心の鍵と彼女の秘密

アルカ

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本編

12 碧石のブローチ

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「二十年前のあの日、第一王妃マリアルー様は毒を盛られ息絶えました。銀のスプーンでも反応しない東方大国製の高価な毒薬。手に出来るものは限られていた。そして第二王妃の周辺を調べていた一人の侍女が姿を消した」

 微笑むレンディールの横で言葉を継いだハルフェイノスの紫の双眼は輝いていた。
 罪人を炙る炎を宿したその瞳に、ミレルヴァはまだ立ち直れない。

「バーンズ侯爵! なんという恐ろしいことを。ご病気でお隠れになったお方の死を汚す様な妄言を口にしては、貴方の品位も疑われますぞ」

 メールナード侯爵が急いで反論をする。しかし既にカールストンとのやり取りで信用を無くしている彼の言葉は上滑りして響いた。

 ミレルヴァは、何とか呼吸を思い出す。
 ――大丈夫、誰にも真実なんてばれていない。
 この二十年誰からも糾弾されることはなかったのだから。
 レンディールが知るはずもない。バーンズ如きに調べられるはずが無い。彼らはあの時ほんの若造だった。

「大丈夫ですか、ミレルヴァ様」
「もちろ……」

 一人の侍女がふらつくミレルヴァを支えた。その手を支えに態勢を立て直し、攻勢を仕掛けようとしたミレルヴァは再び固まった。

 手を貸す侍女は艶やかな黒髪。
 いつの間に傍に寄って来たのだろうか。
 そもそも侍女などこの謁見室に入室を許されていないはず。
 ――黒髪は嫌い。大嫌い。
 いつもの癖で無意識に視界から除外しようとしたミレルヴァの目はしかし、侍女の首下に釘付けとなった。
 この謁見室と同じ第一王妃の貴色の碧石。
 その見事な碧石のカッティングは埋めてしまうには勿体なかった。だから誰にも取られないように、見つからないように、生家の部屋に大切に仕舞っておいたのに。

 それが今、自分を支えている侍女の首下に輝いているではないか。



 アリシアはミレルヴァの背中に腕を添えながら、ゆっくり首を傾げた。
 ゆるくカールをさせた黒髪が、その動きと共に肩に落ちる。今日のアリシアは黒のかつらを付けていた。瞳の色はどうにもならないのでそのままだけれど、ハルフェイノスも初めて目通りした第一王子も、アリシアの黒髪姿に、懐かしそうに目を細めていた。
 アリシアを通して、今はもう存在しない彼女が人々に思い出されるなんて、不思議な感覚だ。
 今回の肝ともいえる変装に不安は無かった。だってこの瞬間こそ、アリシアとハルフェイノスが目指したもの。そして何より頼もしい相棒が一緒なのだから。

 にっこりと微笑むと、ミレルヴァの視線は首下とアリシアの顔を行き来する。
 今アリシアが身に着けているのは、メールナード侯爵家のミレルヴァの金庫から見つけ出したブローチだ。碧石の繊細なカッティングは、間違いなく国宝級。

「……ルクレツィア!?」
「おや? 消えた侍女の名をよく御存じで。彼女は私とスーシアの侍女だったのですが」

 ミレルヴァの震える声とレンディールの追い討ちに、メールナード侯爵が息をのんだ。
 悲鳴のような声で名を紡いだミレルヴァに、アリシアは一歩離れて淑女の礼を取る。黒髪がまたふわりと揺れた。

「嘘よっ! だってお前はグランドーの土地に……」
「やはりグランドーでしたか。場所は王領地に面した辺りですね? 他貴族の領地に面していては安心できない。かといって領主館の近くなどもっての外。王領地は自分のものだと思っていらっしゃるあなたらしい」

 レンディールの、質問というより断定の言葉にミレルヴァばかりに注視していた人々は振り返るが、彼女には何も聞こえないようだ。


 ――その表情はあの時のルクレツィアと同じ。まるで哀れな者を見るように、中の中まで見透かすように。
 その首に手を掛けて絞めあげる。ほどけて広がった黒髪が指に絡みつく。
 もっと醜く苦しめばいいのに、あの時確かにルクレツィアは笑った。
 死にゆく命の傍らにある碧石の色がとっても綺麗で、欲しくて欲しくて仕方がなかった。

 ――ただ一番になりたかっただけなのに。それの何処がいけないの。
 王と第一王妃の婚礼を見たときから、あの地位と輝く碧石は対でミレルヴァの欲しいものになった。
 また取り戻さなくては。この美しい碧石は王妃わたくしにこそ相応しい。




「アリシアっ!!」

 ランクスは駆け出した。
 国王の面前だろうとどうでもいい。居並ぶ重鎮達も頭の中からすっぽり抜け落ちた。
 第二王妃がアリシアの首に手をかける様を目にして、全身が総毛立った。
 ほんの数歩で到達し、第二王妃の手を容赦なく払い上げてアリシアを胸元に囲い込む。
 後ろに倒れた王妃は、それでもじっとブローチを見つめている。

「連れて行け。私の許可なく部屋から一歩でも出ることは罷りならん」

 感情の窺えない声で命じる国王に、壁際に控えていた近衛は王妃を拘束した。
 第二王妃が侍女の首を絞めるという恐ろしい場面に、彼らはほんの一瞬出遅れた。女を見殺しにする訳にもいかないが、第二王妃に怪我をさせたら首が飛ぶ。そんな風に躊躇した間にランクスが素早く割って入った。
 首は飛ばないだろうが懲罰は覚悟だな、などと思いながら彼らは無抵抗の第二王妃と、うるさく喚くメールナードとカールストンを連行する。


 腕の中のアリシアは首元を押さえて咳をしているが、確かに生きてる。
 だがランクスの動悸はなかなか収まらなかった。抱えた彼女が震えていると思ったら、小刻みに震えていたのは自分の手だった。ギュッと握って無理やり止める。
 一歩を踏み出す自分の足を、今までこんなにももどかしく愚鈍に感じたことはなかった。全身の血が逆流したようになり、鼓動は激しいのに冷や汗が止まらない。

「っ怪我は!?」
「大丈夫です。ちゃんと躱せなくてごめんなさい。吃驚させてしまいましたよね?」
「いや……遅くなってすまない」
「遅くなんてありません!」

 アリシアの手を取り自らの頬を寄せる。温かかった。大丈夫、彼女は無事だ。

 怖くて仕方がなかった。自分に及ぶ暴力を怖いと思った事など、ただの一度も無かったのに。彼女に向けられた直接的な暴力の恐ろしさに震える。
 今までの潜入や捜査で、アリシアに直接暴力の矛先が向く事なんてなかった。だが今回その場面を目にして、想像してしまったのだ。

 彼女の柔らかな身体に女の指が食い込む。
 もしあれがナイフだったら。鋭い剣を一振りされたら。
 目を閉じたアリシアはそのラベンダーの瞳を自分に向けることはなく、もちろん笑い掛けることも無い。
 突然目の前が灰色の壁で覆われた気がした。その先には何もない……。

「大丈夫かい、アリシア」
「もちろんです、ハルフェイノス様」

 そう言う彼女が自分の腕の中から抜け出して、ハルフェイノスに両手を取られるのを、理性を総動員して耐えた。その腕を、温もりを放すことを受け入れたのは、まだ自分にその資格が無いと思い出したから。
 拳を再び強く握るランクスは、精一杯の矜持をかき集めて平静を装った。


 当たり前に自分の大切な女性を離さなくてもいい立ち位置。
 これまで生きてきて、今ほどそれに焦がれたことはない。


 ・・・・・・・・・・


 国王の私室。
 呼ばれたのはレンディールただ一人。


 勧められた酒をレンディールは断った。
 どうしても問い質さなければならないことがある。

「私があんな機会を設ける必要も無く、最初からご存じだったのですね。陛下」
「……少し長い昔話になるが」
「構いません」

 レンディールの即答に国王は少しだけ笑い、続ける。

「そうだな。今宵くらいしかお互いに話せる時間などないだろう。明日から私もお前も多忙を極める」


 アストーン国王が王位に就いたのは十八歳の時。
 大陸はまだまだ数年前の全土を巻き込んだ戦争の軋轢が燻り、安定とはほど遠い。若いなりに必死に内政と外交を行い、親世代の戦争の記憶がまだ残る隣国との和平条約を結んだのは、彼が二十五歳の時だった。両国の和平の象徴として、隣国の王女マリアルーは供も付けずに輿入れを行った。完全な政略結婚だったが、国王なりに妻を大事にしてきたし彼女も国に良く尽くしてくれた。すぐにレンディールを授かり彼が五歳まで無事に育った頃、国内から第二王妃の話が持ち上がった。
 父王の存命中も絶大な権力を誇り、戦中には貴族を取り纏めて貢献した貴族院議長、メールナード侯爵の申し出を断るわけにはいかなかった。即位して十二年、黒い噂はちらほら聞こえていたものの、内政の主軸の機嫌を損ねる訳にもいかずミレルヴァを第二妃に迎えた。
 第一王女のスーシア誕生と時を同じくして、ミレルヴァが第二王子のオザナムを産んだ。

「そこからメールナードは変わった。あからさまにオザナムを王位に就けようと画策し始めた」
「だから世話係という名目でルクレツィアがやって来たのですね」

 元から王宮に収集員として出入りしていたルクレツィアだったが、子を産んだあとは絶好の役目だと世話係として配置されたのだ。

「あれはバーンズの駒だった。バーンズ侯爵家の役目はもう知っていると思うが」
「はい。バーンズ侯爵家は代々王家に仕える『耳』。ハルフェイノスは私に仕えると誓いました」
「ははっ。流石は変わり者のハルフェイノス・バーンズ、本来ならば拝爵と共に国王に仕えるのが慣習なのだがな。だが彼らの忠誠は本物だ……だからこそ先代バーンズ侯爵には酷な事をしてしまった」

 琥珀の酒を少しだけ含み、国王は遠く懐かしむ目をする。

 王妃の死は勿論最初から暗殺として認識され、調べが行われた。
 どうしても検出されなかった毒薬も、ルクレツィアの働きにより処方書と共に手に入り、東方大国への確認作業も行われ出荷先と仲介業者も突き止めた。当時密輸に手を貸したカールストンの事も判明している。

「……その時点で公表すべき証拠は揃っていたのですね」
「ああ、今でも全て揃えて金庫に納められている。但し公表はレンディール、お前が即位する日と極秘会議で決まった。理由は今ならわかるだろう」

 レンディールは衝撃に一瞬震えた。
 大人達は、決して第一王妃の死を完全な闇に葬るつもりではなかったのだ。

 当時毒殺と知れれば、隣国は嬉々として正義の御旗の下攻め込んで来ただろう。幼いレンディールとスーシアの保護も理由になる。防げたとしても、隣国とは決裂し国内が戦争で疲弊では他国から恰好の餌食だ。
 その上貴族院議長のメールナード侯爵家を欠いては、国内紛争も起こりかねない。
 結果、第一王妃は病死。一人の侍女が失踪として公式には処理された。

「それが決まっているのなら、今回どうして私の提案を受け入れてくださったのです」

 レンディールが即位出来るのは早くても一年後だ。
 東方大国王女との婚姻と立太子を終えた後だから、一年以上は確実に先になるだろう。
 その前にレンディールとハルフェイノスは彼等の悪事と共に、二十年前のミレルヴァの所業を口にした。たとえ選ばれた近衛しか配置されていなかったとしても、人の口に戸は立てられない。もっとも、それを狙ってあの場で公言したのだが。

「お前が謁見室で言った通り、今が闇を払い正すべき好機だからだ。すっかり増長したメールナードとミレルヴァの行動は、放っておく方が害が大きくなってきていた」
「その上人身売買をはじめようなどと、愚かな尻尾を出してくれましたからね」

 ミレルヴァが騒ぐだけなら国王は相手にしなかったが、人身売買に手を染めるのはやり過ぎだった。それに国の中枢に連なる公爵の愛娘にまで手を出すならば、放置する方が国内紛争の危機を招く。
 せっかく隣国との繋がりは草の根の民間交流にまで及んで、かつて対立していた大陸の国々の記憶も薄れているというのに、国内がごたついてはまた戦争の隙を与えてしまう。

「ああ。そして私の息子はそれらを調べ上げ、抑えるだけの人材を揃えて戻って来てくれた。これほどの好機などないだろう」
「……試したのですね?」

 レンディールは目を眇めて国王を睨みつける。その権利はあると思う。
 雪中訓練の強襲や、意図的な連携の乱れ。ミレルヴァやメールナードの差し金かと思っていたが、なるほど、手際の良さはこの男の試練か。

「国境線で二年の任期を務めあげ、あのバーンズ家を従えた今のお前なら、外も内も文句は言わぬ。それに、お前を試したのは私だけではないぞ?」
「わかっています」

 ハルフェイノスは任期があけて戻ったレンディールを、一年も様子見していたのだ。
 面白そうに口角を上げる国王に、レンディールも思わず苦笑いを浮かべた。
 お互いこのような素の表情を見せることなど今迄無かったし、想像もしなかった。



「少なくとも今回の件でメールナードとカールストンは取り潰しだ。ミレルヴァの件は保留になるだろうが、王位を継いだ後の方が危険が少なく済む。お前にも、他国王家に嫁いだスーシアにもな。グランドーの土地は早々に預かりとなるだろうから、勇敢な侍女を見つけ出してやるといい。……ところで次の貴族院議長は誰だと思う?」
「オケリー公爵かと」
「それしかないだろうな。あとの事は宰相と詰めるといい。あれはこの件の全てを把握している。高齢だが新国王の新しい宰相が決まるまでは、尽くしてくれるだろう」
「まるですぐさま隠居をするようなおっしゃりようですね」

 少なくともあと一年、レンディールはただの第一王子だ。

「もちろん公務は手伝うが、第二王妃を連れて王領地に引っ込むことになるだろう。場所はもう整えてある。数年内には移るつもりで準備していたからな……そう、グランドーの境界が見渡せる場所を」

 ――復讐だ。
 自分とは違う方法でミレルヴァを裁判までの間苦しめる事を、まるで隠居の楽しみの一つの様に語る国王に、レンディールの背筋を先程とは違う震えが走った。先日ハルフェイノスと共に視察に行った地で間違いない。確かにあそこから良く見える小高い丘に、堅牢な塔を備えた小さな城が存在した。きっとあそこは国王がミレルヴァに用意した専用の檻なのだ。
 ルクレツィアを見つけ出しても、それがミレルヴァの耳に入ることは絶対にない。彼女は目と鼻の先にあるグランドーの土地に怯え、暴かれる恐怖に日々怯えることになるのだろう。

「そこまでされる覚悟だったのですね」
「これくらいは負うべきだろう? 私は優秀で忠実な臣下の死を隠した。……そしてマリアルーを守れなかった。王としても夫としても落第点だ」

 レンディールは、王としての選択が間違っていたとは言えないと分かっている。それでも母の死の真実を伏せ侍女の死を隠した事に、幼い頃に感じた父へのわだかまりが今までは中々消えなかったのだ。

「ルクレツィアは幼い私に、人は知る事によって強くなれる生き物なのだと諭しました。今はそれを強く感じます。こうして真実に辿り着かなければ、父上、ずっと貴方を誤解したままでした」
「選択肢は多い方が良い。知らなければ愚策すら選べない。世の中には知らない方がいい事もあるというが、私達にはそれは当てはまらない」

 レンディールはゆっくりと頷く。
 初めて自分の父親も、様々な葛藤と悩みを抱えた不器用な一人の人間なのだと思えた。

「ところで、オザナムの事はどうしましょうか」
「ああ、お前と同じように二年ほど国境の任地に就くのが良いのではないか。アストーンは元は武の国、あれにも少しは独り立ちしてほしいものだ」
「ご心配なく。かの任地には私の知り合いも数多く残っております。きっと親身に指導に当たってくれるでしょう」

 にっこりと完璧な笑みを湛えるレンディールに、今度は国王が苦笑いを浮かべた。
 次はオザナムが後ろ盾も無く荒波に乗り出す番なのだ。
 真実を知らずに、現実を受け入れずに生きていく事は許されない。どんなに責められようとも務めを全うするのが、王族として生まれた責務なのだから。

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