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第3章 Hatred at the Moment
35. Vincentの記憶
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目眩がする、足元がふらつく。
どうやら、私もそれなりに怨念に当てられていたらしい。
ポールに別人格が存在したこと、その人格が激しい恨みを抱えているかもしれないこと……ヴァンサンの憎しみが正当なものかもしれないこと……何もかも、上手く消化できない。
「オリーヴ」
懐かしい声がする。
これは……ポールの、声……?
「大丈夫ですか……?」
でも、私に声をかけたのは、ポールじゃない。……ヴァンサンだ。
「……申し訳ありません……その、妙なことを、言ってしまいましたね……」
ヴァンサンは俯きつつ、相変わらず覇気のない声で呟く。
「すみません……私達のことなど、気になさらない方がいいでしょう……。貴女は、私とは違います。……帰るべき場所が、あるのですから……」
まだサングラスはずれていて、隙間から黄緑……ペリドット色の瞳が、見える。ポールと同じ位置にある、泣きぼくろも……見え……
あれ? 泣きぼくろ?
待って。どうして、ほくろの位置まで同じなの?
兄弟でも、もし双子だとしても、そこが同じになるのっておかしくない?
いや、でも、ヴァンサンはポールの肉体に近づけるために去勢されたんだし、ほくろを人工的につけるのだって、可能ではある……し……。
「オリーヴちゃん? どした?」
思考がまとまらない。レオナルドが相手じゃ、レニーやキースみたいに推論を言ってくれることもない。……だけど……逆に言えば、じっくりと、情報を精査できるってことでもある。
「敗者の街」や死者、過酷な人生については彼らの方が詳しい。でも、ポールと数年間でも関わった私の方が、分かることは多いはずなんだ。
「おい、黙っちまったぜ。どうするよ、カレシなんだろ?」
「……いや、違いますよ……」
「照れんなよー好きって顔に書いてんじゃねぇか」
「何を馬鹿な……って、やめてください……! ウィッグが落ちてしまいます……!」
頭をわしゃわしゃと撫でられ、ヴァンサンのウィッグもずり落ちそうになる。
黒髪だ。……そういえば、ポールの記憶でも……同じ髪の色に、同じ瞳の色って……
思考がまとまらない。何か、もう少しで辿り着けそうなのに、ピースが上手くはまらない。
「……と、ともかく……まずは、私や兄のことより……オリーヴの帰宅を……その、優先するべきでは、ないでしょうか……アテナも、帰りを待っているでしょうし……」
「アテナ? 誰それ」
「オリーヴの……飼い猫ですよ。……先程見た記憶に、遊んでいた場面が……ありません、でしたか……?」
……え? 私、そんな場面は思い出してない。
確かに、ウチの猫の名前はアテナだ。……だけど、漏れ出した記憶の中にそんな情報はなかった。アテナの名前だって、ロデリックにすら伝えてない。
ポールが話していた? それなら、そうと言えばいい。……どうして?
……ねぇ、ヴァンサン。あの胸元の傷……まさか……
10年前の、傷なんじゃないの?
「ポール……?」
私がその名前で呼ぶと、ヴァンサンはビクッと肩を震わせ、こちらを見た。冷や汗が頬を伝い、瞳には怯えが広がっている。
やり方はよく分からないけど……感情が強く揺れた時、記憶が「溢れ出す」ような気がする。それなら、試す価値はある。
記憶はあくまで主観だから、隠されたり捏造があったりはするかもしれない。……でも、今、彼は弱っている。取り繕ったとしても、ほつれはあるはず……!
ヴァンサンの肩を掴み、瞳を真っ直ぐ見据える。ちょっと首が痛いけど、今の彼は猫背だからどうにかなった。
「私は味方だよ。だから、教えて」
「……ッ、や、やめ……」
怯えるように、瞳孔が開く。
揺さぶられた感情が、私の中に流れ込んでくる。
「み、視ないで、ください……!!」
ヴァンサンの絶叫も虚しく、閉ざされていた「記憶」が開かれた。
***
「それ」に、気付いてはいけないと、自分に言い聞かせていた。
私はトマ家でも「いない扱い」をされるほど、汚らわしく、醜い存在なのだと……そう、思い込もうとしていた。
「ポール! ピアスをつけるのはいいけど……ちゃんとした方法でね。化膿したら大変でしょう?」
「そうだぞ。相談してくれたらピアッサーも買ってくるし、なんなら専門店で開けることもできる」
養父母は優しい。私達が「きょうだい」で保護されたのなら、ポールだけに優しくし、ヴァンサンだけを「いない扱い」にすることなんて、考えにくい。……けれど、人間とは信用できないものだ。そう、自分に言い聞かせていた。
「……私は、ヴァンサンですよ……?」
「……! ……そう……」
どうして、そんな、悲しい顔をされてしまうのだろう。私は、私が、私だと主張しただけだというのに……。
「ポール。明日もお医者様のところに行きましょう。……大丈夫、きっと良くなるから」
私は、「ポール」ではない。ポールは私の姉だ。私の苦痛の原因であり、私が母に愛されなかった理由であり……いつも、私を庇い、助け、盾になってくれる……私の……私、の……
「大丈夫だよ、ヴァンサン。ぼくが、守ってあげる。きみがどれほど虐げられても、ぼくは……ぼくだけは、きみの味方だ」
「私が苦しむのはあんたのせいだ。あんたが存在するから、私はこんな惨めな目に遭う。……私はあんたが憎い……!!」
「大丈夫、大丈夫だよ、ヴァンサン。ぼくは……きみに、そんなことを思ったりしない。きみは大事な弟だ。きみを救いたいんだ」
私は、幼い頃に抱き締められた記憶があまりない。
それなのに、記憶の中の「ポール」はいつだって私を抱き締めている。温もりも、感触も……「分からない」のに……彼女はいつだって私を抱き締め、大丈夫だと言い聞かせていた。……そういうことに、なっていた。
「……グレース・ヴァンサンから連絡は?」
「もう関わらないで、って……。本当に、酷い母親……!」
「良いじゃないか。俺は……関わらない方が幸せだと思う」
「……。そうかも、しれないね……。ごめんなさいね、どこかで、期待してしまってたのかも。『子供を愛さない親はいない』なんて、幻想でしかないのに……」
養父母の会話に聞き耳を立てたくせをして、「私達」は耳を塞いだ。
……ええ。本当は、分かっていたのです。
私は創り出された側ですから。知らないはずがなかったのです。それでも……全て知っていても、気付かないふりをしていました。
嘘を真実にすり替えていたかったのです。「私」も、「ポール」も。
本来の母親は……グレース・ヴァンサンは、その時々で言うことを変える人だった。
──男でも女でもないなんて、おぞましい。触んじゃないよ! 仕事前に汚れがうつる!
──昨日は殴って悪かったね。……ちょっと考えてみたけど、どっちでもないって逆に完璧なんじゃない? アリだよ、アリ!
──はぁ? そんなのもわかんないのか、この穀潰し! 役立たず!
──本当に、ポールがいて良かった。あんたが心の支えだよ……。愛してる……
日常的な暴力に曝され、とうに、幼い心は壊れていた。
愛される偶像に「なる」ために、ポールは……ポール・ヴァンサンは自分の負の感情を切り離した。
排除した嘆きや怨嗟が「私」に流れ込み、そのぶん、ポールには余裕ができる。「弟」という救う対象……依存する対象も創り出せる。
本当に虐げられていたのは、自分だと言うのに、彼女は、いつまでもそれを思い出さない。
苦痛を自分のものにできないから、「私」という「別人」に託す。
「私」はこんなに痛くて辛いのに、私が苦しい思いをすればするほど、「ポール」は穏やかに笑う。
そのくせ、ポール本人はそれに気が付かない。彼女は、本当に、自分が「弟」を助けているつもりでいるから。
誰かを救うことで救われたかった。
救ってくれる誰かが欲しかった。
孤独な彼女は、二つの願望を一人で演じた。自分の悲劇を他人事にして、ボロボロに傷ついた心を、認識できないほど奥底に閉じ込めた。
……私達は、孤独に耐えられなかったのだ。
「ポール」は冷たい鏡の感触を「弟」の手のひらと誤認したまま、「兄」として優しく笑うようになった。
暗く、狭い部屋の中から外の世界に出られたのは、幸運だった。
……けれど、彼女が負った傷は深刻すぎた。
痛めつけられた過去すらなかったことにし、「姉」は理想の自分を演じ続けた。痛み続ける古傷から目を逸らし、苦痛を創り上げた「弟」に押し付け、明るい場所に立とうとし続けた。
誰かと積極的に関わる反面、彼女は、深入りすることを避けた。
誰にも「自分」を知られたくなかったからだ。
「ポール」は……心の傷に触れられたくなかった。
やがて、彼女は芸術に出会った。
自分にしかない経験、他人の持たない肉体、それらがあれば、特別な作品が作れると……子を成すことのない彼女でも、後世に遺せる何かがあると……そう、無邪気に信じていた。
でも、違った。彼女は間違っていた。
「ポール」は自分に向き合えていなかった。自分の傷を見たくなかったのだ。
自分の感情と向き合わなければ、作品に魂なんて、いつまでも宿らないのに。
そして、「ポール」は、ほつれ始めた張りぼてに気付かないまま、ついに誰かを愛した。……愛してしまった。
明るく笑う、愛らしい人。なんの苦しみも痛みも知らない、無邪気な恋人。彼女は、恋人の隣で幸福を感じながら……次第に、追い詰められていった。
私達は、他人の愛し方を知らない。どれほど強く想っても、どれほどそれを伝えようにも……言葉も、表情も、作り物にしかならない。
それに、オリーヴと私達では……生きる世界が違う。
「ポール」が恋人を愛すれば愛するほど、「私」の苦痛は増した。
恋愛にまつわる不安、疑心、恐怖、懊悩……すべてを、私が引き受けることになるのだから。
……私はさらに、「ポール」が憎くなった。
ああ、そうです。彼女はいつまでも私に気付かないのです。助けるべき「弟」として、鏡に向かって穏やかに笑い続けるのです。……憎んで、当たり前でしょう?
それが例え、自分自身だとしても。
けれど、「ぼく」は消えたくないと叫びました。
死にたくない。まだ、生きていたいんだと……そうやって抗おうとするから、「私」はその感情を殺しました。
「私」が「私」として死ねるように……生きようと足掻く「ぼく」を殺しました。
生きたがる「ぼく」を跳ね除け自殺を図りましたが、何度も失敗しました。
終いには脚立に細工を仕掛け、事故死するように仕向けましたが……結局は、自分の手で、自分の胸にハサミを突き立てることになりました。
養父に見つかり、救急車で運ばれ……何日も、高熱にうなされました。
生きようとする「ぼく」を無理やり自分から引き離し、「ぼく」が二度と帰って来ないように、「私」は「ヴァンサン」の記憶を強固に塗り固めようとしました。偽りの記憶で隙間を埋め、二度と「私」を苦しめる「ポール」が蘇らないようにと願いました。
「私」は……「ヴァンサン・トマ」は「姉」を殺して森の奥に埋め、逃亡しながらフリーランスのエンジニアとして働いている……と、でたらめの妄想を真実だと思い込もうとしました。
本当は療養施設にいて、仕事の紹介も施設の斡旋があってのものだというのに、名前も「ポール・トマ」のままだというのに……それら全てを忘れ、帰って来ようとする「本当のポール」の声を拒絶し続け、どこか遠くに、それこそ手の届かないところに、追いやろうと……
「嘘です! 信じません……! 私に、兄が存在しないなど……!」
***
「嘘です! 信じません……! 私に、兄が存在しないなど……!」
はぁ、はぁと息を荒らげ、ヴァンサンは頭を抱えて膝をついた。
「違う、違う……!! でたらめです! 私は……私には『兄』がいたのです!! 彼女だけが私を……救ってくれました……でも、私が苦しんだのも……『姉』のせいで……だから、だから、逆恨みで殺したのです! 私は醜く、おぞましい存在なのです……死んで当然の……罪人なのです……!!」
どういうことなのか、理解が追いつかない。
ポールはヴァンサンの言う通り、多重人格だった。……だけど……別人格は、マノンに取り憑いた「少女」じゃない。
目の前にいる、ヴァンサンだ……ってことで、いいの……?
「……どゆこと? 一人の人間が、二つの身体持ってるってこと?」
レオナルドはさっぱり理解できていないらしく、何度も首を捻っている。
「多重人格は……同一人物の別側面でしかないはず。つまり……レヴィのところにいる『ポール』は、切り離された魂って、こと……?」
どれだけ強く、「もう一人の自分」を拒絶したんだろう。
引き裂かれた感情が「死者の世界」に迷い込むぐらい。彼は、「自分自身」を憎んだ。
……ポールの語った「黒い霧の中」は、「敗者の街」とは限らないのかもしれない。「街」に本当に迷い込んだのがいつなのかは分からないけど……「黒い霧の中」って、自分の精神世界のことも示していたんじゃないのかな。
声が似ているのも、ほくろの位置が同じなのも、当たり前だ。……私が手を差し伸べずにいられなかったのも、当たり前だ。
ヴァンサンは、ポールなんだから。
「……精神の死、ってやつ? どっかで聞いたぜ」
「たぶん、肉体より……難しいよね。バラバラになっちゃったなら、余計に……」
「そうか? 死んでも死なねーんだろ、精神って」
「う、うーん……そういう捉え方でいいのかなぁ……」
レオナルドの言い分も、わからなくはない。
確かに、アンドレアも一度は「精神の死」を迎えていたらしい。だけど、彼女はロデリックの元に帰ってきている。
でも、違うんだよ。……例え身体が生きていたとしても、壊れたものは壊れたままなんだ。
胸が痛い。自然と涙が溢れて、止まらない。
思わずヴァンサン……ううん、ポールの身体を抱き締めた。
「気付かなくてごめんね……つらかったよね、苦しかったよね……」
低いけれど、体温が伝わってくる。……カタカタと小刻みに震えているのも、伝わる。
「い、いいえ……貴女を愛した人は……『私』では、ありません」
「……切り離しちゃうくらい、苦しかった?」
「……『兄』は貴女を愛したのでしょうが……わ、『私』は、貴女が……恐ろしくて、仕方がなかった……」
ああ、ようやく分かった。
ポールは私を思って、記憶を奪った。それは、事実だ。
だけど、私のせいでポールは苦しんでいた。……それも、事実なんだ。
「女性が……怖いのです。笑顔も、怖いのです。愛を、信じられないのです……」
その痛みは、傷ついた者にしか分からない。だから、私は気付けなかった。
ポールはきっと、ずっと泣いていたんだ。痛くて、苦しくて、それでもそれを言えない人だった。……負の感情を、うまく発露できない人だった。
「……ごめんなさい……オリーヴ……」
涙を流し、彼は片手で顔を覆う。
黙って抱き締め続けることしか、私にはできなかった。
本当に、嫌になっちゃうな。どうして、こうなっちゃったんだろう……。
どうやら、私もそれなりに怨念に当てられていたらしい。
ポールに別人格が存在したこと、その人格が激しい恨みを抱えているかもしれないこと……ヴァンサンの憎しみが正当なものかもしれないこと……何もかも、上手く消化できない。
「オリーヴ」
懐かしい声がする。
これは……ポールの、声……?
「大丈夫ですか……?」
でも、私に声をかけたのは、ポールじゃない。……ヴァンサンだ。
「……申し訳ありません……その、妙なことを、言ってしまいましたね……」
ヴァンサンは俯きつつ、相変わらず覇気のない声で呟く。
「すみません……私達のことなど、気になさらない方がいいでしょう……。貴女は、私とは違います。……帰るべき場所が、あるのですから……」
まだサングラスはずれていて、隙間から黄緑……ペリドット色の瞳が、見える。ポールと同じ位置にある、泣きぼくろも……見え……
あれ? 泣きぼくろ?
待って。どうして、ほくろの位置まで同じなの?
兄弟でも、もし双子だとしても、そこが同じになるのっておかしくない?
いや、でも、ヴァンサンはポールの肉体に近づけるために去勢されたんだし、ほくろを人工的につけるのだって、可能ではある……し……。
「オリーヴちゃん? どした?」
思考がまとまらない。レオナルドが相手じゃ、レニーやキースみたいに推論を言ってくれることもない。……だけど……逆に言えば、じっくりと、情報を精査できるってことでもある。
「敗者の街」や死者、過酷な人生については彼らの方が詳しい。でも、ポールと数年間でも関わった私の方が、分かることは多いはずなんだ。
「おい、黙っちまったぜ。どうするよ、カレシなんだろ?」
「……いや、違いますよ……」
「照れんなよー好きって顔に書いてんじゃねぇか」
「何を馬鹿な……って、やめてください……! ウィッグが落ちてしまいます……!」
頭をわしゃわしゃと撫でられ、ヴァンサンのウィッグもずり落ちそうになる。
黒髪だ。……そういえば、ポールの記憶でも……同じ髪の色に、同じ瞳の色って……
思考がまとまらない。何か、もう少しで辿り着けそうなのに、ピースが上手くはまらない。
「……と、ともかく……まずは、私や兄のことより……オリーヴの帰宅を……その、優先するべきでは、ないでしょうか……アテナも、帰りを待っているでしょうし……」
「アテナ? 誰それ」
「オリーヴの……飼い猫ですよ。……先程見た記憶に、遊んでいた場面が……ありません、でしたか……?」
……え? 私、そんな場面は思い出してない。
確かに、ウチの猫の名前はアテナだ。……だけど、漏れ出した記憶の中にそんな情報はなかった。アテナの名前だって、ロデリックにすら伝えてない。
ポールが話していた? それなら、そうと言えばいい。……どうして?
……ねぇ、ヴァンサン。あの胸元の傷……まさか……
10年前の、傷なんじゃないの?
「ポール……?」
私がその名前で呼ぶと、ヴァンサンはビクッと肩を震わせ、こちらを見た。冷や汗が頬を伝い、瞳には怯えが広がっている。
やり方はよく分からないけど……感情が強く揺れた時、記憶が「溢れ出す」ような気がする。それなら、試す価値はある。
記憶はあくまで主観だから、隠されたり捏造があったりはするかもしれない。……でも、今、彼は弱っている。取り繕ったとしても、ほつれはあるはず……!
ヴァンサンの肩を掴み、瞳を真っ直ぐ見据える。ちょっと首が痛いけど、今の彼は猫背だからどうにかなった。
「私は味方だよ。だから、教えて」
「……ッ、や、やめ……」
怯えるように、瞳孔が開く。
揺さぶられた感情が、私の中に流れ込んでくる。
「み、視ないで、ください……!!」
ヴァンサンの絶叫も虚しく、閉ざされていた「記憶」が開かれた。
***
「それ」に、気付いてはいけないと、自分に言い聞かせていた。
私はトマ家でも「いない扱い」をされるほど、汚らわしく、醜い存在なのだと……そう、思い込もうとしていた。
「ポール! ピアスをつけるのはいいけど……ちゃんとした方法でね。化膿したら大変でしょう?」
「そうだぞ。相談してくれたらピアッサーも買ってくるし、なんなら専門店で開けることもできる」
養父母は優しい。私達が「きょうだい」で保護されたのなら、ポールだけに優しくし、ヴァンサンだけを「いない扱い」にすることなんて、考えにくい。……けれど、人間とは信用できないものだ。そう、自分に言い聞かせていた。
「……私は、ヴァンサンですよ……?」
「……! ……そう……」
どうして、そんな、悲しい顔をされてしまうのだろう。私は、私が、私だと主張しただけだというのに……。
「ポール。明日もお医者様のところに行きましょう。……大丈夫、きっと良くなるから」
私は、「ポール」ではない。ポールは私の姉だ。私の苦痛の原因であり、私が母に愛されなかった理由であり……いつも、私を庇い、助け、盾になってくれる……私の……私、の……
「大丈夫だよ、ヴァンサン。ぼくが、守ってあげる。きみがどれほど虐げられても、ぼくは……ぼくだけは、きみの味方だ」
「私が苦しむのはあんたのせいだ。あんたが存在するから、私はこんな惨めな目に遭う。……私はあんたが憎い……!!」
「大丈夫、大丈夫だよ、ヴァンサン。ぼくは……きみに、そんなことを思ったりしない。きみは大事な弟だ。きみを救いたいんだ」
私は、幼い頃に抱き締められた記憶があまりない。
それなのに、記憶の中の「ポール」はいつだって私を抱き締めている。温もりも、感触も……「分からない」のに……彼女はいつだって私を抱き締め、大丈夫だと言い聞かせていた。……そういうことに、なっていた。
「……グレース・ヴァンサンから連絡は?」
「もう関わらないで、って……。本当に、酷い母親……!」
「良いじゃないか。俺は……関わらない方が幸せだと思う」
「……。そうかも、しれないね……。ごめんなさいね、どこかで、期待してしまってたのかも。『子供を愛さない親はいない』なんて、幻想でしかないのに……」
養父母の会話に聞き耳を立てたくせをして、「私達」は耳を塞いだ。
……ええ。本当は、分かっていたのです。
私は創り出された側ですから。知らないはずがなかったのです。それでも……全て知っていても、気付かないふりをしていました。
嘘を真実にすり替えていたかったのです。「私」も、「ポール」も。
本来の母親は……グレース・ヴァンサンは、その時々で言うことを変える人だった。
──男でも女でもないなんて、おぞましい。触んじゃないよ! 仕事前に汚れがうつる!
──昨日は殴って悪かったね。……ちょっと考えてみたけど、どっちでもないって逆に完璧なんじゃない? アリだよ、アリ!
──はぁ? そんなのもわかんないのか、この穀潰し! 役立たず!
──本当に、ポールがいて良かった。あんたが心の支えだよ……。愛してる……
日常的な暴力に曝され、とうに、幼い心は壊れていた。
愛される偶像に「なる」ために、ポールは……ポール・ヴァンサンは自分の負の感情を切り離した。
排除した嘆きや怨嗟が「私」に流れ込み、そのぶん、ポールには余裕ができる。「弟」という救う対象……依存する対象も創り出せる。
本当に虐げられていたのは、自分だと言うのに、彼女は、いつまでもそれを思い出さない。
苦痛を自分のものにできないから、「私」という「別人」に託す。
「私」はこんなに痛くて辛いのに、私が苦しい思いをすればするほど、「ポール」は穏やかに笑う。
そのくせ、ポール本人はそれに気が付かない。彼女は、本当に、自分が「弟」を助けているつもりでいるから。
誰かを救うことで救われたかった。
救ってくれる誰かが欲しかった。
孤独な彼女は、二つの願望を一人で演じた。自分の悲劇を他人事にして、ボロボロに傷ついた心を、認識できないほど奥底に閉じ込めた。
……私達は、孤独に耐えられなかったのだ。
「ポール」は冷たい鏡の感触を「弟」の手のひらと誤認したまま、「兄」として優しく笑うようになった。
暗く、狭い部屋の中から外の世界に出られたのは、幸運だった。
……けれど、彼女が負った傷は深刻すぎた。
痛めつけられた過去すらなかったことにし、「姉」は理想の自分を演じ続けた。痛み続ける古傷から目を逸らし、苦痛を創り上げた「弟」に押し付け、明るい場所に立とうとし続けた。
誰かと積極的に関わる反面、彼女は、深入りすることを避けた。
誰にも「自分」を知られたくなかったからだ。
「ポール」は……心の傷に触れられたくなかった。
やがて、彼女は芸術に出会った。
自分にしかない経験、他人の持たない肉体、それらがあれば、特別な作品が作れると……子を成すことのない彼女でも、後世に遺せる何かがあると……そう、無邪気に信じていた。
でも、違った。彼女は間違っていた。
「ポール」は自分に向き合えていなかった。自分の傷を見たくなかったのだ。
自分の感情と向き合わなければ、作品に魂なんて、いつまでも宿らないのに。
そして、「ポール」は、ほつれ始めた張りぼてに気付かないまま、ついに誰かを愛した。……愛してしまった。
明るく笑う、愛らしい人。なんの苦しみも痛みも知らない、無邪気な恋人。彼女は、恋人の隣で幸福を感じながら……次第に、追い詰められていった。
私達は、他人の愛し方を知らない。どれほど強く想っても、どれほどそれを伝えようにも……言葉も、表情も、作り物にしかならない。
それに、オリーヴと私達では……生きる世界が違う。
「ポール」が恋人を愛すれば愛するほど、「私」の苦痛は増した。
恋愛にまつわる不安、疑心、恐怖、懊悩……すべてを、私が引き受けることになるのだから。
……私はさらに、「ポール」が憎くなった。
ああ、そうです。彼女はいつまでも私に気付かないのです。助けるべき「弟」として、鏡に向かって穏やかに笑い続けるのです。……憎んで、当たり前でしょう?
それが例え、自分自身だとしても。
けれど、「ぼく」は消えたくないと叫びました。
死にたくない。まだ、生きていたいんだと……そうやって抗おうとするから、「私」はその感情を殺しました。
「私」が「私」として死ねるように……生きようと足掻く「ぼく」を殺しました。
生きたがる「ぼく」を跳ね除け自殺を図りましたが、何度も失敗しました。
終いには脚立に細工を仕掛け、事故死するように仕向けましたが……結局は、自分の手で、自分の胸にハサミを突き立てることになりました。
養父に見つかり、救急車で運ばれ……何日も、高熱にうなされました。
生きようとする「ぼく」を無理やり自分から引き離し、「ぼく」が二度と帰って来ないように、「私」は「ヴァンサン」の記憶を強固に塗り固めようとしました。偽りの記憶で隙間を埋め、二度と「私」を苦しめる「ポール」が蘇らないようにと願いました。
「私」は……「ヴァンサン・トマ」は「姉」を殺して森の奥に埋め、逃亡しながらフリーランスのエンジニアとして働いている……と、でたらめの妄想を真実だと思い込もうとしました。
本当は療養施設にいて、仕事の紹介も施設の斡旋があってのものだというのに、名前も「ポール・トマ」のままだというのに……それら全てを忘れ、帰って来ようとする「本当のポール」の声を拒絶し続け、どこか遠くに、それこそ手の届かないところに、追いやろうと……
「嘘です! 信じません……! 私に、兄が存在しないなど……!」
***
「嘘です! 信じません……! 私に、兄が存在しないなど……!」
はぁ、はぁと息を荒らげ、ヴァンサンは頭を抱えて膝をついた。
「違う、違う……!! でたらめです! 私は……私には『兄』がいたのです!! 彼女だけが私を……救ってくれました……でも、私が苦しんだのも……『姉』のせいで……だから、だから、逆恨みで殺したのです! 私は醜く、おぞましい存在なのです……死んで当然の……罪人なのです……!!」
どういうことなのか、理解が追いつかない。
ポールはヴァンサンの言う通り、多重人格だった。……だけど……別人格は、マノンに取り憑いた「少女」じゃない。
目の前にいる、ヴァンサンだ……ってことで、いいの……?
「……どゆこと? 一人の人間が、二つの身体持ってるってこと?」
レオナルドはさっぱり理解できていないらしく、何度も首を捻っている。
「多重人格は……同一人物の別側面でしかないはず。つまり……レヴィのところにいる『ポール』は、切り離された魂って、こと……?」
どれだけ強く、「もう一人の自分」を拒絶したんだろう。
引き裂かれた感情が「死者の世界」に迷い込むぐらい。彼は、「自分自身」を憎んだ。
……ポールの語った「黒い霧の中」は、「敗者の街」とは限らないのかもしれない。「街」に本当に迷い込んだのがいつなのかは分からないけど……「黒い霧の中」って、自分の精神世界のことも示していたんじゃないのかな。
声が似ているのも、ほくろの位置が同じなのも、当たり前だ。……私が手を差し伸べずにいられなかったのも、当たり前だ。
ヴァンサンは、ポールなんだから。
「……精神の死、ってやつ? どっかで聞いたぜ」
「たぶん、肉体より……難しいよね。バラバラになっちゃったなら、余計に……」
「そうか? 死んでも死なねーんだろ、精神って」
「う、うーん……そういう捉え方でいいのかなぁ……」
レオナルドの言い分も、わからなくはない。
確かに、アンドレアも一度は「精神の死」を迎えていたらしい。だけど、彼女はロデリックの元に帰ってきている。
でも、違うんだよ。……例え身体が生きていたとしても、壊れたものは壊れたままなんだ。
胸が痛い。自然と涙が溢れて、止まらない。
思わずヴァンサン……ううん、ポールの身体を抱き締めた。
「気付かなくてごめんね……つらかったよね、苦しかったよね……」
低いけれど、体温が伝わってくる。……カタカタと小刻みに震えているのも、伝わる。
「い、いいえ……貴女を愛した人は……『私』では、ありません」
「……切り離しちゃうくらい、苦しかった?」
「……『兄』は貴女を愛したのでしょうが……わ、『私』は、貴女が……恐ろしくて、仕方がなかった……」
ああ、ようやく分かった。
ポールは私を思って、記憶を奪った。それは、事実だ。
だけど、私のせいでポールは苦しんでいた。……それも、事実なんだ。
「女性が……怖いのです。笑顔も、怖いのです。愛を、信じられないのです……」
その痛みは、傷ついた者にしか分からない。だから、私は気付けなかった。
ポールはきっと、ずっと泣いていたんだ。痛くて、苦しくて、それでもそれを言えない人だった。……負の感情を、うまく発露できない人だった。
「……ごめんなさい……オリーヴ……」
涙を流し、彼は片手で顔を覆う。
黙って抱き締め続けることしか、私にはできなかった。
本当に、嫌になっちゃうな。どうして、こうなっちゃったんだろう……。
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「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
短い怖い話 (怖い話、ホラー、短編集)
本野汐梨 Honno Siori
ホラー
あなたの身近にも訪れるかもしれない恐怖を集めました。
全て一話完結ですのでどこから読んでもらっても構いません。
短くて詳しい概要がよくわからないと思われるかもしれません。しかし、その分、なぜ本文の様な恐怖の事象が起こったのか、あなた自身で考えてみてください。
たくさんの短いお話の中から、是非お気に入りの恐怖を見つけてください。
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