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隣に寄り添う人の姿は

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「それにしても驚いたわ、婚約解消だなんて」
 従業員に店を任せたレオンツィオとニナは、スザンナたちとお茶を飲みながら言葉を交わす。レオンツィオが不意にその言葉を漏らすと、ニナは慌てた様子でレオンツィオを見やった。
「レオンツィオ、そんなはっきり……」
「あら、駄目だったかしら。婚約破棄じゃなくて解消だったから、双方合意の上でのものだったんでしょう? それにレディ・アリンガムも落ち込んでるふうには見えないし、執事くんなんかちょっと嬉しそうな感じすらあるし」
「おい」
「あら失礼。つい本音が」
 口元に手を当ててオホホ、と笑うレオンツィオを、ハロルドはじろりと睨みつける。
 ニナがおずおずと、口を開いた。
「あの、あの……実はわたしも昔、王家と婚姻を結んでいたことがあって……あ、故郷の国でのことなのですけど……それで、わたしの場合は婚約破棄、で」
「えっ!!」
 思わず声が上がってしまい、スザンナも慌てて口元を抑える。ニナはふふ、と笑って、話を続けた。
「でもそのお陰でレオンツィオと出会えて、今こうして二人でお店を持てて……えっと、何が言いたいかと言うと、決められた道がなくなってしまっても、きっと次の道が見つかります! ……見つかると、思うんです!」
 両手の拳をぎゅっと握りしめて力説するニナの姿に、スザンナは表情を綻ばせる。
 長い時間費やした王妃教育を思えば、思わず失意を感じてしまうものだけれど。沈んだまま、落ち込んだままでいることもないのだと思った。オズワルドを心から愛していた、というのなら話は別であるが、彼に対する感情はそういったものとは違う気がしている。なぜ婚約解消に至ったのか、気になる部分は残っているけれど。
「ありがとうございます、マダム・ミネルヴィーノ。今は目的を失ってしまった心境ですけれど、新しい道を探してみようと思いますわ。自分の時間はたくさん出来ましたもの」
「えぇ、それがいいですわ。お店にもぜひまた来てくださいね。執事さんも一緒に」
「お嬢様が望むなら、どこへなりと」
「あんたの執事仕草って、ちょっとなんていうか、いやらしいわよね。癖があるっていうか」
「お前はさっきから何なんだ」
「うふふ。お節介焼きの本能がどうしてもね。そうだわニナ。前に新しく発注していた帽子があったじゃない? あれ、レディ・アリンガムに似合うと思うのよね。ちょっと見せてあげてちょうだい」
 ぱちりとウィンクするレオンツィオに、ニナはすぐに笑顔で頷いて立ち上がるとスザンナの手を取った。
「レディ、こちらへ。まだ他のお客様には見せていないものなんですよ」
「おい、移動するなら俺も」
「あんたはここで『待て』よ。女には女の、男には男の都合があるってものよ。ねぇ、レディ・アリンガム?」
 スザンナは正直、レオンツィオの言っていることを理解していなかった。だが彼がやたらと自身に満ちた口調で同意を求めるものだから、思わず「そうですわね」と頷いてしまう。そうしてニナに誘われるままに、サロンを離れて行った。
「……それで? 執事くんはこれからどうするの?」
「どうする、とは?」
「レディ・アリンガムよ。婚約から解消されて、弊害はなくなったと思うのだけど?」
「言っている意味がわからんな」
「アタシの目は誤魔化せないわよ。うまく隠しているつもりかもしれないけど、時々溢れてるのよね。特別な感情が」
 ハロルドはちっ、と舌打ちをする。その容姿のせいで、とんでもないガラの悪さであった。
 ファータ・フィオーレ・ソレッラが開店してからずっとこの店に通っている二人の関係は、レオンツィオとニナには知られていた。尤も悪魔であることは隠してはいるが、スザンナと二人きりのときの態度を見れば、ただの従者ではないことは明確で。そもそも普通の執事ならば、サロンで仕える主と向かい合ってティータイム、などしないだろう。
 最初こそハロルドはしっかり従者のふりをしていたのであるが、通っているうちに面倒になったのか、レオンツィオの勘の鋭さに気づいたのか、あっと言う間に素を出すようになっていた。
「どうするの、っていう問いかけは違ったわね。どうしたいの? あなた」
「どうもしない。……どうも、出来ないが正しいか」
「主と従者だから?」
「そんなことは大した理由じゃない。まぁ……誓約、のようなものだな」
「――あまり深くは聞かないけど。それは破れないものなのね?」
 どこまで気の回るやつなのだと、ハロルドは喉を鳴らして笑う。スザンナの両親と交わした「約束」ではない。それは決して抗えない誓約。
「あぁ……もうずっと、な……」
 レオンツィオは腕を組み、じっとハロルドを見る。とんとん、と指で腕を叩き、小さく息を漏らした。
「根本的な質問を変えましょう。もしその誓約がないものだとしたら、あなたはどうしてる?」
「そうだとしたら、俺は今この場所にいないだろうな」
「あぁもう、埒が明かないわね! レディ・アリンガムの手を取る気はないの?」
 ハロルドの赤い瞳が、ふっと細められる。スザンナにだけ向けられる、彼女のことを想うときだけに見られる穏やかな色。
 もう答えは出ているのではないのか。レオンツィオはそう思っていた。
「果たして俺にその資格があるのかどうか……――そう考えない日はねぇな」
 スザンナの目を見る度に。気遣う言葉を聞く度に。心が押しつぶされてしまいそうな、そんな感覚を覚えるのは……罪悪感、だろうか。
 遠くを見つめるハロルドに、レオンツィオは眉を潜めてため息をつく。やれやれと首を振って、口を開いた。
「見掛け倒しって言われない? 図体ばかりでかくて、臆病なんだから」
「お前はその外見の割りにずけずけとものを言うよな」
「あーら、褒め言葉として受け取るわ」
 男たちが、程度の低い悪態を付き始めた頃。
 ニナに連れられたスザンナは、店の中にある別室へと来ていた。あまり大きくはないテーブルとソファーに、クローゼットが置いてある。部屋の至るところに服が飾られ、装飾品も並べられている。ニナはその中からつばの広い、青色のリボンがついた帽子を手に取り小さく声を上げた。
「どうかされまして?」
「え、えぇ。この帽子、レディ・アリンガムに似合うと思っていたのですけれど……リボンのお色が、その……」
 青色は、オズワルドの瞳の色だった。婚約しているうちであるなら問題なかったが、今は婚約を解消した身である。その色をスザンナが身につければ、未練があるように思われてしまうことが容易に想像できた。
「ご、ごめんなさい、気が回らなくて」
「そんな、気になさらないで。婚約解消の件はそこまで深く傷ついているわけではありませんし……それにリボンの色は変えてしまえば良いのですわ。素敵な帽子ですもの、気に入りましてよ」
 笑顔を見せるスザンナに、ニナはぱっと表情を明るくして頷く。すぐに別のリボンを、と言いながらニナは、楽しそうに何種類ものリボンが入った箱を探る。
「……マダム・ミネルヴィーノ。少し、聞いても構わないかしら。あ、作業は続けてくださって結構よ」
「はい、なんなりと」
 ニナは一度手を止めて、スザンナに向かって笑いかける。ソファーに座るように促しつつ、自身は箱の中から一種類のリボンを取り出して帽子に付け替え始めた。
「マダムから見てわたくしって、まだ子どものように見えまして?」
「え? えぇと、そうですね……わたしよりも年下ですし……でも、わたしがレディと同じくらいの歳の頃は、もっと幼かったと思います」
 にこにこ笑いながら、手元の動きは止めずに答える。
「そ、そう……ではなぜハル……ハロルドは、わたくしのことを子ども扱いするのかしら」
 ニナがぱちりと瞬きをしてスザンナを見ると、スザンナは拗ねたような表情を浮かべて唇を結んでいた。きゅぅ、と胸を締め付けるような感覚ーーレオンツィオ風に言うのなら、「なんて可愛いの」だろう。
「まぁ……レディ……」
 なぜかきらきらとした眼差しを送るニナに、スザンナはびくりと身体を強張らせる。それから腕を組んでそっぽを向くと、慌てて口を開いた。
「べ、別に、悔しいとか、そういうのではなくってよ! でも子ども扱いなんて、元、とは言え王子殿下の婚約者でもあったわたくしに対して失礼ではありませんこと!?」
 ニナは益々笑みを深め、糸切り鋏をぱちりと鳴らし、新しくリボンをあつらえた帽子を持ってスザンナに歩み寄った。
「執事さんは、レディがまだ幼い頃から一緒におられるのですよね」
「え、えぇ。弟なんて、まだ生まれていない頃からですわ」
「レディの成長を見て来たのです。だからつい、そうやってからかってしまうのですわ。男の方って、照れ隠しでそういうことをしてしまうそうなんです。レオンツィオの受け売りですけれど」
「……本当? 照れている、のかしら」
「本当のところは、執事さんにしかわかりませんが……でも、レディ。子どもっぽさも、時には魅力の一つになります。だからレディはレディのままで、今のままで充分、素敵だと思います」
 だって、と、ニナはスザンナの頭に赤に銀色の刺繍が入った帽子をそっと被せる。
「レディはこの店に訪れたときからずっと、花の妖精ですもの」
 優しく肩に手を添えられて、姿見へと身体を向けられる。つばの広い帽子を被ったその姿は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「……マダム、お上手ですわ」
「ふふ。旦那様の癖が移ってしまったみたいです」
「お似合いの夫婦だと思いますわ。嫌味じゃなく、心からそう思いましてよ」
 並んだ二人の姿を思い出して、そう伝える。寄り添う姿も、共に仕事をしている様も、本当に素晴らしくお似合いの二人だ。
「わたくしも、いつか……」
「えぇ、きっと。心から寄り添える相手が見つかりますわ」
 スザンナは鏡の中の自分を見つめて、こくりと頷く。隣に思い描く相手の姿は、いつも隣にいる男のものだった。
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