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羊飼いのルディ

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 ルディの朝は、空がまだ薄暗いうちから始まる。
 子供達をは起こさないようにそっと寝床を抜け出し、まずは外に繋いでいる馬の乳を絞る。
 高原の朝は冷え込んでこたえると、養父のハリムはよく言っているが、ルディはこの時間が好きだった。空気が澄んでいて、体内を浄化してくれる気がする。
 絞った乳を瓶に移しながら、ゆっくりと息を吸いこむ。冷えた空気で肺が傷んだが、それもまた心地よい。
 実際、ルディの癒やしの力も朝の方が効果があるような気がする。乳を絞らせてもらったお礼に、馬の前胸と腰の部分にそっと手を当てると、馬は気持ちよさそうに嘶いた。
 乳を搾った後、こうすると次の日の乳の出が良くなるのだ。

 空の色が紫に変化した頃、羊たちも徐々に目を覚ましてきた。
 平原の向こうにそびえる四方の山々までもが薄紫色に染まり、世界の境界を曖昧にする。
 この空があの子のいる場所とも繋がっているのだという感覚が、どうしようもなくルディの心を弾ませた。

 あの子の瞳の色と同じ空の色。

 今日は特に空気が澄んでいて、朝焼けの紫が濃く美しい。もしかしたらなにかいい事が起こるかもしれない。
 上機嫌で羊たちを餌場に移動させ、すっかり日が昇った頃に小屋に戻るとパンを焼くいい匂いが中から漂ってきた。

「おはようっちゃ、マルタ」
「おはようっちゃ、ルディ。今朝の羊はどうだっちゃ?」
「問題ないっちゃ。妊娠している羊たちも元気そうだっちゃよ」
「そりゃあ、あんたの手のおかげっちゃね」
「別になにもしてないっちゃ」

 養母のマルタと話していると、足元にニキとヤニスが激突してきた。

「ルディ! 今日の朝ごはんはチャパだっちゃ。オレが作ったっちゃよ」
「うそ! アタシだっちゃ。ヤニスは遊んでただけだっちゃ」

 五歳になったばかりのニキとヤニスは男女の双子だ。二人で競うように日々出来ることが増えていく。
 ヤニスはたまにやんちゃが過ぎるが、男の子はそれくらいがいいのよ、とマルタが言っていた。

「ありがとう。ニキ、ヤニス。チャパはオレも大好きだっちゃ」

 竃で作業するマルタの手元を覗くと、チーズを練り込んだパンがジュージューと音を立てて焼かれている。ルディはこの発酵させずに焼いて作るチャパにバターをつけて食べるのが好きだった。

「ルディは猫さんみたいだからミルクも好きよね。あたしがよそってあげるっちゃ」
「ずるい! オレがやるっちゃ」
「あはは、ありがとう。ミルク大盛りだっちゃね」

 ルディの琥珀色の大きなツリ目が猫のように見えるらしい。ニキいわく、栗色のくせ毛の髪も教会で会った猫みたいにふわふわしているそうだ。

「今日はなんだかいい事が起こりそうな予感がしたけど、二人が朝ごはんを用意してくれたからかもしれないっちゃね」
「いいこと⁉ もしかしたらパパが帰ってくるのかもっ」
「やった! きっとそうだ」

 ニキとヤニスが同時にはしゃぎ出したのを慌てて制した。
 ふたりの実夫であり、ルディの養父であるハリムは長男のパウロと街に降りて行商に出かけている最中だ。もうそろそろ帰って来る事だとは思うが、期待を裏切られて落ち込む姿を想像すると胸が痛む。余計なことを言ってしまってごめん、と目で謝ると仕方なさそうにマルタが微笑んだ。
 すると同時に窓を覗いた二人が、弾んだ声で言った。

「ほらっ。やっぱり帰って来たっちゃ!」
「やった! ルディの予感が当たったっちゃ」

 ルディとマルタは思わず顔を見合わせる。
 こんな早朝に帰ってくるとすれば、街を出るのは夜中ということになる。慎重なハリムがそんな危険を犯すわけがないはずだ。
 羊かなにかと見間違えているんだろうと思ったが、窓を見つめるマルタの顔が強ばっていることに気がついた。
 異変を感じ、ルディも窓を覗いてみる。そこには羊を掻き分けながら馬でこちらにやってくる二人の男と一人の少年が見えた。
 確かにハリムとパウロだ。だが、もう一人は誰だろう。

「おきゃくさまだっちゃ?」
「なんかごうかな服を着てるっちゃね。お馬さんも黒くておおきいっ」

 ニキとヤニスは何故か声を顰めて内緒話のように二人でクスクス笑っている。マルタといえば、険しい顔のまま身動きひとつしない。ルディは訝しく思いながらも、客の為に湯を沸かすことにした。
 暫くすると地面を蹴る馬蹄の音が聞こえ、馬の嘶きとともに小屋の前で止まった。

「おかえりだっちゃ」
「おかえりだっちゃ」

 双子が勢いよく、扉を開けてハリムとパウロを迎えた。パウロは疲れた顔で馬上から手だけ上げている。

「ルディ、お前に客だ」
「オレに?」

 ハリムが馬から飛び降りてそう言うと、隣にいる客人が馬に乗ったまま声を掛けてきた。

「おま……貴方がルディ様か?」
「そうだっちゃ。でも、あんた様は……?」

 立派な黒毛の馬に、刺繍が為された上質のマントルを羽織った姿に一目見て上流階級の人間だと分かった。白髪が混ざった髪を後ろに撫でつけ、どこか酷薄な印象がある灰色の瞳が、尊大に言い放つ。

「私はエリティス家にお仕えする者です。この度貴方をエリティス家に迎え入れるよう公爵様から仰せつかりました」
「エ、エリティス家──!?」

 驚いてハリムの方をみる。ハリムは難しそうな顔で頷いた。

「お前に癒やしの力があることが、やっと公爵様のお耳に入ったようだっちゃ。公爵様はお前の力が必要だとおっしゃって下さってるっちゃ」
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