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第四話 「くじら侍の帰郷」
竜の珠
しおりを挟む二十五貫(約九十五キロ)ほどはあろう肥満の大男を引っ担いでも、足取りがまったくふらつかないのは伊左馬の膂力の凄まじさである。
長屋に戻ると、大男を土間に放り捨てた。
一里近くも歩いたので少し肩が凝っていた。
底知れぬ体力の持ち主といえよう。
甕から水を汲んで口に含む。
咽喉がだいぶ乾いていた。
鯨漁をやめて以来の力仕事だったような気がして、思わず懐かしくなった。
「兄が死んだとか言っておったのぅ。それに、竜珠だと? あんなものを知っておるとは……本当に新宮藩のものなのか?」
土で作られた一口の竈ではなく、七輪を持ち出し、炭をおこし、釣ってきた魚を串にさして焼き始める。
まずは腹ごしらえという訳だ。
近所からもらった香の物とともに冷や飯をかっ食らうことにした。
魚には包丁で皮を切っておくとちまちまと箸で捌くよりも口に入れやすい。
伊左馬はこう見えても、食い物に関しては細かい男なのだ。
金さえあればそれなりに食材を見繕って調理する繊細さがある。
魚が焼き終わった時点で、ようやく土間に転がっている大男の様子をうかがった。
まだ、気絶が続いている。
図体がでかいわりに頑丈さは大したことがない様子であった。
もし、伊左馬だったらとうの昔に目を覚まして暴れているところだ。
「よいと」
水瓶から鍋に水を移すと、それを大男にぶっかけた。
いちいち声をかけて起こすなどという面倒なことはごめんだ。
これで目も覚ますだろう。
鯨漁をしていたころならば、溺れ死んだってかまわない程度の雑さで海に放り込んでいる。
「げしゃ!」
奇声をあげて大男が上半身を跳ね上げた。
きょろきょろと周囲を見渡し、自分がどこにいるのか夢うつつのまま確認をする。
そして、伊左馬が飯を食らっているのをみて逆上したように刀を探すが、当然見当たらない。
邪魔だったので、伊左馬自身の大剣とともに無造作に背後に立てかけてあった。
「わいつ、なにばしよる!」
「伊勢訛りか。やはり、わいつは新宮藩の出か?」
「そうじゃ! 忘れたか、権藤!」
何度言われても思い出せなかった。
焼き魚の頭から齧りついて、水を流し込んだ冷や飯をかっこみながら、もう一度記憶を探ってみる。
顔にも体格にも見覚えはない。
諦めることにした。
三度目はない。
「わしは、わいつなんぞ知らん。そもそも名を名乗れ。その方が早いだろう」
「なんだと、貴様のせいで死んだわしの兄のことも思い出せんというのか!」
「繰り言を返すな。……そういえば、竜珠についても口走って追ったな。もしや、鵜殿の村のものか?」
「違う! 新宮城勤め、葛西主税が次男、悌二郎だ」
名乗られてもわからない。
新宮城に勤めていた家臣は三桁ほどいたし、葛西というのはそんなに珍しい苗字でもない。
そもそも、鵜殿の捕鯨所が廃されたときの詳しいことを知っておるものなどそんなにはいないはずだ。
しかも、竜珠を伊左馬がもっているなどという勘違いをするぐらいだ、ほとんど何も知らないといっていいだろう。
「それも知らん。わいつの兄はどうして死んだのだ。そこから、話せ。それにわしが竜珠などというものをもっておらんのはこの有り様を見れば一目瞭然だろう。なにせ、銭がなくて米を買うのにも困っとるぐらいだ」
いつまでも土間に座っている訳にもいかず、葛西と名乗った大男は上がり込んできた。
少し正気に戻ったのか、伊左馬と問答をするつもりになったものらしい。
刀をとられ、それが伊左馬の背後にあるとなったら、今度こそ斬られるかもしれないと観念したこともあろう。
「わしの兄、悌一郎は、鵜殿で見つかったという竜珠を受け取りに同輩ともどもに鵜殿まで出向いた。だが、そのときにはすでに鵜殿は海賊どもに襲われて、女子供もろとも離散しておった。生き残りを探したが、竜珠のことなど誰も知らず、それをご家老に報告したところ、お役目を果たさずとして詰め腹を切らされたのだ」
伊左馬の顔が険しくなった。
聞き流せぬものを聞いてしまったからだ。
「……なぜ竜珠を探しに行った」
「ご家老の命だ。我が新宮藩では竜珠を重陽のお祝いの際に、将軍家に献上つかまつろうとしておった。それが果たせなんだために、兄上は切腹をせざるを得なかった。竜珠を貴様が盗んで逃げたからだ、権藤伊左馬!」
江戸城では五節句には大名が登城する決まりになっている。
五節句のうちでも、九月九日の重陽の節句については、毎年各諸侯かせ自分の家の重宝を持参して、将軍の上覧を賜ることになっていた。
ほとんどが門外不出の宝である。
この上覧はいわば当代名品の展覧会ともいうべきものであって、各大名からその陪臣にいたるまで例外なく供出させることで幕府の威を天下に示すねらいがあった。
新宮藩主、水野重上とて例外ではなかった。
その年、重上は上覧に「竜珠」をどうかと考えていた。
勧めたのは加判家老松井誠玄。
竜珠という古今東西にも稀な品を献上できれば、紀伊徳川家の家老格でしかない水野家が大名になり、支藩であるところの新宮藩が正式な藩として立藩されることも夢ではない。
そう唆したのだ。
「―――実は先日、鵜殿の捕鯨所において竜を仕留めたとの知らせを受けております」
「竜だと?」
「はっ。鯨の漁に出た漁師どもがたまたま獲ったそうなのですが、竜は腹の中に竜珠というまことに価値のある宝を秘めておると言われております。鵜殿の連中がその価値を十分に把握しているかはわかりませぬが、もちろん捨てたりはしないでしょう。それを召し上げて、将軍家に献上するというのはいかがでございましょう」
その、本来ならばあるかどうかもわからぬ松井誠玄の甘言に、重上は見事に乗ってしまった。
そして、重上は勘定方でもあった葛西悌一郎に命じて、鵜殿の村に竜珠を差し出すように仕向けたのである。
「―――だが、兄上が鵜殿に言ったときには村は壊滅。貴様ら、鵜殿経営のために送られた浪人どもはすべて出奔。兄はその責めを受けて腹を切らされたのよ」
「……そうか」
竜などというものがおるわけはなかろう、水野重上様が勘違いされていたのだと笑い飛ばせればよかったのだ。
だが、権藤はこのとき、鵜殿で起こったすべてをよく知っていた。
知りすぎていた。
ゆえに、葛西の言葉が胸を抉った。
「わいつ、竜珠というものがなんなのか知っておるのか」
「鯨の腸にはいっておる龍涎香のようなものであろう。竜などというこの世にないものをおると言い張って、鯨のお宝をさらにお宝に見せかけただけのものに違いない。太地のようになれない鵜殿の連中がお上によりよく見せようとした挙句よ。そんな貴様ら、鵜殿のくだらない詐術が我が兄を殺したのだ」
葛西は当然竜などというものを信じていない。
だからこそ、こういう結論に達したのだ。
殿様と家老は鵜殿に騙されて竜珠などという嘘にひっかかり、そのとばっちりを受けて家臣が腹を切らざるを得なかったと。
事実、抹香鯨の腸内からとれる竜涎香という分泌物が、消化されずに残った烏賊や蛸の嘴と化合して結晶化した塊が取れることがある。
麝香に似た香りを放ち、高値で取引されていた。
両掌いっぱいの竜涎香がとてつもない高額で取引されることもあり、まさにお宝といっていい存在であった。
葛西は、鯨漁の際にこういったものが採れることもあると知っていたため、鵜殿の詐術だと決めつけたのである。
海賊に襲われたというのもおそらくは嘘だ。
すべては、鵜殿の村長とその補佐としてつけられた益体もない食い詰め浪人たちのつまらぬ見栄のせいである。
「―――わしは貴様を知っておる。餓鬼の頃、柳生の道場で見かけたことがあるぞ」
伊左馬はそんな葛西の言葉をほとんど無視していた。
彼の脳裏にはあのときのことが鮮明に浮かび上がっていたのである……
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