哀愁の彼方に

今越 白磨

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哀愁の彼方に

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 平成二年の春は、遅く待ち遠しかった。
南市松は、当年六十路を四つ越えた初老になっていた。とはいうものの毎日が、酒に浸
りきりで、市松のそばに寄るといつも、酒の匂いがプンと漂ってきた。それに加えて市
松の手は、大酒呑みが陥る通常の症状を呈し、小刻みに震えていた。頭髪は、みごとな
くらいに白く、ロマンスグレイと呼ぶにふさわしいものであった。しかも、櫛など入れ
て髪の毛をとかせたこともない。その見事な白髪は、いつも乱れていた。生まれつきの
不精者の性格に加えて、頭髪には全く無頓着であった。おまけに無精ひげが、伸びたま
まで、目尻は垂れ下がってい
た。甚だ風采の上がらない男に見えた。しかし性格は、温厚で、正直で、正義感の強い頑
固者であった。
 市松はひと昔前までは、裸足の医者と呼ばれるほど人々に慕われていた。人里離れた山
深い村の人々に、尊敬と愛着を抱かれ、神様のように思われていた。雨の日には、村人と
共に雨の哀楽を味わい、風の吹く日には、村人と共に風のように走り、晴れた日には、村
人と共に晴れやかに苦楽を共にしていた。このような生き様は、市松の持って生まれた性
格から自然に出てくるものであった。村人は、大人から子供、老人、村の家畜にいたるま
で、好感を与え、市松の預かる診療所は、病気で訪れる人から、借金の相談や恋煩いの相
談にいたるよろず相談人でいつも満員であった。恋煩いの相談人には、
「お医者様でも、草津の湯でも、惚れた病は、治りゃしないよってね。そんなの、相手の
胸にドーンと当たるしかないんや。」と、言うのが口癖で、快いジョークの名手でもあった
。お金事以外の殆どの問題は、市松の治療で治ってしまった。村人は、その人間性に富ん
だ土臭い気さくで愛情あふれる治療で大満足していた。村人は、益々その魅力に引かれて
いったのである。
 市松は昔のことを、全く口にしなかった。というよりも、わざと、過去の名声に触れよ
うとしなかった。自分が医者であったことすら、忘れようとしていていた。市松の頭の中
に存在するものは、人間への愛と妻への慕情と僅かな酒だけであった。そんな市松の唯一
の楽しみと言えば、日雇いの日当で手に入れる三千円程度の報酬で買う合成焼酎だった。

市松は、山下元八の納屋を借りてそこで生活をしていた。納屋と言っても、つい最近まで
そこで馬が生活していた、いわば厩である。このような生活の場に尋ねてくる者は、一人
の女の子を除いて殆どなく、ひっそりとしていた。尋ねてくる女の子は、山下元八の末娘
の妙子である。妙子は、市松を好んでいた。彼女は、事あるごとに市松を訪ねて、市松か
らいろんなことを教わっていた。その後必ず彼女は、市松とはしゃいで最後は、腹から笑
って、笑って、笑いがなくなると帰っていくのだった。妙子は、珍しく今日に限って、
いつもと違う言葉を先に発したのである。
「うち、おっちゃん、嫌いや」
「なんでや」
「いつもお酒、臭くてかなわんわ」
「妙ちゃん、これは、おっちゃんの薬や」
「薬?薬って?どこ悪いんや。悪かったら、
はよう、お医者さんに見てもらわんとあかんわ」
「お医者さんにか?・・・・」
市松は、吹きだしそうな笑いをこらえようとして、激しく咳き込んだ。彼は、自分のこと
をこんなに心配してくれる純情な、妙子に笑いをみせまいとして、こらえたのだった。市
松は、心臓と肺を患っていた。心臓は、成人病と言う名で呼ばれているが要は、心臓肥大
であった。肺には、影が認められて、それはおそらく癌であろうと自分で自覚していた。
しかし彼は、正確な検査や診断を好まなかった。理由などなかった。生けるところまで生
きて、その後は、最愛の妻の元へ行きたかっただけである。
こんな彼に、一番なついていたのが、妙子であった。彼は、妙子を自分の孫のように扱っ
た。それは、目の中に入れても痛くないというような可愛さで、妙子の注文には、何でも
答えた。それが市松にとって、幸せを感じるひと時だった。特に妙子が、喜ぶ顔を見ると
き彼は、その嬉しそうな妙子の顔に生前の妻が、喜んだときの顔をダブらせて見えたので
ある。確かに、嬉しそうに微笑む無邪気な顔は、生前の妻の仕草と似ていたんのである。
小春日和のある日、妙子は、市松を訪ねてやって来た。彼は、いつものように焼酎を飲ん
でいた。妙子は、その彼の前に座るのであった。いつもなら、みかん箱を食台にした机の
うえには、焼酎タケノコの煮つけだけなのに今日は、妻の写真が置いてあった。
「おっちゃん、これ誰や?」
「これか?・・・・これは、おっちゃんの
一番、大切な人や」
「おっちゃんのお嫁さんか?」
「そうや」
「おかしいな?・・・・」
「何でや?」
「そやかて、うちのお父ちゃん、おっちゃんのお嫁さんは、死んでしもうて、いやへんっ
て言うてたのにな」
「おっちゃんの心の中では、ちゃんと、生きているんや」
「そんなの、可笑しいわ。死んだものが、何で生きてるんや?」
 しばらく考え込んでいた妙子は、急に市松の後ろに回って、背中に覆いかぶさり、彼の
頬の後ろから無精ひげの耳元に接吻をした。
「おっちゃんが、お酒を止めたら、うち、おっちゃんのお嫁さんになってあげる」
「そうか、妙ちゃんのお嫁さんか、こいつは、優しくて、可愛くて、美しいで。ハッハ、
ハッハ、ハッハ、」
市松は、久しぶりに心の底から、楽しい笑いをうかべて、妙子を力いっぱい抱き締めて、
その小さな身体を高く抱え上げた。彼は、無邪気で純真で心の優しい妙子の姿に、女房の
姿をダブらせていたのである。
 彼を訪ねて来る者は、六歳になる妙子ぐらいで、他にはだれもいなかった。彼は、それ
で十分に満足していたのである。
 昭和二十二年五月十一日
 南市松は、田舎の貧しい、水飲み百姓の一人息子として生まれた。貧農のために、たっ
た一人の息子すら育てること、そのことが、大変であった。それに加えて、彼が3歳にな
った頃に不作が続いた。それはもう、不作と言うより飢饉と言う方が、当たっている状況
の酷さであった。そのために、借金ばかりが増えて、頼みの農作物の収穫は、殆どなかっ
た。そのために村の男たちは、こぞって出稼ぎに出て行った。
 彼の父親は、このような生活に耐えられなくなり、市松が五歳のときに都会へ出て行き、
そのまま行方がわからなくなった。彼の母親は、働きに働き続けて市松が十二歳のときに、
過労がもとで死んでしまったのである。
残ったのは、市松と祖父母の三人であった。
 親切と言うのか、貧しさの弱みへの誘いなのか、祖父母のもとへは、貧しいが故に市松
を子養子に出してはどうかと言う話が、いくどとなく寄せられた。祖母は、自分の食べる
物を削ってでも、市松を育てると言い、ガント首を立てに振らなかった。
市松は影で、そのような話を聞きながら祖母の心に感謝をして何度も涙を流した。彼は、
いずれ大人になってこの恩に報いて祖母や祖父を楽にさせてやりたいと強く思っていた。
彼らの生活は、とても楽とは言えなかったが、一家三人は、どうにか食べていけた。そん
な生活ではあったものの市松は、それを苦しいと感じたことはなかった。むしろ、彼は、
楽しく感じていた。物資的にも金銭的にもどん底であったが、心の豊かさは、日々に醸造
されてだんだんとまろみをおびて市松の風体からは、聖人のような気品と仏様のような穏
やかさが漂ってきていた。そんなある日、祖父は、畑仕事の最中に倒れて、そのまま息を
ひきとった。彼が、十四歳の冬であった。葬式を出すお金もなく、近所や親戚のごく親し
い人々が集まり祖父の弔いをした。彼は、悲しかった。祖父の死に対する悲しみもさるこ
とながら、貧しさの故に、何一つ、うまい物や食べたい物を食べることなく、仮にそのよ
うな物があったとしても、自分は、食べずに市松にそれを食べさせる姿を思い出すたびに
彼は、自分の無力さをたまらなく悲しく感じた。その翌年、市松が十五歳の春に祖母が、
過労で倒れた。祖母は市松が、投げ無しの小遣いで祖母のために買ってきた果物を「もっ
たない」と言いながら、ひと口、食べて涙を流すだけだった。祖母は、その日の夜に「有
難う」を連発しながら息が切れた。市松は、少年心に肉親が、次から次へと死んでいくの
に耐えられない悲しみで叩きのめされた。悲しみのあまりに涙も枯れて、流れなかった。
医者にも十分に診てもらうこともなく、うまい物を食べるよしもなく、腹いっぱいの飯す
ら食えないで死んでいった肉親の無念さを、一番よく理解できていたのである。市松は、
とうとうこの世で、本当に一人ぼっちになってしまった。何事につけても、全て自分でし
なければならないのだ。彼は、中学校を卒業すると奉公に出た。
 奉公先は、近江の山奥で大きな雑貨屋を営んでいる山北屋である。山北屋は、表向きは
雑貨商であったが、仕事を請け負う請負や労働者を派遣する手配もしていた。
主人の山北重一は、仕事の性格上、多くの使用人をかかえていた。重一は、使用人を人の
ように考えなかった。牛馬のように酷使したうえに、その扱いは、牛馬以下であった。こ
んな彼であったから、使用人に対しては、ひとかけらの情も示さず、徹底的に酷使するの
である。しかもケチで、評判のよい男では、なかった。重一は、手広く商売を行ってたい
そう儲けていた。そこには、表にできない商売も幾つか含まれていたのである。とりわけ
性に関連する商売が、それであった。そのために、若い娘たちを多く抱えている。
 何故、市松が、こんな山北屋へ奉公に来たのか、理由などなかった。彼は、中学校を卒
業と同時に、食べられて、寝ることができて、生きていける先、それがあればよかった。
山北屋は、その求人の中にたまたまあっただけである。ただ、求人の説明会では、「10年
間、辛抱すれば、お店を一軒、持たせる」との美口上に心が迷ったことは、確かであった。
 市松は、友達の多くが上級の高等学校へ進んで行くのを横目で見ながら、進学していく
同窓たちを羨ましく思った。彼の学業成績はずば抜けてよかった。しかしながら、彼には
今の自分の身の程を十二分に理解できていたのである。彼は、医者になろう。いつか、き
っと医者になろうと思っていた。市松は、それを決して口に出さなかった。市松は、それ
を聴いた者は、きっと、馬鹿にするだろうと考えたからである。彼は、高校卒業の証明で
ある大学検定試験を受けて、その後、大学の医学部への入学試験を受ける青写真を描いて
いた。彼の一番の問題点は、大学への入学金であったが、医者にも診て貰うこともなく死
んでいった肉親の無念を晴らすためには、どうしても医者になる必要があった。市松の青
写真は、確かにしっかりしていたが、その道は険しくて、とくに大学検定試験に合格する
ためには、どのような勉強をすればいいのか、そこから始めなければならなかった。彼が
やっとの思いで手にしたものは、通信制の高校講座であった。これは、卒業すれば高校卒
業として認められる。れっきとした高校卒業である。彼は、夜中に勉強をした。文字をろ
くにも書けない、また文字をまともに読めない使用人が、多いなかで文字も読める、書け
る、さらに英文でさえ読めるという市松には、価値があった。しかし、それは、かえって
妬みを買う原因になっていくのである。特に、主人の山北重一とその妻の純子にとって面
白くなかった。そのために彼は、他の使用人よりもよりも辛い仕事をさせられてなお、食
事の量も減らされるのである。
 市松は、昼には主人に酷使されて、身も心もくたくたに疲れきって、夜になるとぐっす
り眠り込んでしまう日が多かったのである。しかし彼は、耐えた。彼にとって自由な時間
は、夜の眠る時間でしかなかったのである。その時間に彼は、医者になりたいがゆえに睡
魔と辛さに耐えて高等学校卒業のために勉強をしたのである。
 こんな彼が唯一、心を許せる相手は、三つ年上で下働きの「節」であった。下女の節は、
十九歳になったばかりで、「華も十八、番茶も出ばな」というくらいの魅力的な女性であっ
た。彼女は、十九歳になったばかりなのに二十二、三に見えた。市松は、節を好いていた
し、心を許せる女性であった。彼は、節から感じることができる優しさから、実の姉、い
やそれ以上の母親のような思いを感じていたのである。それには、節もまた、市松と同じ
ような境遇で、能勢の山奥から山北屋へ奉公に来ているという同類の思いからがそうさせ
ていた。ただ、市松と異なることは、節は、市松よりもさらに厳しい試練を潜って、この
山北屋へ奉公に来ているという事情があった。それを物語るかのように節は、まともに学
校へ行くことすらできない境遇であったのである。節の家庭では、子供の労働力は、とて
も重要な働き手であった、それゆえに文字を書くこともできないし、文字を読むことも出
来なかった。しかし、すこぶる聡明な知能の持ち主であった。そのうえに節は、とても美
人であり女性として魅力的であった。節に思いを寄せる者は、市松だけではなく、他の男
どもにもあったのである。。しかしその思いは、市松の思いとは大きく異なっていたのであ
る。それは、性の対象としての思いであり、市松の純真なそれとは違っていた。丁稚頭の
北川繁造も、その異なった思いを持つ一人であった。繁造の他に、番頭の達吉、主人の重
一でさえ節に不純な思いを持っていた。それは、女と男の関係による思いというようなも
のではなく、男のエゴで一方的なものであった。そのための布石か、ことあるごとに節に
対して、気を引こうとしていたのである。節には、そのような下心を十分に理解できてい
た。しかし彼女は、そのようなことに目もくれず、相手にもせず、早朝から夜遅くまで、
よく働いた。彼女は、市松が夜中まで勉強をしていることを知っていたのである。そのた
めにいつも、主人や他の奉公人に内緒で、残り物で握った握り飯を市松に夜食と言って食
べさせてくれた。また時々節は、甘い物が、頭の勉強にいいと言うので、黒砂糖の塊を食
べさせてっもくれた。市松にとって、甘いお菓子など食べたこともなかったために、その
黒砂糖の味は、極楽の味に思えた。それよりも何よりも、節のその心意気に感謝せずには、
いられなかった。市松は、誰がこんなに親切にしてくれようか、節だけだ。
彼の目には節が、神様のように映った。
 ある夜中に繁造は、そのような光景を目にした。繁造が、目にした光景は、残り物で握
った握り飯と黒砂糖の塊が、古い新聞紙の上に置かれていた。
「市松!盗人猫のようなことするな」
「へい!すんません」
「こんなことするの、節やな・・・・」
「いいえ、わてが、勝手に」
繁造は、翌日にそっと、節を呼び寄せて、昨夜のことを主人に告げ口をしない代わりに自
分と関係を持つことを彼女に迫った。当然に節は、応じなかった。繁造は、それ以来節に
は、特に優しく接したがその反面、市松には人一倍、辛くあたったのである。繁造は、主
人の重一に夜中に握り飯や黒砂糖の塊を盗み食いしていることを、告げ口をした。市松は、
そのたびに主人の重一から火箸で殴られたり、飯を食べさせてもらえなかったりの酷いせ
っかんを受けた。節は、その度に市松と一緒に頭を下げて主人に詫びてくれた。
「市どん、こんなことになるんやから、もう、うち、市どんに握り飯、作らへん。」
「節どんの気持ち、うれしいが、その方が、ええねん。」
「市どん、辛いけど、頑張りや。いまにきっと、ええことあるから。」
他の使用人たちは、内心で笑っていた。それは、市松への妬みの嘲笑であった。繁造は、
ざま見ろと言わんばかりの薄笑いを浮かべていた。
 市松は、決して反抗はしなかった。市松は、主人の重一から殴られたときは、一目散に
逃げ帰って、夢中になって節の仕事を手伝った。それは、彼の耐える性格もあったが、反
抗すればするほど、かえって逆効果になることを知っていたからである。
 市松は、反抗もせずによく働いた。ある日、薪割りをしていて斧で足を深く切り込む大
怪我をしてしまった。そのとき節は、初めて市松を殴った。節は、彼の真面目な気持ちに
声を上げて泣いた。山北重一は、
「薪割りひとつできん奴に、飯は食わせられん」
と言ってその日の夕ご飯を食うことを許してくれなかった。市松は、夕食など食べる気持
ちになれないで、苦痛に魘されていた。節はその夜、苦痛とひもじさにうなされて震えて
いる市松の寝床に入って、密かに握っておいた握り飯を彼に食べさせた。市松は、痛みと
寒気で食べられなかったが、節のこんな心尽に何故か、涙がポロポロとこぼれて彼の目尻
から頬に伝って流れるのであった。
十八歳になると市松は、行商に出された。市松は、鍋やヤカンなどの金物を自転車の荷台
に載せて山北屋を追い立てられるように出て行った。弁当は、行商に行く最初の日にだけ、
大きな握り飯を二個と塩鮭一切れが、主人の命令で節から渡された。二日目から握り飯は、
三個になったが、売上の少ない日が二日続くと握り飯は、二個に減らされて、塩鮭は、沢
庵漬物か梅干に変わったのである。世間を知らない市松にとって、厳しい行商であった。
何日も売上のない日々が続いた。それでも市松は、必死に行商を続けた。そんなある日彼
は、鍋の蓋を1枚買ってくれる主婦に出会った。彼は、その主婦が菩薩様のように見えた
のである。彼が、あまりにも何度も丁寧にお礼を言うので、その主婦は、二リットルのヤ
カンまで一つ買ってくれた上に、買ってくれそうな家庭を紹介してくれた。市松は初めて、
世の中もまんざら見捨てたものでないことを痛感したのである。
「自分も物を買える身分になれば、きっと、こんな優しい人間になろう」
いつしか、そんなことを思うようになっていた。辛い行商であったが彼は、店にいるとき
よりも外での行商を好んでいた。それは、自分の時間を持てる多さと言えば、到底、店に
いる時の比ではなかった。彼は、売上がなくて握り飯を減らされたときなどは、水を飲ん
で耐え忍んだのである。それでも市松は、自分の勉強ができることや見も知らない他人か
ら受ける親切と、店を出るときに節が、誰にも内緒でくれる小さな握り飯に感動すること
に悦びを感じていた。節は、自分の食べるご飯を残して握った小さな握り飯を彼に手渡し
ていたのである。そのことを市松は、知っていたのでその握り飯を食べるときはいつも、
涙と一緒にそれを食べていた。
 ある日市松は、雪が積もっている山道を自転車を押しながら登っていた。その日は、行
商の品物は、よく売れてほとんど自転車の荷台にはなかった。その気の緩みから彼は、山
道を登りきってから下り坂にかかった。荷台に商品が、売れ残ってないために坂を自転車
に乗って下り降りたのである。いつもは商品が、多く残り下り坂であっても到底、自転車
に乗ることなどできないのだ。しかしこの日は、違った。その瞬間に雪道で滑りだした自
転車は、止まることを知らなかった。みるみるうちに自転車は、速度を増して行った。市
松は、自転車ともども谷底へ転落してしまった。足首は、みるみるうちに腫れ上がり、激
しく鈍い痛みが、身体のいたるところから感じられた。彼は、うめき声を上げながら、ま
ず自分の胴巻きのあたりを手探りをした。本日の売上金は、大丈夫だった。次に彼は、遠
くへ飛ばされている自転車を探した。自転車は、市松が転げ落ちた場所から5メートルほ
ど離れた場所で倒れていた。彼は、必死になって自転車を谷底から山道へと引っ張り上げ
て、念入りに故障箇所を調べた。自転車のランプが、割れている以外に故障箇所を見つけ
ることはできなかった。市松は、安堵で胸をなでおろしたとたんに、動けないほどの激痛
に襲われた。彼は、雪道を自転車と共に這うようにして帰りつき、節にしがみつき、
「ワーッ」
と大声で泣き崩れた。節は、動転した。彼女は、市松が雪道で自転車ともども谷底へ転落
したことを知り、市松の足首が激しく腫れているのに気づいた。彼女は、幼いころに自分
が、このような腫れを起こしたときに祖母が、してくれたことを思い出した。それは、確
かに腫れあがった箇所を湿布するには最適で、患部によく効いたことを覚えていた。彼女
は、そのとき祖母がしてくれたときと同じように、梅の漬け汁をどんぶり茶碗に取り出し、
その中にうどんの粉を入れて練り合わせた。それを布に塗って市松の足首や腰の辺りに貼
る湿布薬とした。夕食のとき、主人の重一は、その話を聞きいきなり、市松の頬を張り飛
ばした。
「雪道で滑ったくらいがなんや!自転車のランプが、割れとるちゅうやないか!このどア
ホめが!」
と言って、梅の漬け汁とうどんの粉を練り合わせて作った湿布を、彼の足首から剥ぎ取っ
て外へ投げ捨てた。節は、畳に頭をこすりつけて市松のために詫びた。市松も泣き腫らし
た顔を、何度も下げた。重一の妻の純子は、冷たい目をしながら、そしらぬふりをして二
人を見ていたのある。
 市松はその夜、激痛と火のような熱のために、うんうんと呻いていた。声を出さないで
おこうとするのだが、自然に苦しい声が出てしまった。彼は、足首の痛みのために二日間
程、起き上がれなった。二日目の朝が来て、主人の重一が、寝ている市松を蹴飛ばした。
「早く、商いへ行け!この穀潰しめが!」
と荒々しく怒鳴って、市松が寝ている部屋を出て行った。
 彼は、ふらふらとする身体を起こし、足首の痛みをこらえ、足をひきずりながら商いの
準備をして、いつものように自転車で出かけて行った。鍋や釜などの金物は、それほど売
れる品物でもなかった。彼は、先日に大当たりに売れた地域よりさらに遠い地域へと足を
向けた。今日、足を向ける地域ならば、その日のうちに帰れないことぐらい容易に想像が
ついた。主人の重一は、そのことを市松から聞くと、満足な思いを感じていた。大飯を食
らう市松が夜には、どこか雨露の忍べるところでしのげば、その分、飯の量も助かると思
っていたのである。その夜の市松は、やはり帰れなかった。彼は、売上も少なかったので、
お堂の中で眠った。ひもじい思いを除けばそれは、御殿であった。小さな電球があり、誰
からも干渉されることなく、勉強のために本を読める喜びがあった。ひもじさも、行商先
でお客様から貰った蒸し芋を食べると、それはたいそうなご馳走に思えるのである。見も
知らないお客様から、頂いたその気持ちに感謝すればするほど、それは最高のご馳走であ
った。
 市松は、仕事の苦しさには慣れていたが、同じ年恰好の若者が、学校へ行き、たらふく
飯を食べていられることを羨ましく思った。丁稚頭の繁造は、市松を馬鹿にしていた。も
ちろん主人の重一は、使用人すべてを馬鹿にしていた。丁稚の身分で、本を読んだり上級
学校へ入るための勉強をしている市松など、できもしないことの空想をしている、阿呆な
男としか映らなかったのである。節以外の丁稚たちも、同じように市松を軽蔑していた。
一つには市松には、そのようなことができるという、妬みがあったからだ。そのために時
には、彼の本を取り上げたり、隠したりしてからかった。そんな時市松は、黙って唇を噛
んで、じっと下を向いていた。ときには涙が、ポトリと落ちることもあった。しかし節だ
けは、どんな時でも、変わりなく陰に日向になり彼を可愛がってくれた。
「市どんて、ほんまに感心やな!こんなに疲れていても勉強するし、うち、なんか、本を
読みとうても、すぐに眠むとうなる」
「いや、節どんは、凄く頭がいから、一度読んだら、みんな頭に入るんやから」
と言ってため息をついた。
節はこんなときには、にっこり笑って首を横に振った。
「節どん、本は何度も読まんと頭にはいらへん。これが『数学の公式や』それでこのよう
に使うんや」
「へえ、そのように使うんか、三角関数な、
ようわからへんのや」
「そうか、わては、一つを覚えて、そこから変形して三角関数をマスアーしたんや」」
「さすがやな、凄いな、そこが頭の造りが違うやな」
「こんど一緒に勉強しよう」
「うん、助かるわ」
二人は、久しぶりにささやかな笑いを発した。市松は、節の肩叩きをしたり、肩揉みをし
て彼女を労った。節の体の肉は、すっかり一人前の女の身体であった。市松にとって節は、
女というよりも、母親や実の姉のような思いで彼の中で慕っていた。
 師走も押し迫り年の暮に江州の山奥は、猛吹雪に見舞われた。雪は、一晩で1メートル
以上も積もることもあった。市松は、元旦の朝早くから一人で雪かきをした。雪かきは、
昼近くまでかかり、へとへとになったのである。それから彼は、主人重一の前へ行き、両
手をつき、頭を畳につくまで下げて新年のあいさつをするのである。彼の両手は、霜焼け
とあか切れで醜いほど痛々しく腫れ上がっていた。さらに赤鼻は、一層に赤くちじれ上が
っていた。重一は、長い火鉢のそばで、素焼きの盃に日本酒を汲んでは、ちびりちびりと
それを口へ運んでいた。
「お前も十八になりゃ、もう一人前や。誰のお陰で大きくなったか、解らん歳でもないや
ろ。いつまでも子供やないんやから、精を出して働けよ」
と言って、また盃を口へ運んだ。
「へい!」
市松は、さらに頭を下げて主人の前を下がるのである。彼は、主人の重一の次に、これと
言わんばかりの晴れ着を着て奥の間で座っている重一の女房の純子の前へ行った。純子は
葉巻をふわふわとふかして、その香りと煙で出来る輪を楽しんでいるのである。彼は、重
一にしたのと同じように、頭を畳にこすりつけて挨拶をした。
「ああ!もうええ!もうええ!あっちへいきなはれ!お前の顔は、なんでそんなに間抜け
なんや。早よう、あっちへいきなはれ!」
彼は、また畳に頭をつけて引き下がった。台所で節が、煮炊きをしていた。彼は節にも、
新年の挨拶をした。それから市松は節に、にっこり笑って右手で自分の腹を軽くさするの
であった。
「さあ、市どん、朝から大変やったな。なにも市どん、一人がすることあらへん。ほんま
に、お腹すいたやろ。さあ、食べや、食べや。ほんまにご苦労さんやったな。」
と言って雑煮の餅を二つ椀に入れて差し出してくれた。急に節は、小さい声で
「まだ、二つあるからな。お腹いっぱい食べや。」
彼は、嬉しそうに頷いて、瞬く間に二つの餅をたいらげるのである。節が、更にその椀に
もう二つの餅を入れようとした時に、ガラリと台所と勝手口のガラス戸が開いた。
「餅は、二つだけと言いましたやろ!ろくな仕事もせんのに、食い意地ばかり張って!節
!それ以上、食わせたらあきまへんで!」
と言って、純子は、市松の持っている器を取り上げて中の雑煮を窓から雪の中へ投げ捨て
た。
「ほんまに!卑しいって!たまりまへん!」
とけたたましく、捨て台詞を残して、足音を残して奥へ入って行った。節は、市松に目配
りをして、雪の中を指差した。彼は、しばらく考え込んでいたが、急に節の顔を見上げて、
首を横に振った。彼の目からは、涙が流れていたのである。
「市どん・・・・」
と言って、節は、市松を抱きかかえた。彼女も泣きながら、何度も何度も市松の背中をさ
するのである。節は、涙でぬれた頬で彼の頬に頬ずりをした。
「市どん、我慢するんやで、我慢するんやで。ここが辛抱のしどころやで。」
市松にはせめて、高校の卒業資格を手にするまで、我慢しなければならないことを十分に
解っていた。
 七日正月が過ぎると、市松は、染物屋の染め布の濯ぎ人足として働きに出された。主人
の重一は、三ヶ月の約束で染物屋の近江屋から、労働代金を先取りしていた。近江屋の主
人は、その分を取り返そうと朝の早くから、夕方の遅くまで人足たちを酷使した。市松は、
このとき初めて、近江商人の厳しい姿を実感させられた。そこから彼は、この地の人々の
生きる知恵となったルーツを神妙に感じ入った。
 この近江の地域は、戦国の時代からづうっと、武将たちの戦略の要として、いつも武将
たちの思うままに制圧され、利用されてきた。この地域は、京へ上る要所でもあったから、
わをかけて武将たちの野望のための足がかり的地域とされたのだ。その身勝手な武将たち
の野望のために、たくさんの血を流して耐えてきた平民の生きる知恵というのは、表向き
は常に強い方につくことであり、強い者や利益を得る者には、腰を低く、何事にも辛抱を
してその時期を生き延びることであると、市松は思った。
彼には、無理もないことだと思った。彼は、この地域の人々の生きる知恵の凄さに感銘を
受けながらも到底自分には、このような生き方は、無縁であると思った。だから、自分は、
ただ人の良い男であり、だからこそ無能の代名詞に言われるのだと思った。しかし彼は、
それでもなお、自分の生き方でないと、生きていけないことを自覚していた。
 大寒に入って、山尻川の水は、作業をする者の身を切るような冷たさだった。流れは、
優しく、水量も少なくて、染め上げた布を濯ぐために川の中に入るには、最高の時期であ
る。しかし、一度、川の中に入れば、拒絶するかのように鋭い流れの刃物で流れに入る者
の身を切りつけるのである。
 市松の体は、冷たさに麻痺していき終に、感覚すら覚えなくなった。やがて、これまで
の彼の手に出来ていた霜焼けとあかぎれは、崩れて手や足には低音火傷ができたそのあた
りから、化膿して膿を出していた。このような状態で川に入ると激痛は、身体中を貫いて
いった。彼は、何度も力つきてその場に崩れ落ちた。そのたびに彼は、現場監督から頬を
拳で殴られた。彼の身体は、いくら殴られても、殴られている感覚すら感じないほどに、
冷たさで麻痺していた。一日の作業が終わり、夕食の際には、手もかじかんで、何一つ手
に持つことすらできなかった。作業者たちは、いろりを囲みただ、黙って、体を温めるこ
とをした。彼らは、体が温かくなれば、野良犬が食べ物にありついたように食べられるも
のは、何でも食べた。市松も同じであった。
 何人かの作業者は、一週間で夜中に逃げてしまった。それ以後、染物屋の主人は、夜中
になっても逃げられないように見張りを付けた。何日かは、何の騒動もなく平穏な夜が続
いた。しかし、たまりかねた者は、それでも見張り役の目を盗んで逃げ出したが、すぐに
捕らえられた。逃げ出した者は、連れ戻されて見せしめのために創造もつかない仕打ちを
受けた。逃げ出した者は、市松達の前で真っ赤に焼けた火箸を腕に押し付けられた。激し
い悲鳴と、ジュッツと言う音に加えて、肉が焦げる異臭が漂った。市松達は、この光景に
震えあがった。地獄の絵図に描かれた世界であった。この光景以後、逃げ出す者は、いな
くなった。市松は、恐ろしさと、上級学校へ行きたいために耐えた。三ヶ月の地獄の日々
が過ぎて市松は、主人である重一の元へ帰ってきた。節は、市松の顔や手の低温焼けどを
目にするや泣き崩れたが、彼が無事に帰って来たことを親身になって喜んだ。市松も久し
ぶりに節の温みに接して、どこからともなく涙が、流れて止まらなかった。節はまず、彼
の低温火傷の手当てに菜種油と唐辛子とうどん粉を混ぜ合わせて、風呂上りの市松の顔や
手や足に毎晩、湿布を塗りつけた。市松は、傷にその湿布が触れると悲鳴をあげたくなり
ほどの痛みを、感じたが、じっと、我慢した。そんな姿を見ていた節は、
「我慢しいや。痛いやろ?・・・・でも、ここを超えたら、楽になるんや。可哀想にな。
市どん、我慢やで。堪忍やで。」
彼は、彼女のこんな気遣いに感謝しながら、黙って首を縦に振って頷いた。彼と彼女のこ
んな夜が、1ケ月も続いていた。
「節どんのお陰で、もう痛みを感じなくなった」
と市松は、つい言葉を出した。
「そうか、そうか、そりゃ、よかった。もう、春やよってな。じきに、元の手に戻るよっ
てな」
いつの間にか、近江路に早春の香りが漂っていた。なによりもそれを実感していたのは、
市松であった。それは、彼のあかぎれや霜焼けは、激痛を発しなくなっていた。彼は1ケ
月間、店の棚卸しのための帳簿整理を終えると、また行商へと出された。
 この年の夏は、例年にないほど蒸し暑い日々が続いた。主人も使用人も、うんざりしき
っていた。誰もかれもが、少しでも涼しいようにと色々考えたが、結局のところ妙案は、
出なかった。男も女も、薄着になることが、最大の方策であった。彼らはもう、裸同然の
ような姿で仕事に精を出していた。若い節などは、はちきれんばかりの肌をさらけ出し、
豊かな胸のふくらみと乳首がすけて見える姿で仕事に励んでいた。丁稚頭の繁造や番頭の
達吉などは、若い女の使用人の姿に生唾を呑んだ。古参の
丁稚である梅吉などは、仕事が手につかない日々を幾度か体験した。そんなとき彼は、よ
からぬ考えをしないことを自分に言い聞かせて、仕事に精を出した。梅吉は、市松と同様
に節を好いていた。節は、それほど美人でもなかったが、彼女の優しさと何より、誰に対
しても陰日なたなく心配りができるところに惚れていた。それより何より節は、女として
男を惑わせる女体型を持っていた。
 その日は、蒸し暑かった一日も終わろうとしていた晩夏の夜だった。市松は、いつもの
ように行商から帰ってくる途中だった。売り上げは、ほとんどなく彼の足取りは、重かっ
た。彼は、空腹と主人から売り上げのないことを叱責される憂鬱さと、肉体的な疲れに耐
えかねていた。彼は、店へ帰りたくない気持ちから米穀商朽木屋の倉庫の石段に腰を下ろ
した。この夜は、夏祭の宵宮であった。使用人たちは、主人から小遣いをもらって各々、
外へ出かけて行くことを許される夜だった。この夜は、使用人のみならず、店の者のほと
んどは、めいめいの思惑で出かけて行く夜だった。夜はまだ、始まったばかりで夜空の星
の輝きにも初期のチカ、チカとして若々しいまたまきを感じられた。市松は、星の輝きを
眺めながら、母親や祖父母と過ごした思いにふけっていた。その前をくす、くす笑いなが
ら通り過ぎていく男や女の声が聞こえて来ては消えて行った。消えて行く方向は、
お宮の境内の方向である。その方向へ消えて行く声を耳をすませて追いかけていると、境
内の方向には、灯りがこうこうとしていた。市松は、幼い頃に母や祖父母の手に引かれて
氏神様の宵宮で買ってもらったイカの姿焼きの味を思い出していた。その味とその時に一
緒に買ってもらった玩具のパチンコとかんしゃく球のことを忘れられないでいた。そのこ
とを忘れられなかった彼は、小学4年生頃に同じ氏神様の同じ宵宮で売られていた「針の
目通し」を小遣いで母や祖母のために買って感謝されたことを覚えていた。その形も作ら
れていた材質も思えていた。このような思い出を脳裏に交錯させながら、星の輝きと境内
での灯りを見つめていた。
「やめて!!」
悲痛な女の叫び声であった。声の響きから、その声の源は、すぐ近くから聞こえてきた。
激しい抵抗の響きであった。その場所は、倉庫の灯りが届かなくなった暗闇のスポットで
あった。全く人気のないお宮への通りの裏手にあるクヌギの木のそばであった。
「やめろ!!」
市松は、暗闇の中で男が女の身体の上に馬乗りなっているところを目にした。
「止めろ!!」
彼は、馬乗りになっている男を思い切り蹴飛ばした。男は、一目散に逃げて行った。女は、
その場で引き倒され、着ている衣類は、激しく乱れて乳房や太ももの肌が見えていた。彼
は、目をそらした。暗闇の中で、
「もう大丈夫や!はよう、服をなおしな」
女は、乱れた服を恥ずかしそうに調えた。
「大変な目にあったな。ひどいことをする男もいるもんや」
市松は、そうつぶやきながら女の方を振り返ると、信じられない顔であった。
「まさか!」
市松は、自分の目を疑った。
「節どん!!」
市松は、信じられなかった。
「節どん!!誰や!!こんなひどいことする奴!」
節は、無言で呆然としていた。市松は、無性に腹立たしく思って、逃げて行った男の名前
を尋ねた。節は、応えなかった。
「誰や!!今の男!!絶対に許せへん!!」
節は、また無言でうなだれていた。市松は、さらにまた激しく節に名前を問い詰めた。節
は、しぶしぶ主人の重一であると応えた。
「まさか!!」
市松は、再び自分の耳まで疑った。
「なんでや!!なんでや!!」彼は、悲しさで身体が凍りすくようになった。しかし、す
ぐにその身体からは、怒りがモクモクと身体全体に噴火してきた。彼の顔面は、みるみる
うちに青筋が逆立ち、狂ったような殺気で手は震え、目は鋭くつりあがり、声はこわばっ
ていた。それは市松が、奉公に来て初めての怒りであった。それに倍加すること、これま
で虐げられてきた怨念が一気に爆発した怒りであった。彼は、急いで家に帰ると主人の重
一に殴りかかった。しかし、夏祭りの宵宮に出かけなかった使用人数人に市松は、取り押
さえられた。彼は、その使用人から殴る蹴るなどの暴行を受けた。そうしてその夜にうち
に駐在所の巡査を通じて警察に引き渡されていった。市松は、取調べでありのままのこと
を述べ、主人の重一に殴りかかった動機は、重一が節をレイプしょうとしたそのことであ
ると言った。そのために主人の重一も警察の事情徴収を受け、節も同様な調べを受けた。
重一は、レイプを否定し、互いの合意のもとでの行為だったと言った。節は、宵宮へ一緒
に行くことには合意したが、肉体関係を迫られることには合意していないと言った。重一
を罰するには、節の告訴が必要であった。女房の純子は、節に告訴を出すことを思いとど
まるように説得し、一方では、市松の件についても穏便に処理をして欲しいと警察に請願
した。市松が、十八歳という年齢でもあり、事は大きくならずに穏便に収まった。純子は、
安堵の表情に変わっていた。
 節は、その事件があってから家には帰らずお寺のお堂の中で過していたが、食べる物も
なくひもじい思いで二日間が過ぎた。三日目の朝、市松が警察から帰ってくると同時に純
子から呼び出された。
「市松、これは節への奉公代だす。お前から渡しておくれ。それにな、お前は、今日でや
めてもらうよってな。明日からは、どこへでも行きなはれ。お前には、奉公代は、あらし
まへん。」
「・・・・へい!」
節には、良心の欠片が働いたのか僅かなお金と純子の古い着物を与えられ、ひまを出され
た。市松には、何一つ与えられることなくゴミをはき捨てるようにせかされて、追い出さ
れた。市松は、自分の荷物と節へのお金と古着に節の荷物を持ってその日のうちに奉公先
の山北屋を出た。節が、お寺のお堂の中にいることは、同じ奉公人から聞かされていたの
で、真っ先に節のいるお堂の中へ行った。
「節どん?どないや?変わりないか?お腹すいとるやろう?これおにぎりや、食べや!遠
慮はいらん。食べや」
「おおきに、市どんて、優しいんやな」
「節どんにしてもろうたお礼や。こんなことで節どんにしてもろうたお礼を返せると思う
てないけどな」
節は、空腹のあまり市松が持ってきた三個のおにぎりをぺろりと平らげてしまった。
「節どん、これからどうする?」
「市どん、その、節どんは、もう、止めておこう」
「自分かて、市どんって言ってる・・・・」
二人は、むしろすがすがしい思いを噛み締めていた。明日からの心配よりも、地獄のよう
な仕打ちから開放された喜びで一杯だった。しかし、それもつかの間、自分たちが生きて
いくすべを考えなければならない現実があった。
「節さんは、田舎へ帰るんか?」
「田舎へ帰っても、家族が多いし、とうてい食っていけへん」
「そうなんや、僕と一緒やな」
「うちは、市さんに恩があるよって」
「恩なんてあらへん」
「うちは、その借りを市さんに返すまで、市さんのために一生懸命に働こうって思てるね
ん」
「節さんは、借りなんてああへん」
「そやかて、うちのために、こんなめに会わせてしもうて、ほんまにかんにんやで」
節は、市松が、自分のためにこのようなめになったことを申し訳なく感じていた。節は、
市松のために一生尽くしたいと強く思った。市松は、そんなこと少しも気に留めていなか
った。彼は、一番にすがすがしい気分に浸っていた。彼は、なりゆきで出来てしまった結
果に感謝をしていた。そうでもしなければ、あの胸くそ悪い山北屋から逃げ出せなかった
のである。市松には、かすかな当てがあった。それは彼が、これまで行商に出て、親切を
受けた客先に大きな店があった。その店は、味噌を醸造する店で、かねてから働き者で勉
学に励む市松に好感を持っていた。
「節さん、味噌を作るの嫌か?」
「うち味噌は、大好きや。味噌を作るのも大好きや。お母ちゃん、よう、作ってたの手伝
った」
「そうやったら、決まりや。丸中屋さんを訪ねて、お世話になろう」
「うちまで、許してもらえるやろか?」
「大丈夫や。丸中屋さんの旦那さんは、ええ人や。きっと僕も節さんも雇ってくれはる」
 二人は、丸中屋をあてにして16キロメールの道のりを歩いた。丸中屋の主人の丸中忠
吉は、市松からことのいきさつを聞いて二人を暖かく迎えてくれた。丸中忠吉は、使用人
を大切に扱うことで有名で仏の忠吉と呼ばれていた。味噌の醸造には、熟練した業師と下
働きをする人足とが仲良く力を合わさなければ、大豆から味噌にはできない。丸中屋は、
この伝統を貫き通して味のいい、味噌を作り続けていた。その味噌は、さすがに最高級の
味がして人気のある味噌だった。市松と節にとって、丸中屋での仕事は、天国にいるよう
な店であった。主人の忠吉もその他の使用人達も、市松と節の働きぶりを認めて、思いや
りを尽くしてくれた。特に市松が、高等学校の通信教育で勉強していることを知ると、厳
しい仕事を変わってくれた。まして、市松が、医者になりたい夢を持っていると知ると、
主人の忠吉をはじめ使用人達は、毎月、僅かなお金を出し合って積み立ててくれた。
市松も節も、この暖かい行為に感謝して涙を隠して泣いた。彼らには、きっといつか、こ
の恩を返さなければ人間でないと思った。主人の忠吉やその使用人に恩を返せなくても、
誰かに、この恩を返して人としての道を全うしたいと思った。
 
 それから苦節二十五年の歳月が流れた。市松は、内科医になった。市松と節は、丸中屋
の主人やその使用人たちの紹介で、使用人の生まれ故郷の山深い辺境の江州の無医村の診
療所へ迎えられた。二人共、年老いて頭には白いものが多く目にとまる頭をしていた。市
松も節も、少しではあるが、丸中屋で受けた恩を返せる喜びを身体じゅうから発散してい
た。節は、市松のために働きに働き腰は、わずかにかがんでいた。二人は、この診療所に
迎えられる前に正式に籍を入れて夫婦となった。それは、丸中屋の主人やその使用人達の
薦めで正式な結婚をした。
 市松は、節に対して節が、彼に感謝する以上に感謝をしていた。彼が節に感謝をする思
いは、深い愛情以上のものであった。節は、市松が内科医になってからもよく働いた。こ
の夫婦には、子供が授からなかった。そのことがよけいに二人の愛情を深くしていた。二
人は、大変な子供好きで、すべての子供に対して自分の子供に対する愛情を捧げることが
できた。そのせいなのか、村の子供たちも市松と節に慣れて、よく二人の診療所へやって
来た。市松は、病人がいないときには、診療所を開放して待合室で子供たちの勉強の面倒
を見たりアニメ映画を見せたりしていた。とりわけ市松が、勉強の手伝いをする算数と理
科については、子供たちから人気があった。彼は、苦労をして独学で勉強をした経験から、
子供たちの勉強の手伝いをすることに生き甲斐のようなものを感じていた。彼が、子供た
ちに見せる理科の実験では、自然の摂理を応用した実験であった。それは、子供たちに別
の世界を感じさせた。彼が、子供たちに見せた、シャボン玉の中に人間が入り込む実験や
節のパウダー・アイシャドウを使っての指紋採取や氷と塩を使ってアイスクリームを作る
実験に子供たちは仰天した。
 市松と節の診療所には、診療所独特の消毒臭はあったが、病める人の重苦しさは、不思
議なくらいになかった。二人の診療所は時には、重病人のための病院となり、時には、村
の寄り合いの場所となった。このような雰囲気を作り出すには、節のなみなみならぬ苦労
がその下にあった。節は、村の子供たちの名前や村人たちの名前をいち早く覚えて、気さ
くに語りかけては、女性にしかできない相談に載っていた。また節は、留守になった村人
の家庭にも食事の準備にも嫌な顔を見せることなく気軽に快く応じた。村人達は、この二
人を生きた字引として尊敬していた。
 江州の山深い村に迎えられて、すでに五年が過ぎていた。そうして6年目を迎えての春
が終わった。この年の気候は、この春の頃から不順であった。日照時間が、短く、雨が降
った。村を流れる幾つもの川の水かさは、いつもの年より15センチは多かった。これに
輪をかけて、この年の梅雨期は、近年にない雨が連日降り続いた。そうでなくとも川の水
かさは、例年よりも15センチも高かったから川は、すぐに氾濫した。
その中でも老之木川の氾濫が、危険水域を突破して警戒堤防にまで迫っていた。このまま
放置しておけば、堤防の決壊は、時間の問題であった。村人たちは、必死になって昼夜を
問わずに堤防の補強作業をした。補強作業と言ってもただ、土嚢を積み上げて補強する程
度しかできなかった。それが、今の時期にできる最良の策であった。しかし、刻々と激流
は、老之木川を通過したものの次の尻無川にそれまでの3倍の水量と水圧を含んで流れ込
んだ。ついに尻無川の堤防の一角が決壊して、たちまち荒れ狂った激流が、田植えを済ま
せたばかりの稲田に氾濫し、水田を濁流一面にしてしまった。
「先生!市松先生、大変なことになってしもうた」
「そうや!大変や。この水が引いた後が、大変や」
市松は、氾濫した水が引いた後の水田を心配していた。彼は、水田に流れ込んだ激流より
もこれらと一緒になって流れ込んだ流木砂や土石をどうやって回復させるかを案じていた。
最悪の場合は、水田を諦めなければならない。村人にとって、水田で米を作れないことは、
自分の家族を失う次に悲しいことである。
 村人達は、今はただ、濁流を眺めてなすすべもなく呆然としているしかなかった。
ここまで死人や怪我人が、出なかったことがなによりもの救いであった。雨は小雨になり
ながら、七日間も降り続いた。八日目には、これまでの雨が嘘のように晴れ渡り、青い空
のところどころに浮かぶ雲からは、初夏の強い紫外線が降り注いで来た。診療所の玄関の
横に生育している紫陽花の花にも初夏の陽射しが照りつけていた。その紫陽花の花は、鮮
明な紫紺の大きな輪をつくり満々と咲き誇っていた。
 それから、何日も晴れた日が続いた。濁流に飲まれていた水田は、一週間目に水が引い
て地肌を見せた。村人は、目を疑った。
それは市松が、想像した通りになっていた。
最悪の水田では、早苗の背丈すら見えずに一面が砂の状態であった。この水田を目にして
自暴自棄になる村人も出てきた。こんなとき決まってすることは、酒によって現在の辛さ
を忘れようとすることである。この村の人々もそうであった。特に中村健三の水田は、村
で一番の被災を受けていた。健三は、酒におぼれて何一つ手につかなかった。
市松は、村の長の下に協議を開くことを進言した。彼は、被害の大きい水田から重機を使
って砂を取り除き水田を回復しようと考えていた。
「先生!重機をどうして手配する!」
「そうや!仮に重機を手配できたとしても、そのお金はどうして支払う!」
「先生は、百姓の辛さを知らんから、そんなのんきなこと言っていられる!」
村人達は、口々に市松に食ってかかった。市松は、無言で彼らの非難を聞いていた。彼は、
村人達のすべての非難が出た後にようやく重い口を開けた。
「みなさんにとって水田は、命の次に大切やってこと十分知ってます。だからこそ水田を
回復させるのです」
「そんなこと誰でも解っとるんや。どうやって、お金の工面するかだけや」
「今こそ、助け合うのです」
「そんなこと百も承知や!お金のでるところや!そんなお金どこから出るねん」
貧しい村ゆえにとりあえずのお金をどのように工面するのかが村人達は、不安であった。
「一つは、行政にお願いして援助をお願いします。これだけでは到底足りませんから、行
政にお願いしてお金を借りられることも考えましょう。さらに皆さんの僅かな蓄えも出し
てください。」
「蓄えなんって、わしらにあるものか!」
「ここに五百万円あります。これは、皆さんから頂いたお金です。これも使って下さい。
回復に必要なお金は、一千五百万円だと聞きました。」
「先生!そんな話、どこで聞いたんや」
「先日、村役場で聞きました。その時に、災害復旧費の援助として五百万円が援助される
ことが可能だそうです。そうすると確保できないのが残りの五百万円です。これは、皆で
出し合いましょう。」
「出し合うって、そんな余裕、わしらにあらへん!」
「低利の融資を県の金庫にお願いしましょう」
「そんな夢みたいなこと、信じられへん!」
「そうや! たとえそれが出来たとしてもせっかく植えつけた苗は、どうするねん」
「苗は、再度、植えなおすしかありません」
「そこや!だから、先生は、百姓のこと何にも知らんと言うんや!」
市松は、それほど腹立たしくも感じなかった。彼は、これよりも数倍、いや何十倍もの試
練を乗り越えてきた自信があった。彼は、いたって冷静であった。村人達は、彼のその冷
静さが、よけいに疑わしく感じた。
「苗は、あります。山向こうの野尻村では、晩生苗ですが、残っているそうです。」
「そんなことどうして解るんや!」
「野尻村は、私が奉公人のころ商いによく出向いた村です。幸い野尻村は、このような大
きな被害を被ることもなくこの大雨を乗り切りました。村長の武田新太郎さんの話だと、
晩生苗でよければ、植え付け用の苗を無料で提供してくれるそうです。」
「先生!ほんまにあんたには頭が下がる!みんな、ここは先生の話に乗ってみては?」
村長の内山広吉が、村人の心に相槌を入れた。すると、中村健三が、照れくさそうに口を
開いた。
「わしは、情けない人間や。酒に溺れている間に、先生がこんなにわしらのために心配し
てくれていたことを思うと、わしは、情けない。先生!わしは、先生の言う通りに水田を
復旧しますで」
「健三さん!おおきに!やりましょう!」
村人達から、ざわめきが起こった。それは、水田を復旧する声であった。この計画は、市
松一人のアイデアではなかった。節が、身を粉にして作り上げた計画であった。そのこと
を市松は、村人に説明した。村人達は、節のそれほどの心使いに感謝をして、節の計画の
通り水田の復旧をすることで意見が一致した。まず、行政との手続きは、村長の指示で役
場の人間が担当することになった。災害復旧費用の援助手続きと被災者への低利融資の手
続きが開始されて二週間目に、県の役人が数人、四輪駆動車に乗って被災状況を把握しに
来た。しかし、災害救助法の適用には値しないとはき捨てるように言った。復興事業への
援助費用として三百万円しか拠出できないことも説明した。低利の融資については、百五
十万円までなら長期返済期限の二十年で融資ができることも説明した。節と市松は、当初
復興費用の援助金は、五百万円と聞かされていたので県の役人にその理由の説明を求めて
彼らに詰め寄った。その理由は、この村より他に甚大な被害を受けた村があり、災害救助
法の適用を受けるほどの被災状況でないことにあった。節と市松は、無念であった。これ
では、当初の計画から二百万円も復興資金が足りない。市松は、村人にそのことを率直に
詫びた。しかし、村人達は、誰一人として市松を責めなかった。むしろ村人達の結束は、
強化された。援助資金の足りない部分は、自分達の労働で水田を復旧しようとの合意が生
まれた。村人達は、すぐさま、自分達で復旧する箇所を選定して水田復旧作業に精を出し
た。節は、毎日、毎日、村人達の飯の炊き出しにあけくれた。診療所は、病人と村人達の
協議の場所として使用された。そのために市松も節も眠れない夜が続いた。それでも節は、
愚痴をこぼすどころか、いつも笑顔を絶やすことはなかった。市松は、村人達に混じり土
砂を運ぶ作業に没頭した。村人達は、肉体的な疲れのあまり殺気立って、ささいなことで
よく喧嘩をした。彼らは、水田を一日も早く復旧させて晩生の稲苗を植えなければ、収穫
に間に合わないことを十分に知っていたから、さらなる焦りが高じて殺気だった。人力で
復旧させる水田の面積は、六丁5反の面積であった。残りの十五丁の面積は、重機で復旧
させるだけの資金のあてがあった。村人達は、焦った。とてつもない面積に自暴自棄にな
る者も現れ出した。しかし、多くの修羅場をくぐり抜けてきた節と市松は、極めて冷静で
落ち着いていた。彼らが恐れていたのは、村人達の諦めの気持ちが芽生えてくることだけ
だった。そのために彼らは、喧嘩の仲裁や村人の子守やさらに動けない年寄りの看病に至
るまで走り廻った。市松と節の身体は、くたくたに疲れ切っていた。二人は、諦めなかっ
た。力を合わせることができれば、六丁五反の水田を見事に復旧させてそこに稲苗を植え
ることができると信じていた。それは、かつて自分達自身が体験した経験からくる自信で
あった。かつての苦しさに比べれば、今回の試練は、終わりが見えている試練である。作
業を続ければ、いつかきっと水田は、元に戻せる試練であることを村人達に市松は、力説
した。村人達は、市松の励ましに載せられて、諦めかけては、諦めずに作業を続けていた。
そのことは、おのずから復旧作業を進展させ六丁5反のうち、おおよそ三丁8反もの面積
にも及んでいた。もと通りに回復ができた水田から、晩生の稲苗を植えて最初に田植えを
した回復水田の稲は、青く伸びて天wp刺すような若葉色を一面に見せていた。残りの水
田の回復作業は、連日に渡り続けれては、翌日の予定の話し合いまでも、診療所で遅くま
で行われていた。それでも市松と節は、一生懸命に村人達のための助けになろうと努めた。
 ある日のこと、村の子供数人が、回復作業を見に来て、尻無川の土嚢の上で遊んでいた。
この川から水田用に引水した用水路に復旧作業のために仮の木の橋が掛けてあった。仮の
橋と言うよりも、それは、粗末な木の板を使って用水路の上に掛けられていた。数人の子
供は、その板の上から笹で作った船を流して遊んでいた。この日は、市松と節は、復旧作
業を手伝うためにこの仮橋の近くで作業をしていた。節は、村人達の昼食である握り飯を
持って昼どきに備えていた。市松は、土砂を一輪車で運ぶ仕事に精を出していた。この二
人に会うために東中由美と言う足の悪い女の子が、節に手を振っていた。十歳になったば
かりの由美は、節と市松にぞっこんなついていた。子供のない市松たちにとって彼女は、
わが子の以上に可愛く思っていた。節は、由美が手を振るあどけない姿を見つけて応答の
ために手を振った。由美は、節が応答したことを知ると嬉さをさらに表現して大きく手を
振り回した。節は、それを見ておどけた仕草で由美に応答した。そこへ日傘を被った村人
が、汗を流しながら一輪車に土砂を満杯に積み上げてやって来た。由美に気付いた彼は、
大声を上げた。
「危ないぞ!!退け!!」
彼は、一輪車を押しながらよろけた。そのときに、一輪車の隅が由美の足に当たった。そ
のとたん由美は、
「わっ!!」
と悲鳴を上げて、用水路に転落した。その光景を目にした節は、村人達の昼食のための多
くの握り飯をその場に投げ捨て、一目散に由美が転落した用水路のあたりに駆けつけた。
節は、由美を助けようとして用水路沿いに土嚢の上を走った。しかし用水路の流れは、速
く、しかも用水路はコンクリート造りで流される由美は、握れるものは、何一つなかった。
由美は、たちまち十メートルほど流されてついに流れの中に沈んでしまった。節は、夢中
で用水路の中へ飛び込んだ。彼女は、必死になり由美を捕まえようとしたが、流れが速い
うえに節の着ている衣類が邪魔になってなかなか由美を捕まえられなかった。さらに二十
メートルほど流されて節は、用水路のコンクリートが壊れた場所から柳の木が生えている
小さな枝に引っかかった由美を捕まえた。節は、しっかりと由美を抱きかかえてその木の
幹の部分に?まった。事の重大さに村人達は、用水路の中で奮闘する節の元へ駆けつけて
きた。節は、由美を抱えながら小さな柳の木の幹にしがみついていた。その幹は、いまに
もへし折れそうにしなって揺れていた。
「はよう!!はよう!助けんといかん!」
「ロープや!ロープを下ろせ!」
節に向けてロープが、投げられた。節は、由美の身体をロープで縛り引き上げるように合
図を送った。由美は、無事引き上げられた。
「水を吐かせろ!市松先生を呼べ」
由美は、水を吐かせられ市松の人工呼吸で見事に息を吹き返した。村人が、由美を助けあ
げたロープを節にも投げた。節は、そのロープを手にして身体を縛ろうとしたとき、細く
しなっていた柳の幹がへし折れてしまった。それと同時に節は、流れに流されてまもなく
流れが急になる堰にあたりで沈んでしまった。村人の一人が、その中に飛び込んで節の身
体にロープを縛りつけ引き上げる合図をした。由美が引き上げられた場所から五メートル
ほど下流で引き上げられた。飛び込んだ村人は、流れをせき止める堰板で止められて自力
で用水路から這い上がってきた。節は、引き上げられたものの気を失っていた。
「早よう!水を吐かせろ」
年老いた男が、節をうつぶせにして、背中を叩いた。節は、大量の水を口から吐き出した。
しかし、意識は戻らなかった。
「あかん!早よう!先生を呼べ」
市松は、飛んで来た。彼は、しっかりとした手つきで人工呼吸を繰り返した。彼が一時間
も人工呼吸を繰り返すと節は、うつろな目を開けた。市松は、すぐさま、節の瞳孔の開き
具合を確かめた。すでに市松の額からは、玉のような汗が流れ落ちていて、着ている衣類
は、汗で水を浴びたようになっていた。市松は、瞳孔が開いている節の瞳を狼狽のあまり
確認できなかった。彼は、動転した気持ちのあまり、節を力いっぱい抱きしめて、何度も
何度も節の頬に頬ずりをした。村人からも狼狽した声で、救急車の到着をせかす言葉が湧
き上がっていた。その時、栗本善三が、息を切らせて走ってきた。
「救急車が来たぞ!狭くてここまで入り込んでこれない!節さんを担架で運べ!」
救急車の隊員の手早い動きは、動いている機械のように節を担架に載せて救急車まで運ん
でいった。市松は、救急車に乗り込み節の心臓を必死にマッサージしていた。救急車は、
三十分ほどけたたましいサイレンを鳴らして総合病院へ着いた。節は、救命救急室へ運ば
れていった。市松は、節の処置を病院の医師達にまかせて精神状態が真っ白になったまま
待合室の椅子に倒れ込んでいた。元気になった由美や村人達が、心配して総合病院へ駆け
つけてきて、由美は、市松の身体に抱きつき泣き出していた。
「うちのために、おばちゃんが、こんな目にあってしもうて、皆、うちのせいや」
「由美ちゃん、そんなことあらへん。おばちゃんは、きっと助かる。」
市松は、由美を強く抱きしめた。心配した村人達は、市松にかけより彼の手をしっかりと
握った。村人達の顔は、すでに涙でくしゃくしゃになり見る目もなかった。
「節さんは、きっと助かる!あんな神様のような人をこのまま死なせてたまるものか!ワ
ぁっつ!」
由美の父親の東中益三が、強気な言葉の後に悲しみにこらえきれず嗚咽を上げた。それに
つられて数人の村人達も、しくしくと泣きじゃくり涙を流していた。市松は、村人達のこ
のような思いやりに感謝をしながらも、節のことが気がかりであった。彼は、村人達の問
いかけには気丈夫に受け応えをしていたが、本当の心の奥底では、節の瞳孔が開いていた、
そのことがどうにも気になって不安のどん底に落とし込まれていた。
「南先生!最善を尽くしましたが、お気の毒です」
救急救命室の医師が、市松に無念の表情で節が、息を引き取ったことを告げた。
「わッ!節!ううッ!」
市松は、泣き崩れた。由美も村人達も、泣き崩れた。市松は、冷たくなった節の身体に何
度もすがりついた。節の身体は、すでに硬直して冷たかった。村人達も大声で泣いた。節
の遺体は、病院の職員の手で棺に入れられ、村人達や市松に見守られながら、診療所へ帰
ってきた。
 多くの村人達に惜しまれて見送られて節は、火葬にされた。節の葬式後、村人達は、節
が一生懸命に計画した水田回復の復旧作業を完成させようと昼夜に渡って働いた。誰一人
として、愚痴をこぼす者は、いなかった。村人達は、節を亡くしたした悲しみと節が、あ
れほどにまでこの村のために尽くした意思に報いようと働き働いた。節の四十九日の法要
が、村人達の手でとり行われた。優しく微笑む節の遺影を前にして、また、多くの村人達
は、生前の節を偲んでは、涙を流した。
 四十九日が過ぎ百日が過ぎたころ、村長が、節の霊前に水田が見事復旧してその水田に
稲苗が植えられたことを報告した。節の遺影は、嬉しそうに微笑んでいるように市松には
見えた。この時、市松は、この世でたった一人の味方で、たった一人の伴侶である節の死
亡を受け入れた。彼は、嘆き悲しみのあまり生きる甲斐を失くしていたが、ようやく節の
死を受け入れて節の生まれ故郷に節を連れて帰りたいと思うようになった。市松が、酒び
たりになっていったのは、この頃からである。彼は、いつも節の傍にいて節に話しかけな
がら自分の余命を終えたいと考えるようになっていた。彼は、何度も節から聞いていた節
の生まれ故郷で節が生まれた貧しい農家の墓地に節の骨を埋葬してやりたい一心であった。
「先生、やっぱり行くんかい」
「ああ、妻(あれ)は、十歳で奉公に出てきて苦労しよった。そやよって、自分の故郷を知らん女
や。ワイが、連れて行かんと、もう、一人では帰れん女になってしもうた。本当にいい女
やった。可愛そうな女や。」
「先生、ワシらは、先生や節さんに口に出せん世話になった。それやのに何ひとつ恩返し
ができへん。それが、情けないんや」
「益三さん、わしと節は、皆さんにようしてもろうた。この土地は、わしらにとって天国
のようなものやった。」
市松は、偽りのない気持を東中益三に伝えた。
「節のことを考えると、どうしても妻(あれ)の生まれ故郷へ連れて帰ってやりたんや。妻(あれ)も生ま
れ故郷の両親の傍にいたいやろう。」
「先生、よく解る。節さんを大事に祭ってあげや」
「おおきに。わしも節も皆さんのことは、決して忘れられへん。」
市松は、節の遺骨を手にして彼女の生まれ故郷である能勢の山奥へ旅立っていった。村人
達は、泣いて見送ってくれた。その別れと言うものは、いつか再会ができると言う希望的
な別れではない。もう二度と会うことのない絶望的な別れであった。それゆえ、市松も村
人達も悲劇的な涙を流した今生の別れであった。村人達は、市松の姿が見えなくなるまで
見送っていた。この辺境にも初夏が訪れて山並みは、深い緑と化した木々が、夏の匂いを
放っていた。その中に節の霊を祭る碑の前には、だれかれとなく参拝する村人が供えた線
香の香りが漂っていた。節は、確かにこの村の用水路で死んだが、彼女の魂は、村人達の
中にこうこうと生きていた。しかし、それも月日が経ち、世代が変われば、忘れられて行
くのだろう。それは、こんな女がいたと言う伝説として語られ、いずれは、それも忘れら
れて行くのだろう。市松は、それでいいと思った。彼は、節なら、それを望んでいるにち
がいないと思った。そのときに初めて節は、自分のものになり、自分だけの節になれるの
だと思った。

能勢の山奥に着いた市松は、つぶやいた。
「やっと来た。節、お前の故郷や。帰ってきたんだよ。いいとこやな。運命が変わってい
たら、お前は、一生こんないいとこで暮らせたのに。」
市松は、無性にセンチメンタになっていた。
「これからは、ここで二人で暮らそう。わしが、一緒やよって心配いらんで。やっと、お
前は、わしだけのものになってくれた。」
市松は、安堵の気持ちからその場に崩れてしまった。そして節の遺骨を大事に抱きかかえ
た。
 節の生家は、すでになくなっていて、節の身寄りは都会へ出て行っていた。節の両親が、
眠るお墓だけが、昔のままの墓地で草に覆われていた。市松は、そのお墓の傍で節と節の
両親の墓を守りながら余生を送りたいと思った。彼は、地主の山下元八にそのことをお願
いすると、元八は、快く承知してくれた。元八は、さっそく墓の近くの物置を改造して人
が住めるようにしてくれた。市松は、節の遺骨を彼女の両親が眠る墓の地中に埋葬してま
た、泣き崩れた。彼は、節の遺骨のすべてをどうしても埋葬できなかった。その一部は、
小さな宝石箱に入れて、さらに小さなペンダントに加工していつも自分の肌身につけてい
た。そうすることで彼の気持ちは落ち着き、節を自分のものとして愛していられる喜びを
感じていた。
 市松は、数日してから別れてきた村人の東中益三に短い手紙を書いた。それには、節の
遺骨を両親の墓に埋葬したこと、自分は、節と二度と離れないで節の墓を守ることが書か
れていた。
 東中益三と由美が、節の墓を訪ねてきたのは、その1週間後であった。益三と由美は、
節の墓にお参りしてまたも泣き崩れた。市松は、気丈夫に彼らを抱きかかえて自分の家に
連れて入った。その夜は、節の生前の思い出や節の生い立ちなどを語り合い翌朝には、益
三と由美は、帰って行った。市松は、由美の後ろ姿を見て最高の喜びに浸っていた。節が、
必死になって救った小さな命の大きさをまばゆいくらいに感じていた。
 市松は、日雇いで保険センターの住民検査データの整理をしていた。彼にはもう、節と
苦労したあのころの思いはなかった。彼は、僅かな日当を得て質素な暮らしをしていた。
そうしてまもなくこの地で誰にも知られないで余生を終えたいと言う願望を持っていた。
それで十分であった。彼にとって、節の墓の近くで死んでいければ大満足であった。彼の
生活は、質素であったが、焼酎に飲まれてしまっていた。確かに彼は、酒びたりであった
が、性格は温厚で正義感の強い老人であった。
 市松が、節の骨を埋葬してから七年忌が経ったある日、由美が、節の墓を訪ねて来た。
彼女は、学校を卒業して成長した姿を節に見てもらうと言ってやってきた。由美は、立派
な女性に成長していて市松は、その女性を由美と判らないくらいだった。
「由美ちゃん? まあ、立派になって。よう、来てくれた。おばちゃんもきっと喜んでく
れているわ。」
市松は、由美にお茶を入れて目を細めた。
「おばさんのご恩は、決して忘れていません。おばさんに頂いた命ですから大切にして、
世の中の人のために尽くします。それが、おばさんへの御礼だと思うんです。」
「そうか、そうか、立派になって、命を大切にして一生懸命に生きるんやで。おばちゃん
は、由美ちゃんを見守ってくれてるわ。」
由美も市松も不思議に涙が、流れた。市松は、焼酎に酔って酒臭い匂いをさせていた。
 
その頃、山下元八の末娘の妙子が、池に落ちて引き上げられて気を失っていた。風変りな
焼酎銘柄と思いがけない由美の訪れを受けた市松は、由美の酌で美酒に酔っていた。彼の
目は、うつろに節の写真を得意そうに由美に見せながらさらに焼酎を飲んでいた。その家
の中へ元八が、血相を変えて駆け込んできた。
「市さん!助けてくれ!娘が池に落ちた」
「池に!落ちた?!」
市松は、節の写真を懐に入れると、元八の案内する池の堤へ疾走した。由美は、七年前の
出来事を脳裏に浮かべて、悪い胸騒ぎを感じた。彼女は、市松の後を追いかけた。彼女は、
その途中に最悪の場面を何度も思い浮かべた。彼女は、今度は市松が、節のようにこの娘
を助けて死んでしまうのじゃないかとの思いで、頭の中が駈けずり廻った。
市松は、池から引き上げられた妙子から水を吐かせて、冷静に妙子の脈をとり、心臓の鼓
動を確認した。
「生きている! よし!助かるかもしれない!」
市松は、独り言を言った。そうして妙子の瞳孔を確認した。
「早よう!毛布や!由美ちゃん、毛布を持ってきてくれ!」
由美は、悪い自分の足を引きずりながら毛布を持ってきた。
「誰か、救急車を呼んでくれ!」
「市さん!助かるやろか?!」
「助けて見せる!こんな優しい子供を死なせてたまるか!わしが助けてみせる」
この言葉を聴いた由美は、市松は、死ぬ気であることを見抜いたが、彼女にはなすすべは
なかった。
「おじさん!死なないで!」
由美は、それだけを念じて自分の手を固く組んで、震えていた。市松は、極めて落ち着い
ていた。彼は、妙子に対して口移しの人工呼吸を開始した。三十分程続けると妙子の口か
ら汚物が、吹き上がってきた。市松は、この時、妙子を助けられると確信したが、妙子の
意識は、いまだに戻ってこなかった。市松は、人工呼吸をさらに続けた。今度は、市松が、
血を吐いた。しかし彼は、妙子の意識が戻るまで人工呼吸を止めなかった。四十分ほど人
工呼吸を続けて、また彼は、血を吐いた。その血を拭おうとしたとき、妙子の目が開いた。
意識が、戻ったのだ。妙子は、市松の顔を見るなり、突然に泣き出して市松にしがみつい
た。
「妙ちゃん!もう大丈夫や!おっちゃんや!判るか?」
「ううん!判る!」
「妙ちゃんは、ええ子や。おっちゃんは、妙ちゃんが大好きや。こんなことで死んだらあ
かん。」
 市松は、再び大量の血を吐いた。彼は、かすんでいく意識の中に節の顔が、ぼんやりと
浮かんでくるのを感じた。そうして無意識のうちに節への思い出が、目まぐるしく一気に
交錯した。元八達は、あわてふためいた。市松に何度も声を掛けたが、彼は応答しなかっ
た。

市松は、生まれて初めて言いようの無い、清々しい安らかな気持ちに浸りながら、血を吐
いた口元に微笑を浮かべて息が絶えた。
そのとき市松の懐から、節の写真が転げて落ちた。それを見ていた由美は、節の写真を市
松の胸に抱かせて彼の手を写真に絡ませた。

奈落の中で生きた二人の人生は、その喜びと共に愛する妻の故郷で終わった。一生懸命に
生きた二人は、奈落よりも遥かに幸せを感じていたに違いない。それは、人間の命への尊
敬であった。人間の性善なる思いへの憧れであった。だからそこ彼らは、奈落の中で洋々
と生きてこられた。
 もう、ゆっくりと休ませてやって欲しい。
その功績もその努力も、誰にも知られることなくこの地で心ゆくまで休ませてやって欲し
い。




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