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エピローグ-隹-
しおりを挟む「私、友達ができたの、隹先生」
文化祭が先週末に終了し、二学期の中間試験を控えて静粛な雰囲気に押し包まれた神聖なる学び舎の片隅。
「ずっとずっと大切にしたい友達なの」
白衣を羽織った理科教員と生徒の一人が昼休みの実験室でマフィン片手に話をしていた。
「どこのクラスだ? それともこの間の文化祭で知り合った他校の人間とか」
生徒の雛未は自分の胸に片手をあてがった。
「ここにいる」
理科教員の隹は実験テーブルに片頬杖を突き、足を組み、お行儀悪い姿勢であっという間にマフィンを食べ終わると「居心地のよさそうな教室だ」と微笑んだ。
「この子は私より泣き虫で、怒りっぽくて、傷つきやすいから、私がもっと強くなって守ってあげるの」
「そうか。頼もしいな」
「……すみません、伊吹先生、五限の準備始めてもいいでしょうか」
「どうぞ、松永先生」
「松永先生にも、マフィン、あげる」
「……折戸くん、どうもすみません、頂きます」
実験室の隅っこで化学実験に使用する緩衝液を調製していた青年に雛未はマフィンを手渡し、雛未の授業を受け持っている新卒の非常勤講師・松永はやたら眼鏡をかけ直し、頬を赤らめた。
もう隹とは会わないようにしよう、式はやはりそう思った。
先週の土曜日の昼下がり、帰ろうとするのを引き留めてきた隹の手を全力で振り払って真っ向から告げた。
『おかしくなるから、自分が自分じゃなくなるから、貴方とはもう会いません』
十月に入って始まった大学の後期授業。
平日は朝一から夕方まで講義でほぼ埋まり、延長を頼まれていたアルバイトは土日のいずれかにシフトを入れてもらうことになった。
穏やかな日の光が差すキャンパスにはキンモクセイがどこからともなく香っていた。
中庭の隅っこには鮮やかな色をした数本のヒガンバナが咲き、どこか淋しげに半日陰に寄り添い佇んでいた。
生き物や植物に意識が傾くと、考えたくないのに、どうしても隹のことを思い出してしまう。
式は浅はかな思考回路を自嘲した。
彼にまた会いたくなる、望んでしまう自分が不甲斐なかった。
(もうあんな風に自分を見失うのは嫌だ)
何もかも忘れて、あの人のことだけしか考えられなくなるのが、怖い……。
「あ」
懸命に考えまいとしながらも。
一日の講義が終了し、帰り際に夕暮れの中庭でヒガンバナにとまった蝶を見つけると、式の脳裏に瞬時に蘇ったのは不敵な青水晶だった。
邪な回想を振り払い、トートバッグを持ち直した式は記念碑のそばに蹲った。
以前に隹と見たアオスジアゲハではなくアゲハチョウだった。
か細い花弁に器用にとまり、ストロー状に伸びた口吻で穏やかに蜜を吸っている。
(捕まえてみようか)
両手をそっと差し伸べてみたものの、可哀想になり、途中で止めた。
停止した指の数センチ先でアゲハチョウはふわりと飛び立っていった。
「へたくそ」
振り返ると隹がいた。
「図書館に本を返しにきた。講義がみっちり入ってると聞いていたから、この時間帯に終わるかと思って来てみたんだが、正解だった」
腕捲りしたダークカラーのワイシャツにネクタイを締め、薄れゆく西日を背にして芝生に立つ隹と式は向かい合った。
「俺の真似か? 自由を奪う覚悟が足りなかったな」
「途中で可哀想になってやめたんです」
「開花したヒガンバナは血の色に似てるって思わないか」
「どうしてそう物騒な言い回しを選ぶんですか」
多くの学生らが影法師を寄り添わせて中庭を突っ切っていく。
そこら中で響く笑い声、耳慣れた他愛ないノイズ。
それなのに暮れなずむ空の下に二人きりでいるような気がした。
「次の休み、穴場に連れていってやる。圧巻されるくらい山一面に群生するヒガンバナを観察できる。今日はとりあえず飯に行こう」
粛々と咲き乱れる無数のヒガンバナと隹の組み合わせは想像しただけで怖気をふるうようだった。
式は首を左右に振った。
彼の横を擦り抜けて大学の裏門へ向かおうとした。
「俺はあんたの檻になる覚悟がある」
式は……西日に染まって仄かに熱せられていた頬をさらに発熱させた。
腕をとられ、方向を修正され、正門へと歩き出した隹にリードされる。
いとも容易く奪われた主導権を取り返す気力すら分捕られた。
ただ、赤くなった顔を見られないよう俯きがちでいることしかできなかった。
「何が食べたい、中華、和食、洋食、俺の手料理」
「貴方の手料理以外なら何でもいいです」
「失礼な奴だな」
また自分と視線を合わせようとしないで紅潮した顔を一生懸命隠そうとしている式に隹は笑った。
恋をした。
あんたの檻になら俺のすべてを囚われてもいい、式。
本編・end
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