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金曜日の昼休み、雛未は実験室で午睡に耽るように目を閉じて呟く。
「隹先生にならお兄ちゃんをあげてもいい」
ひんやりしたテーブルに両腕を乗せ、その両腕に片頬を押し当て、怖くなるくらい居心地のいい静けさに雛未は身を委ねていた。
「兄さんはお前の大切な人なんだろ」
隣の丸椅子に腰かけた隹は図書館で借りてきた童話集を開いていた。
「そんな兄さんを俺にくれてやっていいのか」
実験台に並べられた繊細なガラス器具たち。
鼻につくエタノールの匂い。
どこか離れた場所からクラリネットやトランペットの音色が聞こえてくる。
「うん」
「どうして」
目を開ければ、童話集を閉じて片頬杖を突いた隹と目が合った。
吸い込まれそうな青水晶だ。
雛未は顔にかかる前下がりの髪越しに素直に見惚れた。
「先生は誰よりも優しいから」
「雛未だって優しいだろ」
実験台に俯せたまま雛未はあの日の放課後に思いを馳せる。
「あのとき、ここでそう言われて、とても嬉しかった。でも、あのとき、お兄ちゃんのことを傷つけたくなかった気持ち以上に、お兄ちゃんに絶対に一生選ばれない惨めで無様な自分のことを消したかった」
どうしたって兄の唯一になれない、昔の思い出に空しく縋ってばかりいる、寂しくて無様で悲惨な自分を終わらせたかった。
このまま生きていて何が楽しいのか、意味があるのか、自分自身の行き先を見失った。
しかし隹にやんわりと自死を止められて雛未はある夢を抱いた。
「隹先生なら、もしかしたら、お兄ちゃんのことを誰よりも幸せにしてくれるかもしれないって。そう感じたの」
「買いかぶり過ぎだ、それは」
「ううん。そんなことない。性別も年齢も関係ない。きっとお兄ちゃんのこと今以上に幸せにできるはず」
「雛未。兄さんの気持ちだってあるだろ」
夢見る口調で話していた雛未は、母親と兄によく似た切れ長な双眸を忙しげに瞬きさせた。
「お兄ちゃんは隹先生に写真を撮らせてくれた」
「一枚限定でな。二枚目は断固として撮らせてくれなかった」
「誰かに自分の写真を撮られるなんて、そんなこと、お兄ちゃんなら絶対に嫌がって断る」
「お前の名前を出したから渋々許可してくれたんだろ。大体、そう思っていたんなら撮影を頼むな」
「お兄ちゃん、きっと隹先生のこと好きになってる」
「どうだかな」
「私みたいに」
青水晶の眼に向けて雛未は告白した。
「大好きなお兄ちゃんと隹先生が一緒になってくれたら嬉しい」
写真を撮ってきてほしいと無理なお願いをしたのも、式の話を聞きたがったのも、それまで赤の他人であった二人の距離を近づけるためのものだった。
「先生にお願いがあるの」
雛未は実験台に伏せていた顔を上げると、特に表情を変えずにいる白衣の理科教員と体ごと向かい合った。
「写真は永久拒否されたぞ」
「ううん。写真はもういいの。明後日、お兄ちゃんに会いにいってくれる?」
「日曜日にか?」
「うん」
「日曜は図書館が休みだし、いきなりウチまで出向くのもな」
「お兄ちゃんの誕生日なの」
雛未は自分の誕生日よりも式の誕生日を大切にしていた。
兄が生まれたこの九月が好きだった。
その分、会えない淋しさが募るに募って、あの日、カッターナイフに縋りついた。
「明後日で十九歳になるの。だから隹先生にお祝いしてもらえたらいいなって」
「雛未は会いに行かないのか」
雛未は首を左右に振った。
「私は行かない。行かない方がいい」
「そうか。誕生日ならレアチーズケーキでも買っていくか」
その言葉を聞いた瞬間、雛未は前のめりになった。
隹が羽織る白衣の合わせ目を両手で掴んで彼の顔をまじまじと見つめた。
「どうして知ってるの?」
「お前と兄さんの誕生日にお母さんがいつもレアチーズケーキを買ってきてくれた。兄さんからそう聞いてる」
「うん。そうなの。一緒に過ごした最後の私の誕生日も……」
「シチューとカレー、作ってくれたんだろ」
「うん……」
込み上げてきた懐かしさにつられて雛未はぽろりと涙を零す。
懐かしさと、かけがえのない思い出が隹の口から語られたことに不思議な昂揚感も抱いた。
自分の過去に存在していなかったはずの彼と幼少期の記憶を共有したような……。
「先生、もうひとつ、お願い、いい?」
もうじき予鈴が鳴り出す時間帯、まだ白衣を掴まれたままの隹は「なんだ?」と生徒に問いかける。
「一度だけ私にキスして」
生徒からのあるまじきお願い。
教師の隹は呆れるでも躊躇するでもなく、白衣を掴む雛未の左手をとった。
壊れ物を扱うような丁寧さでそっと持ち上げる。
そうしてか細い手首に唇を辿らせ、薄い皮膚の下で慎ましく脈打つ命にキスを一つ、捧げた。
「俺がつけた痕、別の痕なんかで上書きするなよ、雛未」
嬉しくて堪らない雛未は力いっぱい頷いた。
「隹先生にならお兄ちゃんをあげてもいい」
ひんやりしたテーブルに両腕を乗せ、その両腕に片頬を押し当て、怖くなるくらい居心地のいい静けさに雛未は身を委ねていた。
「兄さんはお前の大切な人なんだろ」
隣の丸椅子に腰かけた隹は図書館で借りてきた童話集を開いていた。
「そんな兄さんを俺にくれてやっていいのか」
実験台に並べられた繊細なガラス器具たち。
鼻につくエタノールの匂い。
どこか離れた場所からクラリネットやトランペットの音色が聞こえてくる。
「うん」
「どうして」
目を開ければ、童話集を閉じて片頬杖を突いた隹と目が合った。
吸い込まれそうな青水晶だ。
雛未は顔にかかる前下がりの髪越しに素直に見惚れた。
「先生は誰よりも優しいから」
「雛未だって優しいだろ」
実験台に俯せたまま雛未はあの日の放課後に思いを馳せる。
「あのとき、ここでそう言われて、とても嬉しかった。でも、あのとき、お兄ちゃんのことを傷つけたくなかった気持ち以上に、お兄ちゃんに絶対に一生選ばれない惨めで無様な自分のことを消したかった」
どうしたって兄の唯一になれない、昔の思い出に空しく縋ってばかりいる、寂しくて無様で悲惨な自分を終わらせたかった。
このまま生きていて何が楽しいのか、意味があるのか、自分自身の行き先を見失った。
しかし隹にやんわりと自死を止められて雛未はある夢を抱いた。
「隹先生なら、もしかしたら、お兄ちゃんのことを誰よりも幸せにしてくれるかもしれないって。そう感じたの」
「買いかぶり過ぎだ、それは」
「ううん。そんなことない。性別も年齢も関係ない。きっとお兄ちゃんのこと今以上に幸せにできるはず」
「雛未。兄さんの気持ちだってあるだろ」
夢見る口調で話していた雛未は、母親と兄によく似た切れ長な双眸を忙しげに瞬きさせた。
「お兄ちゃんは隹先生に写真を撮らせてくれた」
「一枚限定でな。二枚目は断固として撮らせてくれなかった」
「誰かに自分の写真を撮られるなんて、そんなこと、お兄ちゃんなら絶対に嫌がって断る」
「お前の名前を出したから渋々許可してくれたんだろ。大体、そう思っていたんなら撮影を頼むな」
「お兄ちゃん、きっと隹先生のこと好きになってる」
「どうだかな」
「私みたいに」
青水晶の眼に向けて雛未は告白した。
「大好きなお兄ちゃんと隹先生が一緒になってくれたら嬉しい」
写真を撮ってきてほしいと無理なお願いをしたのも、式の話を聞きたがったのも、それまで赤の他人であった二人の距離を近づけるためのものだった。
「先生にお願いがあるの」
雛未は実験台に伏せていた顔を上げると、特に表情を変えずにいる白衣の理科教員と体ごと向かい合った。
「写真は永久拒否されたぞ」
「ううん。写真はもういいの。明後日、お兄ちゃんに会いにいってくれる?」
「日曜日にか?」
「うん」
「日曜は図書館が休みだし、いきなりウチまで出向くのもな」
「お兄ちゃんの誕生日なの」
雛未は自分の誕生日よりも式の誕生日を大切にしていた。
兄が生まれたこの九月が好きだった。
その分、会えない淋しさが募るに募って、あの日、カッターナイフに縋りついた。
「明後日で十九歳になるの。だから隹先生にお祝いしてもらえたらいいなって」
「雛未は会いに行かないのか」
雛未は首を左右に振った。
「私は行かない。行かない方がいい」
「そうか。誕生日ならレアチーズケーキでも買っていくか」
その言葉を聞いた瞬間、雛未は前のめりになった。
隹が羽織る白衣の合わせ目を両手で掴んで彼の顔をまじまじと見つめた。
「どうして知ってるの?」
「お前と兄さんの誕生日にお母さんがいつもレアチーズケーキを買ってきてくれた。兄さんからそう聞いてる」
「うん。そうなの。一緒に過ごした最後の私の誕生日も……」
「シチューとカレー、作ってくれたんだろ」
「うん……」
込み上げてきた懐かしさにつられて雛未はぽろりと涙を零す。
懐かしさと、かけがえのない思い出が隹の口から語られたことに不思議な昂揚感も抱いた。
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「先生、もうひとつ、お願い、いい?」
もうじき予鈴が鳴り出す時間帯、まだ白衣を掴まれたままの隹は「なんだ?」と生徒に問いかける。
「一度だけ私にキスして」
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教師の隹は呆れるでも躊躇するでもなく、白衣を掴む雛未の左手をとった。
壊れ物を扱うような丁寧さでそっと持ち上げる。
そうしてか細い手首に唇を辿らせ、薄い皮膚の下で慎ましく脈打つ命にキスを一つ、捧げた。
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