AUPD-世界線の繋ぎ目に立つ警官-

からこて

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第36話 梅の花

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「はあ、体力が無くなったなあ…。」

軽く家の周りを歩いただけで息切れを感じる。


幸いにもこの歳まで大きな怪我や病気もなく暮らしてきたが、
やはり日々体力が衰えていくのを実感する。

以前は鉄道会社に勤務していた。
20代の頃からその会社に勤め、定年まで働いた。

今の世代の子だと、合わなければ会社を辞めて違う職場で働く事も多いらしいが、
自分達の世代では入社した会社では定年まで働くのが一般的だった。

都内に庭付き一戸建て。
35年ローンもようやく返済し終わった。

定年になった頃には、もう働かなくて良いのだと言う安心感や解放感が強かったのだが
いざ無職になって数年経てば、それはもう暇で暇で堪らなかった。

趣味という趣味も特に無かったし、たまの外出は友人達と飲みに行く位だった。

だが歳を重ねると共に、友人は1人、また1人とこの世を去っていく。

それは人間として仕方がない事なのだが、顔馴染みがいなくなって行く喪失感は一向に慣れない。



私の妻も3年前に病気で亡くなった。

癌だった。

なんだか具合が悪い、腰が痛いと呟く妻に
「歳だからじゃないか。」と新聞を読みながら答えていたがいざ病院に行くと、
もう治療出来る段階を超えており、医者は妻に余命宣告を告げた。
手術で取れる範囲ではなく、放射線治療をしても余命を少し伸ばすだけだと言われた。


そして、妻は治療を拒んだ。

「十分長生きしたし、満足よ。ただただ、時の流れに身を任せるわ。」

それからは妻の体調に気をつけながら、一緒に旅行に行ったりした。
私はずっと働き詰めだったので、結婚後まともに旅行に行ったのはハネムーン以来だった。

そうやって思い返してみると、私は妻に何の恩返しも出来ていなかった。

毎朝シャケを焼き、味噌汁とご飯を出してくれた。
昼には手作りのお弁当、夜には毎日沢山のおかずを作ってくれていた。

1人なって、ようやく分かるその大変さ。

随分と苦労をかけたと思うが、それでも妻は私に文句1つ言わなかった。
給料日には「いつもありがとうございます。」と労ってくれたし、
私が休みの日には、大好物の魚の刺身を用意してくれた。

仕事に行くスーツはいつも用意してくれていたし、
シャツだっていつもアイロンが掛けられていた。

そんな妻に甘えに甘え、私は良い歳になって家事すらまともに出来なかった。

彼女が亡くなるまで、どれほど私の為に努力をしてくれていたのかが分からなかったのだ。


一緒になって数十年、色々な事を乗り越えて来た。
だが、彼女が私に何か要求をしたのは数える程度だった。

「ハネムーンで行ったハワイにもう一度行きたい。」
「庭に梅の木を植えたい。」
「テレビで有名のあの店のケーキが食べてみたい。」
「スーパーに行くのが大変だから宅配にしたい。」

そんな普通の会話を、私はいつも他人事の様に
「へえ、いいじゃないか。」とか「そうだな。」とかそんな相槌しかしなかった。


妻が病気になり、入院するまで俺は最低の男だったと自覚している。


いよいよ病状が悪くなり、妻に「何かして欲しい事はないか。」と聞くと、
彼女は少し考えた後、「あなたが居てくれたら、それで良いわ。」と呟いた。

私はその時、妻の前で初めて号泣した。

そんな様子を見て、彼女は微笑みながら「あなたといれて楽しかったわよ。」と言った。


その日の夜に、妻は亡くなった。


そこからもう3年、私は1人暮らしをしている。
子供達も巣立った後なので、戸建てでの暮らしは正直不便だった。
2階なんて全く使っていないし、掃除も手間で大変だ。

今年で80歳にもなるし、
そろそろこの土地を売って老人ホームにでも入居しようかと思っている。



「行って来ます。」
私は誰に言うでもなく、玄関先で1人呟いた。

早朝にウォーキングをしに行くのは毎日の日課だった。
同じコースを歩き、数十分で家に帰ってくる。

健康の為に始めたウォーキングだが、
川沿いを歩いていると四季折々の変化が楽しめる。

今日も春の訪れを感じながら私は歩いた。


だが、1歩進んだ時に不思議な感覚に襲われた。
グルンと自分が、いや世界が回ったかの様な気がした。




目を開けると、そこは空中がキラキラと輝いていた。

「…綺麗だ。」

そう呟いて空を見た。

まるで昔テレビで見たダイアモンドダストの様だ。
空中が、空気の揺れを感じてキラキラと輝いている。

私は今までの景色とは一変したその光景に、不思議に思いながらも歩き出す。

空気中の微粒子が七色にひらめき、歩くたび靴底が淡い光を散らした。

街並みは見慣れたはずの東京なのに、
ビルの外壁や川の表面に、虹色の縞がゆっくり揺れている。


いつもの散歩コースなのに、その綺麗な景色に胸が高揚した。

私はまるで少年に戻ったかの様に、胸を弾ませながら歩いていた。


もしかしたら私は、死んでしまったのかもしれない。
その位、現実味がなくどこか夢の中にいる様だった。


通りすがる人達はみな私に挨拶をし、微笑んでくれる。
誰もが笑い合い、幸せそうにしている。

そんな様子に私も自然と口角が上がり、丁寧に挨拶を返した。


少し歩いていると道端で、数人の子ども達が並んで立っていた。

色々な動きをして自分の影に虹を映し、楽しそうに笑っている。

私は遠目でその様子を微笑みながら見ていたが、子供達が手招きをする。

「おじいちゃんもやってみなよ!」

そう言われ、子供達の隣に立ち自分もやってみる。
自分の影が動く度に、クネクネと虹色に動いている。
奇妙だが、とても綺麗な様子だった。

私は自然と「不思議だねぇ」と頬を緩めると、
「不思議だねえ。」と同じ様に子供が返し皆で笑った。


「すみません。AUPDです。」
トントン、と肩を叩かれ振り向くと2人の男性が立っていた。

「すみません、何と仰いましたか?」
私は少し耳が遠いので、もう一度聞き返した。

「あ、AUPDのセイガとアマギリです!あなた今世界線の越境をしてまして!」
セイガさんと言う人が大きな声で話をしてくれた。


内容は、今私は別の世界線とやらにいるらしい。
到底信じられない内容なのだが、実際目の前の光景を見ると納得してしまう。

ここは光の屈折率が高く、こう言った虹模様がいたる所に出来るらしい。


そして私は、今から元の世界線に限りなく近い世界線に移送されるとの事だ。

セイガさんの隣にいるアマギリさんは、
「少しだけ、違った世界線です。交友関係とか少し違う可能性があります。」
と大きな声で丁寧に教えてくれた。

私は少し考えた。
もし私が若者であれば、交友関係が変化したら大変な事だろう。
だが、この歳ならばそこまで影響は無いと思う。
むしろ、変化が起きて亡くなった友人が生き返ってたりしないかな、と期待すら覚えていた。

「何が起きても、大丈夫です。」

私がそう言うと、「じゃあ今から移送しますね。」とセイガさんが何かを操作した。



「あ、戻って来たのかな?」

次に目を開けると、今までと同じ街並みの中に立っていた。
先ほどまでは粒子が虹色に輝き綺麗だったのだが、目の前にはもうそんな光景は無かった。

今まで通り普通の街並みだ。

死んだんじゃなかったのか、と少しホッとしたが
むしろ死んでいた方が良かったのかもしれない。
それ程までに、綺麗な光景だった。


私はそのまま家に戻った。

何やら変化があると聞いているが、私はどうなってしまったのだろう。

家の前に着き、表札を確認するも自分の苗字だった。
35年ローンを完済した家がもし他人の家になっていたら悲しいので、
取り敢えず良かったと思い玄関に入る。

「ただいま。」
返事は勿論返って来ない。

家の中に入り、真っ先にアルバムを確認してみた。

定年後、カメラが趣味になった友人が送ってくれたアルバム。

一緒に飲みに行った時や、町内会の行事の時に撮ってくれた写真だ。

写真を確認すると、見知らぬ男性が私達と仲良さげに写っている。
どこの行事にも一緒に写っていた。

私は知らない男性だが、この世界の私とは仲が良いのだろうか。
ページを進めて行くと、ある時期からその男性は写真に映らなくなっていた。

他の友人達もそうだ。
どんどん少なくなって行く仲間達。

きっとその男性も亡くなってしまったのだろうか。
私にとっては知らない男性だが、仲が良さそうに映る写真を見て心が切なくなった。


その後、一通り家の中を確認したが、特に目立った変化は見られなかった。


だが、ふと廊下の窓越しに庭を見て息をのむ。


そこには高さ二メートルほどの木があり、枝いっぱいに白い花が咲いていた。


「……梅の…花…?」


思わず庭へ出る。

3年前、妻が「庭に梅を植えたい」と言った時
「いいんじゃない。」と返した。
でも、その後に「手入れが大変だろう。」と首を振った私。


しかし今、その木は見事に成長しほのかな香りを漂わせている。


枝の足元には剪定ばさみが置かれていた。

どうやらこの世界線の私は、妻の願いを受け入れていたらしい。

自分の家なのに自分の家ではない奇妙な感覚を覚えたが、
美しく咲き誇るその花の綺麗さに暫く目で楽しんだ。


居間に戻ると、見た事がない写真立てが1つだけ増えていた。
映っているのは、満開の梅の木の前で並んで笑う私と妻。

妻は病を患う前の、元気な顔だった。

思わず写真立てからその写真を取り出し、妻の笑顔を見つめた。

写真の裏には妻の筆跡で日付があり、
《初めて咲いた梅の下で ありがとう》と一言添えられていた。


あの虹の影の世界線も美しかった。
けれど、この梅の木の下で妻が笑った世界なら、自分には十分すぎるほど幸せだ。


私は縁側に腰掛け、空を仰いだ。
穏やかな春の風にまじり、かすかに梅の花が揺れていた。


「ただいま。一緒に、梅の花を見れたんだね。」


それに答える様に風が揺れ、私の頬に花びらがひとひら落ちた。


それは虹の影よりも淡く、それでも胸を満たす確かな光だった。
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