闇を纏う王子と滅びの星の墜ちる庭

森野結森

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 今回、アイゼンが聖女一行とともに王城を発ったのは、二日前の朝。彼らは一晩目は別の街に滞在し、そこでの晩餐会に揃って出席した後、ベィルへは昨日の午後には到着している。

 王城に残ったルーンハルトは、この二日間は補佐官としての仕事を最小限に抑え、ほとんどの時間を大学で過ごしていた。それが叶ったのは、他ならぬアイゼンがそのための時間を作り出してくれたからだ。

(……感謝こそすれ)
(私が傷付くのは、おかしいんだ)

 ベィルの聖堂は、白い石造り。
 ルーンハルトが入り口の扉をくぐった時、一日がかりの長丁場となる儀式はちょうど終えたところのようだった。

 厳粛ながら華やかな式典のため、高く天井まで巻き上げられたたくさんの花々が、まだ、ひらひら、ふわふわと絶え間なく降って落ちてくる中だ。
 窓の外はゆったりと暮れてきており、聖堂の白い床には、透き通ったオレンジ色の陽差しがきらきらと降り注ぐ。

 ――その穏やかな光に包まれて、アイゼンと季紗は二人きり、顔を寄せ合って親しげに談笑していた。



 聖女の正装である真っ白なドレスを纏う季紗は、ひときわ美しい。その手に白き聖杖を携えているのなら、なおさらだ。ドレスと同じ繊細な刺繍と清楚な宝石に彩られた儀式用のヘッドドレスは、彼女の魅力的な笑顔をより華やかに引き立ててみせる。

 傍らに立つアイゼンが身に付けているのも、やはり式典用の黒の正装だった。漆黒の衣装には銀糸の刺繍が粛然ときらめき、彼の毅然とした佇まいに静かな緊張感を加える。
 それは稀代の聖女と並び立つにふさわしい、厳かなほどの崇高さを身に帯びた立ち姿だ。

『ダニエルはあれでいてずさんな男だから、……』

 身長差のあるアイゼンを相手に、季紗はほとんどつま先立ちになっているのではないかと思えるほど懸命なようすで、食い入るように顔を上向けていた。そんな彼女の耳元へと、アイゼンはなにかを囁く。
 短い言葉の間にも、彼がひどく楽しそうに口元を緩めているのがわかった。

 それを聞いた季紗が「えっ」と声を上げると、アイゼンはなお柔らかに破顔してみせる。

『ほんとに!? ねえ、ほんとじゃなかったらひどいよ!?』
『誓って嘘は申しませんよ、聖女様』
『逆に怪しくないかなあ!? その話あたし、思いっ切り信じちゃうけど……あ、ルーン先生ー!』

 こちらの存在に気付いた二人が、揃って表情を改め、当たり障りのない挨拶を口にした。そんな彼らへ到着の旨を伝えて返しながらも、ルーンハルトの胸の内には重たい凝りがそっと溜まってゆく。

(早く)
(季紗様の手を、取ってしまえばいいのに)

「ルー」

 ふいに顎を捉えた指先の、その意外な力の強さに、びくりと肩が震えた。……反面、耳朶に触れてくる声音を、ひどく優しいと感じる。

(アイゼン様)

 形の良い唇が近付いてくるのに、ルーンハルトはぎゅっと勢いよく目を閉じてしまう。触れ合う寸前、少しだけ、柔らかく笑う気配があった。……何を今さら緊張しているのかと、彼は呆れているのかもしれない。

 ちゅくりと水音を立てて舌を絡み取られてゆく中ではとても反論する術などないが、体が強張るのはたぶん、緊張のせいではないのだ。

 舌の根元を舐められ、滴る唾液を啜られながら、心の内は苦しくて堪らなくなる。アイゼンの肩へと添えた指先がじんじんと痺れるのは、勝手に火が付いてしまう官能のためでは、もうなかった。……まるで、心臓が引き千切られるみたいだ。

(……どう、して)

 これまで、アイゼンとの身体的な接触に拒否感を覚えたことなどなかった。
 彼との『魔力交換』は、自分にとっての贖罪。拒むことなんて、ルーンハルトは自分自身に許していない。なのに。

(いやだ)

 心臓が痛い。……脳裏から、季紗と微笑み合うアイゼンの姿が消えない。

 キスはずっと続いている。けれど、息を上手く継げなくなった。アイゼンの舌先を躱しながら、苦しくて、喘ぐ。どうすればいいのか、わからない。

 ぐしゃぐしゃだ。いっそ情けなく声を洩らして、泣き出してしまいたくなる。

「ルー」

 ふいに、無骨な親指がこちらの頬に温もりを添えた。

 体温の筆が、するりと滑る。
 その感触にルーンハルトは驚き、視界を開いた。まさか本当に涙を零してしまったのか、と思ったのだ。

 慎重に刻む瞬きの向こう側は、けれど変わらず、からりと乾いたままだった。間近のアイゼンも、彼越しに広がる滞在中の客間のようすも、すべてくっきりとクリアに見つめられる。

「どうした。……どこか、痛むのか?」 

 だからこそ、ほんのわずか気遣わしげに眉を寄せたアイゼンの表情を、つぶさに瞳が捉えてしまった。彼の心から波打って触れてくる、あまりにも温かな憂慮。それが、真綿のごとくこちらの首元を締めようとする。

「ルー。おまえの明日の予定は、どうなった?」
「――」

 ルーンハルトの乾いた視界と同じくらい、そう問うアイゼンの声音も冷静だ。

 だが、そんな気遣いを受け入れていいはずもない。喉を塞ぐ息苦しさをどうにか振り切って、ルーンハルトは反論を口にする。

「……まだ、本日の『魔力交換』を終えておりません」
「気にするな。いまのキスで、明日一日は充分に持つ。三日前は指を挿れただろう?」
「……っ、ですが」
「――ルー」

 呼ぶ声は短い。けれど充分に低く、有無を言わせぬ力があった。まっすぐにこちらを射るアイゼンの漆黒の瞳は、ルーンハルトがぐずぐずと手から離せずにいる薄っぺらな義務感を、その鋭い刃のような眼光一つで断ち切ってみせる。

 彼が「いい」と言えば、いいのだ。

(この夜が、明ければ)

 アイゼンは一転、今度は王城騎士団の団長として、魔物討伐関連の任務に就くだろう。討伐任務と言っても、実態はただの視察であり、連れてゆくのも一隊だけだ。現地での滞在時間もごく短く、彼らは同じ日の午後には帰城する予定だった。

「明日……私は、サルーベックへ向かいます。王都へは、夕刻頃に戻ります」
「サルーベック? そりゃ道中ちょっと西に逸れるだけだが、なんでわざわざ遠回りする気になってる?」
「季紗様から、観光に行きたいとの要望がありました」

 サルーベックの街には、栄えた通りがいくつもある。それこそ、季紗の年代の少女たちが好む華やかで可愛らしい店も、数多く軒を連ねているのだ。

「あのお姫さんか。ルー、優しいのはいいが、あんまり譲り過ぎるなよ。あれは根本的に遠慮しないタイプの人間だぞ」
「――」

 まるで身内のように季紗を語るアイゼンの響きの良い声音が、鋭利な刃となってこちらの胸を突き刺す。……もう割れる余地もないのに、粉々の心臓をさらに穿たれた心地だった。

 これ以上、自分にどうしろと言うんだろう?
 アイゼンを詰ってやりたくなる日が来るなんて、考えたこともなかった。

「……お話がそれだけなら、失礼してもよろしいでしょうか」
「ルー」
「おやすみなさいませ、アイゼン様」

 ルー、と再度呼び止められたものの、振り返るだけの余裕はない。

 ルーンハルトは扉を出る際の一礼すらも省いて、背を見せたままアイゼンの居室を出た。しん、と静まった、見慣れぬ暗い廊下に迎えられ、その冷ややかさにひどくほっとする。

 嫌いなのかもしれない、と初めて思った。

(――アイゼン)

 そんなわけがないのに、そう考えてしまったほうが、よほど楽だった。
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