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7月

第35話 狂気

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 矢嶋と対峙した後のこと。
 晃一はシャルロットを迎えに次郎のマンションへと向かい、道中に「彼」と出会った。

「ちょっと、話がありやして。……ついてきてくれやせんかねぇ」

 風貌には覚えがあるが、晃一はなかなか名前を思い出せなかった。
 確か犬上五厘ごりん。……いや、伝七だったか。

「何の用?」

 へらりと笑う晃一に、伝七は耳元で囁く。

「動くなら、今ですぜ」

 おそらくは、この時を待っていたのかもしれない。
 シャルロットのため、命を賭して……いや、捨ててでも、晃一が誘いに乗らない手はなかった。

 初恋の人に似ていたから?
 憧れの人の娘だから?

 そんなものはもはや、理由にならない。

 シャルロットは、笑ってくれた。
 怯えながらも自分を頼ってくれた。
 ありがとうと言ってくれた。

 それだけで、晃一は充分だった。



 ***



「隠匿」の能力ブーケと、犬上の呪術が束の間の隠れ蓑となる。アランの後に続き、晃一は階段を下った。
 はあ、は、と、息を乱しながら、アランは呼び鈴に手を触れる。

「……はい。何でしょう」

 まだあどけなさの残る声。……これから殺める、青年の声だ。
 アランの代わりに、晃一は口を開いた。

「教祖様が、お呼び……です」

 そこに躊躇いがなかったといえば、嘘になる。

「おじい様が!? 本当ですか!?」

 青年は嬉々として扉から顔を出す。
 無邪気な笑顔に似つかわしくない、返り血に塗れた表情。実の祖父にすら怪物と呼ばれる、つい数ヶ月前まで声変わりすらしていなかった若者。

「どうしたんでしょうか。今日は、ここから出るなって散々……。でも、嬉しいなあ。きっと、必要としてくれ──」

 鳴り響いた銃声が、亮太の言葉を途切れさせた。

「──え?」

 目を見開いたまま、亮太は静かに崩れ落ちた。その視線の先に、晃一の姿がある。

「……これでいいの?」

 晃一は無感動を装いつつも、アランに尋ねた。

「言われた通り、『死なない程度』になってりゃいいけど」

 亮太はぱちくりと目を瞬かせ、自らの身体から溢れ出る血液を見て……

 うっとりと、笑った。

「わあ……綺麗ですねえ。見ましたか、晃一さん。僕にも、ちゃんとあるんですよ」

 心底嬉しそうに、楽しそうに、亮太は語る。

「ちゃんと血が出て、痛いんですよ。だけど……自分のじゃ、『面白くない』んです」
「……そっか。お父さんとお母さんのは、面白かったんだ?」

 晃一はあくまで、「知り合いの少年」に語り掛けるかのように言う。
 自らの手で撃ち抜いた脚と、床を汚す血液を、視界に入れないようにして。
 晃一の言葉に、亮太は満面の笑みを浮かべた。

「はい! 二人とも……特にお母さんは、すっごくいい声で叫んでくれました」

 まるで、遊園地やデパートでの思い出を語るかのように、亮太は、「両親を殺した思い出」を語る。

「……録画回してる?」

 伝七が放った「影」に向けて、晃一は確認する。
 犬の形をした影は、肯定するように一声「ワン」と鳴いた。

 アランが扉の内側に足を踏み入れる。
 せ返るような血臭を頼りに、彼は奥の方へと走る。

「ぅ、あ……あア‥‥…りょう、た、サン……?」

 聞き覚えのない声が、近づいてくる。
 その姿を捉え、晃一は思わず口を抑えた。
 肉塊だ。そうとしか、表現しようがない。
 アランはその姿を意にも介さない。……いや、見えていないのだろう。抱擁しようと手を伸ばし……その、肩に触れた。

 肉塊は、異国の響きで何かを語る。
 アランの指が、惑うように再び宙をさまよう。

「悪ぃな、アンヌ……オレ、今はほとんど見えなくてよぉ」

 晃一は臆した様子を隠しつつ、歩み寄る。
 何を言っているのかはよく分からないが、推測ならできた。

「いやぁ……見えなくてよかったんじゃない?」
「あ……?」

 輪郭を、腕を……ともかく分かりやすい「形」を探るように、アランの腕が動く。
 ……だが、その指は困惑したようにさまよい続けるばかりだ。

 やがて、アランは弾かれたように立ち上がり、踵を返した。

「もう、充分でさ。殺るなら殺ってくだせえ」

 どこからか、伝七の声がする。
 その言葉を聞いてか聞かずか、アランは亮太の胸倉を掴み、その首筋に牙を突き立てた。

 吸血や、捕食といった単語は似つかわしくない。
 食い散らかす、または、切り刻む、といった表現がふさわしいのだろう。

「……おおー……」

 亮太は悲鳴を上げなかった。真っ黒な瞳は、ただただ興味深そうに自分を喰らうヴァンパイアを見つめていた。
 晃一は思わず、その惨状から視線を逸らす。さすがの晃一でも、直視できる光景ではなかった。
 だからこそ、晃一は……いや、おそらくはアランすらも、次の瞬間に何が起こったのか理解できなかった。

「あ……ガッ!? な、んだ……ッ」

 苦悶の声を上げたのは、アランだった。
 晃一が視線を戻すと、亮太に覆いかぶさっていたはずのアランの身体が消えている。
 その代わり、瀕死の亮太の足元に、白い仮面が転がっていた。

「は……?」

 引きずられたような赤い痕が、転々と奥まで続いている。
 晃一は得体の知れない感覚に襲われながらも、ゆっくりと、その先へ向かった。

 アランは、喰われていた。
 赤黒い肉塊が……いや、肉塊と化したアンヌが、ボキボキと音を立て、アランの肉体を貪っていた。

「ひどい、ひどいよ、おにいちゃん。こんどは……こんどは、りょうたさんを、うばうんだ」

 晃一に、そのセリフは聞き取れない。晃一にとってそれは、聞きなれない「言語」での呻き声でしかない。

 部屋の隅、胴体から離れたアランの首が、呆然と何か呟く。
 アンヌは威嚇するような声を上げ、感情をほとばしらせた。

 晃一には会話の内容がわからない。
 ……それでも、その内容が怨嗟であることは、はっきりと伝わった。

 アンヌはアランの呼びかけに、一瞬だけ動きを止める。
 それでも……「黙れ」とでも言うかのように、何かの薬品の瓶をアランの首へ投げつけた。

 やがて、ぐちゃぐちゃに噛み砕かれたアランの胴体を投げ出し、アンヌはよろよろと亮太の方へと向かう。
 四肢もすらない身体を器用に滑らせて、彼女は亮太に寄り添った。

「りょうたサン、りょウタさン、シなないで」

 その言葉は、晃一にも聞き取れた。
 心底慈しむような声で、アンヌは亮太の身体を包み込む。

「……僕……愛とか、恋とか、全然わかりません」

 亮太はうつろな、絶命間際の瞳をアンヌに向ける。

「本当に、わかりません、けど……」

 震える指先が、判別すらつかなくなった「顔」に確かに触れる。

「あなたといると、すごく、楽しいんです」

 晃一は、その様子を黙って見つめるしかできなかった。
 部屋の隅からアランの首を拾い上げ、脇に抱えて階段を上る。
 瓶は割れなかったが、どちらにせよ、アランの顔は火傷に覆われていてどんな表情か判別できない。

「こっちはどうにかなりそうでさ」

 伝七の声が、どこかの影から響く。

「こっちも終わったよ。それで……」

 晃一は飄々ひょうひょうとした笑みを貼り付け、

「俺は、いつ死ねばいいの?」

 平然と、告げた。

 晃一は、自らの生に何の未練もない。
 生きながらにして活きていなかった生に、ようやく満足のできる「終わり」を用意できる。……それは、彼にとって幸福な終幕を意味した。

 彼はようやく命を捨てられる……いや、「使える」場所を、見つけたのだ。
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