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武藤

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 東京タワーの天文台で、偶然に出会った赤児との共同生活が始まって四ヶ月が過ぎた。
 そのせいか、武藤の生活の方にも、活気が戻り始めていた。
 タワーへ行った翌日に引き払う予定であったこの部屋も、大家との交渉によって契約を更新することにして、再度ここで暮らしていく決心をした武藤は、先月から、電子部品工場に働きに出ることにした。
 身分は契約社員ではあるが、武藤は、拾った子供のために、ベビー用品を買い与え、それを買うたびに、自身の中に生きる望みを取り戻していった。
 子供の手にするガラガラは目覚ましのように鳴り、眼を覚ます武藤。
 そう、それはオムツの取り替えを表すサインなのであるのだが、最近はその音が目覚ましの代わりとなっていたのであった。
 起床後、簡単な朝食を済ませて、出勤する武藤。
 今日も早稲田通りを、いつものようにスクーターを駆って、吉祥寺にある職場へと向かう。
 赤児と撮った写真の切り抜きを裏に貼ったタイムカードを押して、パソコン部品を組み立てていく流れ作業の現場でも、彼は夕食の献立を考える。そんな暮らしを続けていた。
 そして、それが武藤にとって、幸せであったのだ。
「あいつ、最近やたらと舌が肥えてきたよな。まっ、今日は給料日だから、奮発して少々高いミルクを買ってやるか」
 作業中の独り言は、最近では彼の日課のようになっていた。
 今日も、多少の残業後、仕事を終えた武藤は、今日支給された給料袋片手に、東急百貨店へと向かった。
 駐車場へとバイクを停めて、ベビー売り場へ向かう。
 テレビを見ている時に唯一、幸弥と名付けた赤ん坊の笑うアニメ・キャラの刺繍されたよだれ掛けと、一週間分の離乳食を買い込む武藤。今までは財布に余裕のあった時にはいつも立ち寄っていたレコード・ショップにさえ立ち寄りもせず、そのままエスカレータにて一階へと向かう。
 駐車場に出て、カゴには入り切らない分の買い物袋の一部を左肩へと担ぎ、エンジン・スタート。
 三車線の大通りへと出てパルコ前を左折し、アクセルを徐々に上げていった。
 街の賑わいが頂点に達する土曜日の繁華街前の通りは渋滞を極め、一向に進まない車の列にイライラしながら運転する武藤。
 信号が変わり、走り出した武藤の目に、道端沿いを歩く親子連れがふと留まった。
 母親に抱かれる乳飲み子の愛らしい笑顔。その顔が自宅で待つ赤ん坊と重なったせいか、前方の車が動き出しても母親の背に意識を奪われたままであった武藤は、突然鳴り響いたトラックのクラクションで前方へと視線を戻した。
 だが、時はすでに遅し……。
 前方交差点から左折して来たトラックが、武藤の前に迫り、最悪の事態に陥ってしまった。
 そう、衝突である。
 スクーターの側面にトラックのフェイスが衝突した瞬間、シート・カウルが公道上へと弾け飛んだ。
 次の瞬間、スクーターから武藤の体は投げ出され、一刻一刻と、地面が目前へと迫ってくる。
 その瞬間、藤の中で数秒、時が止まった。
 そして、武藤は、地面へと呑み込まれてしまった。
 地面にリバウンドする身体。
 次の瞬間、鈍い音を立てて再び武藤は、路上に叩きつけられてしまった。
 バイクのマフラーから吹き上がる黒い排気ガス。
「あ、あいつのミルクが」
 ガード・レール沿いに咲くマリー・ゴールドに、購入したミルクの粉が、封を突き抜けると共に降りかかり、乾いた風がそれを流してゆく。
 単車の割れたミラーに映るその情景……空では、太陽も雲の影に隠れてしまったようだ。
 そして、武藤もそのまま意識を失ってしまった。
「誰か、救急車を」
 駅前を往来する人だかりの中から、老年男性の太い声が響き、それを聞きつけたサラリーマン風の青年が、公衆電話へと飛び込んだ。
 数分後、救急車のサイレンが響き、武藤は、群衆に見守られながら、救急車の中へと運ばれていった。
 事故から丸二日が過ぎた。
 武蔵野市民病院の集中治療室へと運び込まれた武藤は、内蔵破裂の結果、緊急手術を受けのだが、意識はいまだ戻らず、右足も全治するには半年以上はかかるという酷い骨折を負ったまま、ベッドの上で生死の境を彷徨っていた。
 個室の中で、時だけが流れてゆく。
 そんななか、ふと、隣の病室から聞こえてきた小さな女の子の泣き声に、眉を反応させた武藤は、ベット上で、うわごとを口にした。
「は、腹が減ったんだろう……待ってろよ、今、食わせてやるからな……」
 ちょうどそこに居合わせた看護師が、担当医を呼びに廊下へと出ると、数分後、主治医が駆けつけてきた。その背後に付いてきたのは、交通課の刑事だ。
 主治医が容態を確認している背後から、太い声が響いた。
「意識を取り戻したようですね」
 日焼けした年配の刑事が、主治医へと語りかける。
「刑事さん、とはいえ、事情聴取はまだ無理ですよ。話しかけることさえ遠慮した方がいい」
「そ、そうですか」
 日焼けした刑事がうなずき、退出しようと、出入り口へと向かう。その後に、軽いパーマをかけた若い刑事が続いた。

 その夜。武藤は完全に意識を取り戻した。
 そして、交通課の刑事からの取り調べも行われることとなった。
「事故の成り行きは、大体分かりました」
 武藤の説明を聞き終えた佐山という名の日焼けした刑事が、武藤の顔を真剣な眼差しで見つめ、こう続ける。
「相手のトラック運転手及び目撃者から得ました証言も、あなたの今お話しになられた内容と、ほぼ一致しておりましたので、これで事情聴取は終了いたします」
「ご苦労さまでした」
「ですが、今、あなたからお聞きしました東京タワーで拾われた幸弥ちゃんの件に関しますと、都内の孤児院の方で引き取ってもらえるよう、働きかけてみますので」
「ま、待ってください、刑事さん。あいつは、幸弥はこの私に生きる希望を与えてくれた恩人なんです。ですから、あの子を私の手から取り上げることだけは、やめてもらえませんか」
 武藤は、痛みをこらえながらも、力強い声を上げた。
「何をいってるんですか、武藤さん。第一、そんな身体で、どうやって子育てをしていけると言うんです。よく考えてみてください」
 佐山刑事の太い眉が、険しげに寄った。
「…………」
「武藤さん、子供の幸せを本当に考えてあげるのなら、他人のしかも病人のあなたが、生後間もない赤ん坊を育てていくよりも、施設で育児をしてもらう方が幸弥君にとっては、幸せなことではないでしょうか。それに、まず今はご自身の体を治すことだけに意識を集中し、一刻も早く回復することを考えることこそ、あなたのお仕事。そう私は思うのですが」
「刑事さん……やはり、それがあいつにとって一番の選択肢なんでしょうか」
「ええ、私はそう思いますよ」
 佐山刑事は、濁りのない眼で武藤を見た。
「……分かりました。では、あいつのことは、刑事さんにすべてお任せすることにします」
「では、引き取ってくれる施設をあたってみます」
「だけど、今、あいつは、どうしているんでしょう。もう二日も家を空けてるので、とても心配なんです」
「ご心配なく。事故直後、あなたのコーポへと、この五十嵐刑事が連絡したところ、大家さんが預かってくれているそうです。そうだったね、五十嵐君」
「はい」
「そうだったんですか」
 武藤は安堵の表情で、五十嵐刑事を見た。
「ご安心ください」
 五十嵐刑事は、温かい表情でそう答えてくれた。
 そこで力が抜けたのか、武藤は、「ちょっと疲れてきましたの、少し休ませていただけませんか」と断りを入れ、頭を枕へと倒して、瞳を閉じた。
 そしてそのまま、二人の刑事に見守られながら、眠りへと就いていた。

 上野公園を照らす夏の陽射しが高い八月。
 街路を歩いていた武藤は、養護施設へと向かっていた。 
 万緑に囲まれた空気のよい場所に、目的の施設の門を見つけた武藤は、建物へと入る。
 受付で事情を話し、赤児のいる部屋へと案内してもらうことにした武藤は、背の高い制服姿の事務員に続き、廊下を進んだ。
「さあ、ここですよ」
 内側から、子供の声の聞こえる部屋の扉を開くと、一人の女性教諭に抱かれていた幸弥の姿が目に入った。
「幸弥」
 武藤は、思わず声を上げてから、幸弥の元へと近付く。
「あ、あなたが武藤さんでいらっしゃいますか」
 女性教諭が、武藤へと声をかける。
「そうです、私が武藤です」
「はじめまして、ここで児童指導員をしております青田と申します」
「こちらこそ、幸弥の面倒を見ていただきまして、ありがとうございます。だけど幸弥、ちょっと見ないうちに、大きくなったんじゃないか」
 武藤は、半年振りに再会した幸弥の頭を撫ぜた。
「よろしかったら、お抱きになりますか」
「ええ、お願いします」
 青田教諭から自分の腕へと幸弥を抱いた武藤は、その重さから、時の経過というものを、改めて実感した。
「よかったわね、幸弥ちゃん。お父さんに抱いてもらって」
「いえ、お父さんではないですよ。ですけれど、私の付けた名前を呼んでくれているんですね、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
「この子は、捨て子で、幸が薄いだけに、幸せになってほしいという気持ちから幸弥と言う名を付けたんですが、その名前を変えずに使ってくださったことには、感謝いたします」
「感謝だなんて。いえ、私も幸弥という名はよい名前だと思っています。ですけれど、武藤さんは、そんなお優しい気持ちを込めて、幸弥ちゃんの名前を名付けられたんですね。それならこの子は幸せ者だと思います、私」
「そうですか。そう言っていただけたら、付けた者としても嬉しい限りです」
 武藤は至福の笑みを頬に浮かべた。
 数時間ほど、この子のお守りをさせてもらう承諾を得た武藤は、幸弥と離れていた、その空白の時間を埋めていくように、幸弥の頭をさすり続けた。

「そろそろ、ミルクの時間なので、幸弥ちゃんをちょっと、よろしいでしょうか」
 時計を見ると、午後三時を指していた。
「あの、ミルクなら、私にやらせてもらえませんか」
「いえ私、ちょうど自分の子供が乳離れしたばかりなので、まだ母乳が出るんですよ。それに私のお乳、毎日幸弥ちゃんに飲ませているので、市販のミルクよりは、体にいいと思って」
「そこまで、そこまでしてくれるのですね、青田さん、幸弥に代わってお礼を申し上げます。では、よろしくお願いいたします」
「いえ、幸弥ちゃんは、特に私に懐いてくれるので、気持ちよくやっていることですので、そうお気になされずに」
「ありがとうございます」
 教諭の、細い腕へと幸弥を手渡すと、武藤は部屋を後にした。
「だけど、いい方に担当していただいた。だけど、俺はしょせん、胸無き母ってところだからな……。考えてみると、どうあがいても、母親にはなれない……か」
 ぼんやりと、窓外の雲を見ながら、ふと、「子供の幸せを、本当に考えてあげなさい」
 半年前に佐山刑事に言われた言葉が、頭上へと浮かんだ。
 母性。男には越えられない女の領域だ。
 その思いが、じりじりと、武藤の胸を締めつけ始める。
「そうだ、ここで育ててもらう方が、あいつのためになる。そう、幸弥の人生にとって、ここに預けるという選択肢こそが、幸せな道なのかもしれない」
 初めてオムツを取り替えた日。休日に幸弥と行った遊園地。
 彼と会ってから今日までのあらゆる思い出が、武藤の脳裏へと一気に甦り、その思い出の一つひとつを噛み締めていく武藤。
 そして、彼は静かに眼を閉じると、何かが吹っ切れたのか「今ならば、今ならば忘れられる」眼を開けるとともにそうつぶやき、拳を固めた。
 そして、この扉の向こう側で母乳を与えられている幸弥には聞こえない囁き声で……。
「さよなら」
 そう、一言だけつぶやいて、廊下を歩き始めた。
 受付に寄ることもなく、その足で外へ出た武藤の頬に涙が零れた。
 しかし、日の陰りが建物をも陰らせ、頬に流れる涙は隠された。
 さっきまで校庭に群れをなし、遊んでいた雀達が、武藤の気配によって、一斉に羽根を広げて飛び立っていく。
 そして、地面へと残った木の葉が、静かに旋風に舞った。
 施設の前に咲いていた一つの花を見つめ、幸弥のために与えられる愛の何千分の一でもいい、この花に祈ってから行きたい。
 そう心の底から湧きあがってきた思いを、そのまま祈りに変え、武藤は強く手を合わせた。
 そして彼は、養護施設を後にした。
「幸弥、もうあいつには二度と会わない」
 そう胸に誓って。

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