吐息女と舌打男

荒野

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舌打男とスシ

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好きです
俺と付き合ってください





目の下を黒くしたその男は充血したその瞳をまるで隠すように細めて、そのくせ最後まで逸らそうとはしなかった。


後で何故そんなに目の下が黒いのかと聞いてみれば、告白なんぞ今まで一度たりともしたことがなかったから、なんと言えばいいのか分からず一晩中アレやコレや考えていた、らしい。何故そこまでして、今までしたことのないことをしてみようなどという気になったのか聞いてみると、人は死ぬかもしれない状況に立った時、生き残る為に必死に手段を探し考え、一か八か試しに動いてみるものだろう、と答えは返ってきた。
例えが斜め四十五度ほど、もしかしたらそれ以上に間違っているような気もしないではないが、つまり、奴にとって告白という行為は生きるか死ぬかの瀬戸際だったようだ。生き残る為に起こさなければならない行動だったのだ。
だからといって、告白したからといって、必ず助かるなんてことはない。

一か、八か。確か語源が、賭博からきているものと、「一か罰か」賽の目で一が出るか失敗するか、からきているものがあったのではなかっただろうか。そんな役に立たない豆知識を披露してから、お前は生存に失敗したのではないか、と真冬に流れる川の水のような私の応えに、彼は瞳を細めて鼻で笑った。
彼にとって、死んだのか生き残ったのか、どちらなのかは私には分からないし、案外どうでもいいことのような気もする。


とりあえず私が非番の時をどうやって調べているか知らないが、見計らって会いに来ては、皆から異色の眼差しを投げ付けられる中引っ張って連れ出すのはやめてもらいたいのだけど、如何せん相手は話を聞いているようで聞いていないし、聞いていないのかと思えば聞いている、小癪な奴なので、私はほとほと困っている。困っているがはっきり拒絶しない自身にも責任はあると思うので、完全に被害者ぶることはできないのだ。と、自分で自分を諭している私は大人だと思う。

ではどうして、お前もう来るな、お前の顔なんか見たくない、ウザい、の一言や二言、言ってしまえばいいだけなのに、けれどさっきも言ったとおり、生憎この男が聞く耳を持っているわけではないし、ああ、そういえば散々言ってきたけれど懲りずにやってくるのだということに毎回のように今回も気付いて、もう好きにしろよ、と。引き摺られる運命しかないのだと諦める。こうして諦めるのは何十回目だろう。思考の歯車だ。奴を軸に回る歯車。気にくわない。なぜ私が奴を中心にグルグルキリキリ走り回らなければならないのか。何の生産性もなく、ただただ苛立ちしか生まれないその歯車をワインドアップからの完璧な投球動作で地面に叩きつけて粉々にしたい。早急に。

差し出されたトロだかマグロだかピンクッぽい、店の証明で油がテラテラしてる塊の乗った寿司を見下ろしながら、私はそんなことを悶々と考えていた。


「もっといいもん頼め。俺の奢りなんだからよ」
「いい」


今しがた差し出されたばかりの、油の塊の乗ったスシを押し返す。


「さっきからカッパだの玉子だの、ガキ臭ぇもんばっか頼みやがって」


ナマモノは口に入らないのだ。そう言って再び差し出された油の乗っかるスシを再び押し返せば、意外そうに表情筋をひくりとさせて今度は不機嫌そうにスシを引き戻してそーかよ、と奴はピンクッぽいそれを口に放り込んだ。乱暴に咀嚼。


「てめぇ、この間回らないスシ屋行ったことねぇっつってたじゃねーか」
「言った。けど食べられるとは言ってない」
「紛らわしいんだよ!!」


苛々、苛々、ともう一つピンクッぽいのを口に放り込むと、斜め横に立っている板前に赤貝を注文して茶に口をつけた。
私は、ああ、何気なく呟いただけだったのを心底どうでも良さそうな顔をして、聞き流すような相槌を打っていたこの男が、まさかちゃんと聞いて記憶に留めていたとは思わなくて、ああ、小癪だ、と溜息をつきたくなった。

けれどもここで溜息をつこうものなら、こいつの苛々持続時間がただただ伸びるだけで一つもいいことなどないことはもう十分、嫌という程分かっていたので、私はそろそろ気付かれないような溜息の仕方について真剣に考えて練習したほうがいいんじゃないかと思ってきている。

奴はカッパと言ったけれど、私はキュウリ巻きという認識で通っているそれを摘んでポリポリと咀嚼する。噛み砕いて飲み込んで、お茶に口をつけて一息ついたこの絶妙なタイミングでやはり声はかかった。


「次、何食うんだ」
「海老…」
「親父、蒸し海老頼む」


こちらを見もしていないくせに、こうやって既に三度目の注文を三度ともそいつはすました顔で終わらせる。こういうところが小癪。


「あとで穴子食え。蒸したのあるだろ、あと蟹な。それと炙りトロ、それなら食えるだろ。トロは食っとけ。つーかトロ食わせに来たんだよ俺は食えよトロ。茶碗蒸しも旨ぇぞ」


こういうところがウザい。
どうやら先程の油テラテラのピンクッぽい塊はトロだったようで、普段ナマモノを一切口にしない私にはそれがなんの魚のナマモノなのか全く見分けがつかないのだが、兎に角ここに来たからにはどうあがいてもそのトロ、を口にしなければ店から出してもらえないようだ。
この押し付けがましさはもう少しどうにかならないものだろうか、と、そうだこれも何度も考えあぐねては何度も諦めてきたことだった。私は溜息をつきたくなった。正直海老で締めようと思っていた私は、ならもうその炙ったの頼んどいて、とダラダラと投げうつ。


「親父ィ!こいつが涎ダラダラ垂らしまくってまた食いてェと思うくらい最高に旨い炙りトロ出してやってくれやっ!」


苛々、苛々、とそいつは続けて注文を通した。苛々持続時間延長決定。




***




「ありがとうございましたー!」


背中にのぶとい男の声を受けて店を出ると外はすっかりとっぷり日が落ちて、雲の合間にはキラキラ小さく輝く星が散らばっていた。少し冷えた風が肌を撫でるようにそよ、そよ、そよと右から左へ流れて、私の髪を道連れに途切れることなく流れて、気持ちがいい。


「飲みに行こうぜ」


店から出てきたそいつが今度はこっちだと親指立てて手を振るが、私は自称下戸であるし、明日は通常勤務なので飲みになんて行けないし行きたくもないしもう帰りたいし。
私はその旨を、帰る、という二文字に押し込んで告げ、宿舎の方角に足を向ける。奴は舌を打ち鳴らしながらブツブツ文句を垂れ流しつつも後ろをついてくる。ついてくるなと言ってもついてくる。酔狂な男。理解不能。


「スシ、どうだった」
「美味しかった」


特に炙ったトロは初めて食べたけど、口の中で溶けていつの間にかなくなっていた。美味しかった。


「スシはほとんど食べれないけど、嫌いじゃない」
「…そーかよ」


後ろをついて歩いていたそいつが隣に並ぶ。苛々はどこに置いてきたのかというくらいコロコロとよく変わる態度が私には分からない。取り敢えず、不穏な空気を撒き散らし、小鳥の囀りの如くチッチキチッチキ舌を打たれるより格段にいい。もう一生そのままでいい。というか私に構わないでくれたらいいのに、そう思い、ああ無理なのだったとまたまた思い出す。



好きです
俺と付き合ってください



垢のように耳にへばりつき、こびり付いてなかなか剥がれないそれが思い出されて、とうとう堪えていた溜息を一つ、ついてしまった。


「また溜息つきやがる」


途端、苛々を光の早さで栽培して収穫した隣の男は溜息ならこっちがつきてぇわ、と愚痴をこぼした。溜息つきたくなるような奴に何故そこまで執着出来るのだろう。その答えもこの間聞いたばかりだ。一言、惚れてるから、そのたった一言、それだけだった。どうしよう。どうでもいいのだけど。頗る、頗る、どうでもいいのだけど。

それならば、もう少し深い質問をしよう。人をきって生きている私が、誰かと寄り添うというのはおかしい話ではないだろうか。ましてや、恋仲なんて名前のついた関係は最も似つかわしくないのではないか。散々人を…人と人とを…人と人との繋がりを切ってきた私が、誰かと繋がって。それはなんて笑い話?

すると今度は奴が溜息をついた。心底どうでもよくて、面倒くさそうな、それはまるでお手本のような見事な溜息だ。


「細けぇこと一々気にすんなよ、面倒臭ぇ女だな。面倒臭ぇし、根暗だし、陰気臭ェし、いっつも暗鬱としてやがるし、こっちまで気鬱なるわ、あと笑わねーし、色々してやってんのに喜ばねーし、可愛げねーし、なびかねーし、ついでに胸もねーし、ねーけど全然イケるし、そろそろ一発くらいヤらせろし」
「ウゼー」
「ほらすぐそうやってウゼーとか言うし」


こんな万年発情期最低野郎にする質問じゃなかった。解禁した溜息をつけば、すぐ溜息つくし、と新たに追加が入った。最高にウザい。


「けど、俺がてめーに惚れてるのは事実だ。その事に関してはてめーの抱えてるもんなんか知ったこっちゃねぇ。
俺がてめーに惚れてるってこととイコールさせてんじゃねぇよ。そんなことしてみろ、世の中全部イコールで繋がっちまうわ。そんな終わりのねーもん永遠と考えるのは俺は死んでもご免だ。
てめーがウジウジ何を面倒くさく考えてるのか知らねーが、本当真面目に知ったこっちゃねーが、俺はお前に惚れてる。お前も単純に俺を好きになればいいんだよ。枷なんかつけてんじゃねぇ。てめーはもっとシンプルに考えろよ」


単純な男。男は単純。果たしてどちらか。考えるだけ無駄だ。
無神経で傍若無人で思いやりの欠片もない横暴な言葉に、けれどあまり嫌な気はせず、余計なものを全て切り捨てた奴の考え方はあまりに自己中心的で呆れ返るものだったが、それが逆に色々引きずってる自分をバカみたいに思えた。本当は捨てても大して困らない大量の荷物を、バカみたいに引きずって歩く私の横を、身一つの奴が私を鼻で笑いながら追い越すのだ。けれど、奴はきっと、見せつけるような身軽な足取りで軽快に歩きながら、歩みの遅い私を小馬鹿にするくせに、決して置いていきはしないのだ。

宿舎に着いた。門を潜る前に一度振り返り、ゴチソーサマデスといつもの別れの挨拶。私は西側の宿舎へ、そして彼は今から引き返して東側の宿舎へ帰る。

西と東。東西カップルなんて言われているのを私は知っているけれど、訂正して回るのも面倒臭い。


「次は火通ったもん食いに行こーぜ」


私の次の休みは五日後だ。きっと多分絶対奴はまたやって来て私の腕を掴み、宿舎から引っ張り出すのだろう。

何故か次の事を奴が口にする今この瞬間だけは陰鬱な気分にはならなくて、まぁそれも明日になれば憂鬱でしかなくなるのだろうけど、今この瞬間の気持ちに名前を付けるなら一体なんなのだろうと、シンプルとは正反対にまた複雑に考え始めてしまう私は、結局答えなど見つからないのに、奴の事を直接じゃないにしろ考えてしまう私は、果たしてなんなのだろう。


そんな事を悶々と考えていたら、知らぬ間に、早々と、五日後の朝は待ったなしでやってくる。



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