紫灰の日時計

二月ほづみ

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序 - 一粒の紫

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 序

「殺してしまえ」
 無造作に放たれた言葉の意味を理解し、恐怖するには、三歳のエリン・カスタニエは幼すぎた。

 高い高い天井に、低い声の微かな残響が響く。傍らでこうべを垂れる両親が息を呑む気配を感じ……何ともいえぬ嫌な予感に、思わず顔を上げる。玉座の男が目に入った。深い皺の刻まれた精悍な面立ち、厳しい声に、怒っているのかと思ったのだが、そうではないらしい。
 男――エウロ皇帝、アドルフ=サリム・アヴァロンは、あくまで無表情に少年を見下ろしていた。
 鏡のように磨かれた白大理石の床に、分厚い朱色の絨毯。円柱には優雅な彫刻が施され、頭上にはこの国の成り立ちについて語る、精緻な天井画が描かれている。今日のような公式の謁見に使われるアヴァロン城の大広間は、豪奢で古典的な様式美を見事に再現した、実に重厚な空間である。
 言葉もなく見上げた先で、目が合った。男の双眸は、老いてなお鮮やかなスミレ色。それは、エリンの左目と同じ色である。少年の視線を受けて、アドルフはどことなく優しげな声音で言った。
「エリン、と、申したか。余の言葉が、まだ分からぬようだな。そなたの年では、無理からぬことであろうが」
「皇帝陛下!」
 口を開こうとするエリンを遮って、右隣の母が悲鳴のような声を上げる。
「息子はまだ幼く……それに、このルのちも陛下に盾突くような真似は決していたしません。ですから……」
「命を助けよと?」
「どうか……どうか……」
 優しい母が震えて泣いていた。それを見て、少年ははじめて、我が身に起ころうとするただならぬ出来事に思い至る。大人がする話の内容はよくは分からないが、それは母を泣かせるようなことなのだ。
「はは、うえ……?」
 それはきっと、恐ろしいことだ。
 彼くらいの年の子供であれば、そのまま泣きだしてしまうのが当たり前のところであったが、その日、少年は涙を見せなかった。空色と紫、左右で色の異なる、子供らしく澄んだ瞳で、不思議そうに泣き崩れる母を見る。それから、自分を挟んで母と反対側に居る父をゆっくりと見る。父はひれ伏したまま微動だにせず、その表情を見ることはできなかった。
「では、ここでその左目を潰すがいい」
「陛下……!」
 この時、エリンはまだ知らなかった。
 幼い彼が、初めて皇帝への謁見を許された、本来ならば栄誉あるべきその席で、主君から死を望まれるという途方も無い不幸の理由が、自らが生まれ持ってしまった、特徴的な左目の『紫色』に起因することを。
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