、今日は手を振りながら近づいても気づかないくらい、やけに真剣に画面を見入っていた。私は彼女の真横に立ち、そっと肩に手を触れた。
「ん?」と彼女は顔を上げ、「ああ、雪野ちゃん。いつの間に。気づかなかった、ごめんごめん」と、イヤホンを両耳から外して笑顔になる。
「なに見てたんですか?」
 訊きながらも私の目は、テーブルに置いている真紀さんのスマホに動いていた。
「あ!」画面のなかで歌っている女の子を見て、金縛りにあったみたいに立ちすくむ。
「こ、この子って――」
「雪野ちゃんも知ってるんだ」
「い、いえ――――」私の両目はスマホの画面に釘付けになる。
「すごいよ、この子。LANAっていうの。今、ビートクラウドで話題の新人なの。韓国のメジャーアーティストとコラボやったりして、めっちゃイケてんだよね」
 真紀さんはそう言って、「聴いてみたら」とワイヤレスイヤホンを差し出してくれる。
 私は受け取って両耳にはめ、隣の椅子に腰を降ろす。たちまち轟音が耳にあふれる。
 デジタル音源を複雑に組み合わせたアップビートのナンバーは、高校時代に彼女が制作していたものよりグルーヴが激しいクラブ系EDMに仕上がっている。
 白金のように眩しいシアーなブロンドで、鮮やかなブルーローズのカラコンをして、濃いアイラインを引いた咲南ちゃんは、欧米人にも見える。もともと透けるように白い肌がトップライトを受けてきらめいている。キラキラ光るビビッドグリーンのミニワンピースからすらりとした生足が伸び、ハイヒールで華麗なダンスパフォーマンスを繰り広げる。
 彼女の動画はステージセットが組まれた本格的なものだった。スピーディに切り替わるライティングとカメラワーク。明らかにプロの手が入っている。
 そしてひさしぶりに見る彼女はゴージャスで大人びていた。高校生の頃の初々しい美少女ではなく、完全に大人の女性に成長していた。
 けれど私は、咲南ちゃんの表情を見つめていて違和感を覚える。
 すごく精巧なCGかロボットみたいに映ったから。屋上や音楽室で、溌剌と歌う彼女とは別人みたいだった。私のなかで〝なにか〟がぞわりと嫌な感じでざわついた。
 しかも、LANAが歌う楽曲はどこかで誰かが歌っていたような既知感に満ちている。それが余計に引っかかる。耳からイヤホンを外して、真紀さんに返しながら訊く。
「あ、ありがとうございました。この子、そんなに人気あるんですか?」
「うん。ビートクラウドにアップされたのは先月頭くらいで、いきなり再生回数が百倍くらい跳ね上がったんだよね。ネットマーケに強い、プロスタッフが関わってて仕掛けたんだと思うよ。もちろん独立系だけど最近はそんなの関係ないし。アーティストの主戦場はいまやネット配信だから、SNSで拡散されてフォロワーといいねを取ったもん勝ちよね」
 音楽事情に詳しい真紀さんは、なんでもないようにすらすら語る。
「ライブとか、やってるんですか?」
「うーん、どうだろ。音楽制作はデスクトップだし、まだ生で演る感じじゃないでしょ」
「そういうものなんですか?」
「なに、LANAに興味あるの?」
「あ、いえ、なんとなく。このお店にも出演したりするのかな、なんて思って」
「まあそうね。けど、まずはネットでがっつりファンをつかんで足固めでしょ。それでうちよりもぜんぜん大きなハコで一気にメジャーからデビューするんじゃない?」
 私は曖昧に肯いて、モニターのなかで動く咲南ちゃんをあらためて見つめる。
「とはいっても、この手のネットアーティストは有象無象に次から次へと強敵が現れる厳しい世界だからさ。ここで働いてると、嫌っていうほどそういう現実を思い知らされるんだよね。さ、仕事の準備に入ろうか」
 そう言って真紀さんは立ち上がり、スマホをデニムのうしろポケットにしまいこんで、持ち場のバーカウンターへと向かう。私も彼女についていく。
 しばらくしてお店がオープンし、いつものようにライブがはじまる。賑わう観客の嬌声や拍手と、バンド演奏が一体となって空間を揺らしつづける。仕事しながらも脳裏では、精巧なCGかロボットみたいになった、別人のような咲南ちゃんの残像が消えなかった。
 
「ふうぅ――」
 終電でアパートに帰宅すると、力尽きるようにくたっとベッドに仰向けで倒れこむ。今夜は忙しかった。若手人気ロックバンド数組による対バンライブ企画だったこともあり、観客は超満員で、飲食の売上はこの夏最高を記録した。すぐにシャワーを浴びて、じっとりと全身を覆う湿気や汗を洗い流したかったけど、いったん横になると身体はすぐに動こうとしない。しばらく天井の一点を見ながらぼんやりする。鼓膜の奥でキーンと響きつづけていたライブ音がゆっくりと鎮まっていき、やがてすっぽりとした夜の静寂に包まれる。   
 バイトの熱気が消えていくと、自然に目が動いていく。ひとり暮らしする六畳一間の部屋の隅には、母のアコギがソフトケースに入ったままスタンドに立てかけてある。
 いいよって固辞したのに、引越し直後、曜子ちゃんがわざわざ貴重品扱いの宅配便で送ってきた。五ヶ月も放置してあるから、白いほこりがうっすら溜まっている。
 じっと見ていると、ふいに弾きたい衝動にかられる。咲南ちゃんの映像を観たせいだろうか。無性に音楽に触れたくなった。部屋にはノートパソコンがあるけど、咲南ちゃんに習ったデスクトップミュージックは、別れ別れになった時点で挫折してしまった。もともとデジタル音源とかシーケンサーとか作曲アプリに馴染めなかったこともある。
 お店であふれるバンドの生演奏を聴いているからこそ実感する。やっぱり私は楽器の生音が好き。それもアコギやピアノの柔らかで繊細なサウンドがいい。
 修くんが弾く、温かな生のピアノの音をもう一度聴きたい。昔みたいに咲南ちゃんと歌いたい。屋上トリオの空中分解とともに、フェイドアウトしていった音楽への情熱がじんわり湧き上がる。けれど、手を伸ばせば届く距離にあるアコギに触れられない。
 自分ひとりだと、なにもできない。これが今の私の現実だ。
 結局、弾くことができないアコギを、目の届かない押入れに隠すことにした。片づけた後、言い様のない虚無感と脱力感に覆われてしまい、重い瞼を私は閉じる。
 
 八月最終日。朝から『くるみベーカリー』で働き、午後四時半前に『o'clock』のバイトに入った。今月は大学がないぶん、たくさんシフトを組んでもらえた。月給を合わせれば二十万円以上は確実だった。体力的にきつかったし、いまだ人への緊張感は解けなくて神経をすり減らすけど、なんとかやり通せた。
 従業員通用口を抜けてタイムカードを押し、オープン前の店内に足を踏み入れる。受付横に立っている男子が視界に入ったとたん、私は驚きで両足が止まり、目が点になる。
 すらりと背が伸びて、大人びた顔つきになっていたけど、見間違えるわけない。
 向こうもすぐにわかったみたいで、はにかんだ笑みを浮かべて右手を振ってくる。
「――しゅ、修くん!」
「おひさしぶり、莉子ちゃん」
 聞き覚えのある声だけど、滑らかではきはきした口調に、一瞬、え? と耳を疑う。
 すぐに察したように「ああ」と修くんは白い歯を見せる。
「吃音症、成長していくうち、自然治癒したんだ。わりと最近なんだけどね。ちょうど大学に合格した頃から、憑き物がとれたみたいにさ」
 すらすらと語る修くんは、表情や目つきまで変わっていた。
「あ、修くんも、大学生なんだね。私もだけど」
「うん、それでこの春、上京してきたんだ」
「けど、なんで、ここに?」
「ああ、たまたまライブハウスのウェブサイトをいろいろ眺めてたら、ここのインスタに載ってた写真に、莉子ちゃんの姿が映りこんでるのを見つけたんだ」
 おそらくスタッフの誰かが、ライブ風景をアップするために撮影したところ、働いている私が偶然映りこんだのだろう。スタッフ紹介のページに私の名前や顔写真を絶対に掲載しないでください、と店長には懇願してあった。
 突然の再会に喜びながらも、あらためてネットの力を軽く見てはいけないと思う。
「雪野ちゃん」立ち話をしていると、カウンターに入っていた真紀さんに呼ばれる。
「は、はい。すぐ行きます。す、すみません」
 慌てて答えると、彼女はこっちに顔を向けて笑いかけてくる。
「そうじゃないって。まだ開店まで時間があるから、席に座ってお話すれば? せっかくお友だちが訪ねてきてくれたんだしさ。今、冷たいもの出したげるから」
「あ、ありがとうございます。私、取り行きますから」そう言って修くんに目配せすると、
「すごいね、ちゃんと働いてるんだね」と、感心した表情になる。
 真紀さんの気遣いでアイスティを飲みながらお互いが東京での近況を話すうち、当然のように音楽の話題になった。
「そっか。もうやってないんだ」
 音楽から離れてしまったことを打ち明けると、修くんの声のトーンが落ちる。
「私ひとりじゃなんにもできないし。高校のときは二人がいてくれたから」
「でも、ライブハウスでバイトしてるんだね」
「それはたまたまで、なんていうか――」
 うまい言葉が見つからない。しばし私たちは無言になる。
「あのさ、今日、僕が会いに来たのはさ」
 先に切り出したのは修くんだ。「もしよかったら、また一緒に演ってみないかな。二人で」
「やる」という言葉が「音楽演奏」を指していることはすぐにわかった。惹かれる提案だけど、そこに咲南ちゃんは含まれていない。私ひとりで歌うのは荷が重すぎる。
 すぐにはなにも返せないで黙りこくっていると、
「あの、無理にってわけじゃなくて。僕さ、屋上トリオで演ってたとき、すごい楽しかったから。またあんなふうにできたらいいなあなんて思ってさ」
 修くんは笑顔でそう言いながら場の空気を和ませてくれる。
 本音では私も音楽を演りたい。歌いたい。だけど踏み出せない。あれからずいぶん経つし、完全に歌から遠ざかっていた。ぜんぜん自信がない。
 それに――今さらながら、音楽室で修くんと咲南ちゃんがコラボした『Something』を聴いて泣き崩れたときのことが思い返される。
 私のなかに内在する得体の知れない〝なにか〟は消えてない。心のひずみも修復していない。東京に来て心はかなり軽くなったけど、あれは私のなかに棲みついたままだ。勉強してても働いてても、その影を感じる。
 理由は不明だけど、アコギに触れられないのも、ひとりで歌えないのも、〝なにか〟のせいかもしれない。音楽に近づきすぎると、いつまた暴れ出して、私を壊そうとするのかおそろしくなる。そんなことを考えながら俯いていと、修くんが遠慮がちに言葉を継ぐ。
「じつは僕、ひとりで活動しててさ。もしよかったら一度聴いてみてほしいんだ。ネットでASHUって検索すれば、動画サイトにアップしてるのがいくつか出てくるから」
「アシュー?」
「うん。冠詞のAに、僕の名前でね。それでアシュー。A、S、H、U。僕のオリジナル楽曲をまず聴いてみて。それで莉子ちゃんが興味を持ってくれたら連絡してほしい」
 そこまで言うと修くんは、すっと立ち上がった。私も席を立つ。
「今日はごめん。いきなりおしかけちゃって。こういうの、最初で最後にするから」
 その先を言いあぐねるように、修くんは一拍押し黙る。
「なんか、運命みたいなの感じたんだ。深夜、たまたまインスタで莉子ちゃんを見つけてさ。三年前、最後に音楽室で三人がセッションして、あれからちょうど丸三年でしょ」
 はっとする。そうだった。
「じゃあね。あ、アイスティごちそうさまでした」
 電話番号を交換した後、ぺこりとおじぎをして、修くんはすらりとした背を向ける。
 私は雑踏に紛れて消えゆく彼のうしろ姿をぼんやり見つめた。
 もしかして、と思う。この三年間、彼はずっと私たちを捜してたんじゃないだろうか。
 平和だった屋上トリオの、あの頃の三人の時間を取り戻すために。
 失われてしまった家族三人の幸せな時間を、私が切望しているように。

 深夜、ノートパソコンで『ASHU』と打ちこんで検索したら、動画サイトにアップされている、いくつもの楽曲がヒットする。一番再生回数が多いタイトルをクリックしてみる。数秒後、美しいピアノのイントロが流れはじめる。動画サイトだけど画面は黒いまま。そこにストリングスやアコギをサンプリングしたメロディアスなデジタル音源が巧みなアンサンブルを構成しながら重なっていく。
 聴きながらサウンドの美しさに微動だにできず、私は全身の肌が粟立つのを覚える。
 高校のときとは比較にならないほど、修くんは驚くべき独自の音楽的進化を遂げていた。
 格段に作曲とアレンジの技術がアップしている。いや、技術ではなく、センスと才能が開花したんだ。そう感じる。しかもピアノの上達ぶりにも驚く。当時から抜群にピアノが上手だったけど、レベルが違った。クラシックやジャズやロックや現代音楽を複雑に融合した旋律は、圧倒的な表現力で楽曲を牽引している。加えて絶妙のバランスでコンピュータを駆使し、変幻自在な音の世界を創造している。ボーカルなしのインストゥルメンタルでありながらもぐいぐい引きこまれていく。
「す、すごい、すごいよ、修くん」
 二曲目、三曲目、四曲目――のめりこむようにして次々と彼の楽曲を聴いていく。
 約一時間ほどかけてサイトにアップしてある十数曲を試聴し終え、私はため息混じりにヘッドフォンを外す。屋上トリオがなくなっても、ずっと音楽をつづけていたんだと思うとうれしかったし、感慨深いものがあった。
 時間を見ると、すでに午前一時を回っていた。少し迷ったけど、私はスマホに触れる。
[こんばんは。今日はお店に来てくれてありがとう。早速、ASHUの楽曲を聴きました]
 メッセージを送ると、すぐに返信がきた。
[こんばんは。突然、押しかけてごめんなさい。楽曲はどうでしたか?]
[すっごく素敵でした。驚きました。ずっと音楽やってたんだね。しかもかなり本格的に]
[僕にはほかにできること、なにもないから(笑)]
 そのメッセージになんて返そうか悩んでいると、修くんから電話がかかってくる。
「もしもし」
「夜遅くに、ごめんね」
「ううん。最初にメッセージを送ったの、私のほうだし」
「早速聴いてくれて、ありがとう」
「ほんとにすごかった。あれ全部、修くんが作ったの?」
「うん。リズムマシンやMPCも混ぜてるけど、弦楽器とキーボード系は全部僕が弾いて、あとはひとり宅録でDAW(※Digital Audio Workstation)を使って制作してるんだ」
 専門用語が多くてほとんど理解できなかったけど、へえすごいね、と私は相槌を打つ。
「あんなきれいな曲ばかりなのに、どうしてボーカルを入れないの」
「僕、歌えないから」
「だったらネットで募集すればいいのに。あんなすごい曲なら歌いたい人、いくらでもいると思う。バンドを組めばいいのに」
「僕の楽曲はボーカルを選ぶんだ。それにバンドとか、そういうグループみたいな時代錯誤で無意味なしがらみは嫌いなんだ。僕みたいなソロプレーヤーには向いてないよ」
「でもね、修くん」私は正直な気持ちを伝える。「あんなに素敵な曲、私の歌なんかじゃ絶対に無理だよ。ちゃんとボーカル、やったことないし」
「屋上トリオで歌ってたでしょ」
「あれはコーラスだよ。咲南ちゃんのリードボーカルがあったからできただけ」
「ほんと言うとね、動画サイトにアップしてある楽曲、全部、莉子ちゃんが歌うって想定して作ったんだ」
「え?」
「高一のときの君の歌声が忘れられなくて。僕なりに必死にイメージして書いたんだ」
 意味がわからない。「だって、修くんは咲南ちゃんのことが――」
 私の言葉を遮るように彼は強い声を押し出す。
「そういうことじゃないんだ。音楽は音楽だから」
「ど、どういう意味?」
「音楽室で初めて聴いて以来、僕は莉子ちゃんの歌声の虜になってたんだ」
「う、嘘よ。冗談でしょ」
「音にだけは妥協したくない。音楽は僕を絶望から救ってくれた神様みたいなものだから」
 三年前、音楽室でのセッションの後、声質や音域を修くんに褒められたことを思い出す。
「じゃあ、こうしない?」
「な、なに?」
「騙されたと思って、一回だけセッションしてみようよ。それで莉子ちゃんがぴんとこないならきれいさっぱり諦める。それでどうかな?」
 私は黙りこくる。もう諦めていたはずなのに、修くんがつなごうとしてくれている架け橋を渡ってみたいという気持ちがこんこんと湧いてくる。 
「どうかな?」念を押すように、もう一度訊かれて、私の心が動く。
「――わ、わかった。一曲だけなら」
「よかった。ありがとう」
「でも、失望しても知らないよ」
「そんなことになるんだったら、僕は音楽をやめるよ。自分の耳を信じているからね。莉子ちゃんも、もっと自分を信じたほうがいいと思う」
 冗談とも本気ともつかないことを修くんは言う。曲選びの段取りや日時については後日連絡し合おうと言って電話は終わった。
 

    3     

 
 セッションは修くんの部屋で行われることになった。スマホに送られてきた住所には立派なタワーマンションがそびえ建っている。私は目を疑う。おそるおそるエントランスに進んで、オートロックで一一〇三号室のボタンを押すと、モニターに修くんの顔が映り、なにかの間違いではないとわかる。木造二階建て築二十四年の私のアパートとは大違いだ。部屋の前に立ってドアホンを鳴らそうとしたら、修くんが玄関ドアを開けてくれた。
「やあ、いらっしゃい」
 通された部屋は、リビングだけで二十畳くらいある。しかもピカピカのフローリングで、私の六畳一間とはあらゆる意味で格が違った。
「お父さんの会社の持ち物件だったんだ」そう言って「なにか飲む?」と訊いてくれる。
「大丈夫」と答えたけど、彼は大きな冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本持ってくる。
「じゃ、早速だからはじめようか」修くんが待ちかまえたように告げる。
『o'clock』のバイトが入っていたため、世間話もそこそこに彼は奥のドアを開けた。
 足を踏み入れて目を見張る。八畳くらいの部屋には、難しそうな機材やさまざまな楽器がぎっしり詰まっていた。完全にプライベートの音楽スタジオだ。リビングとは異なる黒い特殊な素材で覆われた壁と天井は、おそらく完全防音仕様のためなのだろう。
 彼はペットボトルを静かにデスク脇に置くと、椅子に座ってパソコンへと向かう。
「莉子ちゃんは、そこに立ててあるマイクの前ね」
 顔はモニターに定めたまま、修くんがそう言ってマウスを操作しはじめる。
 私はポップガードに覆われたマイクスタンドの前に立つ。
 いざ、いきなりこういう展開になると、にわかに緊張してくる。
 事前に私が選んだ楽曲はミディアムテンポで、メロディアスなコード進行のナンバー。できるだけ複雑なデジタルサウンドが入っていない、シンプルな曲調のほうが歌いやすいし、自分の好みだからそれに決めた。修くんも[いい選択だね]と返信してくれた。二日前のことだ。歌詞はないから、ラララで歌うことになっている。
「この間言ったように、アドリブでメロを変えるのぜんぜんOKだからね。じゃ、いくよ」
 直後、カチッとマウスをクリックする音がして、スピーカーからイントロが流れ出す。椅子に座ったままピアノの前に移動した彼は鍵盤に十本の指を滑らせる。
 足先でリズムを取りながら、私はマイクに向かって歌う。
 その一瞬、身体がふわりと宙に跳ぶような、そんな浮遊感を覚えた。
    *
「僕の想像以上だね」静寂に包まれる完全防音スタジオで修くんの声が響く。
「声質、音域、音程、声量、発声、リズム感、なによりそれら資質をまとめ上げるバランス感覚と表現力。あの頃と変わってない。ううん、成長して格段に、さらに良くなってる」
 私は唇を結んだまま、彼の言葉を聞いていた。
 歌い終わった後も圧倒的な浮遊感と昂揚感に包まれている。うまく歌えたかどうか、自分じゃまったくわからなかったけど、そんなことどうでもいい。
 ただ、気持ち良かった。鬱積していたものすべてを体外に放出したような感覚だった。
「やっぱり君は本物、いや別格なんだ。三年前、高校の音楽室で初めて聴いたときに感じたインスピレーションは間違いじゃなかった」
 まっすぐまなざしを向けて、修くんはつづける。
「莉子ちゃんならデジタル音楽配信サービスにリリースしたとたん、一気に何十万、何百万、いやもしかすると、何千万っていう再生回数を記録するかもしれないよ」
「あの、そ、それって、どういうこと? 私、そういうの、ぜんぜんわからなくて」
「あっという間にネットで広まって、世界中の人が君の歌に注目するってことだよ」
「――ネ、ネット?」
「そう、ネットだよ。今の時代は無名の新人アーティストだって、バズれば一夜にして爆発的なヒットを記録するんだ。一瞬で世界が変わって、人生も変わるんだよ。莉子ちゃん、どんどん楽曲を仕上げてネットにアップしていこうよ。絶対すごいことになるから」
 どこかで聞き覚えのあるセリフを修くんが興奮気味に話す。即座に私は首を振る。
「無理だよ、そんなの――」
 歌ったことでもたらされた心身の熱が瞬く間に醒めていく。東京に来てから、日常に少しずつ平穏を取り戻しつつあるなか、ネットへの恐怖心は以前より激しくなっている。
「私には無理だって、修くん」
「なにが?」
「ネットとか、私にはできないの。やっぱり歌なんて歌えない」
「なに言ってるんだよ。君と僕が組めばすごいことになるんだよ」
「知ってるでしょ、私の過去。高一のとき、見てるんでしょ」
 口にしたくなかった言葉がこぼれ落ちる。「だったらわかるでしょ? 私の気持ちが」
 沈黙が部屋を支配する。なにか考えるように修くんは少しの間、押し黙っていた。
「君の家族の事件のことは知ってる。けど、僕にはわからないな」
 きっぱりとした口調だった。私に向けた視線が強くなる。
「まだ引きずってるわけ? これからもずっと引きずるわけ?」
「だって私、なんにもしてないのに、標的にされて、傷つけられてきたのよ、ネットの世界でずっとずっと。どんな思いで、びくびくしながら生きてきたかわかる?」
「だからって暗い闇のなかにひとりで閉じこもったままじゃ、なにも解決しないし、前にも進めないよ。それって、ただ逃げてるだけでしょ」
「そんなことない。東京に出てきて、ひとり暮らしをはじめて、大学に通いながら、二つもバイトをかけもちして生活費を稼いでるもん。私なりに毎日、必死でやってるつもりだよ。こんな立派なマンションには住めないけどね」
 ついカッとなって口走り、「ご、ごめん。今のは言いすぎた」と慌ててすぐに謝る。
「いいよ、別に。たしかににここは親のマンションだし。最初に言った通り」
 深く息を吐いて修くんは静かに言う。
「でも、僕だって同じだ。莉子ちゃんはネットを見ないから知らないだろうけど」
 これまで修くんは、自分のことをなにひとつ語ろうとしなかった。
「話してもいい?」そう訊かれ、私はスタジオに立ちすくんだまま、小さく顎を引いた。

「もともと僕の父親は、東京で複数の会社を経営していて、幼い頃から僕は裕福な環境で育てられたんだ。もっとも父親が家にいた記憶なんてほとんどないけどね。それでも優しい母親が、ひとり息子の僕を寵愛してくれた。良家出身のお嬢様で、おっとりとした生真面目な人だった。けど、ある日を境に、一瞬にして家庭が崩壊したんだ」
 修くんは椅子に座って両手を組んだまま、しばし中空に目を泳がせてぼんやりする。
 かつての自分の家庭環境に似ていると思いつつ、私は黙って耳を傾けた。
「父親が投資とか企業買収にまつわる大がかりな刑事事件を起こしてさ。僕はまだ小学五年生だったから理解できなかったけど、反社会勢力やアングラマネーが関わる大事件だったんだ。自宅にも警察の人がいっぱい来て、父親は重要参考人として事情聴取のため、身柄を拘束されて、とにかく大変なことになったのはよく覚えている。さらに事態を悪くしたのは、父親の会社の役員が二人も死んでしまったことなんだ。不審死っていうのかな、自殺か他殺かも判断がつかないやつ。当時はかなりマスコミで騒がれたみたいだよ」
 他人事のようにそこまで言って、彼はペットボトルのお茶をひと口飲んだ。
「それから長い長い裁判に入って、結局は実刑が決まって、父親は今もまだ刑務所にいる。母親は事件のショックで寝こんでたんだけど、間もなく精神状態がおかしくなってね。心理的不安や葛藤で、僕の言葉が詰まるようになったのはその頃からだった。中学二年生のとき、両親は正式に離婚した。僕はてっきり母親と一緒に暮らすと思ってたんだけどさ、とうとう彼女は呼び寄せてくれなかった」
 立ったままだった私は彼に促され、そばにあった椅子を引き寄せて座る。
「しばらくして、ようやく遠い親戚に引き取られ、東京を去ることができたんだけど、じつは僕の身もまた危険で、なかなか迎え入れてくれる家がなかったのが実情らしい。本当にヤバい連中が父親のひとり息子を血眼になって捜しているという情報があったから、養子になるとき苗字だけじゃなく、名前も変えることになったんだ。後になってわかったことだけど、父親が自分の隠し資産を僕名義にこっそり差し替えていたからなんだって。まったく、ひどい親でしょ」修くんは自嘲気味に笑う。
「――大丈夫なの? 東京へ戻ってきて」
「もう七年だよ。警察や検察もそこまで愚鈍じゃない。父親が犯した複数の刑事事件を契機にして、関連していた反社とかアジアから来ていた組織の連中とか、根こそぎ捕まえていったんだって。司法取引みたいな表にはできない密約が、減刑を条件に父親と検察との間で交されたみたいでね。それで一網打尽であの事件に関与していたヤバい奴らは逮捕されたか、国外へ逃げたってことなんだ。だから、もう僕は平気。完全に自由の身だ」
 おどけるように修くんは肩をすくめて笑顔を作るけど、その表情も口調も重々しかった。
「いまだネットじゃ、父親や母親、そしてひとり息子の僕を糾弾しようとする、ひどい書きこみがたくさん残ってるし、今でも無記名の処刑人たちは僕ら家族を許すことなく追いかけてくる。まあ被害者の人たちも多かったっていうから、恨み辛みはすごいんだろうけどね。救いだったのは、まだ小さかった僕の、改名前の本名しかネットの世界に出回らなかったことなんだ。そう思って安堵していたところ、そううまく事は運ばなかった」
「どういうこと?」
「高一の二学期がはじまってしばらくした頃からだ。今の倉澄修という名前と父親の事件を関連付けたネットの書きこみが急増してきたかと思ったら、あっという間に岬回高校関係のスレッドで僕の名が晒されて、すべてが暴露されたんだよ。そればかりか事実じゃない歪んだ憶測記事や悪意の塊のような投稿まで再燃して増えつづけ、僕はひどく心を病んでしまった。結局、今でも犯人はわからないけど、おそらく僕ら家族を許せない被害者が執拗に追いかけていたんだと思う」
 彼が登校しなくなって通信制に切り替えた時期と重なっていた。
 原因は咲南ちゃんの退学ではなく、自身に起きたトラブルだったのだと知る。あるいはそれら両方だったかもしれないけど、修くんは彼女について触れることはなかった。
 しばらくお互いが沈黙するなか、突然、修くんはピアノの鍵盤を叩いて、つい先ほど私が歌った楽曲のイントロを弾きはじめる。
「それから二年以上、僕は心を閉ざして自室に引きこもり、鬱々と自分と闘ううち、大学には行かなきゃという意志が芽生えていった。あの町を脱出したいって思いがあったから。そして僕は高一の秋以降、自分のことをあれこれ攻撃しつづける、不愉快極まりないネットの書きこみを毎晩眺めながら考えるようになった」
 と、彼は信じられない速さで美しい音階の旋律を奏でながら、私に真剣な顔を向ける。
「今、僕は転機に差しかかっている。ここで挫けてしまったら一生負け犬になる。そうならないためには、と自問自答を繰り返したんだ。そして決心した」
 ピアノの音色が緩やかになり、スタジオ内にこだまするメロディが余韻を残して止まる。
「僕はそいつらに、有名になることでリベンジしてやろうって誓った。音楽で圧倒的な人気と認知と、そして力を手に入れて、誰にもガタガタ言わせないようにしてやるって」
 きっぱりと、そして淡々と言い切る修くんは、高校一年の頃のか弱い少年ではない。
 純粋にすごいと思う。ものすごい闘気で奮起し、努力に努力を重ねて、音楽的才能を自身のものとして取りこみ、さらにはそれを武器にして見えない敵と闘おうとしている。私以上に辛い過去を体験しながら、自分の力で跳ね返そうとしているんだ。
 屋上での初対面のとき、修くんから感じた、私と同種の負の〝なにか〟はもう消えかけている。そのかわり、それを凌駕しようとする強い〝なにか〟の存在を感じる。
「僕と一緒に演ってみようよ」
 あらためて言われても、私は答えられない。自分は違う。修くんのように強くない。
 得体の知れない〝なにか〟を抱えたままの私なんかには無理だ。修くんが築き上げた音楽的才能はすごいけど、隣で歌ったところで足手まといになるだけ。
 断ろうとしたそのとき、修くんが訊いてくる。
「さっきの歌、ご両親に向けて歌ってたよね、莉子ちゃん」
 その言葉が心を震わせる。
「演奏しててそう思えたよ。最初から最後まで。だからこそ君の歌が必要だと感じた」
 修くんはふたたび静かにピアノをつま弾きながら綴る。
「僕も、呼び寄せてくれなかった実の母親と、刑務所にいる父親に、いつか自分が作った楽曲を聴いてほしいって願ってる。でも、歌えない僕には、君の歌声が必要なんだよ」
 もう誰とも深くつながらないし、頼らないし、関わらないと決めていた。
 東京に来て、大学生になって、そう誓っていたのに――。
「とにかくもう一度、屋上で初めて出会った頃のように演ってみない?」
 そう言う修くんは、昔と変わらない、素朴で素直な笑顔を向けてくる。
 その瞬間、高校のときみたいに、もう一度歌いたいと思えた。
〝なにか〟がぞわぞわと蠢いたけど、それを撥ね退けるようにして私は肯いた。

 夏の終わりのテストセッションから二ヶ月が経過した。東京は秋が深まってきた。
「今の感じ、すごくよかったと思う」
 大学の授業と二つのバイトの合間、なんとか時間を捻出して、最低でも週に二回は彼の自宅スタジオで練習を重ねるようになる。大学とバイト先を往復するだけの生活のなか、修くんと過ごすスタジオでの時間は、これまでにない心の張りを与えてくれた。
 新譜の練習が終わり、ふうっとマイクの前で息をつきながらも、ようやく自分なりに手ごたえを覚える。この頃、メロディをピッチやリズムに合わせようと意識しなくなった。ピアノ演奏とコンピュータ音源が、私の歌声についてくるように感じる。
 私は歌う楽しさを取り戻しつつあった。修くんはそんな私の成長をよく理解しつつ、さらなる進歩を求めていた。その証拠に次々と曲調が異なる課題曲がスマホに送られてくる。私は次回のセッションまでに仮の歌詞とメロディをつけて歌わなければならない。そういうルーティンができあがり、さらに二ヶ月近くが過ぎ去ったクリスマスシーズンのこと。
「莉子ちゃん。次、録っていい?」
 パソコンの前に座った修くんが真顔で言う。「ボーカルを録音したいんだ」
「どうして?」
「どうしてって、歌声の生音源が欲しいからだよ」
「なんのために?」
「君の歌声が素晴らしいから、アレンジの最終調整に入って、完璧に仕上げたくなった」
「年内はリハーサルに集中して、まずは二人の息を合わせるんじゃなかったの?」
 修くんは首を振る。
「もう十分合ってるよ。今さらだけど君の歌はすごい。成長ぶりはもっとすごいけどね」
 その声に、いつも以上のひたむきな熱量を感じた。
「四ヶ月一緒にやってきて、信じられないくらいの手応えを感じてる。だから対外的な評価が知りたくなったんだ。どれくらいの人に届くのか、莉子ちゃんだって知りたいでしょ?」
「私は別に。こうやって練習してるだけで十分楽しいけど」
「ネットにアップしてみようよ」彼は揺るぎない声で重ねる。
「莉子ちゃんが恐がる気持ちもよくわかる。だけどここまで完成度の高い作品が作れてるんだ。このままじゃもったいないよ。たくさんの人に聴いてもらうべきだと僕は思う」
「とりあえずネットには、アップしないっていう話だったよね?」
「アップしないかもしれないし、するかもしれないって話を僕はしたつもりだけど」
 今日の修くんは引かない感じがする。きっと朝から、ううんもっと前から、この話をしようと心を決めていたに違いない。
「莉子ちゃん、約束するから。楽曲はアップするけど、僕ら二人の名前も顔も出さない。身元が判明するようなプロフィールもいっさいなしにする」
「修くんはそれでいいかもしれないけど、私は自分の肉声が晒されるんだよ」
「その点は僕も考えた。アップする楽曲の歌声は、クオリティを損なわないレベルで、エフェクトを最大限までかけて加工していく」
「そんなことして、大丈夫なの?」
「僕を信じてよ。耳は誰よりも優れてるから」
 自信満々に言われて、私は抗弁する言葉を失い、俯いてしまう。
「もともと莉子ちゃんの地声と歌声は完璧に乖離してるし、よっぽど親しい人でなければ判明できないと思うんだ。それに――」
「それに?」
「これはいつか通らなきゃならない道だと思ってる。だったら早いほうがいい。少しでも」
 はっとする。修くんが言ってるのは音楽のことだけじゃない。過去の私。未来の私。そういうことを含めて話している。ゆっくりと顔を上げると彼は私に視線を定めて告げる。
「これは僕ら二人にとってのリスタートなんだ」


    4

 
 修くんはビートクラウドに私たちの楽曲をアップロードすると決めていた。
 ビートクラウドは音楽投稿サイトとしては世界最大級の規模を誇る。ワールドワイドでのユーザー数は軽く一億人を突破し、すでに登録されている楽曲は三億曲を超えている。
 年明けに初めて彼からそういった説明を聞き、頭に浮かんだのは咲南ちゃんのこと。
 LANAというアーティスト名でビートクラウドにリリースし、話題になっていると前に真紀さんが教えてくれた。ネットを見ない私には、現在の彼女がどうなっているかわからない。興味はあったけど、精巧なCGかロボットみたいに変わってしまった咲南ちゃんを目にするのは気が引けた。はたして修くんは知っているのだろうか。
 いや、知らないわけがない。音楽に関してはネットを調べ尽くしている彼なのだから。
 でも、私は言葉を押しとどめた。別人になった咲南ちゃんを見て、修くんもまた違和感を覚えたはずだ。彼女が誰かと組んでいることも、修くんならわからないわけがない。そして誰かとはあの男の人だと推測しているに違いない。私と同じように。
 となれば、彼女たちと同じ土俵に上がろうとしているのは、偶然なんかじゃない。
 修くんなりの意地とプライドを懸けている。そういう意味でのリスタートなのだろう。
「どうしたの、莉子ちゃん? 聞いてる?」
「あ、ごめんなさい」我に返って、あらためて修くんのパソコンをのぞきこむ。
「これが夏からビートクラウド用に書きためておいたデモトラックなんだ。あのサイトは日本語対応してなくて英語だけだから、楽曲の雰囲気もこれまでとは違ってくるよ。英語の歌詞に乗るリズムやアレンジ、そしてグルーヴ感を意識していく必要がある」
 モニターにはMP3形式の音源ファイルが数十個も並んでいる。
 そのひとつを修くんがクリックすると、ただちに再生がはじまる。
 スピーカーから流れ出るサウンドは、たしかにこれまでよりドラムとベースがしっかりビートを刻みながらも、微細な音の隙間バランスが絶妙で、オブリガードを奏でる高音のピアノの旋律が透き通っている。そしてアコギが全体のトーンを優しく包みこむような、ロックとポップスとアコースティックをミックスした楽曲だった。
「きれい――」あまりに素敵な曲調に、感嘆の声が漏れる。
「気に入った?」
「うん、すごくいい」
 嘘じゃなかった。自分自身の、いや私たちの可能性を広げるため、彼の音楽性はどんどん高まりつづけている。けど、今しがたの修くんの言葉が気になって、思わず確認する。
「英語の歌詞って、言ったよね?」
「そうだよ」当たり前のように修くんは肯く。
「無理だよ。私、英語、ぜんぜん駄目だもん」
「駄目って言ってもビートクラウドは英語版だから。リスナーの大半は英語圏の人だし」
「そんなの、私、知らないもん」
 しばし睨み合う格好になる。
 スタジオ内にはビートクラウド用に書き下ろした修くんの新譜が流れつづけている。彼が言う通り、リズム体もミックスも楽器の音色も、すべてが洋楽そのものだと感じる。
 修くんは世界に向けて、自分が作った音楽を発信しようとしているんだ。
 はっとする。あらためて思い出す。高校一年のとき、咲南ちゃんに質問したことを。
 修くんとの初セッションのとき、彼も同じことを言っていた。
 思わず私は訊く。咲南ちゃんへの三年前の質問と同じように。
「ねえ、修くん、今の時代はネットでバズれば、一瞬で世界が変わって、人生も変わるって話してくれたよね?」
「あ、ああ、うん、言ったよ」
「それで、ビートクラウドって、世界最大級の音楽サイトなんだよね?」
「そ、そうだけど」
「だったら、私たちの音楽がビートクラウドでバズったら、たくさんの人が聴いてくれる?」
「そりゃそうだよ。だからビートクラウドで挑戦しようって、僕は決めたんだ」
「いっぱいの人に、修くんが作った楽曲と、私の歌と歌詞が届けられる?」
「届くよ。てか、届けようよ。僕らなら絶対にできるから」
 修くんは真剣な声になって、訴えるように返してくる。
 きっと、お父さんとお母さんのことを想っているに違いない。
 私も同じだ。両親へ歌を届けたい。
 そうだった。忘れてなかったけど、諦めかけていた。そんなこと絶対に不可能だから。
 今度の二月で失踪から四年になる。歌にこめる想いやメッセージを二人に届けようと心に決めて、咲南ちゃんと修くんと音楽をはじめたのは三年前のこと。時間だけが無慈悲に過ぎ去り、私はなにもできないでいた。残された時間は、もうあまりないというのに。
 三年前の誓いをもう一度やり直す。修くんとならできる。これはリスタートなんだ。
「わかった。英語は苦手だけど、やってみる」
「ほんと?」
「でも、条件があるの」
「条件?」
「わからない表現とか、難しい言い方とかで息詰まったら、ちゃんと助けてほしい」
「もちろんだよ、そんなこと。僕らはユニットじゃないか」
「あと、下手な歌詞でも笑わない?」
「笑うわけないって。莉子ちゃんが一生懸命考えて作った歌詞なんだから。これまで日本語の歌詞だってすごくうまく書けてたし、絶対に問題ないよ」
 私は肯いた。これは私たちのとってのリスタートなんだ。あらためて自分に言う。

「なんかあった、莉子ちゃん?」
『o'clock』でバイト中のこと。前半のバンド演奏が終わって間もなく、バーコーナーの客足が落ち着いたところでひと息ついていると、真紀さんがいきなり訊いてきた。この頃は苗字ではなく名前で呼ばれるようになっていた。
「え、なんでです?」
「なんか、すっごく忙しそうだけど、すっごく楽しそうだから」
「そ、そうですか?」
 真紀さんは意外と鋭い。お店の人間関係とか、気難しい出演者とか、店長が落ちこんでいるときとか、一瞬で見抜く独自の嗅覚というか触覚を持っている。
「私が思うに、去年の八月、同郷の男子がここに来てから変わっていったんだよね」
 横目で意味ありげににやりと笑いながら、彼女はやっぱり鋭い意見を口にする。
「当たりでしょ?」動揺を観察するようにじっと私の顔に目線を置いたまま確認してくる。
「ま、まあ、ハズレではないですけど、真紀さんが思ってるような、そういう関係じゃないですから」
「でも、関係してるんだ。そういう関係じゃなくても」
「だ、だから、そういう関係じゃないですって」
「なんだっていいよ。この頃、莉子ちゃんが明るく元気になってきたから」
 カウンター内でグラスをすすぎながら彼女が笑顔を向ける。
「ほんとはね、勤めはじめた頃、この子、大丈夫かなぁって、店長と心配してたんだよ」
 え? 初めて聞く話に、カウンター脇で私は立ちすくむ。
「思いつめてるっていうか、ぎりぎりの瀬戸際にいるっていうか、悲壮な感じを纏ってるっていうか、とにかく十代後半で、人生が一番楽しい頃のはずなのに、なんであんなに悲しげなんだろうって。今だから言えるけど、店長、悩んだらしいよ。うちみたいなお店で務まるかなぁって。でも店長、いい人でしょ? 逆にそういう莉子ちゃんがすごく心配になって雇うことが決まったんだから」
「――そ、そうだったんですか?」
 まったく知らなかった。その日のうちに即決で採用されて、少々面食らったことしか覚えていないけど、ラッキーだ、なんて思っていた自分が恥ずかしい。
「けど、いい意味であなたは期待を裏切る優秀な人材だった」
 生まれて初めて面と向かってそんなことを言われて戸惑ってしまう。
「夏休みだって誰よりもシフト入ってくれるし、無断欠勤も遅刻も一度だってない。そりゃ接客がうまいかっていうと、満点ではないけど、一生懸命働いてるのは、ここのスタッフもお客さんも出演者も、誰もが認めてるとこだから」
 彼女はにっこり笑いかけ、「ほれ、飲みな」と、アイスティの入ったグラスを差し出す。
「莉子ちゃん、もとが可愛いんだから、夢中になれることでも見つけて明るくなれば、もっと素敵なのにって、ずっと思ってたんだよ。そしたらこの頃、表情が豊かになってきて、笑顔も見せるようになったし、声にも元気がこもってきたからさ。店長とよかったよかったって言ってるのよ」
 そのタイミングでライブの後半がはじまる。ライティングがぐっと落ちて、バンドがステージに登場する。ざわつく観客のなか、彼女は賑わいに負けない声で告げる。
「よかったね。夢中になれることが見つかって。とにかく私ら、応援してるからね!」
「は、はい、ありがとうございます。がんばります」
 このお店で働いて本当に良かった。私はいろんな人たちに優しくしてもらっている。いつかこの恩をみんなに返したい、と自然に考えるようになっていた。

    *

 大学二年生への進級を控えた春休みの三月上旬。ビートクラウドにリリースする私たちの記念すべき新譜全五曲が完成した。EP版を意識した曲数だ。一曲だと個人の好みが分かれるリスクがあるので、さまざまな曲調から修くんが慎重にセレクトした。
 英語の作詞には当初かなり苦労したけど、書き上げるたびにメールを送ると、修くんが細かく添削し、熱っぽくアドバイスしてくれた。さすが名門私立K大に通うだけあって教え方がうまく、英語への苦手意識がだんだんと薄れていった。
「歌詞っていうのは、文法や文章の整合性より、単語の持つ響きや語感や韻を大切にしたほうがいいよ。むしろ日本語よりシンプルに組み立てて平気だから。実際、ビートルズでもボブ・ディランでも、ロック・スタンダードの名曲って歌詞もコード進行もシンプル極まりない。誰もが口ずさめる、みんなに歌ってもらえる歌こそ本物なんだ」
 みんなに歌ってもらえる歌。それこそが大切な人へ届く歌になるんだと私は思った。
 
 正直、私はネットに自分たちの音楽をリリースして、どれくらいの期間でどれだけの反応があるのか予想もつかなかった。英語圏を中心にしてワールドワイドに広がるビートクラウドは、欧米のチャートを賑わせるメジャーアーティストも新譜を発表する、ネット音楽の主戦場だという。それでもあの修くんが考え抜いた作戦なわけで、制作した楽曲はどれも私たちの自信作だ。きっとすごいことになるのだろう。そう思っていた。
 当初はひどく心配していたネットへのアップだったけど、修くんは約束通り、私の歌声に絶妙なエフェクト加工を施し、まず他人が聴いたらわからないというくらい、完璧に仕上げてくれた。
 アップロード初日、リスナーの反応が気になったけど、私は自分でチェックするつもりはなかった。相変わらずネットに触れるのは気が引けたし、ビートクラウドのアプリを開いても、どこをどのように見ればいいのかわかってなかった。
『o'clock』のバイトを終えた深夜、くたくたになってアパートの部屋に帰る。スマホを確認するけど、修くんからの電話もメッセージも入ってない。
 翌日も彼から連絡はなかった。大学が休みだったため、私は朝から晩まで二つのバイトで忙しく、しかもアップロードから一週間はお互いに少し休もうという話になっていて、練習も録音も予定がなかった。
 初日になんらかの報告が修くんから入ると思っていただけに、ちょっと拍子抜けした。でも、彼も疲れているはずだ。私の歌を録音した後も、トラックを組み替えたりアレンジを調整したりする作業で、昼夜なくスタジオにこもりっきりだった。
 そうして二日、三日と、音沙汰のない日々が経過する。私は私でバイトや春休みの課題に忙しく、気がつけばビートクラウドにアップしてから早一週間が過ぎようとしていた。
 明日はひさしぶりに修くんの家のスタジオで新譜の練習が入っている。そんなことを考えながら、一日を終えて駅から帰宅中の真夜中、彼から電話が入った。
「もしもし?」
「――あ、莉子ちゃん、僕だけど」
「どうしたの? こんな深夜に」
「明日の練習だけどさ、ちょっとなしにしていいかな?」
「もしかして風邪とか引いたの?」
 声に元気がなく、思わず心配になって訊く。
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど」
「なにかあったの?」
 なんだか胸騒ぎがしてきた。練習を休むとかこれまで一度だってない。修くんにとって音楽は最優先事項で、存在理由のすべてだ。
 数秒間の沈黙の後、深いため息が漏れる。
「あのさ、莉子ちゃん」と、修くんが苦しげな声を出す。
「うまくいかなかった。ごめん。駄目だった」苦悩に満ちた声色で彼は謝る。
「いったい、なんのこと?」
「――ビートクラウド」
「え?」 
「まったく伸びてないっていうか、ほとんど誰も聴いてくれてない。言い訳になるけど、SNS機能とかをうまく使いこなさないと、拡散しないみたいでさ。英語版だし、音楽以外のすごく専門的でマニアックなスペックが多すぎて、よくわかんなくてさ」
 私は修くんの言っていることがよく理解できない。
「だから、ごめん。ちょっと冷静になっていろいろ考えたほうがいいって思ってて。とりあえず僕らの音楽活動はしばらくやめにしよう」
「ち、ちょっ――」
 そこで電話は一方的に切れた。心配になってすぐに電話をかけ直したけど、不通のまま留守番電話に切り替わる。何度電話しても同じだった。
 その夜、私は屋上トリオの三人で音楽室に忍びこみ、咲南ちゃんと修くんと、いつまでも楽しく歌いつづける夢を見た。
 邪魔者など誰もいない、私たちだけの閉ざされた静かな世界で。
 やがてその場所に、曜子ちゃんが私の両親を連れ立って現れる。
 生徒用の椅子に座って、三人の家族が見守るなか、私は歌う。
 ピアノを演奏する修くん。私と一緒にハモる咲南ちゃん。
 歌いながら、私は〝なにか〟を感じていた。言葉じゃ表すことができない〝なにか〟を。誰もに、そして自分にも、同じように心のなかに生まれて、惹かれ合う素敵な〝なにか〟が満ちあふれていく幸せを実感できた。
 これはいつか醒める夢。わかっていた。それでも夢がつづくことを祈り、歌いつづけた。
 自分の居場所が存在する世界があるのなら、それが現実ではなく夢想のなかの儚い世界であっても、私はずっとそこに住み、幸せを実感してたい。家族や大切な人たちと一緒に。


   * 後編へつづきます
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