陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明

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第一話 「くじら侍と青碕伯之進」

盗賊ども

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 南町奉行所に近い呉服町御門への通りを、伯之進は小者もつれずに歩いていた。
 この南町奉行所は、後に数寄屋橋へと移転し、すぐ近くの吉良家の屋敷跡に北町奉行所が移転することになる。
 南北の奉行所はのちに対立する役所のイメージを世間に抱かれることになるが、実際のところ、そこまで仲が悪い関係ではない。
 両奉行所において完全に窓口が分けられているのは商業に関するものだけで、呉服・木綿・薬種問屋といった案件は南町、書物・酒・材木・廻船問屋の案件は北町奉行所といったように分担していたからである。
 対立関係というよりも、やや競合という方が実情にはあっていたのだろう。

 途中、所用で外出するらしい南町の吟味与力に声をかけられた。
 吟味与力は下手人の取り調べや裁判の担当をする役職である。吟味方ともいう。

「青碕、例の四谷の押し込みの探索はどうだ」

 伯之進と同僚の同心たちは、ここ数十日、その事件にかかりきりでまともに奉行所に顔を出していないから、報告に行くのさえも久しぶりであった。
 逆に、与力はほぼ奉行所につめて事務方をすることになるため、探索中の同心とはほとんど顔を合わせる機会がない。
 こうやってわざわざ聞いてくる以上、新しい情報は奉行所にも届いていないようだ。

「なんとか、目星程度は」
「ふむ。お奉行も気にかけておられる。あのあたりは武家の屋敷も多い。われわれのような奉行所のものが歩きまわるのを嫌がるお歴々もいるだろうからな」
「承知しております」

 吟味与力はこの若い美貌の同心のことを気に入っていた。
 事務方として手助けをしてやりたいとは思っていたが、奉行所にまで入って来る情報程度なら現場の方がさらに詳しいだろう。
 そのとき、ふと思い出した。

「そういえば、先ほど、浅草の岡っ引きが報告に来たぞ。確か、源三とかいったな」
「―――なにをでございますか」

 昨日の水死体のことが脳裏に浮かぶ。

「隅田川の船頭の水死人のことよ。特に問題ないから家族に死体を引渡していいのかを聞きに来たのだ。確か、おぬしが検分をしたと聞いていたから教えておく」
「それでしたら、検屍はすんでいるので問題はないかと」

 気軽に返答をしたとき、何故か伯之進は頭の中でちかっと何かがはまる音を聞いた。

「それでは、私は四ツ谷と市ヶ谷の押し込み盗賊の件についてお奉行に報告後、もう一度麹町まで飛んで帰りますので失礼いたします」
「ご苦労だったな」
「はい」

 立ち去っていく与力を見送り姿が見えなくなると、伯之進は奉行所には行かず反対方向に歩き出した。
 そのまま麹町まで戻るつもりだった。
 もともと、奉行所には報告するような内容はない。
 ただ、近くに寄った手前、同心の義務として報告しておこうと思っていただけだ。

 今、彼と同僚たちが追っているのは四ツ谷あたりで行われた押し込み強盗とその下手人である盗賊どもである。
 四ツ谷、市ヶ谷のあたりは武家地であり、大名家はもとより旗本、御家人の屋敷も多い。
 町奉行所の同心を不浄役人などとあざけり、下に見ようとする武士を相手に盗賊探索をするというのはなかなかに骨の折れる仕事なのだ。
 町屋ならば奉行所の支配下であり、夜遅く歩いているものを訊問することもできるが、武家は体面と面目を重んじるためどうにも気苦労が多くなる。
 夜警を厳しくしたり、夜廻りを増やしたりも容易には出来なくなるからだ。
 おかげで伯之進たち同心は昼には茶屋あたりで仮眠をとり、夜は一睡もせずに警戒にあたることになった。

 まだまだ晩夏で陽も高い。
 奉公人の為にくぐり戸の桟を開けておく店もあることから、盗賊も仕事がしやすいのだろう。
 盗賊たちは店に押し入ると、逆らうものは殺し、降参したものは残らず縛りあげて、刀を突き付けると金蔵を開けさせて、金を奪うという手口を繰り返していた。
 俗に言う畜生働きであり、江戸の住人全てに憎まれているやり口である。

(馴れてはいるが関東の盗賊にしては手口が荒い。きっとよそから来たやつらだ)

 同心たちの印象はそういうものであった。
 江戸に出稼ぎにきた連中が職にありつけずにわずかな手間賃だけで暮らすのに飽き飽きして盗賊に変わったのではなく、本職の盗賊がどこからかしのぎをもとめてやってきたのだろうと推測したのだ。
 そのため、昼は見慣れない男どもが集団で隠れていないか地道に探し、夜は夜回りという二重生活をしているのである。

 江戸は広いと言っても地の利のある奉行所の同心が懸命に探しても見つからないということは普通ない。
 盗みを働いて、引き上げるときに人目につかないというのは、隠れ家の存在が必要だった。
 どこかにねぐらがあるのは間違いないのだ。
 金を盗んだ後にばらばらになって逃げ出したとしても、まったく誰にも見つからないということはありえない。
 千両箱を丸ごともっていかれた大店もあるのだから尚更だろう。
 盗賊たちで手分けして運ぶなり、大八車にくくりつけたりしなければならないはずであった。

「……何か、見逃しでもあるのだろうか」

 同心らはそうは思っていても、よい知恵も出ずに、ただ時間が無為に過ぎ去っていくだけだった。
 空き家などは片っ端から目を光らせているというのに。

 ただ伯之進はさっきまでとは違っていた。
 いつもならば四ツ谷に戻るために歩くのだが、完全に遠回りをして柳橋の知己の船宿にまでいき猪牙をだしてもらうことにした。
 距離はかかるが、晩夏の強い日差しの中を歩くよりは大川を昇り神田川を進む方が涼やかでいい。
 気持ちのよい風もあるし、川辺をいく燕を見物するのも本来は風流といえた。
 神田川は荷を運ぶ舟、物売りのための舟が上下する、ある意味では交通の要所だ。

「そういえば、誰も川の探索はしていませんでしたよね」

 ぽつりと船頭には聞こえぬように呟いた。
 舟は江戸川との合流する牛込御門を過ぎた船着き場に到着した。
 堀沿いに行けば、市ヶ谷御門まですぐだ。
 水茶屋も軒を連ねている。
 同僚たちはこの近くで宿をとっているので合流しようとすればできる。
 だが、伯之進は舟からは下りず、

「え、どうなさった、八丁堀の旦那。降りねえんですか」
「気が変わった。柳橋に戻ってくれ。船賃は往復分払うから」
「へ、へい」

 船頭が船首を回頭させて、神田川を下りだす。
 伯之進はじっと流れていく景色を見つめていた……


 ◇◆◇


 柳橋で猪牙から降りた伯之進は、そのまま大川の端を辿っていった。
 その途中で、両国を縄張りにする岡っ引きの徳一に話を聞きだし、溺れて死んだ船頭の通夜に顔を出したりもした。
 船頭の死体はすでに家族のもとへ引き渡されていた。

 それから柳原の土手に出る。
 すでに陽も暮れてあたりは暗かった。
 昼はよしず張りの出店が並ぶ一帯だが、夕方になるともう店仕舞いしてしまうのでさびしいだけとなる。
 客待ちの夜鷹が何人かうろちょろしていたが、八丁堀の同心の姿を見るとさっさと隠れてしまう。
 役人の前で春を売る仕事はしにくいというわけだ。
 伯之進もわざわざ問いつめたりはしない。
 夜鷹改めでもない限り、いちいちちょっかいをだすつもりはなかった。
 このあたり、伯之進という若者は清濁あわせ飲むことのできる柔軟さの持ち主である。

 横手の道に入る。
 立ち並ぶ民家はすでに明かりもなく寝静まっていた。
 袋小路を避け、裏道に入ると湯屋らしいものの裏手だった。
 薪がいくつも積まれている。
 湯気がでていないので今日は休みなのか、もう火を落としてしまったのかのどちらかだろう。
 表の通りに行こうとすると、ぱちんと小石に躓く音がした。
 人の姿は見えないのに。

 刀の柄頭をつまむと軽く廻した。
 柄の内部に仕込まれていた発条バネが鋭く尖った刃を跳び出させる。
 秘器と呼ばれる隠し武器の一種であり、いざという時にとても役に立つ。
 伯之進は提灯をもっていないから月明かりだけが頼みだったのに、その月が雲に遮られて真っ暗になる。

「誰かいるのか」

 などと声をあげたりはしない。
 視界に関しての条件は相手も同じ。
 わずかでもこちらの情報を教える必要はみじんもない。

 伯之進は刀を抜いた。
 柳生道場で学んだ新陰流―――すでに江戸開闢時の権勢はないとはいっても、いまだ柳生の剣力は衰えておらぬ。

 無形の位をとる。

 暗い路地からわっと何者かが立ちあがり、立て続けに襲いかかってきた。





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