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冥界の女神
しおりを挟む曇天の空に、荒涼とした大地。
時折、冷たい風と薄い霧が吹きつけて来る。
巨大な樹の根が空から伸びて突き刺さっている泉のほとりで、私はベックと再会した。
ベックが旅立ってから半月も経っていないはずなのに、もう随分長いこと会っていなかったような気がする。
「ソフィ、迎えに来たよ」
座り込んでいる私のもとへ、ベックが近づいて屈み込んだ。
ふと視線を落とせば、泉の水面に先程の異形の黒い影が私に覆いかぶさるように映っている。
私は突然、ベックが見た目とは違う、異質の恐ろしいものだと感知して背筋がゾッとした。
「……どうしたの?」
ベックが首を傾げると、水面の影も首を傾げた。
水面の影には大きな鰐のような口が開きノコギリのような歯が並んでいる。
私など、たった一口で飲み込まれてしまいそう。
突然、キーンという耳鳴りがした。
そして誰かが――優しい女の人の声で私にささやいた。
(こちらにいらっしゃい、愛しい私の子供たち。母の腕の中でゆっくり休ませてあげましょう。あなたはもう十分に辛い世界に耐えて来たのだから)
その時、私の傍らでぐったりと横たわっていたアロイスが、ぱちりと目を開いた。
銀色の長い睫毛をしばだたき、私とベックに焦点を合わせると肘をつきゆっくりと上体を起こした。
「アロイス!」
私は蒼ざめやつれた彼に縋るように抱きついた。
もう二度と彼は目覚めないんじゃないかと、私から永遠に失われてしまったのではないかと、どれほど怯え怖れていたのかを、この瞬間に思い知る。
ああでも、血で汚れた軍服の下にある傷は癒えてはなかった。
彼の頬に霧で湿った銀髪が幾筋か張りついているのを指で払い、真紅に光る瞳を横から見つめる。
アロイスはベックから目を離さず私の背中に手を回すと、庇うように背後に押しやった。
「お前は何者だ? 吟遊詩人ではないだろう」
もう戦う力など残されていないのに。
アロイスは強い視線で、圧倒的に不利なこの状況を打ち負かそうとするかのように、ベックを睨みつけている。
「我が名は、義憤に燃えうずくまるものという。この世界樹を守る竜だ」
ベックは天を仰ぎ、巨大な根を指さす。
空気がビリビリと震え始め、靄がかかってベックの姿を覆い隠した。
靄の中はバチバチと火花が散り、大きく膨れ上がっていく。
時折靄から垣間見れる翡翠色に光る鱗、蝙蝠のような飛膜の翼、巨大な鉤爪、金色に光る瞳孔は縦に長かった。
靄が晴れれば、そこに在るのは見上げるほどの巨大な緑竜だった。
強大で神々しいまでのオーラを纏い、神々の御代より存在するという古代竜。
「森の民の聖女ソフィ。よくぞ世界樹を守り育て、見事に花を咲かせてくれた。今、我はお前達にその借りを返そう」
伝説の竜を目の当たりにして凍り付く私たちに、しゅるしゅると光の紐が巻きつけられると、ぐい、と竜の背中に引き上げられた。
空気中の魔素が竜の元に集められる。
緑竜は翼を広げ重力を無視して、魔力によってぶわりと空へ舞い上がった。
身を切るような風、胃が突き上げられるような衝撃と眩暈。
眼下には霧の大地が広がっている。
蟻のような人々の群れが列をなして大地の裂け目に向かって歩き、その暗黒の奥底へと行進している。
再び、激しい耳鳴りがした。
(私の愛しい息子よ、戻っておいで――!)
白い霧が密集して、美しくも恐ろしい冥界の女神の形を作る。
緑竜よりも、何倍もの大きさの巨大な手がこちらに差し伸べられた。
「冥界の女神が、呼んでいる!」
アロイスは狂ったようにもがき、女神に差し出された手にその身を投じようとした。
「ダメよ、行かないでっ」
私はアロイスにしがみつき、必死に彼を宥めた。
飛翼が旋回し、女神の手をすり抜けた。
光の紐はしっかりと私たちを固定し、竜の背から落ちないようにしている。
やがて、霧の大地と冥界の女神は遥か彼方へと去って行った。
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