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立ち上がるとき
「お嬢様……」
「ニナ!」
侍女のニナが目に涙をいっぱいに溜め、食事を運んできたのだった。
「本当にご無事で……ううっ、うっ……」
「ありがとう……私は大丈夫だから……その……」
ぐるるー、きゅる。
私のお腹の虫が盛大に鳴った。
「ふふっ、お嬢様……ええ、早く温かいうちにお召し上がりください」
ニナは小さな脚のついた木製のトレイを手早く組立てると、頬を伝う涙を手の甲で拭いながら、クリームシチューや白いパン、それに薄くスライスされた洋梨を手際よく並べた。
そして、ニナはまだ何か言いたげな表情を浮かべていたのだけれど、アベル様と私に一礼するとそのまま部屋を出た。
「ミルクのいい匂い……」
「はい、ユージェニー」
目を閉じて香りを楽しんでいた私の口元に、アベル様がスプーンでシチューを運んでくれている。
「自分で食べられますわ……。コホン、まぁ、こういうのも悪くないですわね」
そのまま口に含むと、温かさが舌に広がりバターとミルクのまろやかな味が口の中にあふれた。
「んん~」
「ははっ! いつも思っていたけど、ユージェニーは本当に美味しそうに食べるね」
「まぁ、食事のたびに盗み見てたのですか?」
視線を絡み合わせ、束の間の休息を楽しんだ。
きれいに食べ終えるとスプーンを置き、口元をナプキンでそっと拭いた。
「ごちそうさまでした。……それでは、アベル様……私の話をお聞きくださいますか?」
「ああ、心の準備はできているよ」
そうして、私は時間が巻き戻る前の愚かな人生を話し始めた。
――ドット公爵……ジョセフへの愛憎にも似た好意と執着。
幸せの絶頂の後に待ち構えていた、冷え冷えとした結婚生活。
そして、最後は……縋りつくように愛していた人からの仕打ち。
「そう、だから……私は……過去に一度、お父様と命を終えているの」
アベル様は黙りこくったまま。
先ほどまでの温かい時間が、空っぽのスープ皿のように、跡形もなく消えてしまった気がした。
(やっぱり……話さなければよかった……)
私の目の端にじわっと涙が滲んで、溢れてこぼれないように瞬きを止めた。
鼻のつけ根あたりが、涙を誘うように私を刺激してくる。
おもむろにアベル様が、私が今ここにいると確かめるように頬を撫で、首筋から腕へ手を滑らせて、ぎゅっと手を握った。
「温かい……ここにいる……間違いなく、僕の目の前にいるんだね」
「アベル様?」
そのままアベル様は何も言わず、私を抱き寄せた。
こんな時なのに……肩に触れるアベル様の重みが、どうしようもなく愛おしくて、胸の奥をじんわりと満たすような安らぎを感じていた。
「私はここにいます」
「僕は欲張りだ……今ここに君がいるだけで幸せなはずなのに……過去のドット公爵に嫉妬してるんだ」
「アベル様……過去の私はもういませんわ」
「そうだ、今が大事なんだ。今が……」
言い聞かせるようにアベル様は小さく呟いた。
しばらく、私たちは静寂の中、互いの温もりで心を癒した。
「ユージェニー、今ここに君がいるのは君が『ラピスラズリの杯』を使ったお陰だと言ったが、本当にそうなのかな?」
「えっ? それはどういう……」
「いや、うーん、『ラピスラズリの杯』の力が働いたことは間違いない……でも、杯に入っていたのはお義父様の血だろう?
「え……ええ……」
「どうして、ユージェニーは自分が使ったと思ったんだい?」
「それは……今世でドット公爵様が魔物になったと知って確信したのです」
アベル様が私の耳元に顔をさらに近づけた。
「それは『蒼杯秘録』に、代償は愛する者が払うとあったから?」
「過去の私はそうでしたから……。でも、憎んだわ……最後は憎しみだけが残ったの」
「認めたくはないが……『ラピスラズリの杯』はそう感じてなかったんだろうね。僕が思うには、杯の力の発動者はお義父様だ。愛する者に使う力であり、どちらにも代償を伴うことも、きっと知っていたはずだ。当主だからね」
「それなら、お父様は私を……」
「それは違うよ。お義父様はドット公爵の考えも見抜いていたんだろう。でも、簡単には君を守れない。自分の命を差し出して、『ラピスラズリの杯』に賭けたんだ」
「私は死という代償を払ったということですか……?」
「僕も初めはそう考えていたんだ。でも、ドット公爵が魔物になったのなら、彼が代償を払ったんだよ。皮肉にも、彼が自らの手で命を奪った君の代わりにね」
ひんやりとした空気が鼻の奥をツンとさせる。
アベル様の話していることは頭では分かっているのに、心が追いつかない。
「お父様は、私が死の間際でもなおドット公爵を……ジョセフを愛していると思いながら命を絶えたと……? 私たちにあんな仕打ちをした男なのに? なんて酷いの……。ああ、お父様……」
私の目からはとめどなく涙がこぼれ落ちた。
「お義父様は、それでも時間を巻き戻した時に、ドット公爵が君の脅威とならないように、『ラピスラズリの杯』の力を逆手に取ったんだ。間違いなく、それは愛だよ」
「愛……。私が愚かな娘だったばっかりに」
「今の僕の目の前にいる女性は、とても魅力的で素敵な人だよ。そんな君なら、次はどうするべきか分かるんじゃないかな?」
こぼれ落ちる涙がシーツに滲んで、ただ染み込んでいく様を眺めていたが、私はごしごしと目元をこすった。
「ええ、アベル様。もう、愛する人を失いたくないもの。皇帝陛下の歪んだ欲望を止めましょう。私たちの手で」
「ニナ!」
侍女のニナが目に涙をいっぱいに溜め、食事を運んできたのだった。
「本当にご無事で……ううっ、うっ……」
「ありがとう……私は大丈夫だから……その……」
ぐるるー、きゅる。
私のお腹の虫が盛大に鳴った。
「ふふっ、お嬢様……ええ、早く温かいうちにお召し上がりください」
ニナは小さな脚のついた木製のトレイを手早く組立てると、頬を伝う涙を手の甲で拭いながら、クリームシチューや白いパン、それに薄くスライスされた洋梨を手際よく並べた。
そして、ニナはまだ何か言いたげな表情を浮かべていたのだけれど、アベル様と私に一礼するとそのまま部屋を出た。
「ミルクのいい匂い……」
「はい、ユージェニー」
目を閉じて香りを楽しんでいた私の口元に、アベル様がスプーンでシチューを運んでくれている。
「自分で食べられますわ……。コホン、まぁ、こういうのも悪くないですわね」
そのまま口に含むと、温かさが舌に広がりバターとミルクのまろやかな味が口の中にあふれた。
「んん~」
「ははっ! いつも思っていたけど、ユージェニーは本当に美味しそうに食べるね」
「まぁ、食事のたびに盗み見てたのですか?」
視線を絡み合わせ、束の間の休息を楽しんだ。
きれいに食べ終えるとスプーンを置き、口元をナプキンでそっと拭いた。
「ごちそうさまでした。……それでは、アベル様……私の話をお聞きくださいますか?」
「ああ、心の準備はできているよ」
そうして、私は時間が巻き戻る前の愚かな人生を話し始めた。
――ドット公爵……ジョセフへの愛憎にも似た好意と執着。
幸せの絶頂の後に待ち構えていた、冷え冷えとした結婚生活。
そして、最後は……縋りつくように愛していた人からの仕打ち。
「そう、だから……私は……過去に一度、お父様と命を終えているの」
アベル様は黙りこくったまま。
先ほどまでの温かい時間が、空っぽのスープ皿のように、跡形もなく消えてしまった気がした。
(やっぱり……話さなければよかった……)
私の目の端にじわっと涙が滲んで、溢れてこぼれないように瞬きを止めた。
鼻のつけ根あたりが、涙を誘うように私を刺激してくる。
おもむろにアベル様が、私が今ここにいると確かめるように頬を撫で、首筋から腕へ手を滑らせて、ぎゅっと手を握った。
「温かい……ここにいる……間違いなく、僕の目の前にいるんだね」
「アベル様?」
そのままアベル様は何も言わず、私を抱き寄せた。
こんな時なのに……肩に触れるアベル様の重みが、どうしようもなく愛おしくて、胸の奥をじんわりと満たすような安らぎを感じていた。
「私はここにいます」
「僕は欲張りだ……今ここに君がいるだけで幸せなはずなのに……過去のドット公爵に嫉妬してるんだ」
「アベル様……過去の私はもういませんわ」
「そうだ、今が大事なんだ。今が……」
言い聞かせるようにアベル様は小さく呟いた。
しばらく、私たちは静寂の中、互いの温もりで心を癒した。
「ユージェニー、今ここに君がいるのは君が『ラピスラズリの杯』を使ったお陰だと言ったが、本当にそうなのかな?」
「えっ? それはどういう……」
「いや、うーん、『ラピスラズリの杯』の力が働いたことは間違いない……でも、杯に入っていたのはお義父様の血だろう?
「え……ええ……」
「どうして、ユージェニーは自分が使ったと思ったんだい?」
「それは……今世でドット公爵様が魔物になったと知って確信したのです」
アベル様が私の耳元に顔をさらに近づけた。
「それは『蒼杯秘録』に、代償は愛する者が払うとあったから?」
「過去の私はそうでしたから……。でも、憎んだわ……最後は憎しみだけが残ったの」
「認めたくはないが……『ラピスラズリの杯』はそう感じてなかったんだろうね。僕が思うには、杯の力の発動者はお義父様だ。愛する者に使う力であり、どちらにも代償を伴うことも、きっと知っていたはずだ。当主だからね」
「それなら、お父様は私を……」
「それは違うよ。お義父様はドット公爵の考えも見抜いていたんだろう。でも、簡単には君を守れない。自分の命を差し出して、『ラピスラズリの杯』に賭けたんだ」
「私は死という代償を払ったということですか……?」
「僕も初めはそう考えていたんだ。でも、ドット公爵が魔物になったのなら、彼が代償を払ったんだよ。皮肉にも、彼が自らの手で命を奪った君の代わりにね」
ひんやりとした空気が鼻の奥をツンとさせる。
アベル様の話していることは頭では分かっているのに、心が追いつかない。
「お父様は、私が死の間際でもなおドット公爵を……ジョセフを愛していると思いながら命を絶えたと……? 私たちにあんな仕打ちをした男なのに? なんて酷いの……。ああ、お父様……」
私の目からはとめどなく涙がこぼれ落ちた。
「お義父様は、それでも時間を巻き戻した時に、ドット公爵が君の脅威とならないように、『ラピスラズリの杯』の力を逆手に取ったんだ。間違いなく、それは愛だよ」
「愛……。私が愚かな娘だったばっかりに」
「今の僕の目の前にいる女性は、とても魅力的で素敵な人だよ。そんな君なら、次はどうするべきか分かるんじゃないかな?」
こぼれ落ちる涙がシーツに滲んで、ただ染み込んでいく様を眺めていたが、私はごしごしと目元をこすった。
「ええ、アベル様。もう、愛する人を失いたくないもの。皇帝陛下の歪んだ欲望を止めましょう。私たちの手で」
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