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過去に式が「ある一つの過ち」に至った、そのときの相手は妻子ある国語教師の男だった。
『自分に無理を強いて頑張り過ぎなくてもいいんだからね、折戸君』
ぎくしゃくする家族の仲を取り持とうとし、一向に修復できず、やり場のない徒労感に打ちひしがれていた高校生の式を彼は優しく慰めてくれた。
『泣いていいんだよ、式くん』
母親を亡くした当時。
堪らなく淋しかった。
それでも父親に負担をかけないよう、幼い妹がつられないよう、涙を堪えた。
近しい親戚の前でも小学校低学年のこどもながら気丈に振る舞い、葬儀のときも愚図る妹をあやして式自身は精一杯泣くのを我慢していた。
『お兄ちゃんだからって我慢しなくていいんだよ?』
泣き疲れて眠った雛未の頭を撫でていたら、自分の頭をそっと撫でられて、とうとう堪えきれずに涙が溢れ出た。
親戚の皆が『式君はえらいな』『立派なおにいちゃんね』と褒めていた中で『泣いていい』と言葉をかけてくれたのは母方の叔父だった。
そのとき式は初恋を知った。
(普通と違うのはヒナじゃない、ぼくの方だ)
同性にしか好意を持てない性(さが)を察し、後ろめたい気持ちが生まれ、式は以前にもまして献身的に家族に接するようになった。
ありのままでいられない遣り切れなさを押し殺した。
新しく家族に加わった継母のことも率先して支えた。
波長は合わなかったけれど、同性しか好きになれない自分が異常に思えて、家族を裏切っているような気がして、あるべき理想的な長男を演じようとした。
その結果、心が折れた。
叔父のように優しくしてくれた、隠してきた本音を汲み取って理解してくれた、身も心も甘やかしてくれた先生と二人きりで過ごす時間に夢中になった。
だけれども。
『折戸君、卒業したら先生と一緒になろうか』
その言葉を聞いて、手放しで喜ぶどころか、式は怖くなった。
先生の家族を壊すつもりなんてなかった。
ただ、一時の優しさを注いでもらえたら、それだけで十分だったのに……と。
『俺は、先生の家族を引き裂こうなんて、そんなつもりは……』
式は甘えていただけだった。
現実からの避難場所にして、注がれる優しさを貪って、都合のいい安らぎにぬくぬくと浸かって。
顔も知らない先生の家族を足蹴にしている自覚も、傷つけ、傷つく覚悟も、情けないくらい持っていなかった。
『ごめんね、忘れていいよ、折戸君』
式が最も傷つけた相手は先生だった。
本当に自分を愛してくれていた先生の願いを拒み、その優しさを裏切った。
過ち以外の何があるだろう。
二人きりで過ごす時間はそこで終わった。
式は先生と距離をおくようになり、話も視線も交わさず、そのまま卒業式を迎えて教師と生徒という関係も終わらせた。
罪悪感や自己嫌悪に苛まれた式は内向的になり、他者を寄せつけなくなった。
先生を傷つけた反動で心がひどく拉(ひしゃ)げ、誰とも深く関わりたくないと、殻に閉じこもるようになった。
(……雛未とも距離をおこう)
自分勝手な都合で先生の想いを踏み躙った俺なんかのそばにいない方がいい。
不甲斐ない出来損ないの兄よりも、もっと包容力のある人に寄り添ってもらえたら。
(……優しい檻になって外敵から身を守ってくれる、不敵な微笑で心臓を縛り上げる、花から花へ揺蕩う蝶に魅入られる目をした――)
「もうすぐ文化祭なんだ」
白日夢とも区別のつかない回想に意識が呑まれ、ほんの束の間ぼんやりしていた式は目の前にいる隹を改めて見つめた。
「雛未のクラスはダンスをやるんだと」
「え……? 雛未がダンス……?」
「センターじゃなくて端っこに埋もれてるそうだが。文化祭の見物がてら、雛未に会いに来ないか」
「……いえ、そろそろ夏休みも終わるので」
腹を満たした隹は湯呑みのお茶を一気に飲み干した。
式が注ぎ足そうとしたら「俺はもういい」と断り、座椅子の背もたれに背中を預けた。
「あんた結構食べるんだな」
「えっ? す、すみません、食べ過ぎましたか?」
「いや。少食なのかと思っていたから意外だった。餌付けのし甲斐がある」
「……」
食べるスピードはゆっくりめだが、次々と与えられる料理を残さず綺麗に食していた式は、頬を紅潮させつつ眉間に縦皺を寄せた。
「アパートまで送ってやる」
「もういいです、気持ちだけで」
「帰り道わかるのか」
「スマホで地図を見ればわかります」
「じゃあそれを見ながら俺の運転のナビをしてくれ」
結局、式は隹の車に乗せてもらった。
アパート前まで走らせるのも忍びなく、近辺で降ろしてもらおうとすれば「あんたのことだから遠慮してるんだろ、責任もってちゃんと送らせろ」と気遣いを無下にされ、アパートの真正前まで送ってもらった。
「今日はごちそうさまでした。ありがとうございました」
式に礼を言われた隹は「おやすみ」と返し、鮮やかにハンドルを切って来た道を引き返していった。
次の約束はしていない。
でも、隹は絵本を返しにまた図書館へやってくる。
……隹は雛未の恋人だ。
……俺は、まだ、過去を振り切れない。
取り留めのない思いを喉奥に溜め込んで式はアパートの一階にある部屋へ帰宅した。
運転席から真っ直ぐ目を見て告げられた、何てことはない「おやすみ」という言葉が鼓膜に浸透して離れなかった。
『自分に無理を強いて頑張り過ぎなくてもいいんだからね、折戸君』
ぎくしゃくする家族の仲を取り持とうとし、一向に修復できず、やり場のない徒労感に打ちひしがれていた高校生の式を彼は優しく慰めてくれた。
『泣いていいんだよ、式くん』
母親を亡くした当時。
堪らなく淋しかった。
それでも父親に負担をかけないよう、幼い妹がつられないよう、涙を堪えた。
近しい親戚の前でも小学校低学年のこどもながら気丈に振る舞い、葬儀のときも愚図る妹をあやして式自身は精一杯泣くのを我慢していた。
『お兄ちゃんだからって我慢しなくていいんだよ?』
泣き疲れて眠った雛未の頭を撫でていたら、自分の頭をそっと撫でられて、とうとう堪えきれずに涙が溢れ出た。
親戚の皆が『式君はえらいな』『立派なおにいちゃんね』と褒めていた中で『泣いていい』と言葉をかけてくれたのは母方の叔父だった。
そのとき式は初恋を知った。
(普通と違うのはヒナじゃない、ぼくの方だ)
同性にしか好意を持てない性(さが)を察し、後ろめたい気持ちが生まれ、式は以前にもまして献身的に家族に接するようになった。
ありのままでいられない遣り切れなさを押し殺した。
新しく家族に加わった継母のことも率先して支えた。
波長は合わなかったけれど、同性しか好きになれない自分が異常に思えて、家族を裏切っているような気がして、あるべき理想的な長男を演じようとした。
その結果、心が折れた。
叔父のように優しくしてくれた、隠してきた本音を汲み取って理解してくれた、身も心も甘やかしてくれた先生と二人きりで過ごす時間に夢中になった。
だけれども。
『折戸君、卒業したら先生と一緒になろうか』
その言葉を聞いて、手放しで喜ぶどころか、式は怖くなった。
先生の家族を壊すつもりなんてなかった。
ただ、一時の優しさを注いでもらえたら、それだけで十分だったのに……と。
『俺は、先生の家族を引き裂こうなんて、そんなつもりは……』
式は甘えていただけだった。
現実からの避難場所にして、注がれる優しさを貪って、都合のいい安らぎにぬくぬくと浸かって。
顔も知らない先生の家族を足蹴にしている自覚も、傷つけ、傷つく覚悟も、情けないくらい持っていなかった。
『ごめんね、忘れていいよ、折戸君』
式が最も傷つけた相手は先生だった。
本当に自分を愛してくれていた先生の願いを拒み、その優しさを裏切った。
過ち以外の何があるだろう。
二人きりで過ごす時間はそこで終わった。
式は先生と距離をおくようになり、話も視線も交わさず、そのまま卒業式を迎えて教師と生徒という関係も終わらせた。
罪悪感や自己嫌悪に苛まれた式は内向的になり、他者を寄せつけなくなった。
先生を傷つけた反動で心がひどく拉(ひしゃ)げ、誰とも深く関わりたくないと、殻に閉じこもるようになった。
(……雛未とも距離をおこう)
自分勝手な都合で先生の想いを踏み躙った俺なんかのそばにいない方がいい。
不甲斐ない出来損ないの兄よりも、もっと包容力のある人に寄り添ってもらえたら。
(……優しい檻になって外敵から身を守ってくれる、不敵な微笑で心臓を縛り上げる、花から花へ揺蕩う蝶に魅入られる目をした――)
「もうすぐ文化祭なんだ」
白日夢とも区別のつかない回想に意識が呑まれ、ほんの束の間ぼんやりしていた式は目の前にいる隹を改めて見つめた。
「雛未のクラスはダンスをやるんだと」
「え……? 雛未がダンス……?」
「センターじゃなくて端っこに埋もれてるそうだが。文化祭の見物がてら、雛未に会いに来ないか」
「……いえ、そろそろ夏休みも終わるので」
腹を満たした隹は湯呑みのお茶を一気に飲み干した。
式が注ぎ足そうとしたら「俺はもういい」と断り、座椅子の背もたれに背中を預けた。
「あんた結構食べるんだな」
「えっ? す、すみません、食べ過ぎましたか?」
「いや。少食なのかと思っていたから意外だった。餌付けのし甲斐がある」
「……」
食べるスピードはゆっくりめだが、次々と与えられる料理を残さず綺麗に食していた式は、頬を紅潮させつつ眉間に縦皺を寄せた。
「アパートまで送ってやる」
「もういいです、気持ちだけで」
「帰り道わかるのか」
「スマホで地図を見ればわかります」
「じゃあそれを見ながら俺の運転のナビをしてくれ」
結局、式は隹の車に乗せてもらった。
アパート前まで走らせるのも忍びなく、近辺で降ろしてもらおうとすれば「あんたのことだから遠慮してるんだろ、責任もってちゃんと送らせろ」と気遣いを無下にされ、アパートの真正前まで送ってもらった。
「今日はごちそうさまでした。ありがとうございました」
式に礼を言われた隹は「おやすみ」と返し、鮮やかにハンドルを切って来た道を引き返していった。
次の約束はしていない。
でも、隹は絵本を返しにまた図書館へやってくる。
……隹は雛未の恋人だ。
……俺は、まだ、過去を振り切れない。
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