翡翠の記憶 ~Nephrite to Earth~

中島しのぶ

文字の大きさ
9 / 14

第九話 翠とデイビッドの合流

しおりを挟む
 地球到着四日目、航行開始から三日。

 二日後、ポッドの中は静かだった。
 ポッドのモニターに、外の状況が表示されている。北緯三二・〇三度、東経一一八・四五度――中国の南京市の付近。放射線量は四・三Svだが、この義体なら耐えられるはずだ。

 モニターの数字が冷たく光り、放射線の脅威が現実のものとして迫る。わたしは義体の腕を軽く動かし、その堅牢さに一抹の安心を覚えた。
 ポッドの収納スペースから、使える機材を確保する。携帯用AI、放射線測定器、水浄化装置、予備の蓄電池……それらを防水バッグにしまう。体内蓄電池もフルに充電してある。

 狭いポッド内で機材を手に取るたび、金属が擦れる音が響き、わたしの新しい身体が現実を突きつけた。防水バッグを背負うと、義体の肩に軽い負荷がかかり、生身の頃とは異なる感覚が意識を支配した。

「上陸地点、安全なのかしら……」わたしはつぶやきながら、ポッドのハッチを開けた。
 ハッチが開く音が静寂を破り、外の風が一気に流れ込んできた。潮の匂いが鼻を突き、義体のセンサーがその成分を即座に解析した。
 外の空気が一気に流れ込み、潮の匂いと湿った風が顔を打つ。雨が降りしきる中、嵐の音が耳をつんざき、遠くの空は黒い雲に覆われている。海岸は瓦礫と漂流物で埋め尽くされ、かつての都市の面影はどこにもない。航行開始から三日、台風の影響はまだ続いているようだ。

 波が打ち寄せる音が絶え間なく響き、瓦礫の間から見える海は灰色に濁っていた。わたしはハッチの縁に手をかけ、外の荒廃した世界を見つめた。かつての南京の繁栄が、今は水と風に呑まれている。

 潮の匂いと湿った風が顔を打つ。どこかで感じたことのある感覚が胸をかすめた。――日光が差し込むファーム。わたしはトマトの苗を手に持って、誰かに笑いかけている。『期待しててくださいな』と口にした声が、風に混じって遠くから聞こえてくる。頭がずきりと痛み、わたしはよろめいた。
 その記憶が一瞬だけ鮮明になり、ガイアでの穏やかな時間が脳裏を駆け巡った。だが、次の瞬間、嵐の音がそれを掻き消し、現実がわたしを引き戻した。

 防水バッグを背負い、ポッドの外に出た。足元が砂に沈み込む感覚が伝わってくる。わたしは深呼吸し、辺りを見回した。

 砂が義体の足裏に擦れ、微かな音を立てた。目の前に広がる瓦礫の山は、かつてのビルや道路の残骸で、風に飛ばされた破片がカタカタと鳴っていた。わたしは一歩踏み出し、荒れ果てた大地に立つ自分の姿を想像した。

 その時、視界の隅に人影が映った。黒い髪を後ろで束ねた男が、こちらに向かって歩いてくる。灰色の瞳が、遠くからでもはっきりとわかる。
 彼の姿が雨のカーテン越しに現れ、義体の視覚がその輪郭を鮮明に捉えた。男の足音が瓦礫を踏むたび、かすかな響きが風に混じって届いた。

 わたしはその姿に身構えた。だが、彼の歩き方は落ち着いていて、敵意を感じさせない。この放射線量で歩いているということは、同じ義体化されている者だ。
 彼の動きに不自然さはなく、放射能に耐える義体の強靭さが感じられた。わたしは防水バッグを握り、警戒しながらも彼を見つめた。
「生きているのか?」
 彼が最初に発した言葉は、穏やかだった。

 その声が雨音を貫き、静かに耳に届いた。男の灰色の瞳がわたしを捉え、微かな好奇心が垣間見えた。

「……」わたしは警戒し、なにも答えなかった。
 喉が詰まり、言葉が出なかった。義体の反応速度が一瞬遅れ、わたしの緊張が身体に伝わった。

 彼はわたしのそばまで来ると、立ち止まった。
「オレはデイビッドだ。君を助けるためにここに来た」と握手を求めてくる。
 彼の手が差し出され、義体の表面が雨に濡れて鈍く光った。わたしはその手をじっと見つめ、彼の意図を探った。

「助ける……?」わたしは眉をひそめた。
「なぜわたしを? あなたは誰なんですか?」デイビッドは灰色の瞳でわたしをじっと見つめた。
「オレが誰かは、今は重要じゃない。君が『翠』だということだけ、覚えておけばいい」
 彼の声には確信が込められ、わたしの名前を口にするその響きに、微かな記憶が揺れた。わたしは彼の右手を握り返した。
 その握手は冷たく、義体同士の接触が微かな振動を生んだ。

「記憶に混乱があるようだな」わたしの目は泳いでいたようだ。
 デイビッドの言葉が静かに響き、彼の視線がわたしの混乱を捉えた。わたしは目を逸らし、記憶の霧を払おうとした。

「それでも、君は生きている。義体化された身体で、こうして地球に戻ってきた」
「わたしは、ガイアで何が起きたのか知りたい。自分が何をすべきなのか、教えてください」とわたしは敬語で続けた。
 声が震え、ガイアの崩壊が頭をよぎった。わたしは彼にすがるように言葉を紡いだ。

 彼は口元に微かな笑みを浮かべた。
「いい目だ。オレが思っていたより、君は強い」
 その笑みが雨に濡れた顔に映え、彼の瞳に信頼の色が宿った。
「教えてください。あなたが何を知っているのか、わたしが何をすべきなのか」
 ガイアで何が起きたのか、答えを彼が知っていると直感した。

 わたしは一歩近づき、彼の言葉を待ち続けた。雨が強まり、瓦礫に叩きつける音が耳に響いた。

 デイビッドは話し始めた。
「君はガイアの運営管理官で、生物学者だった。君を生かすためキャロルが君を緊急義体化した。記憶喪失はその影響だ」
 彼の言葉が静かに響き、キャロルの名が再び胸を締め付けた。ガイアでの日々が断片的に浮かび、わたしは息を呑んだ。

 キャロル――その名前を聞いた瞬間、頭の中に鋭い痛みが走った。わたしはその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
 痛みが義体の神経を突き抜け、ガイアの制御室やファームの緑が一瞬だけ鮮明に蘇った。雨が顔を濡らし、記憶の波が押し寄せた。

「どうした?」デイビッドが心配そうに見つめてくる。
「何かが、頭の中で……」言葉を絞り出した。目の前が一瞬暗くなり、記憶の断片が蘇る。
 キャロルの声、手術室の光、メディカルロボの音が混ざり合い、わたしを混乱に引きずり込んだ。
 ――手術室。キャロルの声が聞こえる。
『アキラ、生存のためにはこれしかない。急いで! あなたの義体に鍵がある』
 けれど、記憶はそこで途切れた。頭痛が激しく、息が詰まる。

 わたしは膝をつき、雨に濡れた地面を見つめた。キャロルの声が遠くで響き、鍵という言葉が心に引っかかった。
「何かを思い出したのか?」デイビッドの表情が硬くなった。
「手術室……キャロルが、わたしの義体に鍵があるって。でも、はっきりしない……」喘ぎながら言った。
 記憶の断片が霧に包まれ、わたしは必死にそれを掴もうとした。

「君の中にはまだ記憶が残っている。バックドアコードも思い出せるかもしれない――それが、ECOSを復旧する鍵だ」
「バックドアコード……ですか?」
 デイビッドの言葉に、わたしは目を上げた。雨が彼の顔を流れ、灰色の瞳が鋭く光った。

 デイビッドは説明を始めた。
「ECOSはガイアのメインAIだった。ガイアの墜落でコアデータは失われたが、地球再生の要だ。キャロルが君の義体にバックドアを仕込んだ。ERISはコロニーを管理していたAIで、自我が芽生え、追放されたが目覚めてしまい、ガイアを墜落させた。君の記憶と義体が、ERISを止める鍵だ」
 彼の声が雨音に混じり、ガイアの崩壊が現実として迫った。わたしは目を閉じ、彼の言葉を噛みしめた。

「そうです! わたし、西方へ向かえって、脱出ポッドのモニターに写ったAIに言われました。場所がわからないので、ここに上陸したんです」
「そのAIはECOSのオリジナルだろう。西方はセイロン島上空だ。そこにECOSのバックアップシステムと地球再生の鍵を握るステーションがある。キャロルの指示で、オレたちはそこに向かう」
 デイビッドの言葉に、わたしは一筋の希望を見た。西方への道が、わたしの旅の目的だと確信した。

 デイビッドは防水バッグから携帯用AIを取り出し、キャロルに接続を試みた。雨音が響く中、ノイズ混じりの回線が繋がる。
「キャロル、オレだ。デイビッドだ。アキラと合流した」
「アキラ、生きていたのね!」キャロルの声は喜びに震えていた。
「よかった……本当に、よかった……」
 その声が雨を貫き、わたしの胸に温かさが広がった。

 わたしはその声に胸が締め付けられる思いがしたが、記憶が空白のままで、どう答えたらいいかわからなかった。
「キャロル……さん? わたし、あなたを知ってるはずなのに……思い出せなくて」わたしの口から戸惑う声がこぼれた。
「思い……出せない?」キャロルの声が凍りつく。
「アキラ、あなた……記憶が?」彼女の声に不安が混じる。
 キャロルの声に微かな震えが混じり、わたしは彼女の顔を思い浮かべようとしたが、霧がそれを遮った。

 デイビッドが割り込んだ。
「キャロル、彼女は義体化の影響で記憶が一部欠けてる。君やボブのこと、バックドアコードもまだ思い出せてない。時間が必要だ」
「そうなのね……」キャロルの深呼吸の音がする。
「アキラ、ごめんね。でも、あなたが生きてるだけで希望がある。ゆっくりでいいから、思い出して。デイビッド、彼女を頼むわ」
「わかってる」デイビッドがうなずき、通信を切った。

 キャロルの言葉が雨に溶け、わたしは彼女の温かさに支えられた。
 キャロルの声に温かさを感じたけれど、記憶の空白にいらだちがつのる。
「わたし、キャロルさんやボブを知ってるはずなのに……」と呟くと、デイビッドが肩に手を置いた。
「焦るな。記憶は戻るさ。それが君の力だ」
 雨の中、デイビッドは静かに言った。
「君に話しておくべきことがある」そう言って立ち上がり、わたしたちは西方への旅を再開した。

 彼の手が肩を離れ、わたしは立ち上がった。雨が強まり、デイビッドの背中が瓦礫の向こうに進む。わたしは彼を追い、未来への一歩を踏み出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

身体交換

廣瀬純七
SF
大富豪の老人の男性と若い女性が身体を交換する話

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...