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5. アジュール温泉郷

5-7 アジュール温泉郷

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脱衣所にあるロッカーで、服や部屋のカギの入ったリュックなどを入れ、海パンのような入浴着だけを身に着けて、浴室へと向かう。
人が近づくと捲り上がるドアの向こうに、部屋にあったソファーベッドのような白いフワフワが一面敷き詰められている。
湿っていても足が滑ることがない上に、転んだとしても絶対に痛くないだろう優しい床で、竜人の三助が、老竜人の背中を流したり、湯船の段差で転ばないように手助けをしているのが目立つ。
広い空間に、リムストーンプールのように堤防状に重なる湯船がいくつもあり、大きな湯船には、小さな子供やお年寄りの安全に配慮したスロープが備え付けらえている。

「なんというか、竜神族の福祉精神というか、安全、安心の意識の高さは、我が国も大いに見習うべきところがあるな」
「竜人はもっと荒々しくて、ワイルドな性質をしているかと思っていましたけれど、他人を思いやる気持ちがとても高くて、気配りが行き届いていますね」
「そんなところで突っ立ってないで、早く風呂に入ったら? 取り敢えず、これからは自由行動ね」と、ソゴゥは個室になった洗い場に向かって行って、早速泥を落とす。
個室では、海パンを脱いでもよく、公共の場ではまた着用が必要になっている。そこがちょっと面倒だと思ったが、どうやら、この浴室の奥に絶叫系温泉があり、そのための装備でもあるようだった。
ソゴゥはまず、一人一つを占領できる棚田のような温泉の上方で、人が周囲にいない場所に行き、その一つに足をつけてみた。
思いのほかトロみがすごい。葛湯クズユくらいのトロみがある。
思い切って全身をつけると、空気が浮かび上がって水面にドームができ、ボコボコと音を発てて破裂した。
湯加減は丁度良く、じんわりと手先、足先に魔力が伝わる。
魔力回復系の温泉のようだ。
ソゴゥは肩まで浸かって、ほっと息を吐いた。
ロブスタス殿下がいくら世間知らずでも、イグドラムにも大浴場はあるので大丈夫だろう。
目を閉じ、ゆったりとした時間を過ごす。
汚れも落ち、気分もリフレッシュ出来たところで、ソゴゥは次に絶叫系温泉がある、外の露天風呂へと向かった。
建物の外へ出ると、目の前の透き通った湯船が空に繋がっているように、インフェニティプールとなっている。
湯船の端まで行くと、その先は足が竦むような数百メートルの切り立った崖で、眼下にはカルデラのような円形に窪んだ大地を覆う森林地帯が一望できる。

「ワーッ、すごい! チョーいい眺め!」
ソゴゥは高い声に、驚いて振り返る。
どうやら露天風呂は男女共用のようで、いつの間にか、周囲は女子に囲まれていた。
プールの様に彼女たちの装備はしっかりしているが、迫って来られると、なんとも気まずい。ソゴゥは今だ思春期のような感性のため、他人から見られる自分が、女子を目の前に鼻の下を伸ばしているなどと、イセトゥアンやロブスタスに思われたくないので、そそくさとその場を後にする。
まだ奥に浴場が続いていて、岩が林立した通路の先に、高い岩に囲まれた湯船を見つけた。
「あ、殿下、じゃなかった、ロブスタス、この温泉にはもう入ったんですか?」
「いや、私も今来て、これから入ろうと思っていたところだ」
目の前の岩の中の温泉は、湯が赤色をしており、更にカモのような形の、小さくて赤い鳥が何羽も浮かんでいる。
また、この温泉に浸かっている者達は、一様に何かを我慢しているような顔をしている。
ソゴゥは水面の鳥が、時折水の中に潜っていくのを見て、人のアカツイバむドクターフィッシュならぬ、ドクターダック的な何かなのだろうかと思った。
ロブスタスが、温泉の脇に控えているスタッフの竜人に、この温泉はどんな効能があるのかを尋ねた。

「この温泉は、赤藻アカモが身体に纏わりついて、体の悪い所を直してくれるんですよ。竜人なら羽ダニを除去してくれますし、皮膚病にも効果があると言われています」
ソゴゥは湯船を覗き込み、岩肌にびっしりと生えた赤いを見た。この藻のせいで、温泉が赤色に見えているのだ。さらに藻は、入浴者の体に、糸のような繊毛センモウを出して撫でている。それで、皆、くすぐったいのを我慢していたのだと分かった。
「ソゴゥ、ロブスタス、ここに居たのか。もう絶叫温泉に入った?」
イセトゥアンとヨルが合流する。
「ここは絶叫って言うより、くすぐったいのを我慢する温泉みたいだよ」
「この温泉は、あのアカモという鳥が、身体に纏わりついて、体の悪いとことを直しくれるらしいぞ」
「え?」
ソゴゥはロブスタスが指す、赤い鳥を見る。
「へえ、そうなんですか、あの鳥が」
納得するイセトゥアン。
ソゴゥはヨルに「赤藻って、岩に生えている藻のことなんだけどね」とこっそり意思で知らせておく。
四人はこの赤い温泉に入り、やがてロブスタスとイセトゥアンが、「アカモ」は鳥ではなく、岩に生えた赤い藻のことだと気づき「藻だな」「藻ですね」と囁くのを、隣のソゴゥは藻のくすぐったさより、そっちの会話を聞いた笑いを、必死に堪えていた。
赤藻温泉を出ると、更に岩の通路の奥に、まっ平らな場所があり、まん丸の温泉がいくつもある場所に出た。ここでは竜人のスタッフが仕切っていて、入浴客は順番に並んで、指示に従っていた。
「なんか、湯船に浸かった客が消えているんだけど」
「おう、どうゆう事だ?」
ソゴゥとイセトゥアンが不安げに、前の客を見て言う。
「悲鳴も聞こえるが、いったい何処からだ?」
ロブスタスも、若干青い顔をしている。
ヨルは何かを察した様子で「ああ」と呟いたきりだ。
ソゴゥ達がスタッフに四人連れと告げると、同じ湯船に入るよう案内された。
恐る恐る透明度のやたら高い湯船に浸かる。水面に足を付けると、押し返すような反発を一瞬感じ、次の瞬間には逆に引き込まれ、気が付くと一気に体が全て水の中に入り、更に底の方に引き込まれて行った。
足元を見ると、そもそも底が存在していないようで、藻掻く間もなく、底の穴から空中へと貫通して放り出された。
水から出た瞬間、ヨルを除く悲鳴が響き、五十メートル近く落下して、透明なゲル状のクッションに突き刺さった。
ソゴゥ達はしばらく放心し、やがて自分たちが落ちてきた上方を見上げた。

「いや、温泉っていうか、紐なしバンジーじゃん」
ソゴゥはいち早く、巨大な果物ゼリーのフルーツポジションから脱したヨルに続き、手を掻くだけで、あっさりと浮上できる透明なゲルから脱して、白いフワフワの地面に転がり出た。
「俺、キャーって言ってた?」
「いや、それは私だな、イセトゥアンは狼の遠吠えのような声を上げていたぞ」
イセトゥアンとロブスタスも抜け出してきて、ソゴゥとヨルに続いて上の階に戻る浮遊石に乗った。
その後、魔力量で色が変わる温泉や、塩の結晶が浮かぶ幻想的な温泉を巡って、四人は温泉を堪能すると部屋へと戻ったのだった。
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