ガールズバンドの佐倉くん

小鳥遊

文字の大きさ
上 下
7 / 14

テスト期間到来【後編】

しおりを挟む
次の週の月曜日、特別にバイトを許可されている俺は、いつもどおりにバイトとネットの仕事を済ませ、ホームルームが終わる時間の少し前に、念のため制服に着替え、ノートと筆箱だけを入れた手提げを持って家を出た。

 今日向かっているのは学校ではなく、家から学校に向かって数十メートルのところにある三叉路だ。

 俺がバイトに行っているスーパーの裏側を通るその道は、今まで知らなかったが、菜月と山吹の家への近道だった。

 三叉路に着き五分ほど待っていると、下校する生徒がちらほら見える中、ひと際騒がしい集団が見えてきた。言うまでもなく恵たちだ。

「あ、やっほーマー君!」

 一番に俺に気付き、大きく手を振ってきたのは恵だった。

「やっほーじゃねぇよ」

「あいたっ」

 近寄って来た恵の頭に軽く拳骨を落としてやった。

「山吹はさて置き、お前らふたり近所迷惑って言葉知ってるか?」

「あははーごめんごめん。寝ぼけたなっちゃんが面白いって話しててついはしゃいじゃった」

「ちょっメグ、それ真人に言わない約束でしょ!」

 恵がうっかり口を滑らせてしまったようで、菜月は顔を真っ赤にして慌てていた。

「あっ、そうだった! ごめん!」

 いつまでも騒がしいふたりを見て、山吹は横で苦笑いを浮かべていた。

 いつもなら、静かながらも楽しそうにくすくす笑っている山吹だが、今日はあまり余裕がないように見えた。やはり今日の勉強会が影響しているのだろうか……。

「日が暮れる前にさっさと行こうぜ」

 不安そうにしている山吹には悪いが、あのふたりを野放しにしておいたらいつまでも話が進まないと思い、知らない道を先陣を切って歩き始めた。

「あ、待って佐倉君、私が案内するよ」

 一番に付いて来てくれたのは山吹で、道も知らずに歩き出した俺の少し前を歩いて案内してくれた。

 住宅街の続く狭い道を抜け、大通りから東側に進んだところで菜月とは別れることとなった。

「それじゃ、私んちこっちだから」

 菜月は俺たち三人に手を振り、住宅街のある路地に入って行った。

「アヤちゃんちはまだ先なの?」

「うん、ここからもう少しだよ」

 そこからもう少し先にある横断歩道から道の反対側に渡り、もうひとつ先の交差点から用水路沿いの道を進むと、山吹の住んでいる住宅街が見えてきた。

「……ここだよ、どうぞ入って」

 洋風の立派な家の門を開けた山吹は、緊張した面持ちで俺たちを家に入れた。

「すげぇー、でかい家だなぁー」

「あははぁ、見た目だけで中はそんなに広くないんだけどね……」

「お邪魔しまーす。おおー綺麗な玄関! これはお宝が期待できそうですねぇ佐倉さん」

 恵は入るなり、広い玄関に飾ってある花瓶や絵画を見たり、靴箱を開けたりしだした。

「こら、人んち勝手にじろじろ見んじゃねぇ」

「あいたっ、もう、暴力反対!」

 騒ぐ恵の頭に、後ろから軽いチョップを入れてやった。

「うふふ。さあ、ふたりとも上がって……」

「おう、お邪魔しまーす」

 山吹を先頭にゆっくりと二階の部屋に向かった。前を歩く山吹は、鞄を持っていない左手をぐっと握り締めており、その後ろ姿はやはり緊張しているように見えた。

「……ど、どうぞ」

 部屋の前で立ち止まった山吹は、強張った表情でドアを開け、俺たちを先に入れてくれた。山吹がこうも緊張している理由はなんなのか? その答えは部屋に入って数秒でわかった。

「うわぁー、凄ーい!」

「ほぉー、すっげぇなぁー!」

 小さめのリビングと言っていいほどの部屋の広さにも驚いたが、それよりも、専用の大きなガラス棚に飾られた大量のフィギュアや、複数の棚にぎっしり詰められた漫画やラノベ、アニメのDVDやブルーレイの数に驚かされた。
 思わず語彙力の乏しい感想を述べてしまったが、このアニメショップのような部屋の光景を見たら誰でもそうなってしまうだろう。

「あははぁ……オタク全開で引いちゃうでしょ……」

 山吹は俺たちの後ろで、前で組んだ手をもじもじしながら不安そうに苦笑いを浮かべている。

「そんなことないよ? 私もアニメとか漫画大好きだし。ね、マー君?」

「ああ、確かに驚きはしたけど、全然引いたりしてねぇぜ? 何を隠そう俺もオタクだからな」

 少しでも山吹を安心させるようにと、ぐっと親指を立て、にっと微笑みかけてやった。隣に居た恵も、俺の真似をして山吹に親指を立てて見せた。

「うぅ……ありがとう、ふたりが友達で本当に良かった」

 山吹はぐすぐすと泣きながらお礼を言ってきた。

「おいおい、泣いてお礼言われるほどのことじゃないって」

「そうだよアヤちゃん、大丈夫だから泣かないで?」

 緊張の糸がほぐれたこともあってか、慰めるほどに山吹はぼろぼろと泣いた。

「ううっ、ごめんなさい……中学のころ、オタクなのを馬鹿にされたことがあって怖かったの……でもふたりは違って……初めてこんなに優しくて……」

「そうだったのか……安心しろ、俺たちはお前の趣味を馬鹿にしたりしねぇよ。次お前の趣味を馬鹿にする奴が居たら『人生損してる』ってお前が笑ってやればいい」

「ありがとう……ありがとう佐倉君……ふぇーん!」

「ちょっ! おお、おい山吹⁉」

 涙をぼろぼろ零しながらお礼を言ったかと思うと、大きな声でわんわん泣きながら突然俺に飛び付いて来た。慌てて離れようとしたが、ブレザーの胸元をしっかりと掴まれていて、振り払いでもしないと離れることができない。

「マー君、抱きしめて頭撫でてあげて。今だけ変質者扱いしないから」

「変質者って、お前俺をなんだと思ってるんだよ……でもまぁ、し、仕方ない」

 恵が気を使って言ったことは、確かに今の山吹を落ち着かせるには最善策かもしれない。なぜ恵ではなく俺なのかと疑問にも思ったのだが……。

 今はやるしかないと覚悟を決めた俺は、左手でそっと背中から抱き寄せ、右手でゆっくりぽんぽんと頭を撫でてやると、山吹は次第に泣き止んで落ち着いていった。

 山吹は落ち着きを取り戻してきたが、俺はその裏腹で、自ら女の子を抱き寄せているという事実、そして、女の子の柔らかい感触と、髪から伝わって来る甘い香りを間近で実感し、今にも脳がキャパシティオーバーになりそうだ。

 側に立っていた恵は、そんなぎりぎりな俺と泣きじゃくる山吹の姿を、神々しいほどの笑顔でただただ見続けていた。いったいどんな感情なんだろうか……。

 慰め始めてから五分ほど過ぎ、もうそろそろ俺の心臓が限界を迎えようとしていたころ、山吹はようやく泣き止み、そっと俺を見上げた。

「……ありがとう、もう大丈夫だよ…………はっ⁉」

 俺を見上げた山吹の潤んだ瞳はきらきらと光り、正直綺麗としか言いようがない。しかし、その綺麗な瞳も、秒ごとにみるみる真っ赤に染まっていく頬の存在感には敵わなかった。

「ごごごご……ごめんなさい!」

 落ち着きを取り戻して我に返った山吹は、俺の手をすり抜けるように慌てて飛び退き、すぐに後ろを向いて両手で顔を覆い隠してしまった。

「い、いやぁー、元気になったみたいで良かった良かったーあははは……」

 ぎこちなく笑って気を紛らわせていると、側でじっと見ていた恵が歩み寄って来た。

「マー君…………私もハグして!」

 俺の目の前で、抱っこをせがむ子供のように大きく両手を広げた。

「はぁ? 何でだよ⁉」

「だってアヤちゃんだけずるいもん。ね、いいでしょ?」

「あーもう、あほなこと言ってねぇでさっさと勉強始めるぞ。ほら山吹も」

「えっ⁉ あ、うん……先に飲み物持って来るね」

「そんな気を使わなくてもいいのにぃ。あ、私オレンジジュース、氷多目でお願いね」

「そんなこと言うなら少しは遠慮しろよ」

 狙ってではないだろうが、恵のお陰でいつもの調子を取り戻すことができ、自然に勉強を始めることができた。

 山吹が持って来てくれた飲み物で一息ついた後、恵と山吹は、部屋の真ん中に置いてある大きなローテーブルに、それぞれが苦手にしている科目の教科書やノート、問題集を広げた。

「そいじゃ、そろそろ始めるか。それで? ふたりが苦戦してるのはどの辺りだ?」

「はいはーい! ここの二次関数の方程式のやつと、式の証明ってのがわけわかりません!」

 一番に恵が挙手して元気に答えた。なぜこんなにも自信満々なのだろうか……。

「私は生物の蛙の発生ってところ。蛙さん苦手で全然頭に入らないの……」

 ふたりのわからないところを聞いて、恵の数学はどうにかなりそうだったが、山吹はどうしたものだろうか……。

「よしわかった。取りあえず恵は、問題集の苦手な方程式をノートに解いてみろ。わからないなりでいい」
「はーい」

 恵は大人しくノートに問題を写して解き始めた。

「で、山吹。蛙はどの程度なら大丈夫なんだ?」

「全然駄目なの……教科書の写真見るのも無理なくらい……」

 思い返すだけで顔が青ざめているところを見ると、よほど苦手なのだろう。勉強ができるできない以前に、存在自体を拒否しているとなると教えようがない……と思ったが、とっさにいい方法を思い付いた。

「それだったら、蛙を何か別のものに置き換えて覚えるのはどうだ?」

「別のもの? うーん、蛙さんに代わるものか…………」

 俺の提案を受け入れた山吹は、部屋に飾ってある無数のフィギュアを見渡し始めた。

「あ、あの子がいいかも」

 すっと立ち上がり、ガラスの棚に飾ってあるフィギュアをひとつ持って来た。

「へぇ【疾風忍者コガラシ君】のフィギュアか、良く出来てるなぁ……って、それで大丈夫なのか?」

 そのフィギュアは、巻物をくわえた忍者アニメの主人公が、使い魔の大きな蛙の上に立って印を結んでいるもので、別のものどころか、思いっきり蛙丸出しだった。しかもアニメチックな蛙ではなく、黄緑色をしたリアルなツノガエルだ……。

「うん、ゲコ丸君も蛙さんのキャラクターだけど、蛙さんっぽくなくて可愛いから平気なの」

 蛙が苦手というのが嘘のように、蛙のフィギュアの頭を優しく撫でている。

「そっか、お前がいいならいいけど……」

 おそらく山吹は、ツノガエルはアニメの世界の生き物だと思っているのだろう。少し悪い気もするが、テストが終わるまでは黙っておくとしよう。

 なんとか山吹も勉強を進めることができ、試行錯誤しながら問題集を解くふたりのフォローをしていると、あっと言う間に夕方六時を過ぎていた。

 あまり長く勉強しても身に入らないので、恵が今解いている問題が終わったら今日は終わりにしようと思っていたとき、玄関のドアが開く音がした。

「ただいまー」

「あ、お姉ちゃんだ」

 先生は家に入ってくるなり、二階で勉強している俺たちの様子を見に来てくれた。

「いらっしゃいふたりとも。勉強捗ってる?」

「はい、お邪魔してます。恵が解き終わったら切り上げようと思ってたところです」

「あら、それならちょうど良かったわ。すぐ夕飯作るからふたりとも食べていって」

「やった! 先生の作るご飯楽しみだなー」

 今まで集中していた恵が、夕飯という言葉に飛び付いてきた。

「こら落ち着け恵。お気持ちはありがたいですがご迷惑じゃありませんか? こいつめっちゃ食いますよ?」

「迷惑だなんてとんでもないわ。ご飯は大勢で食べたほうが美味しいでしょ? 遠慮しないで沢山食べていって。私たちもそのほうが嬉しいし」

「そういうことでしたら、お言葉に甘えさせていただきます」

「はーい、甘えさせてあげちゃいます。それじゃ、出来るまでもう少し勉強して待っててね」

 長居すると迷惑になると思ったが、先生の嬉しそうな姿を見ると断ることができなかった。

 それからさらに一時間近く勉強をしていたのだが、時間が経つごとに美味しそうな匂いが漂って来て、途中からはほとんど集中できていなかった。

「ああーこのいい匂い駄目、お腹かが鳴り止まないよぉ……」

「みんなお待たせ。夕飯出来たから下りて来て」

 すっかり勉強の手を止めた恵がお腹を鳴らしてへたっていると、夕飯を作り終えた先生が部屋まで呼びに来てくれた。

「待ってました!」

 今の今までテーブルに顎だけを乗せて脱力していた恵が、嘘のように勢い良く立ち上がった。

 勉強道具を片付け、先生の後を付いてダイニングに下りて行くと、テーブルに美味しそうな先生の手料理が用意されていた。

「うわぁ美味しそう! これ全部先生が作ったんですか!」

「ええ、ふたりが来てくれたから久し振りに張り切っちゃった」

 テーブルに並べられていたのは、大葉で巻かれた小さなハンバーグ、海草のサラダ、きのこが入ったオムレツ、しめじの味噌汁と、一時間程度で作ったとは思えないかなり手の込んだ料理だった。

「さあみんな座って」

 四つある椅子に先生と山吹が隣り合わせに座り、俺と恵は向かいの席に座った。

「それじゃあいただきましょうか。手を合わせて、せーの」

「いただきます!」

 先生のかけ声に合わせてみんなで一斉に言った。なんだか幼稚園のころを思い出す光景だ。

「んんー美味しい! 先生料理上手! プロみたい!」

 いただきますの後、がつがつとあっと言う間に料理にひと通り箸を付けた恵は、頬を押さえて満面の笑みで感激している。

「おお、ほんとに美味い!」

 恵に続いてハンバーグを食べてみたが、大葉のパリッとした食感と風味の後、絶妙な加減でふんわりと固められた挽肉から溢れ出す肉汁と、とろけ出す濃厚な二種類のチーズに思わず笑みがこぼれた。

「良かった、張り切って作った甲斐があったわ。彩乃はどう? ハンバーグ久し振りだけど上手く出来てるかしら?」

「うん! やっぱりお姉ちゃんのハンバーグ最高だよ」

 山吹もハンバーグを食べ、幸せそうな笑みを浮かべていた。

「いいなぁアヤちゃん、いつもこんな美味しいご飯食べれるのかー」

「今日はたまたまよ。私が担任になってからは、帰りが遅くなることが多くなったから、いつもは彩乃が作ってるのよ」

「へぇー凄い! アヤちゃんしっかり者だねー」

「えへへ、お姉ちゃんほど上手くはないけどね……」

「あ、そうだ! 今度アヤちゃんの手料理もごちそうしてよ! マー君も食べてみたいでしょ?」

 褒められて照れる山吹に、恵が追い討ちをかけるように調子のいいことを言った。

「え、あ……その……佐倉君も食べてみたい?」

「ああ、まぁ、山吹が迷惑じゃなければ食べてみたいかな」

「そ、そっか……」

 俺たちに期待されたことがことがよほど嬉しかったのか、山吹は顔を赤くして嬉しそうにしていた。

「それじゃあ早速だけど、明日の夕飯お願いしていいかしら? 明日はテスト問題の最終確認で帰りが遅くなるの」

「わかった。ふたりとも、あんまり期待しないでね……」

「こんなこと言ってるけど、彩乃の料理も大したものだから、楽しみにしててね」

 先生の作った絶品料理と楽しい会話でどんどん箸が進み、ついついご飯を二回もお代わりをしてしまった。恵はというと、ご飯を五杯もお代わりしたうえ、残っているおかずも全て食べてしまった……。

 何はともあれ、夕飯までお邪魔して迷惑にならないか心配だったが、先生も山吹も喜んでくれたようで何よりだ。
「ごちそうさまでした!」

 食べ終わった後、後片付けの手伝いを終えたところで、俺と恵は帰ることにした。

「本当に長々とお邪魔しました。先生のご飯最高でした!」

「うふふ、気に入ってもらえて良かったわ。それじゃあふたりとも、気を付けて帰るのよ」

「はーい! それじゃあまた明日ねアヤちゃん」

「うん、また明日」

「失礼します」

 テスト勉強も順調に進み、その上美味しいご飯まで食べることができ、勉強会初日は順調な出だしとなった。

 次の日もまた同じように待ち合わせし、昨日と同じ場所で菜月は自宅に帰って行った。

「あいつも一緒に来ればいいのにな?」

「ま、まぁ、なっちゃんはマイペースに勉強したいんじゃないかなぁ。成績もトップクラスだし心配ないよ、うん!」

「へぇ、人は見かけによらないもんだなぁ」

 何かを誤魔化されているような気がしたが、この前と同様、深くは聞かないことにした。

 菜月を誘えないまま山吹の家に到着した俺たちは、山吹が夕飯を作ってくれる時間を確保するため、勉強道具を広げて急ぎ足で勉強を始めた。

 今日はふたりとも歴史の教科の勉強で、ふたりまとめて教えることができたので、昨日よりもかなり速いペースで進んだ。

「よし、今日はこのくらいにしとくか」

「ふぅ、お疲れ様でした」

「ふっふっふ、私の賢さに怖気づいたんだな、勉強怪人め」

 恵がにやりと笑ってカンフーのような構えを見せてくる。

「違うわ、誰が怪人だ。今のは山吹に言ったんだよ。お前はこのページ解き直しだ」

「えぇー、またなのぉ⁉ 聖徳太子のとこごちゃごちゃしてわかんないよー。そのうち教科書から消えちゃうのにテストする必要あるの?」

「名前が変わるだけで消えはしねぇよ。てか、苦手なのにそんな情報は知ってんだな」

 駄々をこねる恵の隣で、山吹は早々と勉強道具を片付けて立ち上がった。

「それじゃあ、私は夕飯の支度するから、ふたりはもう少し頑張っててね」

「あ、私も手伝うよ!」

「お前は勉強だ! すまない山吹、俺も手伝いたいところだが、こいつこのままだと歴史赤点になっちまう」

「うふふ、大丈夫だよ。夕飯は任せて」

 逃げ出そうとする恵を取っ捕まえ、快く山吹を送り出した。

「もー、どうして止めたの⁉ アヤちゃんひとりじゃ大変じゃない!」

 山吹が部屋を出た後、恵が膨れっ面で文句を言ってきた。

「俺だってそう思ったよ。けど、あんなに俺たちのために張り切ってくれてんのに、手を出したら逆に悪いだろ?」

 俺の言葉を聞き、恵の膨れっ面は次第に微笑みへと変わった。

「そっか、そうだよね。ほんとマー君ってば優しいんだから」

「ほら、わかったならさっさと勉強するぞ」

「えぇー! やっぱ優しくない!」

 夕飯ができるまでの間、恵が苦手にしている部分の勉強を進めていたのだが、やはり、夕飯時にこうも美味しそうな匂いが漂ってくる環境下では勉強どころではない。

 勉強は区切りのいいところでやめ、その後は部屋に置いてあるフィギュアを眺めながら、ただただお腹を鳴らして過した。

「うぅー、アヤちゃんまだかなぁ……」

「もう少しくらい我慢しろ、子供じゃあるまえし」

 テーブルに顎だけを乗せて唸る恵にそうは言ったが、正直俺自身も空腹で唸りそうだった。空腹時に漂って来る、嫌いな人はそうそう居ないであろうあのスパイシーな香りは、もはや凶器と言っても過言ではないだろう……。

 少しでも気を紛らわそうと、部屋の本棚にずらりと並んでいる漫画を読もうと立ち上がったそのとき、空腹から開放してくれるであろう希望の足音が、部屋の外から徐々にこちらに近付いて来た。恵もその足音に反応し、飼い主の帰りに気付いた子犬のように目を輝かせた。

「ふたりともお待たせ。夕飯できたよ」

 待ちに待ったその言葉に、俺も恵も喜びを隠せなかった。

「やったぁ! 行こうマー君!」

「おう、ちゃんと手ぇ洗えよ?」

「はーい!」

 子犬のように駆け出す恵の姿に、俺と山吹は顔を合わせて笑った。

 恵の後を追ってダイニングに下りていくと、テーブルにはサラダと取り皿、食器だけが置かれており、調理台には美味しそうな匂いの元であろう大鍋と、それを注ぐための皿が準備されていた。このスパイシーな香りは間違いなく……。

「今夜はカレーだから、ふたりとも好きに装ってね」

 大のカレー好きの俺は、表に出さないように心の中で小踊りしていた。

「オッケー、セルフサービスってやつだね」

「うん、みんな好みや拘りがあると思うから」

 一番に皿を取ったのは恵で、まるで大食い選手権に出てくる料理の如く、遠慮なく山のように盛られていた。

「お前フードファイターかよ……」

「いいじゃんお腹減ってるんだし」

「沢山あるから遠慮しないで食べてね。はい、佐倉君もどうぞ」

 山吹に皿を渡され、俺も遠慮せずに多目に装ったつもりだったが、恵の量には到底敵わなかった……。

 山吹も装った後、食卓に並べられた各々のカレーを見てみると、恵はルーが多目でご飯がほとんど見えない大盛りで、俺と山吹は量は違えど、真ん中から綺麗に半分に分けた注ぎ方をしていて、まるで性格が皿に乗っているように思えた。部屋にあったシリーズごとにきちんと分けられ本やたフィギュアを見てもわかったが、おそらく山吹も、俺と同じく几帳面な性格なのだろう。

「それじゃ、いっただっきまーす!」

「いただきます」

「ど、どうぞ……」

 山吹はまだ食べずに、恵と俺がカレーを口にする様子を緊張した面持ちで見つめている。

「何これ!」

 カレーをひと口を食べた恵は、こちらまで驚くほど驚愕した。しかし、恵がここまで驚く理由は俺もわかった。

「あ……えっと……お口に合わなかった?」

「んーん! その逆だよ!」

 恵のあまりの驚きように山吹は困惑している。

「山吹、このカレーめっちゃ美味いぞ! こんなの初めて食べたぜ!」

 見た目こそ普通のカレーだったが、その味は、鰹や昆布など、何種類かの和風の出汁が効いた優しい風味で、後からくるぴりっと辛いスパイスが最高だった。おまけに玉ねぎの煮方にも拘ってあるようで、柔らかくとろけたものと、少し焦げ目の付いたしゃきしゃきのものの二種類が入っており、味だけでなく食感でも楽しませてくれた。

 俺たちの感想を聞き、先ほどまで強張っていた山吹の表情は、ぱっと明るくなった。

「気に入ってもらえて良かった。この和風カレー、私の得意料理なの」

「へぇー、どおりで気合入ってるわけだ。マジで美味いぞこれ」

「こんな旦那さんだったらいいな……」

「ん? なんだって?」

「え、あ、なんでもないの! い、いただきます!」

 小声でよく聞こえなかったので聞き返すと、なぜか顔を赤くして慌ててカレーを食べ始めた。

「ふぅ、美味しかったー。アヤちゃん、お代わり貰ってもいい?」

「はっ⁉ お前もう食ったのか⁉」

 山吹が食べ始めて間も無く、あの山盛りのカレーライスをあっと言う間に食べ終えた恵がお代わりを要求した。

「うん、どんどん食べて」

「やった! それじゃあ遠慮なく」

 山吹のお許しをもらった恵は、子供のようにはしゃぎながら鍋へ駆けて行った。

「遠慮のない奴でごめんな。先生の分は大丈夫なのか?」

「うん、別に取ってあるから大丈夫。佐倉君も遠慮しないでね」

「おう、ありがとうな」

 そんな話をしていると、またとんでもない量のカレーライスを装った恵が帰って来た。

「お前それマジか⁉」

「だってこんなに美味しいんだよ? 育ち盛りなんだからもっと食べなきゃ駄目だよマー君」

 なぜか俺のほうが注意されてしまった……。

「んーっ、ほんと美味しい! アヤちゃん絶対いいお嫁さんになれるよ」

「ええっ⁉、お嫁さんだなんて……私なんかじゃ……」

 恵にいい嫁とまで褒められて照れる山吹は、俺の顔をちらっと見てさらに赤面した。やはり、男子の前でそういう話をするのは恥ずかしいものなのだろうか? 

 恵ほどではなかったが、美味しいカレーでいつもよりも食欲が増し、俺も二杯目を大盛りで頂いた。

 三人でわいわいやって食べていると、食べ終わるころには大鍋が空になってしまっていた。無論一番食べたのは恵だ。育ち盛り、食べ盛りの年ごろではあるが、一食で大盛りのカレーライスを三杯半も食べる女子高生はそうそう存在しないだろう。

「はぁー美味しかったー、アヤちゃんごちそうさまでした! お腹いっぱいで眠くなっちゃったし、そろそろ帰ろっかマー君」

「ちょっと待て」

 食べ終えて早々、家に帰ろうと立ち上がった恵の袖を掴んだ。

「えっ、何? ま、まさか私をデザートにする気⁉」

「するかあほ! こんなに美味しい晩飯をごちそうになっといて、まさかただ飯食らって帰ろうってんじゃねぇだろうな?」

「や、やだなーマー君ってば、私、そんな、薄情なことするわけないですよ」

「片言になってるし、眠そうな目が泳いでるぞ」

 ぎくっという台詞を絵に描いたような表情をした恵は、その後、大人しく俺と一緒に片付けを手伝った。

 何度も言うが、本当に美味しいカレーだった。またいつかご相伴に預かりたいものだ。
しおりを挟む

処理中です...