あの空の向こうへ

中富虹輔

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第十八話 「資格」

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 彼は、スケッチブックに目を向け、唇を噛んだ。
「資格があるとかないとかじゃなくって……」そこまでいって、大きくため息。「結局、おれがそれを青木にいえるだけの、踏ん切りがついていない、ってことだと思う」
 彼の言葉に、舞由は静かに、彼に目を向けた。
「……じゃ、さ。そのことはいわなくていいから、一つだけ教えて。……その、先生が勝手に応募した絵って……」
「たぶん、青木が思っているとおりだよ」彼はうなずいた。「『組曲』だ」
「そっか」
 少しさみしそうに、舞由はつぶやいた。その声に、何かを感じたのだろうか。
「……あの絵は……そうだな。口では人にいえないくらい大切な絵で……。だから、自分だけのものにしておきたかったんだ。……それが、コンクールに応募されて……」
「大切な宝物を、横取りされちゃった気分?」
 いつもの明るい口調で、舞由が問うてきた。その口調が、彼を元気づけるためのものでることに気づき、彼はどうにか、微笑みをつくろった。
「ま、そんなとこだ」
 その言葉に、舞由は優しい微笑みを浮かべた。そして、
「じゃ、もう一回、矢、射ってくるね」
 いって、元気よくぴょこんと立ち上がる。そして彼女はかけをつけると、弓と矢を持って、的の前に立った。

 正直なところ。
 誰もなにもいわないので、彼もそれにはなにも応えていなかったのだが、彼の成績も、悪い方ではなかった。「趣味と勉強の両立」というのであれば、彼もまた舞由に負けないくらいには、うまくどちらも成り立たせていたのだ。
 だから。水曜日に、祥治と咲子が登校時間から悪戦苦闘している数学の問題も、彼はその解き方をすぐに見つけていた。けれどもそこで二人に口出しをしないのは……彼の性格、なのだろう。
 結局二人は解き方を見つけられず、二人同時に、ため息を吐き出した。
「土日、勉強会にしよっか?」
「……うん」
 咲子の提案に祥治がうなずく。祥治は蒼の方に目を向け、「蒼はどうする?」
「おれは……」
 いつもは、このような誘いは断っている彼だったが、今回に限っては、珍しく迷っているような素振りを見せた。そんな彼を見て、咲子がにやりと笑った。
「舞由、呼んであげよっか? アドバイザーに」
「はあ? なんでそこで青木が出てくるんだ?」
「え? ……ほら、舞由、成績いいし。だから、わかんないとこあれば、聞けるよ?」
 もちろん、咲子が考えていることが単純にそれだけではない、ということは、彼も気づいていた。彼はため息をついて、何かをいおうと口を開きかけたが。
「……好きにしろ」
 一度ためらったあとにでてきた言葉は、祥治たちの誘いを了承するものだった。

 こうして、土曜、日曜と咲子の家に集まっての「勉強会」が開催されることになったのだが。
「うそつき。詐欺師。ペテン師」
 いいたい放題いわれ、さすがに蒼もむっとして咲子の方を見た。
「何がうそつきだ? 別におれはうそをついていた覚えはないぞ?」
 当然といえば当然の彼の反論に、咲子はじと目で蒼を見つめる。
「相沢くんが、そんなに頭がいいなんて、聞いてないもん」
「聞かないおまえが悪い。……だいたい、中学校の三年間一緒にいて、そんなことにも気づかなかったのか?」
「祥治も知らなかったよね?」
 咲子は、彼らのそのやりとりをくすくすと笑いながら聞いていた祥治に目を向けた。突然話を振られた祥治は、けれどもいつものおだやかな表情で、
「え? あ。ごめん。……蒼の成績がいいこと、知ってたよ」
 小学校からのつきあいだからね、とつけ加える祥治に、咲子はますますほほを膨らませる。
 ううー、と、不満げな顔で二人の顔を見比べる咲子。そして彼女は唐突に、「ああーん、舞由ぅ。私の味方はあんただけよぉ」
 と、舞由に泣きついた。けれども。
「あ、そういえば」ふと舞由は何かを思いだしたように口を開いた。「蒼くん、先生に問題を指されて困ったことって、一回もなかったよね」
「舞由までぇ」
 ぶすっとした咲子に、祥治は苦笑を漏らした。「まあまあ。ほら、優秀なのが二人もいるんだから、そのことを喜ばなくちゃ」
「だってぇ。いんちきだよ。相沢くんが、成績がいいなんて」
 まだぶつぶつといいながらも、咲子は再び教科書に向かう。そんな咲子に「やれやれ」と苦笑を向けた蒼は、今度は舞由に目を向けた。
「青木」
「なに?」
「英語の四十八ページの問五」
「え?」声を返して、舞由は目的のページを開く。「あ、これ? これはね……」
 その二人の言葉を聞いていた咲子が、
「おーおー。仲がよろしいことで」
 先ほどの一件を根に持っているとも、単にやっかんでいるともつかない不機嫌な声を出した。蒼はそんな咲子に目を向け、
「くやしかったら、田村。おまえが同じ問題、解いてみるか?」
「やってやろうじゃないの」咲子はムキになって、蒼と舞由が開いているのと同じページを開いたが、問題文を読み始めた途端に、沈黙してしまった。
「こっ、これはね……えーと」
 それでもなんとか言葉を発する咲子だったが、結局は「えーと」以外はいえず、それを確認した蒼は改めて舞由に顔を向けた。
「で?」
「あ、うん。……」舞由はうなずいて、咲子によって中断させられた説明の続きを開始する。
 舞由の説明は、要所要所を的確に捉えていて、非常に理解しやすかった。また、ものを理解する力もあり、逆に彼の少々わかりにくい……端的にいってしまえばへたくそな……説明を聞いても「あ、なるほど」と、彼のいいたいことを理解してしまう。
 改めて……というのも大げさだったけれども……彼は、舞由の優秀さを実感した。

 こうして、「勉強会」と名付けられた二日間はすぎていき。
「じゃ、おじゃましました」
「うん。じゃ、また明日」
 あいさつを交わして、蒼と祥治、そして舞由は、帰路についた。
 すっかり夕焼け色に染まった街の中を歩きながら。
「早く、テスト終わらないかなぁ」
 舞由がため息まじりにいった。
「青木の成績なら、そんなに憂鬱になることもないんじゃないの?」
 苦笑しながら祥治が問うと、
「そんなことないよ。やっぱり、テストって聞けば、憂鬱になるもん」
 応えて、またため息をつく。
「テストが終わってちょっとすれば、すぐに梅雨が始まっちゃうし。梅雨が終わったら、今度は期末テスト。あーあ。これから先、憂鬱なことだらけ」
「期末が終われば、夏休みだぞ」
 舞由の言葉に苦笑を漏らしながら、蒼がその事実を告げた。けれども舞由は、
「そこまでが長いから、憂鬱になるんじゃない」
 応えて、また「あーあ」とため息をついた。
「楽しみっていったら、蒼くんの絵を見ることくらいかなぁ」
 つぶやいた彼女に、蒼はまた苦笑を漏らした。そして舞由は、「あ、そうだ」と、
「あのね。この間の絵、あるでしょ?」
「この間? ……おれが色塗ったやつか?」
「うん。あの絵のこと、お姉ちゃんに話したら、お姉ちゃんが『見てみたい』っていったんだけど」
「練習で描いたやつだぞ、あれ。そんな、人に見せられるほどのものじゃないって」
 それに、と、彼はつけ加える。
「次から本番を描くんだから。それができるまで、待ってもらったらどうだ?」
「あ、そうか。……そうだね」
 彼の言葉に、舞由は少し納得顔になった。そんな彼女に、
「まあ、どうしても、っていうんだったら、持ってきてもいいぞ」
 蒼は提案したけれども、少しの間、舞由は「うーん」と、考え顔になっていた。そして、
「じゃ、とりあえず、いいや。あとでお姉ちゃんに聞いてみるね。今すぐ見たいのかどうか。それでもしお姉ちゃんが『すぐに見たい』っていったら、悪いけど、お願い」
「ん。わかった」
 蒼はうなずいた。

 結局舞由の姉……舞耶……は「絵ができてからでいい」という返事を返してきた。
 そして。生徒たちの悲鳴と苦悩に満ちた中間テストがすぎて、月曜日。
「おはよう」
 すっかりおなじみになった、青木舞由の声。彼らはそちらを振り返り、
「おはよー」
 三人を代表して、咲子が口を開いた。
「一週間ぶりだね。朝、舞由の顔見るの」
「そうだね」舞由はうなずいて、「テスト勉強でしばらく弓を引いていなかったから、ちょっと楽しみ」
 ふふ、と、楽しそうに笑った。そして舞由は、蒼がスケッチブックではなく、画板を脇に抱えているのに目をとめた。
「あ、蒼くん、今日、画板なんだね」
「ま、な」彼がうなずきを返すと、また舞由は楽しそうに微笑み、
「黒岩先生に、また何か、いわれそうだね」
「……いわないでくれ。朝からそれで、頭が痛いんだから」
 蒼の応えに、舞由はくすくすと笑った。
 そうしてほどなくして、学校の校門付近に、蒼の頭痛の種が立っているのが確認できるようになった。
 黒岩潤子は彼らがやってくるのを待ち、そして蒼が抱えているのがスケッチブックから画板に変わったことに「おや」という表情を浮かべた。
「あら。スケッチブックじゃ、物足りなくなった?」
「……ま、そんなとこだ」
「じゃ、ついでだから美術部に……」
「入らない」
 いつものように、彼は潤子の言葉を一蹴した。
「どうしてぇ? せっかく、いい機会なのに」
「スケッチブックが画板になるのの、どこが『いい機会』なんだよ?」
 ため息まじりに彼は問うた。けれども、彼のそんな問いなどまるで聞こえなかったかのように、潤子は、
「相沢くんが何を描いているかわからないけど、美術部に入ればなんだって描けるのよ。……それも、この上ないってくらいいい環境で」
「そんなのに、興味はない」
 彼はすっぱりといい切った。
「環境がよかろうが悪かろうが、描きたいときに描きたいもの描くのが、一番だからな」
 その言葉に、はあ、と、潤子はため息をつく。
「どうして、妙にそういうとこだけ達観してるのかしら、相沢くんって」
 そして潤子は、もの問いたげに、舞由に目を向けた。その視線に、舞由はきょとんとして、
「どうしたんですか?」
「あ、なんでもないの」
 潤子は少しあわてたように応え、そして蒼に目を向けた。
「じゃ、相沢くん。また来週ね。来週こそは、いい返事を期待してるからね」
 そういい残して、校舎へと消えていった。

 昼休み。彼はいつものように、屋上に出ていた。いつものように、屋上の景色を眺めていると。
「蒼くん」
 聞き慣れた声が後ろからかかった。彼はそちらを振り返り、
「どうした、青木?」
「ん? 別にどう、ってわけじゃないんだけど。天気が良かったから」
 応えて、舞由は蒼の隣りに立った。そして、さっきまで彼がそうしていたように、手すりに手をついて、やや身体を乗り出し気味にして、外の景色を眺める。
 同時に。
 五月の終わりにしては珍しい、柔らかな微風が、彼らの間を通り抜けていった。風は、蒼のほほを撫で、舞由の長い髪をわずかに揺らす。舞由は、うれしそうに小さく微笑むと、右手を手すりからはなし、髪をそっとなでつけた。
 そんな彼女の動作一つ一つを。蒼は、じっと見つめていた。
 その蒼の視線に気づいているのかいないのか、舞由はまた右手を手すりに伸ばし、
「やっぱり、ぜんぜん違うね」
「……何が?」
「景色。……『組曲』と」
「そりゃ、な」
 彼はうなずいた。
「あれ、おれが通っていた中学の、屋上の景色だから」
 舞由はそれにはなにも応えず、ただじっと、屋上から見える景色を見つめている。と、不意に。
「そういえばさ。蒼くんが絵を描かなくなったのって、確か、中三の夏だったよね?」
 舞由は蒼の顔に目を向け、まっすぐに、そう問うてきた。
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